[日記]
■ 2005.10.25 ホリ電機の信条だけが煮凝り形成され、会社の信用度や訴求対象等々の大人の事情は極力排除された狂気のゲーム関連機器開発サイト『PeriBorg』にて、家庭用・携帯ゲーム関係なく全機種対応(使用条件:健康な指をお持ちの方)の痙攣連射装置『オレコマンダー』がまさかの商品化。大丈夫か。 『HORI STORE.com』で購入可能との情報を聞きつけ、さっそく同サイトを覗いてみましたが、どうやら少数生産だったようで初回生産分は既に販売終了との事。 次回発売は11月中旬予定。次は逃さん。 ---------- 『ファミ通』881号でみずしな孝之先生が紹介していたFCBの公式サイトを見て激しく笑いました。 ビッグバンド編成でファミコン音楽演奏。そのパワーだけでも素晴らしいのに種々の小細工がもう最高。公演映像・音楽配信ページの動画は要チェックです。 みずしな先生の『FCB』紹介漫画によると、最新公演では26分にも渡って『オホーツクに消ゆ』の再現を行ったそうで。 もちろん、演奏も素晴らしいです。ナムコメドレーとスポーツメドレーは必聴。 ---------- FCBのネタ動画を見ていて思い出したのが、これ。 アカペラと身振り手振りの見事な融合。『テトリス』の振り付けを考えた人間は大馬鹿野郎だと思います。 ■ 2005.10.21 上記リンク先の主な話題は、MMORPGなどから生まれる擬似世界においても成立する『ゲーム』と『現実』の定義と相違点。他者との交流や五感の支配など、現時点で技術的に可能なものは『現実』にも『ゲーム』にも含まれるため、いかにお互いの境界線を明確にするかが各回答の焦点となっています。 その中で気になったのは、この回答。 > ゲームと現実の差は 自らの意志で終了させることが出来るか否かという違いがあると考えられます。 > たとえ ゲームであっても 自分で終了出来ない状況や心理状態であるならば それは現実です。 > 実際の生活に支障をきたすでしょうし 現実の人間関係にも影響が及ぶでしょう。 > そうなれば それはもはやゲームではありえません。 > 反対に 現実の人間でゲームを行った場合 本人は終わらせることが可能でも それに巻き込まれた人間はそうではありません。 > きちんと 終わらせることが出来なくなった時点でゲームではなくなってしまいます。 > ゲームとは娯楽であり 制限された時間と空間(場所)に於いて行われ、自らの意志で完全に終了させることが出来るもの。 > たとえ どれほどリアリティがあろうとも 完全に区切ることが出来るかぎり それはゲームといえます。 > しかし そのリアリティのあまり ゲームであるとの感覚が薄れ より多くの手間や投資を行った結果 自分にとっての価値が増大し、自ら制限できず 現実のコミュニケーション(人間関係構築)に支障を来すようになった場合 そのゲームはその人にとってのみ 現実であると言えるでしょう。 他と比較して『ゲーム』と『現実』の線引きが一際鮮明なこの回答は、『ゲーム』と『現実』の差をその当人がどちらかと捉えるかの違いと提示した上で次の文へ移っています。 繰り返しますが、この回答は『ゲーム』がMMORPGに代表されるような他者との交流や、五感の支配などに依って生まれる擬似世界での両者の相違点として挙げられています。これがファミコンのように他者との繋がりを狭く持つ『ゲーム』ならば、『現実』との境目をここまで広げる必要は皆無に等しいです。オンラインRPGにおけるRMTのように双方の価値の変換行為も起こり難いですし。 話を戻します。 ----------キリトリセン---------- ところで、『死後』って未だかつて誰も経験してないじゃないですか。 一応『死』と名前は付けられているものの、それは『生』と対比してのみ成立する概念で肉体の機能停止と意識の消失の後に待つものを経験した人間はいない。『死』の本質について教えてくれる生存者は誰一人として存在しない。よって『死』の存在は証明しきれない。本来なら『生』と対比するものは『生きていない』が正しいはずです。 でも、ゲームの中では誰も知らないはずの『死』を描いています。特にRPGはファンタジーの影響を色濃く受けているせいか、宗教的な死生観に則って死後の蘇生などを描写しています。 小説・映画などの他メディアと比較して特徴的なのが、ゲームでは時として『死後』を主観で表現している点。前述の『ドラゴンクエスト』では容量制限・使用文字制限の影響もあるのか、HPが0となった際に「あなたは しにました」と極めて直接的な言葉で『死』をプレイヤーに伝達してくれます。 ----------のりしろ---------- 「『ゲーム』の終了条件としての『死』」と「主観的に描かれるゲーム上の『死』」。 一部強引ですが、久々に三段論法の完成です。 ■ 2005.10.15 2005年10月14日深夜放送のNHK総合『ポップジャム』に、高橋名人出演。 参考リンク: ・新聞のラテ欄を見て事実に気付いたのが、出演2分前。従って録画不可能。そして後悔。 ・曲目は「スターソルジャーのテーマ」。名人自ら歌うのではなく、ファミコン音源プラスHumanBeatBoxの刻むリズムに合わせて名人がコントローラのボタンを叩く、そして周囲ではBreakin'danceを披露、そんな内容。ボタンを打ちつけた時の乾いた音が印象的だった。 ・楽曲前に流れた紹介VTRでは一部、映画「ゲームキング」の映像が使われていた。全国ネットでスイカを割る若かりし頃の名人。ヤバイって!今の子供が見たらまた信じるって!! ・同番組のアーティスト登場順は、orange pekoeに続いて高橋名人、そして後に続くHyde。とっても亜空間。 ・バックで流れる『スターソルジャー』の音源に合わせて目前のジョイパッドを連打する名人を見ていたら、不意にトンガリキッズを思い出した。「ああ、あの人たちがCDのジャケットと楽曲に山ほど細工を仕込んで『ファミコン』を模る権利を得たのに対し、名人は存在だけでそれをやってのけるんだな」と思った。改めて高橋名人の偉大さを感じたところで、トンガリキッズは脳裏から消えた。 ・衰えた名人の刻むビートは16ではなく8、だった。ちょっと悲しかった。 ・パフォーマンス終了後、名人に向けられた歓声はHyde登場の嬌声に重なり、掻き消された。涙が出そうになった。 ・名人を指して感想を述べた司会のアンジャッシュ。曰く「残像で(指先が)遅く見えるんですよ!」。やはり彼らはトークが今後の課題だと思った。ネタは10年近く前から変わらず驚異的な完成度なのに。 以上、興奮から冷め切れないままの箇条書きで失礼。ああ良いモン観た。 ■ 2005.10.12 長期間に渡る更新停止、申し訳ございません。 前回の意味不明な珍文を除けば、かれこれ一ヶ月以上放置していた事になります。それでもアクセス解析を見る限りでは、定期的に覗いて下さっていた方が多数居られるようで。大変お待たせしました。皆様待望の復活です(自分で言ってみる)。 ---------- かつて、「星のカービィはロックマンのパクリ」というスレッドが2ch上に存在しました。 私はスレッドのタイトルだけを見てアクションゲームの系譜を巡るガチンコ議論を期待したのですが、リンク先の書き込みに幻滅しました。話題のトリガーとしても考察が行き届いていないスレッド建立主の発言から容易に想像できる、恐らくは単純な思いつきであろうスレ立て。それと波長を合わせるように、この数スレ後も定番の荒らしや興味本位の発言が相次いで書き込まれます。 しかし、そんな状況を打破すべく何者かが突如として姿を現したのです。 場がすっかり荒み切った頃のことです。詳細は忘れましたが、前後の書き込みの文脈を無視し「プッチンプリンはプリンのパクリ」と書き込む者が現れました。 しかし、こうなると掲示板を静観する者としては異質なプリン男へと関心を向けざるを得ません。それと比例して、言いがかりめいた1の『星のカービィ』批判がすっかり霞んで見えてきます。稀にスレッドのテンションと逆行し且つ本来の議題を忠実に守る1と思しい発言主は、度々同ソフトを罵倒する発言を投稿しますが、それに対しては即座に「スレ違い」とコメントが。 かくして、一時前のイチャモンめいたパクリ議論の駄スレは瞬く間にプリンを真剣に語り合う交流の場へと変貌。最後までそのスタンスを崩さずにその役目を終えdat落ち。静かに、人前から姿を消しました。 ですが、私は分かっています。 愛を持たず底意地の悪いゲーマーの手により良質なゲームが悪意に晒されようとしている中、自らが見初めたゲームが迎えているピンチをどうにか切り抜けさせようと試みた苦肉の策こそ、自作自演のプリン談義だったのです。真正面からの反証では相手が聞く耳を持たない可能性もあります。だからこそ一見すると珍妙な、しかし細部まで計算され尽くした戦略だったのでしょう。そして見事に目論見は成功。カービィパクリ疑惑を力ずくで除外し、他者の興味をプリンへと差し替える事に成功しました。 斜に構えながらも内側は実直なゲーマー魂、しかと見届けました。見習わさせて頂きます。 あとマジレスすると、『星のカービィ』は初代GB版の「食べる」という動作がビジュアル面・システム面の両方において不整合なく利用されていた点こそ素晴らしき原点であってコピー能力はFC版『夢の泉の物語』以降に付随した要素でしかない上、個々の能力を比べてみれば『星のカービィ』シリーズが先に導入していた能力や『ロックマン』以前のアクションゲームが攻撃手段として用いられていたものも多数存在するので、一概にパクリと決め付けられる程の証拠は無いと思うんですけど。 |
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