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[日記]




2005.01.31


俺達は互いに目を合わせず、言った。




「まあ結局のところ、極端に綺麗なものと極端に汚いものを秤にかけて、それを見分けられない状況にあるって事実は、ボクらより上の年代は理解できないかも」

「抑制された情報の中で生きた人たちには、取捨選択の範囲が絶対的に狭いのか」




この会話に、テーマは無い。
 喫茶店で控えめに流れる有線放送がBGMだとするならば、この会話もBGM。そんな話だ。

友人の部屋。室内は古本屋のような、紙と手垢と科学薬品をないまぜにした臭いが充満している。
 自分は『ドラゴンボール』の19巻、友人はヘッセの『車輪の下』に目を落としている。俺と友人が腰を下ろす脇には缶ビール。フローリングの上で胡座。エアコンで設定した室温は22度。

 

俺はこの部屋に来ると、まるで世界一高いビルから永遠に落下しているような気分になる。
 心は、どこまでも緩み、沈んでいく。




「だからさ。今の子供たちがパソコンやら何やらでいろんな情報を手に入れて、心が成長したり歪んだりする様子って、かなり上の年代の人たちにとっては怖いと思うよ。自分の知らないタイプの人間が自分の知らない概念を用いて、自分の知らない人格を形成してるんだから」

「そのギャップを有耶無耶にするため、「心の闇」なんて収まりのいい台詞で片付けられる」

「知らないなら知らない、分からないなら分からないって言えば楽なのにね」




俺たちの会話は、いつも唐突に途切れる。
 俺と友人の間には、話を交わす際の特殊なルールが存在し、それを遵守しようとするための暗黙の了解がある。例えば、俺たちは無駄な相槌を打たない。




「『マトリックス』、観た事ある?」

「いや、全く」

「ボクも」




俺たちの会話には、脈絡が無い。だが、それでも話は成立する。会話時に守る特殊なルールのおかげだ。それの存在によって、俺たちは会話のベクトルを見逃さずに済む。意味のある会話と、意味の無い会話。取捨選択が必要だ。




「観てないけど予告編だけ観て、もういいやって思っちゃった。何だか、映像とシナリオが相互補完されていないか、もしくは完璧に相互補完されていてビジュアルだけ観て全てを理解してしまえるような作品世界に見えたから。本当は、そんなところで悟ったり理解しちゃダメなんだろうけどね」




友人の話を聞いていると、ああ、彼は本当に何度も死んでるんだなと思う。

彼本人から聞いた。ボクは何度も死を経験しているんだ、と。




過去に友人が真顔でそれを話し始めたとき、俺はどう受け止めればよいのか分からなかった。
 彼が何を言っているのかよく分からなかった。
 そこからどんな話を聞き出せばよいのか想像すらできなかった。

そのときの会話はそこで終わった。だが、彼は何度も死んでいる。それだけは事実だ。




そしてきっと、俺と友人の決定的な差、大仰に言えば死んだ経験のある人間と無い人間の差は、そこにあると思う。俺は全ての行動・発言は他の何かのためにある。それは自分を救うためだったり、他人を傷つけるためだったりする。だが、友人のそれはどこか乾いている。

彼の声はいつも冷たい。語気は常に荒立たず平静で、目はいつも伏しがち。そんな冷水を浴びせられた直後のような友人しか、俺は見たことがない。




そう思っているうち、唐突に、友人の「何度も死んだ話」を聞きたくなった。
 彼の、裏側を見たくなった。




「…あのさ」

「何?」

「昔、何度も死んでたって言ったよな」

「…その話、どうしても続けないとダメ?」

「別にイヤならいい。ただ気になっただけだから」

「大丈夫だよ。でも、聞いててそんなに面白い話でもないから」




友人はそう言い、まだプルタブを開けないまま放置していた缶ビールの蓋を開け、なぜかそれを一口も飲まずに床に置き、話し始めた。




「まず始めに大事なことなんだけど、ボクは一人じゃない。いろんな場所にいろんなボクがいるんだ。そして、ボクの心はいつも繋がっている。体と命はいくつも存在するけど、本質的なボクは一人しかいない。例えば、それぞれの命が感じた記憶はそれぞれ共有して一つとなる。そういう意味で、ボクは一人だ」




やはり、彼の境遇と体質は興味深くも完全には理解できない。




「そしてボクはよく死ぬ。実に様々な方法で死ぬよ。他殺、事故、自殺。過失も偶然も、今までいろいろあった。そういう組織に属しているかもしれないけど、本当によく死ぬ」

「組織?」

「たくさんいるボクを束ねている組織がいるんだ。詳しくはボクも知らないけどね」




そこまで言って、友人はまた缶ビールに口をつけた。素面でいることに抵抗があるのか、多少無理をして、苦手なアルコールを喉に流し込んでいるように見える。




「記憶をそれぞれの体と共有してるって事は、例えば、死ぬときの感触も、何度も感じる?」

「そうだね。死ぬのは痛いよ。そして冷たい。肉体の痛みは、体のあちこちをアイスピックで刺してみれば実感できるかもしれない。何度も、何度も」




友人は、それが面白いなどとは微塵も思わなそうな表情を見せつけながら言った。




「でも、もっと痛いのは心。記憶の中で死が蓄積される。例えばそれは、お風呂上がりみたいな気分になる」

「風呂上がりか、気持ち良さそうだな」

「…そうか、キミはお風呂上がりが気持ち良いのか」




友人は、悲しみが共有できないことに悲しんだ様子を見せた。




「ボクはお風呂上がり嫌いなんだ。湯船に浸かっている間は気持ちいいんだけど、シャワーを浴びて浴室を出た後はどうしようもなく気だるい気分になる。タオルで体を拭いていると、自分の体の重さとか、鈍さとか、現実と繋がっている事実とかが再確認できて、苦しくなる」




俺は困惑した。




「分かんないって顔、してるね。まあいいよ。もしかしたらそれはボクみたいな、生と死を粗末に考えるような人間の思考かもしれない……」




話が途切れた。今までとは違う、藁半紙を裂くような薄気味悪い途切れ方だった。

視界を『ドラゴンボール』から友人の方向へやると、普段とは明らかに顔色が変わっている友人の姿が目に入った。尋常ならざる量の脂汗を流し、うつ伏せに近い体勢で腰を少しだけ宙に浮かせ、蹲っている。苦しげな吐息も絶え絶えに、身体全体が小刻みに震えている。




「……大丈夫か?」




俺が恐る恐る声を掛けると、友人は力なく頷いた。口を開いているが声は出ない。ただ、何かを言おうとしている事は分かる。その間も、フローリングの床と身体が乱暴に擦れあう音を立てながら友人の痙攣は激しくなる。




俺がこの状態にどう対処していいか分からないうちも、友人の震えは続いた。
 少しだけ、友人の掠れるような声が聞こえた。




「だい、じょうぶ、だいじょう、ぶ、だから……」




顔色こそ青ざめていたものの、その表情に大した変化は見られなかった。余裕さえ感じられた。

俺は、友人が今、死を体験していることを直感的に理解した。
 彼にとって肉体的な死の痛みは、包丁で指の皮を2ミリ切るのと変わらないのだろう。痛みさえ我慢すればじきに治まる。きっと、その程度のものなのだ。
 彼はきっと、まるで夜が明けるのをじっと待つ獣のようにして痛みが去る時期まで耐えているのだろう。






痙攣が始まってから10分ほどが経過した頃、彼の体調は完全に元の状態に戻っていた。

一連の所作を終えた友人は、一度だけ深呼吸をして呟く。




「ボクが死ぬときは、いつもこうなるんだ。心配かけてごめんね」




苦しみ抜いた友人をどう気遣おうか、全く思いつかなかった。
 とりあえず、気にしなくていい、と言おうとした矢先に友人は立ち上がる。

「そろそろ順番だから、ボクは決められた場所に行かなきゃならない。しばらくしたら帰ってくるかもしれないけど、帰ってこなかったらこの部屋を出てっちゃっていいよ。部屋の鍵はそのままで大丈夫」




そう言って、友人は足早に出て行った。缶ビールをそのままに、部屋着も着替えずに。

意を決した表情で外出する彼に、どう声を掛ければよいのか分からなかった。それは、とても罪深いことのように感じられた。











15分後、俺が『ドラゴンボール』を22巻まで読み進めた頃に友人は帰ってきた。




「…早かったな」

「ああ、違うんだ。外出した”ボク”はまだ外にいる。ボクはそれとはまた別の”ボク”。何も違いは無いんだけどね」

「…?」

「1UPしたんだよ」




友人はそう言いながら、つい先ほど前まで居た自分の場所に戻った。そして読みかけの『車輪の下』の栞を丁寧に外す。



2005.01.25


セフティ・マッチ氏みたいな雰囲気のファミコン名言集を作ってみたかったのですが、一週間ほど必死に考えても全く思いつきませんでした。とりあえず一つだけ。




----------

戦争とは、永久ループ型のシューティング・ゲームだ。
 争いは過去と似た対立の構図で起こり続け、殴り合いの武器だけがパワーアップしていく。



2005.01.20


過去の日記でリンクだけ張っていたコレですが。


買いました。






まず、上記リンク先の記事に掲載されている『マリオは死んでも生き返るから子供も飛び降り自殺する』を確認。確かに載ってました。
 さらに、本書のメインテーマであるファミコン人類論はその理論に基づき構築されていたと知り驚愕というか呆然というか。




まあ以下の感想文は、ファミコンを適当に罵倒された怒りで私の頭が変になっちゃったとでも思って読んでいただければ幸いです。






あらすじ:
 地下鉄の駅構内で次々と起こる無差別連続殺人事件。それを解くカギは、一昨年前に発売されたファミコン雑誌の一記事にあった。その事実に気付いた少年少女らは『ファミコン探偵団』を結成し、犯人の逮捕を目論む。
 『ファミコン探偵団』は目の前に現れる暗号を瞬く間に解き明かし徐々に犯人を窮地へと追い詰めるが、実はそれさえも犯人によって企てられた『ゲーム』の一部に過ぎなかった。現実の殺人とゲーム中の殺人の区別がつかなくなった犯人と、正体を突き止めようとする『ファミコン探偵団』の行く末は…。




本書では、特殊な法則に基づいて殺人を行う犯人と、その法則に気付いて犯人を追い詰める主人公たちが登場し、その両者を仲介するツールとして『ファミコン』が登場します。
 『ファミコン』という記号的な要素を礎として犯人は無差別殺人を行うため、それに慣れ親しんだ少年たちだけが犯人の暗号を次々と解明できる。そんな設定なのですが、その犯人から送られる暗号の解読手段が、小説の読み手にはほぼ全く理解できません

私がファミコン人類じゃないからでしょうか。単に著者の説明不足かアイデア不足のどちらかだと思うんですけど。




個人的に最も気になった点は、本書での「ゲーム」のあり方。




「でも、こんどの犯人、どうして地下鉄の中でばかりやるのかしら?」
 佑子がつぶやいた。
 「このゲームでは、犯人は何のために殺すんだ?」
 正樹が聞いた。
 「このゲームでは殺すことに特別の意味はないんだ。どうやったら、つかまらずにたくさん殺せるかさ」

――80ページ「STAGE2 地下鉄永田町駅」から


ブラウン管とにらめっこしながら、ゲームで無造作に殺人を繰り返しているうちに、ふっとそれを現実に置き換えてみたら……。
 そんなことを考える人間がいたとしても不思議ではない。
 ゲームでの殺人は、キーを押して映像が消えるだけだ。その映像は人間の形をしているが、殺人という感覚はない。

――123ページ「STAGE3 地下鉄九段下駅」から


この作品を読み終わって、犯人がなぜこんなことをやろうとしたのか、その理由が書いてないので、あれっ? と思った方もいるかもしれません。
 これは作者が書き忘れたわけではありません。作者にも、犯人がなぜこんなことをやったのかわからないからです。
 あえて言うなら、この犯人はゲームがやりたかったからです。
 そんな人間がいるのか?
 いまはいません。しかし、将来はわかりません。映像を消すかわりに実際の人間を消すというゲームをやる人間があらわれたとしても不思議ではない気がするのです。
 その意味で、これは近未来のSFと言えないこともありません。
 みなさんがどうお読みになってもけっこうですが、やはり殺人はブラウン管のうえだけにしておいたほうがいいでしょう。
 むしろ、そういう犯罪が起きたとき、それを解決できるのはファミコン世代の君たちなのです。
 作者はそっちのほうを期待しています。

――255ページ「あとがき」から




著者は、この作品で現実とゲームの価値が同等になる恐怖と希望を語っています。

でも、これって「仁侠映画を観て人を殺したくなる」「ミステリー小説を読んで人を殺したくなる」と、どう違うんでしょうか。
 直感的に死を悟る経験が激減した時代背景? リアルな死に直面しない子供は、ゲームの死と現実の死の区別がつかない、とか?

ここが『ファミコン三段論法』という論理的・倫理的な磁場から豪快に逸脱したフィールドだから敢えて主張しますけど、過去に「スーパーマリオブラザーズ」の1-2で痛みを感じ取った経験がある私としては、それは理解し難い話なんです。




正直かつ乱暴に言うと、私は「ゲームをやった人間はゲームと現実を混合して人を殺すかもしれない」という本書の主張が気にくわないんです。私が開設当初から掲げている当サイトのテーマは「現実の命がゲーム並に軽くなる」ではなくて、「ゲームの命が現実並に重くなる」ですし。

つまり、この『地下鉄殺人ゲーム』ではファミコンと死の関係が漠然としすぎだと思うんです。ファミコンをブラックボックスの如く扱い、そこに悪夢と希望を同時に詰め込むようなニュアンスが、本書には存在します。まるで野村証券のファミコンホームトレード全盛の頃にユーザーが抱いていた「何でもできる夢の機械」的幻想のような。

「ゲームと子供(特に少年)と命」をテーマにした小説では他に、いとうせいこう先生の名著『ノーライフキング』がありますが、『地下鉄殺人ゲーム』の物語からは、そこからリアルさを抜いたような印象を受けました。現代を舞台に、子供たちの目線で世界を描き、でもリアリティに欠ける冒険小説。




だからこそ納得いかないんです。本書と同時期に発表された『ノーライフキング』であれだけの時代感覚を表現しているのに対し、こちらはその二、三歩手前で止まっている、その薄気味悪い感じが。

著者が『ぼくらの七日間戦争』と同じなところから、子供向け小説っぽく書くために余分なテーマの掘り込みを避けたと好意的に解釈したとしても、むしろだからこそ書いちゃダメだとも思えます。だってそれだと、読み方によっては「新人類としての明日を踏み出す第一歩としてファミコンをたくさんプレイし、現実とゲームの命の価値を等価にしよう」って子供達に向けて言ってるみたいですから。




本書に限らず、現代っ子が命の重さを知らずに育つ原因をゲームが一手に背負っている、という主張は収まりがよくて普遍的なものなので自称"有識者"が好んで使う理論ですが、それを結論として位置づけるのはいささか性急です。
 個人的には、ニセモノの命が横行しているからよりも、ホンモノの命に触れる機会が少ないことの方が重要なんだと思うんですけど。例えば最近、道端で死んでる野良猫とか全然見ないし。

こないだ自宅の近所で山から下りてきたが死んでたけど、これは少数派。




…まあ、ここまではファミコン偏執狂の人間がやっかみ半分で抱いた感想とするにしても、この作品の冒頭文だけはどうしても許せません。




この小説の読者は、
 電気代も要らず、
 「遊んでばかりいて!」と、
 ママに叱られることもなく、
 テレビゲームを楽しめます。(著者)




嘘つけ。
 テレビゲームはテレビゲーム、小説は小説だ。適当な事言うな。



2005.01.15


ドラゴンが あらわれた!
 コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」




えにくすの こうげき!
 ドラゴンに 3の ダメージを あたえた!




ドラゴンの こうげき!
 えにくすは 42の ダメージを うけた!




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「こうりゃくぼんをみる」




えにくすは こうりゃくぼんを しらべた!
 ドラゴンの パラメータについて かくにんした。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「ほかのページもみる」




えにくすは さらに こうりゃくぼんを しらべた!
 アレフガルドの ぜんようについて かくにんした。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「ウーロンちゃをのむ」




えにくすは テーブルのうえにある ペットボトルいんりょうを てにとった!
 のどのかわきが かいふくした。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「テレビをふく」




えにくすは がめんの よごれが きになった!
 しかし せんざいに まどふきようのものを つかったので ふきあとに ムラがでた。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「せんたくものをとりこむ」




えにくすは さくやからの ぐずついたてんきが きになった!
 あとで コインランドリーへ いこうと こころにきめた。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「ねこをケージにしまう」




えにくすは かいねこに リセットボタンを おされるのを おそれた!
 ねこは くびすじをもたれて イライラしている。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「けいしょくをとる」




えにくすは こばらがすいた!
 とだなの なかから カップヌードルを はっけんした。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「コーヒーもよういする」




えにくすは インスタントコーヒーを とりだした!
 しかし ポットのおゆが きれている。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「がまんする」




えにくすは おゆを わかすのが めんどうくさいので くうふくに たえた!
 そういえば あさから バナナしか たべていない。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「やつあたりする」




えにくすは かいねこのいる ケージを けとばした!
 ねこは わけもわからず わめいている。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「しょうせつをよむ」




えにくすは たまたま ゆうじんから かりていた しょうせつを てにとった!
 じゅうだいの だんじょが なんだかんだのすえに エアーズロックへいく はなしが かいてある。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「そろそろげんじつをちょくしする」




えにくすは テレビに むきなおった!
 こうきしんだけで ローラひめが とらわれている へやの まえまで きてしまったことを こうかいしている。




コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」




えにくすは にげだした!
 しかし まわりこまれてしまった!




ドラゴンの こうげき!
 えにくすは 44の ダメージを うけた!






あなたは しにました。











コマンド?




「たたかう」
 「じゅもん」
 「どうぐ」
 「にげる」
 「ふてね」




おつかれさまでした。
 ねびえに きをつけて おやすみください。



2005.01.11


当サイトのBBSでもちょっとだけ書きましたが、私は過去に三度ほどファミコンソフトを拾った経験があります。
 ちなみにBBSの話は二度目。

以下に記す話は、それの記念すべき一度目の出来事です。

実は一挙に60本ゲットした三度目がネタとしては一番愉快な仕上がりなんですが、それについては気が向いた時に話します。




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場所は、当時通っていた中学校の男子トイレ。

休み時間に用を足しに行った私は、小用便器が設置されている場所の上にある段差のところに、何かの基盤が落ちているのを見つけました。
 それは、確かにどこかで見た記憶があるはずの形状・大きさのものでした。小学生の頃に分解した『写ルンです』を一瞬だけ思い出しましたが、その予想はすぐに打ち消しファミコンの基盤だと確信。

中学生の頃から既にレゲーオタに片足を突っ込んでいた私にとって、正体不明のファミコン基盤は何よりも魅力的な宝物に映りました。場所が場所だけに汚くねぇかとも思いましたが、当時から大腸菌の感染よりもゲームのほうが事として重大と捉えていた私は基盤を制服のポケットへ忍ばせ、平静を装いながらトイレを出ました。別に基盤を拾った事実を周囲に隠す理由は無いんですが、とにかく平静は装いました。




もう、それから先の授業など上の空です。
 ソフトの中身が一体何なのか。それの想像ばかりが頭の中で発展し、勉強内容は一切脳内に入ってきません。数学の公式や戦国時代の系譜が右の耳から入り左の耳へ抜けていく中、私は「凄くレア物のソフトだったらどうしよう!」的な妄想を延々とやらかしていました。
 ちなみに、その後本当に「レア物」の『暴れん坊天狗』とか『レッキングクルー』を拾った三度目については気が向いたら話します。いやさっきからコレ書けば書くほど三度目のほうが面白そうなんで。




それはそれとして一度目のファミコン取得時の出来事ですが、右ポケットに入れた基盤を想う気持ちは時間が経つごとに募るばかりで居ても立ってもいられず、ついに我慢できなくなった私は同級生の木村君に事の次第を話し、今日の放課後に家へ遊びに行く約束を取りつけました。これは自分のワクワク感を友人と分け合うための他に、我が家よりも木村君宅の方が中学校から近いからという打算的な理由もありました。
 まあどんな理由があったにせよ、その時の私の話を聞いた木村君は面倒そうな顔をしていました。どうやらファミコン如きではしゃぎ回って嬉しがっていたのは自分だけだと気付いたのは翌日のことです。




それから気が遠くなるほどの時を経て、全ての授業が終了。帰りのホームルームすらもどかしく感じながら鞄に勉強道具を詰め込み、木村君を引っ張って自転車に搭乗。これから向かう家の人間である木村君本人を置いて行かんほどの猛スピードで、友人宅へ到着しました。
 早くファミコン本体をセットしてくれとせがむ私と、半ばイヤイヤ用意する木村君。その場に漂う温度差に当時は気付かないまま、遂に全ての準備が整いました。

そこで本日のメイン、謎のファミコン基盤が登場。丁寧にハンカチで包んでおいたそれを取り出し、本体へ差し込みます。
 基盤剥き出しの姿のため挿入口へ押し込む時に多少不安定だったのが心配でしたが、どうにかセット完了。そして基盤をセットした手をそのまま、電源スイッチへ近づけます。

固唾を飲んで基盤を見守る木村君の視線(想像)を背中に浴びながら、私はゆっくりとファミコンの電源を入れました。




そして、映し出されるゲーム画面。











「プレイボール!」











燃えろ!プロ野球』の合成音声が、高らかに鳴り響きました。



2005.01.04

空を飛ぶ夢を見ました。




昔からそういった類の夢はよく見たんですけど、今回は過去に見た夢とは空の飛び方が違ったんです。
 今まで見たタイプのは、まさに浮遊。両手を横に伸ばして、風を切りながら、大地を見下ろして天を駆け回る。幼稚園児からお年を召された方まで様々な人間がそのイメージを共有していそうな、ありがちな空の飛び方だったんですけど、でも、今回見た夢は自由に宙を舞うような浮揚ではなく、むしろ超絶な距離のジャンプといった感じでした。

何かから逃げている自分。アスファルトを蹴りつけ、上昇。ふわりと緩やかに浮かび上がり、そしてゆっくりと滑空。足が地面を撫ぜるように着地。その繰り返し。

まあ夢の話なんでどう飛(跳)ぼうと私の勝手なんですが、不思議なのは起床後、そのジャンプに既視感を覚えた事。
 どこかで私はきっと、そのジャンプと出会ってるんです。

では、それとはどこで出会ったんだろう。


考えてみました。
 映画?
 イリュージョンマジック?
 サーカス?
 それとも、私が想像上で理想としていたジャンプ?


いろいろ思索した末に思い当たったのは、




「ああ、アレだ。『マイティボンジャック』だ」




独特の浮遊感と、ゆったりした落下の感触は、まさにそれでした。

で、思ったのは、いよいよ現実とゲームが混在してきやがった、と。
 この調子でいけば多分、3年後の今頃に私はルーラが使えるようになっているはずです。

そう考えた途端、今年の前途は明るいように思えてきました。






今年も宜しくお願いします。




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あ、今回のは別に初夢とかじゃないです。昨年12上旬ごろに見た夢。



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