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国鉄があった時代
日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。

交流電化の夜明け

    終戦、そしてGHQにより日本占領が終了した昭和27年、日本は輸送力増大そして動力の近代化に前向きに取組こととなりました。
    海外に目を向けてみると、フランスが比較的早い時期に商用周波数による交流電化(それまでは16 2/3と言う特殊な周波数を使っており、変換装置などが大掛かりなものとなり、決してコスト的に安いものではなかった)が完成したとのニュースは、日本における交流電化に向けて大きな励みになりました。
    早速日本でも、昭和28年、交流電化調査委員会が設けられ、研究が開始されました。
    当初は、実用実験に入るため、フランスから試作機を購入することを打診しますが、継続した車両の購入などを要求されるなど諸般の事情から、結局は輸入ではなく、国鉄を中心として車両メーカーが試作することとなりました。
    当時、国鉄では日本が高度成長期に入ったことから、基盤整備を求められることとなり動力の近代化と幹線の電化は喫緊の課題となっていました。
    そこで、もう一度、交流電化が注目されたかを列記してみたいと思います。
    1. 交流電化方式は、直流電化と比較して地上設備が簡単安価。
    2. 機関車の粘着性能が直流機関車と比して有利。
    3. 列車本数の少ないローカル幹線などでは貨物輸送も、旅客輸送も行える機関車方式が有利
    等の経済的メリットがあったと言われていますが、実際には地上設備が安くなっても、車両設備が高くなってしまい、また動力分散化列車(電車)が主流となったため、結局車両設備が高くなると言った理由から最近では交流電化で開業する例はまれになっているのは承知のとおりです。
    交流電化調査委員会は、実験線に仙山線 北仙台〜作並間を選び、昭和29年9月から地上設備の試験が行われました。
    翌昭和30年8月10日には、交流化試験線として、仙山線「陸前落合〜熊ヶ根間」が交流20kV・50Hzで電化、さらに、9月5日には、仙台〜陸前落合間、熊ヶ根〜作並間が電化され。仙台〜作並間交流電化で営業運転が開始されました。
    このとき導入されたのが、交流整流式電動機を採用した直接式機関車ED44(ED90)形と水銀整流器を用いたED45(ED91)形が投入され比較検討されることとなりました。
     性能的にはどちらも満足行くものであったそうですが、直接式はその特性上ブラシから派手に火花を飛ばしながら走るため、運用ごとにブラシの清掃や交換が必要となったと言われています。同時期に比較検討された機関車が水銀整流器を採用した、ED45であり、こちらは驚異的な粘着力を示し、25‰勾配(1000mで25m上昇の意味)における引出し試験で、ED44が360tの性能であったのに対し、ED45は600t(ちなみに、定格出力はED45 の方が上)と統治の直流F機と同等の性能を示したのは驚きであったと言われました。
     こうなると、交流電気機関車は間接式を中心に考えることとなり、この成功受けて国鉄では幹線区間における電化は交流電化で行くことを決定、その第1弾として北陸線 田村〜敦賀間が選定されました。(これは、60Hz区間における交流電化を検証する意味合いもあったようです。)
     昭和32年10月1日 北陸線 田村〜敦賀間交流電化完成、(木ノ本〜近江塩津〜敦賀間新線開通、旧線は柳ケ瀬線として存続)し、ED70形がED45形をベースとして18両製造されました。この機関車は現在、長浜鉄道スクエアに保存されていますが、特徴ある全面の入口部分が溶接されているなど、原型を崩してしまっているのは寂しいことですが、量産型交流機関車の始祖として永久に保存していただきたい1両です。
    昭和34年には東北線黒磯以北が50Hzで電化が始まり、ED70を改良した高出力機ED71が昭和33年の試作機を経て38年まで製造され、長く東北本線の顔として君臨していました。
    なお、交流と直流は直接つなげないので、北陸本線の場合は、米原〜田村間は非電化、蒸気機関車(当初はE10)が牽引、東北本線黒磯では、黒磯駅構内に共用区間を設けて、そこで交直切替えを行っていました。(現在、北陸線は敦賀まで直流化されており、デッドセクションはそれ以遠に設置されています。)
    なお、米原・田村間では、交直流機関車として、ED30が昭和37年にEF55-3の部品を流用して(実際はモーターなど一部のみ)試作されました、このときの特徴は低い屋根と、そこに交流機器を無理矢理載せたので、かなり屋根がひしゃげた印象を受けるEF13の近代化版とでも言える車両でした。
     この車両は、結局短区間の接続にはDLで十分ということで、当時余剰となっていたDD50にその任を譲って、鉄道技術研究所で保管されることとなりました。
    その後、国鉄の方針として動力分散列車の方がスピードその他の面で有利と言うことになってくると、交流電化のデメリットが頭をもたげてくることになりました。
    そうです、車両価格が、直流車両に比べると割高になることです。
     特に電車の場合、交流区間だけでなく、直流区間まで運転できてこそ電車の値打ちがあるわけで、国鉄時代はその殆どが交直流電車で製作されました。
    455系や485系のように日本全国殆どの電化区間で運転できるような車両も現れました。
     ただ、交直流電車は、直流電車+変電設備を車両側に持たせるわけですから、重くなるし高くなるのは当然で、その後交流電化が下火になる原因を作ったと言えるかもしれません。
     ただし、交流電化にもメリットはあります。
     それは直流と異なり、抵抗を一定と仮定すると、高い電圧をかける方が、電流量は減るという特性があります。(オームの法則)V=I・R(Vは電圧、I=電流量、R=抵抗)
     また、電流量が減るということは、結果的に熱の発生を抑えることができます。
     これは、ジュール熱と言って、抵抗に電流を流すと必ず発熱します。(送電線に電気を流しても必ず熱は発生します、例えば、携帯電話の充電器なども熱くなっていることがありますが、同じ理屈ですね。)この熱量は、電力を4.2で割った値と言うのがわかっています。
    詳しい説明は、またの機会にしたいと思いますが、同じだけの電気を送るのであれば、電圧が高い方が電流量が少なくなり、かつ抵抗値は変わらないわけですから、熱量の発生は抑えられます。
     当然、熱損失が少ないわけですから、あまり太い送電線にしなくても良いわけで、そうなってくると電信柱の太さまで変わってくる、変電設備も減らせる、総じて固定設備は安くなると言う理屈になるわけです。
     なお、新幹線のように大量高速輸送機関の場合、電流量は膨大になり、0系の当時は16M(全車がモーター)でなおかつ、位相制御でエネルギーの回生をしないタイプだったため、消費電力は膨大なものがあり、こういった高速輸送機関の場合は交流電化のメリットはあるといわれています。
     今は下火になりましたが、新在直通の新幹線ですが、西日本のほうではあまりメリットを感じないのか積極的な動きは見られませんが、この場合も乗り入れ区間は交流電車になると推測されます。これは、地上設備が仮に直流であっても、電車側に交直流機器を持たせるのが必要かどうか?その点を考えてみる必要があると思います。