高速鉄道の可能性を求めて
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昭和27年、日本は講和条約が締結されました、ただし、ソ連(現在のロシア)、ポーランド、チェコスロヴァキアの3カ国は調印せず、また中華人民共和国は講和会議に招聘されず、日本は中華民国(台湾)と講和条約を締結するなど、不完全とはいえ49カ国と調印をして、日本は独立国歌としての道を歩んでいくこととなりました。
悪名高かったRTSも廃止され、進駐軍専用列車も特殊列車という名称に変わり、一般日本人も乗れる「急行列車」の扱いになりましたが。日本人が利用するには、未だ敷居が高かったようです。
昭和29年になると、特殊列車という名称は消えて、普通の急行列車として扱われますが、優等車(一等車(現在のグリーン車やA寝台車)の比率が比較的高く、特殊列車の名残を残していたものでした。
ちなみに、元1201・1202列車は、函館〜札幌間運転を「洞爺」
東京〜青森間運転を「十和田」
東京〜佐世保間運転の元1001・1002列車を「西海」
東京〜佐世保間運転の元1005・1006列車を「早鞆」
昭和も30年代に入ると、戦後の混乱も落着き、やがて人々は生活の向上を求めるようになってきました、今では信じられないことかもしれませんが、テレビ【白黒テレビ)・電気冷蔵庫・洗濯機は、「三種の神器」として、庶民の憧れとなりました。→参考(北名古屋市歴史民族資料館)
画像 wikipedia
そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。
当時は、現在ほども自動車が発達していない時代でしたが、既にその頃から地方ローカル線の扱いには国鉄も難色を示しており、地域特別運賃の導入や、レールバスの導入などを行うなどあらゆる経営努力はしていましたが、実効は上がらなかったようです。
「戦後は終わった」の合言葉とともに、始った30年代、巷では昭和31年以来の神武景気といわれた好景気に支えられ、国民は戦後の荒廃から立ち直ろうとしていた頃でした。
この頃には、森永砒素中毒事件や、水俣病(当時は、原因は不明の精神疾患が多発と報告されていた。)などの食品に関する事件が起こっていた時期でもありました。
→森永ヒ素ミルク中毒事件 話題を鉄道に戻しますと、昭和31年11月には最後まで非電化で残っていた米原〜京都間が電化され、東海道線は全線電化が完成しました、これによりC62やC59など特別幹線用機関車はその活躍の場を山陽本線に移すとともに、東海道区間は快適な電化の旅となり、特別急行用の機関車には、淡いグリーン(通称青大将塗装)のEF58が客車とともに準備されました。
当時は、現在と比較にならないくらい貧富の格差が激しく、特急は特別な人が乗車する列車であり、一般庶民は急行が最も早い列車と言われていました。
その代わり、編成の半分以上が1・2等車(現在のグリーン車)という徹底ぶりで、(普通車は3等の時代です。)食堂車には、2等車以上の客しか入れないそんな風格のある列車でした。
景気拡大が続く中、昭和33年には、動くホテルと揶揄された、20系客車が151系「こだま」とともに、デビュー、ビジネスライクなこだまに比べ、個室寝台を1等座席車、食堂車などからなる全室冷暖房完備の車両は庶民の憧れと言えるものでした。
完全冷暖房、固定窓による快適な車内はたちまち人気となり、こだま同様切符の取れない列車として有名になりました。
また、この列車は初めて大阪を通過する列車(実際には運転停車)を行うことで物議をかもしたものでした。
従来、寝台列車は昼行列車の救済を兼ねていたため、大阪を0時前後に通過することで、東京〜大阪の利用者も取り込んでいたのですが、実際、大阪に0時到着だと、東京は16:00前には出発しなくてはならず、効率が良くない、、大阪を2:00頃通過するダイヤにすることで、東京からの利用を促進しようとしたのです。
これには、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが結局本社に言い切られる形でダイヤは決定したといわれています。
実際には、長距離列車は基本的には本社権限でダイヤが盛られるため地方の声は反映されにくいと言われていましたが・・・・
余談ですが、 現在、JR西日本の複々線区間では、新快速が、外側線【通称・列車線】を特急・貨物列車などとともに同じ線路を走行し、内側線【通称・電車線】を快速以下の普通電車が走行していると思います。
国鉄当時は、列車線は本社直轄線、電車線は管理局管理の線とされていたため、昭和40年の時刻表を見ると、15:41発鳥栖行き、さらに7分後に15:48発姫路行きの普通電車(電車は、明石までは快速扱い)という例がありますが、この場合鳥栖行きの列車は本社が設定した列車、姫路行きの電車は、大阪鉄道管理局が独自に設定した列車ということになります。
本社の設定する列車に、原則として管理局は口を挟めないのが原則でした。
実際に、列車線の権限が、管理局に移ったのは、国鉄分割民営化を控えた、昭和61年10月の改正からでした。
これにより、新快速電車を列車線に走らせることができるようになり、若干のスピードアップが実現しましたが、これ以降特急列車と新快速の併走シーンは見れなくなりました。
本題に戻りますと、昭和30年度の設備投資といえば、まだまだ老朽設備の取替えが中心で、軌道強化や列車速度の向上はこれから先の課題でした、しかし景気拡大に支えられた人や物の動きは活発化し、高速道路の建設も進められる一方で、輸送力の拡大(特に東海道線)の喫緊の課題としてクローズアップされていきました。
当時国鉄本社では、現在の経済成長が続く限り、東海道本線の輸送力は昭和39年頃には飽和状態に達するであろうと予測していました。
当時の国鉄は、国の出先機関であるという意識が強く、企業利益より国益を中心に考えていましたので(これが、後に国鉄問題を大きくする遠因の一つになるのですがここでは省略)、国鉄としても東海道線の輸送力増強については全線複々線による解決策を模索していました。
まして当時は、新幹線の実現と言うのは夢のまた夢と思われていましたから、鉄道技術研究所【現在の鉄道総研】が「東京〜大阪間3時間」の構想を発表した時は大変な反響があったと言われていますし、本社では、むしろ鉄道技術研究所が勝手なことをしたといって物議を醸したと言われています。
当時、本社では鉄道技術研究所という組織は、あくまでも付属物であり、本社の命令で動いていればよい、そんな風潮がありましたが、東海道線改良の抜本的対策は新幹線しかないという信念を持って、かつその実現の推進に尽力したのが、十河信二国鉄総裁でした。
なお、十河総裁については別の章をつくって紹介したいと思います。→参考 歴代国鉄総裁
ちなみに、実際には3時間10分運転であり、3時間ではないと言うご意見もあるかもしれませんが、当初の計画では、京都停車は想定していませんでしたが、世界的観光地である京都を通過させるのは問題があるという経営的判断から停車が決定しました。それにより当初は東京〜大阪3時間運転の予定が、3時間10分に延長となりました。
京都通過の列車が誕生したのは、平成元年にデビューした「のぞみ1号」東京発の列車で、途中新横浜以外は全て通過と言う過激な?運転でしたが、その後は名古屋財界の猛反発もあり、現在の形になったのはご存知のとおりだと思います。
余談ですが、新幹線の場合列車は全てATCで制御されているため、京都駅通過の際にはATCの改修が必要だったそうです。
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