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国鉄があった時代
日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。

組合運動の変節 労働ストから政治ストへ

    この章では、戦後の復興に向けての輸送力の増強を中心にお話をして行きたいと思います。昭和30年代のお話につきましては章を改めて行ないたいと思います。

    労働運動から政治活動へ

    昭和30年代になって世相も落ち着きを見せ始め、もはや戦後ではないという風潮の中で、政府は、所得倍増政策を打ち出すとともに、アメリカ追従型の政策を矢継ぎ早に打ち出していきました。
    警察予備隊は、自衛隊に改組され、実質的な日本軍という位置付けと言われましたが、現在に至るまで、自衛隊は戦力ではない、軍隊ではないと言われてその地位は今もあいまいなままです。
    戦後高揚した労働運動は、1960年代の安保条約改定を挟んだこの時期に最もピークを迎えることとなりました。
    政府は、戦後の混乱期を脱したことから「もはや戦後ではない」ということで、積極的な経済政策が取られました。
    エネルギーの転換政策もこの時期で、かっては「産業の復興は石炭の増産にあり」ということで傾斜生産を含めて積極的に行われた石炭が、輸入による石油に取って代わられる時代でもありました。
     特に炭鉱労働は、中国などに見られる露天掘りとは違い、深いトンネルを掘って作業する坑道方式であるため、ガス充満による爆発事故や落盤事故などが後を絶たず、最も危険かつ劣悪な作業環境に置かれていたといっても過言ではないでしょう。
    そのような中で繰り広げられた三井三池炭鉱で繰り広げられた三井三池争議は、その規模を含めて大変重要な事件であるので、鉄道という本旨からは離れますが解説させていただきたいと思います。
    三井三池炭鉱は、元々穏健派が中心を握る組合で労働争議には消極的な組合であったと言われています、この点は国労と動労が分裂しやがて左傾化していく点とよく似ていますので覚えておいていただきたいと思います。
    昭和22年頃から、三池炭鉱とも関係の深い九州大学教授の向坂逸郎が、向坂教室と呼ばれる労働者向けの学校を開き、資本論などを講義していた。
     これにより、労組の性格は一変し、『資本論』の教育を通じて戦闘的な活動家が育成されました。昭和35年の三井三池葬儀の際、その中心となったのは向坂教室で教育を受けた先鋭的活動家が中心だったのです。
     国鉄の場合はどうだったのでしょうか?少し整理してみたいと思います。(参考・労働運動と国鉄)
    国鉄の場合は、日本共産党を中心としたグループと、穏健派と言われるグループがありました。そんな中で国鉄(当時は正確には運輸省鉄道総局)に課せられた命題として国労(昭和22年6月までは国鉄総連合という名称だった。)に昭和21年7月課せられた課題は、人員整理でした。
    戦時中に採用した女子職員や復員者や満州鉄道の職員なども受入を行ったため、約61万人にもなっていました。
     国鉄は、女子職員と青年層(一家の生計の中心になっていない)を中心に約14万人を解雇することとし、内7万5000人ついて組合と相談を受けましたが、同年8月27日には、交渉の決裂を宣言、共産党を中心とする左派勢力は同年9月15日にストライキを行う方針を決定しました。(参考・国鉄があった時代昭和21年)。
     当時組合内でも、話し合いで解決すべきであるという穏健派とストライキを行って解雇絶対反対を押し通す共産党派に分かれてしまいました。
     このパターンは国鉄末期でも同じような問題を露呈しています。(注)
     これに慌てた政府(実質的にはGHQの思惑もあったと思われる)は、国鉄に対して穏便に終わらせるように指示を出しました。
     これにより、前日の9月14日には運輸相が解雇案を撤回することで事態は収拾することとなりましたが、これにより話し合いで解決すべき(労使協調)を旨としてきた穏健派のグループは面目を失うことになり、発言力はやがて小さくなっていきます。
     更に国鉄では、同じような過ちを繰り返して穏健派を追いやっていくのですが、昭和30年代の国労では、共産党を中心とする左派が、三井三池闘争に加担する形でストライキに参加するとともに、やがて政治ストを中心とした形に変節していくのです。