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国鉄があった時代
日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。

組織改変論議と国鉄

  国鉄の誕生というと、皆さんよくご存知とおもいますが、昭和23年7月22日に発表された、マッカーサー書簡が、その発端であるということを理解していると思います。
 この書簡によると、鉄道・塩・アルコール・たばこ等の専売業務は政府事業から公共企業体に組織変更すべしと明記されていました。
 当時は、GHQの命令は絶対であり、それにより当時運輸省の現業機関であった国鉄は、昭和24年6月1日、たばこ・塩・アルコール専売と供に公社化されました、なお現在のNTTは、逓信省(現在の日本郵便の前身)から分離し、電気通信省として独立しました。
 ただし、電気通信省はその後数年で、電話が普及させられなかったとして電電公社に組織換えされていますがこれは、国鉄問題とは異なる話ですので割愛させていただきます。

公社化以前に話題となった民営化

 公共企業体として再出発をした国鉄ですが、実は第2次世界大戦終戦直後の昭和20年9月頃から、三菱経済研究所など民間の研究機関から民営論が叫ばれ、また財界からも戦後の公債を処理するために鉄道などの政府事業を払い下げる声があったようですが、経済界への影響の大きさを考慮しその話はいつかうやむやとなりました。

臨時公共企業体合理化審議会の発足

  公共企業体発足から5年後の昭和29年、政府は「臨時公共企業体合理化審議会」を発足させました。
 「公共企業体は、公企業の合理化と民主化のための新しい企業形態であるが、その公共的かつ能率的経営を確保するため、なお改善を加える必要があると認められる、これに対する改革要綱を示されたい」と諮問しました。
 これは、占領に伴いスタートした公共企業体を、日本人の目で見直そうということが目的でした。
 この答申は、昭和29年11月に行われ、「本来の企業性を十二分に発揮するため、また同時に公益事業の本質も顧みて、改善すべきものは改善した上公共企業体としての形態を存続すること」に決定しました。
 具体的には、合理化をすすめなさい、経営委員会がもっとしっかりしなさい、政府が資金の手当てをしてあげなさい。ということで、どちらかといえば、国営に戻すべきか公共企業体のままが良いのかということがおもな争点となっていました。
 この時点では、民営化ということは全く考えられなかったというか、むしろ国営に戻したいというのが本音ではなかったのかと思います。
その背景には、GHQ=アメリカに押し付けられたものと言う思想があったのではないかと思います。
しかし、戦後の国鉄は、GHQ(実際にはCTS)による占領軍の軍事輸送を行いながら、戦時中の酷使による老朽施設の更改を強いられていた他、日々増大する輸送量に対しての改善は限られた予算の中で行っていまたわけであり、改善計画が充分に行かなかったわけですから、きちんと政府で対応することも可能ではなかったかと思いますが、逆にこういった問題も大きくクローズアップされていたかもしれません。それは、不採算路線の敷設についてでした。
 鉄道路線は、明治時代の法律(鉄道敷設法に基づき敷設が行なわれることとされており、日本国が独立を取り誰もいませんでした。
  そんななか、政府は「臨時公共企業体合理化審議会」の答申を受けて昭和30年、運輸大臣(現在の国土交通省)の諮問機関として、『日本国有鉄道経営調査会』を設け、経営形態と財政再建について改めて諮問したのです。
  委員としては、阪急グループ総帥 小林一三氏や同じく東急グループ総帥 五島慶太氏の名前も上がっており、小林氏は「民営なら開発事業が出来るし、資金調達も自由に行え、創意と責任を持って積極的な経営が出来る。」と発言、五島氏も「国鉄を北海道・東京・東海道・北陸・大阪・四国・九州の7経営体に分割し、独立採算制を採用、その上に監督権管理機関を置いて経営すべきだ」との今のJRに通じるような案を今から50年以上前に提言していました。
  昭和31年2月、調査会は、経営形態について答申を行いましたが、その内容としては、国鉄は引続き公共企業体で行くとのことでした。
そこには、公社として発足したばかりであり、その評価は未知数であることが決め手となりました。
さらに、国鉄の名称を「日本国有鉄道」→「日本国有鉄道公社」とすべき案も出されたそうです。

国鉄公社と民営化

 この議論では、戦前のような国営に戻すのではなく、施行しか6年しか経ていない公社の形態をそのまま踏襲すべきであり、国有鉄道からより公社の意味合いを強く出せる、「日本国有鉄道公社」に改めるべきであるとされました。
答申には、当時の経過を中心とした説明がついているのでこれを引用すると以下のようになります。
国営論反対派の意見として
   「国営論は政府の監督強化をつきつめた公共企業体以前への復元論だが、再び国営にするとしても、財務・人事などの制度は今日とあまり変わらないだろう。発足6年では、真に公共企業体設立の趣旨が発揮されたかどうかも大きな疑問だし、経営形態の改変そのもに伴う混乱も予想されるので、とらない」
   公社の下ばかりなのだから公社の制度をもう少し見極めたいといったところであろうか。
また、民営化論についても慎重な意見が出ていました。
 「民営論は内容的に不明確だ、能率化のため、膨大な組織を分割して競争させるところにあるようだが、分割論に対する考え方で対処できる。分割論は経営の画一性を打破し、能率的な運営を行うことを目的として主張されており、うなずける点も多いが、企業の完全な分割は輸送を不円滑にするおそれがあり、運賃の不均衡も予想されるので、直ちに採用するのは困難。内部的に地域ブロックの経営単位を設け、強い権限を与えると供に、経営への目標を定めて、競争による能率発揮の実をあげることが可能と思われる」として、民営化論は早急と言う意見を展開していました。
また、答申では財政再建についても詳しく述べられていたが、問題点ははっきりしていても、それが改善できない国鉄の姿が示されていました。

風向きが変わってきた民営化

 民営化はせずに、公社としての自主性を認めようという意見がありましたが、やがて世間の風は民営化もよいのではないかという流れに変わりつつありました。
 政府は、昭和29年に臨時公共企業体合理化審議会という組織を設け、公共企業体(公社)の有り方について以下の趣旨で検討する旨指示を出しました。
 「公共企業体は、公企業の合理化と民主化のための新しい企業体であるが、その公共的かつ能率的経営を確保するため、なお改善を加える必要があると認められる。これに対する改革要綱を示されたい」と諮問しました。
 要は、戦後GHQ主導で作られた公共企業体という組織を、国営に戻すべきなのかそのまま現在の形態でよいのかを日本人の目で見直してみようというわけです。
 この答申は、昭和29年11月に行われ、公共企業体としての形はその後も継続することが確認されましたが、これが後に国鉄の赤字体質を産むことになるのは当時既に予見できたにもかかわらず放置されてしまいました。
その点は、後ほど述べたいと思います。
 この答申では、「本来の企業性を十二分に発揮するため、また同時に公共事業の本質も顧みて、改善すべきものは改善したうえ、公共企業体としての形態を存続すること」とされました。
具体的には、経営委員会の強化、合理化への取組、政府資金の手当て等がおもな要望事項とされました。
 なお、鉄道部会の報告書では特に、「私企業とちがって、株主に対する利益の配分がないし、経営者に収支の決算の結果が痛切に感ぜられないと思われるので、運営当局としては常に留意すること必要」との指摘もあったのですが、この問題が国鉄問題の根本的要因として既に指摘されていたにも関わらず、ローカル新線建設の是非などは議論されたとしても鉄道敷設法そのものには言及されないなど、答申自体が中途半端なイメージを受ける結果となりました。

日本国有鉄道経営調査会の発足

昭和30年、政府は臨時公共企業体合理化審議会の答申を受けて、運輸大臣の諮問機関として『日本国有鉄道経営調査会』を設け、経営形態と財政再建の方法を諮問したのです。
その背景には、戦時中から戦後にかけての酷使で輸送施設は全体に老朽化し、慢性的な輸送力不足と労使関係の悪化に伴う職場の荒廃などが取り沙汰されていたからです。
この委員会には、民間からも阪急グループ総帥、小林一三氏や、東急グループ総帥、五島慶太氏も指名され、各氏は以下のような意見を述べています。

小林一三氏
 「民営なら開発事業ができるし、資金調達も自由に行なえ、創意と責任を持って積極的な経営ができる。」

五島慶太氏
 「国鉄を北海道・東京・東海道・北陸・大阪・四国・九州の7経営体に分割し、独立採算制を採用、その上に監督権管理機関を置いて経営すべき」という現在のJRを予見するかのような民営化論が既に今から50年以上前にあったことは注目に値すると思います。
そして、東の雄、東急グループ総帥の五島慶太氏は民営化論者で、現在のJRの姿を予想?していたかのような内容です。
 「国鉄を北海道・東京・東海道・北陸・大阪・四国・九州の7経営体に分離し、独立採算制を採用、その上に監督兼管理機関をおいて経営すべきだ」との考ええ方を示しました。
昭和31年2月に調査会は、経営形態について「現在国民の一部には、”国鉄を国営にかえすべし”また、”純然たる民営に移行せしむべし”との主張があり、さらに各段階での分割論なども議論されているが種々のの観点から考慮を加えた結果、我々は現在の公共企業体の形態は、これを存続させ、高度の公共性を確保しつつ、能率的な運営を図って、国民の鉄道としての任務を充分に発揮できるよう要望したい。国鉄は公共企業体であることをより明確にする意味で、現在の” 日本国有鉄道”という名称を”日本国有鉄道公社”と改めることが適当であろうと考える」と答申がありました。
答申は、基本的には国営に戻すべきではないかという意見に対して、以下のような否定的な見解を示し、現在の公社としての形態を維持すべきではないかという意見が出されました。

以下全文を引用させていただきます。

  「民営論は内容的に不明確だ、能率化のため、膨大な組織を分割して競争させるところのあるようだが、分割論に対する考え方で対処できる。分割論は経営の画一性を打破し、能率的な運営を行うことを目的として主張されており、うなずける点も多いが、企業の完全な分割は輸送を不円滑にするおそれがあり、運賃の不均衡も予想されるので、直ちに採用するのは困難。内部的に地域ブロックの経営単位を設け、強い権限を与えるとともに、経営への目標定めて、競争による能率発揮の実をあげることが可能と思われる。」
となっています。
 このように、当時すでに現在のJRで見られる問題点が指摘されていたことは注目すべきことですが、結局この時期にもっときちんとした議論が出来ていれば良かったのですが。当時はこれが出来ない事情もあったのですが、この辺は別の機会に譲りたいと思います。
また、答申では。基本的態度の項で以下のような点を指摘しています。
こちらも全文引用させていただきます。
「特別に注意を喚起したい点」
「第一は、一般交通政策の確立と、その面における国鉄の受け持つべき役割を、より明確にすることである。国内交通は、鉄道・自動車・航空機・内航船等によって受け持たれているが、これらの各交通機関相互間の関係を調整し統一のある総合的な交通政策を樹立することは、きわめて喫緊の課題となっている。にもかかわらず、政府のこの面に対する方策には、見るべきものが少ない。一般交通政策を確立して、そのうちにおける国鉄の使命を明確化し、その果たすべき役割を定め、これをいかにして達成してゆくかを明らかにすることが絶対に必要である」と強調しています。
当時の国鉄が抱える問題点として、二つありました。
一つが労使関係、もう一つが財政再建問題でした。
 国鉄は、赤字が累積して解体されたと一般的に言われていますが、昭和30年代は概ね黒字決算で推移、昭和29年〜31年は赤字決算でしたが、戦前の輸送力水準にほぼ戻った昭和32年度からは、着実に黒字を積み上げていましたが、その反面設備投資については、全て国鉄自身で行うこととされていました、実は黒字を累積していた時期にも見えない赤字への時限爆弾はスイッチが入っていたのですが、そのときは誰も気づかないまま、第1次5ヵ年計画がスタートしました。
 第一次5ヵ年計画を前に、運賃値上げか、国の補助を入れるかの点が審議されました。
 結局、国鉄としても企業体としての独立採算を堅持することを選択しました。これにより、国家財政の負担を軽減し、直接国民に税負担を加重しなくてすむという考え方に基づくものであり、多少の合理化は止むを得ないと考えたようです。
 当時の国鉄は、元々運輸省の現業部門が独立した形となっているため、運輸省以上に、官僚意識が強く、国家のためにといった職員が多かったと聞いています。
 話は、少し脱線しましたが、これにより国鉄の財政は好転し、昭和39年の新幹線【当時は東海道新幹線とは呼ばず単に、新幹線と呼んでいた。】開業年までは黒字を計上したのです。
ただ、労使関係の軋轢は避けることはできなかったようです。
 さて、国鉄では、日本国有鉄道経営調査会の答申により、経営委員会を廃止して経営権限を強化した理事会の他、監査委員会・諮問委員会を設けました。
 また、総支配人制を昭和31年1月に廃止して、全国に6支社を設置、その下に管理局を置く体制が出来上がりました。
 参考「総支配人制度(wikipedia参照)」
  国鉄発足当初、省時代の鉄道局の業務を継承して地方単位で地方機関を統括する責任者として、業務別に輸送支配人(鉄道管理局担当)、営業支配人(営業事務所担当)などを設置した。その後、1952年8月5日の組織改正で地方駐在各支配人を統合し、鉄道管理局を管轄する本社直属の管理者として地方総支配人を設置した。北海道・東北・関東・中部・関西・西部の6総支配人を置いた。

以上wikipediaから引用

 支社制度とは、新幹線生みの親でもある、十河信二氏が、本社から地方への大幅な権限委譲を行なうために設けられた制度で、昭和32年1月16日に以下の6支社が設置されました。
北海道支社
東北支社【仙台以北】
関東支社【関東、新潟地域】
中部支社【静岡以西福井県含む】
関西支社【大阪以西】
西部支社【九州全域】

 昭和34年4月8日には。関東支社から分離する形で、新潟支社、西部支社から中国支社、四国支社が分離、9支社体制となりました。同時に管理局は支社に統合されました。
 これにより、本社→支社→管理局→現場のラインとなりました。
 国鉄を民営化するのか否か野議論のなか、国鉄に関しては公共企業体というかたちを堅持することが確認され、政府は以下のような答申を受けれいれました。
政府は、昭和32年に、公共企業体審議会に3公社の改善要綱を諮問
「公共企業体の制度を維持することは認めるが、組織と運営については、抜本的に民間的センスに切替え、その企業性と自主性を強化し、もっぱら能率的・進歩的運営を図るとともに、企業経営の責任を確立すべきだ」
との答申を得ました。 国鉄に対しては、
1. 運輸大臣の専管事項とする。
2. 新線の建設は鉄道経営に見識を持つ学識経験者で構成する審議会の義を経て、運輸大臣の認可を必要とする。
3. 若干の地域別の経営単位の分ち、各単位に自主的運営を行わせることが望ましいから、さしあたり支社制度を一層強化徹底して、独立採算制に近づける方式を採用する必要がある。なお、国鉄を数個の公社に分割すること、または、さらに進んでこれを民営化することは、将来の研究にまつ。
4. 国鉄幹線と関係の浅い地方線については、民営に移すことを別途検討されたい。
という答申をまとめました。
これを見ていきますと、当初は民営化に消極的であった審議会が、やがて国鉄の経営形態について公社が適当としながらも次第に、民営論にも関心を示し、特にローカル線については、民間への移行など、公社の限界を感じ始めているようにも受取ることが出来ます。
 しかし、この問題がやがて25年後に現実の問題として浮かび上がってくるとは当時は予想し得なかったことと思われます。

〈産業計画会議の勧告〉


公共企業体審議会答申からしばらく経った、昭和32年7月には、民間組織の産業計画会議が「国鉄民営化論」を発表、新聞社・評論家をあげて賛否両論が繰り広げられました。
その際の勧告の要旨は以下のとおりです。
「T 国鉄を特殊会社とし、その経営に完全な自主性を与えよ」
1.  現在の公社による国鉄経営には、運輸省、大蔵省、国会などからあまりにも制縛が多い。私鉄と体等の自主性を与え、経営者の経営責任を確立せよ。自主なきところに責任は存せず、責任なくしてはサービスの改善も能率の向上も行なわれえない。
2. お役所仕事の弊をなくすため、特殊会社制度とする。政府出資に若干の民間出資を加えて数個に分割し、政府(運輸大臣)監督は長期事業計画・運賃決定など重要事項と財務の審査にとどめる。私鉄に許されている程度の兼業も認める。
3. スト権を認め、労働関係を正常化する。
「U 国鉄を分割経営せよ」
1. 経営単位が大きすぎて、中央の意思が末端までゆき届かない。日々、計数的に経営の実態を明らかに出来ない。
2. 事業経営の能率をあげ、サービスを改善するには、競争が必要だが、全国一本の国営的独占事業では、たと経営上の比較が出来ない。
3. 全国的なプール計算では、経営努力によって黒地となりうる路線の赤字に対しても、経営者は不感症となり、赤字路線の原因も責任も不明確となる。
 さらに産業計画会議は、ローカル線建設の廃止や、不採算路線の撤去、小駅の廃止、荷役機械化の促進、自動車業の兼営、動力近代化、全線複線化、原価主義の原則にたった合理的な新運賃体系の改革案など、具体的な資料をもとに提言されており、少なくとも昭和30年代には地方ローカル線の多くは、大きな荷物になるであろうことが予想されていたといえます。
全体の流れとしては、国鉄の分割民営も視野に入れて検討すべきではないかともとれる内容であったようです。
産業計画会議は、民営分割を一つの方向として示していましたが、これに対して国鉄あるいは批判的な評論家は以下のような理由で民営化を牽制しました。
1. 世界の鉄道は公共企業体奉仕への統合が進んでおり、民営化は時代に逆行していること。
2. 組織を分割すると、ラッシュ時などを中心として、能率的なダイヤ編成が出来ない。
3. 分割論の利点は支社制度の強化で実現できる。
4. いわゆる民営にしても、資本は国がみなければならず、形式的なものになる。
など、批判的な意見がありました、ただ、分割民営化に反対だが、政府の干渉をなくして、経営の自主性を持たせる点などは、概ね賛成の意向を示す人が多数いました。
 当時の産業計画会議には、十河国鉄総裁や、島技師長ら国鉄幹部もそのメンバーとして名を連ねており、民営分割という、当時としては刺激的な形を通じて、国鉄部内における問題点を露呈したのかもしれないという見方もあります。
 実際に、当時の国鉄では運賃の改定一つにしても国会の審議を経なくてはならず、国鉄労働者への賃金引上げも基本的には経営者側で決定できない状態に有ったのですから、会社を経営しているとはとてもいえない状態といえました。

<昭和32年の監査報告書には>


  国鉄監査委員会<委員長は後の国鉄総裁に石田礼介氏長)が発表した、昭和32年度監査報告書の序章で、「国鉄経営理念の確立」を唱え、公共企業体審議会の答申と、産業計画会議の勧告を正面から取り上げていました。
以下引用すると
 「監査委員会は、これらの意見に対して、必ずしも全面的に賛意を表するものではないが、国鉄は、このような批判の、よって生じる所以を深く顧みる必要がある。そもそも国鉄は公共企業体であるが、一つの企業体である以上、それが自主性をもち、企業性の発揮によって企業としての確固たる基盤を持たなければならないことは当然である。・・・・ 今や国鉄の経営刷新が強く要望されているこの時において、国鉄が公共企業体としての、その使命を果たすための”新しい経営理念”は、外に対しては自主性を確立することであり、内に対しては企業性を強化するとともに、業績に対する全責任を明らかにすることがあると考えられるものである」
 以上のように、国鉄が新しい「経営理念」を作るべきあることを強調していました。
 国鉄の監査報告書は、ややもすると政府の意向を反映する傾向にありましたが、この報告書は国鉄に対してはきわめて厳しい批判と取れる反面、力強いバックアップとも言えました。ただし、大国鉄を大きく動かす原動力とはなりえなかったのは残念でなりません。
 むしろ、国鉄ではそういった意見を耳にしながらも、戦中戦後に酷使した老朽資産の置換えもさることながら、戦後増大した輸送需要に対して、国民の付託に応えるために、大々的な輸送力増強を含めた、大幅な改善計画を発表するのです。
これが後の第一次5ヵ年計画と呼ばれたものでした。
概要を以下に簡単に書かせていただきます。
 第一次5ヵ年計画の背景には戦後の国鉄輸送量の増大がありました、具体的には戦前の昭和11年と比較して旅客で3.74倍、貨物のトン数では1.65倍の増加となっていました。
 ところがこれに対し、国鉄では、戦時中の酷使で老朽化した施設や車両で対応せざるをえず、輸送力不足は否めませんでした。
 しかし、戦後のインフレーションの中では、収入で経費を賄うことも難しく、桜木町事故のように戦時中の粗悪品を使っていたことに対する国鉄の批判も大きくなっていたことから、計画されたものでした。
5ヵ年計画の基本は、
1. 資産の健全化、老朽施設の更新、信号保安度の向上
2. 輸送力増強
3. 動力・設備の近代化
以上の3点を重点事項とし、総投資額は5000億円にも達しましたが、昭和32年のなべ底不況で資金事情が悪化。資金不足で設備投資が十分に出来ず、老朽資産の取替えに追われ、輸送力増強が出来ませんでした、景気が回復すると今度は輸送需要が逼迫という状態となり、計画自体が過少であったとして、第一次5ヵ年計画は35年度でひとまず打ち切り新たに第2次5ヵ年計画を策定することとなりました。
 なお、第一次5ヵ年計画では、電化・気動車化を中心とした動力近代化の端緒を開いたことは大きな功績でしたが全体としては、計画に対する達成率は68%でした。
さて、国鉄の第一次5ヵ年計画は、電化の推進(東海道線全線電化)など一定の成果は得られましたが、計画が過少であったとして、輸送力の増強。動力と輸送の近代化を盛り込み、経営の長期安定を目指し、昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画がスタートしました。
これは、投資総額が9,750億円(当時)という巨大なものでした。
具体的な内容は、昭和39年版運輸白書で参照すると、以下のようになっています。
1. 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
2. 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
3. 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行ない,これを電車化すること。
4. 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
5. 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。
 ただし、昭和38年度までの進捗状況は概ね60%以下で推移しており決して充分な進捗状況であると言えるものではありませんでした。
 しかし、ここで注目いただきたいのは、国鉄諮問委員会(原安三郎委員長)が、昭和35年9月に、第2次5ヵ年計画への切替えを勧告した意見書で、過度の公共負担や、不採算路線の建設、運賃制度の不合理、中ぶくれの人員構成の、「4つの根本的な病根」と呼び、政府に抜本的な対策を政府に望んでいました。
第2次5ヵ年計画も、東海道新幹線は完成にこぎつけたものの、急激な高度経済成長に追いつけず39年度で再び見直しを迫られることとなりました。
特にこういった一連の輸送力増強計画に際して、自己資金以外は、国鉄自身の借入金で賄わせたことに大きな問題がありました。
昭和38年5月に提出された監査委員会の答申書「国鉄経営の在り方についての答申書」によると、国鉄が名ばかりの公共企業体となった原因を政府にあると、その責任を追及しています。
ここでその内容を引用させていただきますと、

  「国鉄に果たして”企業性”が与えられてきたか、ほとんど完全に否である。・・・、国鉄の理事者は、その判断の自由と行動の自由とを、運輸省の一般監督、大蔵省の予算制度上の監督、国会が運賃決定権を握り、国鉄総裁は、その万般にわたる質問に対して自ら答弁に当たらなければならないことなどによって、まさにガンジガラメに縛られていたのである。・・・国鉄は、”企業性”を阻まれてきたが故に、そのうべかりし”収益力”を発揮しないできた、と同時に国鉄は”公共性”の名によって過大なる公共負担を負わされてきた。それが国鉄の今日ある所以である。別のいい方をすれば”独立採算制の公共企業体”たるべき国鉄に、その実が与えられていないこと、そこに全ての原因があるのである」
とはっきり指摘していました。
また、民営化論議に対しても、国鉄に対してもっと公共企業体としての実を与えることができるように配慮すべきであると指摘していました。
「国鉄を一会社の運営にまかせるのはムリだが、分割の方法が立ちにくい、資産の評価もむずかしく、今の国鉄には買い手がつかないだろう。民営にしたらうまくゆくという保証もえられない」として退けています。また、官営に戻す案に対しても、「国鉄が企業体であることによる利益を放棄してしまうことになるとし、政府に対し、国鉄に公共企業体としての実を与えることを求めていました。

〈第三次長期計画と輸送力増強〉


昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画は、輸送量の増加が当初予想を上回り、計画がこれをカバーしきれないことが確実となったほか、資材・用地・賃金等の高騰が当初予想の資金では不足をきたす結果となったうえ、三河島事故の発生で、安全面の投資不足が大きくクローズアップされるなど、昭和37年7月には第2次5ヵ年計画はまたまた修正を余儀なくされました。
そこで、政府は総理府に「日本国有鉄道基本問題懇談会」を設置し、審議の上意見書として5ヵ年計画の見直しを提言しました。
この提言に基づき、国鉄は第2次5ヵ年計画を39年度までで打ち切り、新たに昭和40年度から第2次計画の2.2倍に当たる、総額2兆9720億円を投入する第三次長期計画が昭和46年までの7年間の計画でスタートしました。
 おりしも、昭和39年には、国鉄は赤字を計上したにもかかわらず、その無謀とも言える計画はスタートしたのです。
 この計画では、通勤通学輸送の改善に関する投資額が大幅に増えたことで、第2次5ヵ年計画では5.8%、777億円だったものが、17.5%、5,190億円と大幅に増えました。
この背景には、線路増強を行なわなかったために過密なダイヤとなり結果的に三河島事故や鶴見事故と言った重大事故を起こしたという事実がありました。
 この通勤路線増強計画の主体は、東京に放射状に集中する5路線、すなわち東海道・中央・総武・常磐・東北の各線を指し、一般的には「東京(通勤)5方面作戦」などと呼ばれました、なおこの詳細は別に機会に譲りたいと思います。
 ただ、これらの資金は、独立採算制を建前とする国鉄ですので基本的には運賃収入及び借入金で賄う必要が生じたのです。
 やがて、国鉄の第三次長期計画も、収入に対して過大な投資を強いられていたので、黒地経営に転換することもなく、43年には積立金も食い潰してしまう、破産状態となってしまいます。
この頃を境として、国鉄は政府からの出資を受け入れるなど、徐々に国営色が強まり、運賃の国会審議などを含め公共企業体としての国鉄の姿は薄くなっていきました。
ただ、この頃から営業面で積極性が出てきたのは注目に値すると思います。
例えば、エック(旅行会社に委託したエコノミークーポンの愛称)の販売やディスカバージャパンキャンペーンなどがあげられると思います。
ただし、その後は国鉄に対して政府からの補助金、利子の棚上げなど、つじつま合わせのような施策を通じて公共企業体国鉄は、国営企業体国鉄となり、常に国会議員と政府の顔色を伺う、そんな情けない状態となりました。