作:◆eUaeu3dols
シャナは走り続けていた。
客観的にみればもう走っているとは見えない歩くような速度で、しかし走っていた。
思考はまるで地獄の釜のようだった。
悲哀、憎悪、食欲、意志、誇り、絶望、殺意、自棄。
種々の感情が煮え滾り、溶け合い、ただただ力だけを生みだしている。
前に進め。奴を追え。奴を殺せ。
それが彼女の心にくべられた最後の薪なのだから。
それに水を差したのは脳裏に響く残酷な放送だった。
『諸君、第三回放送の時間だ。まずは死亡者の発表を行う』
放送が死者の名を読み上げていく。
(うるさい)
判ってる。判っているんだ。
だから言うな。聞かせるな。考えさせるな。
今はこの殺意だけを抱いていたいのだから。
しかし管理者がそんな想いを汲み取ることはありえない。
『059テレサ・テスタロッサ――』
「――――っ!!」
知っている名前が混じり、読み上げは進む。
沸騰する思考はその内容を理解できないのに、それでも言葉は脳裏に焼き付いていく。
『082いーちゃん――』
知らない名前、聞いた事が有る名前、多くの死者の名前が羅列される。
そして呼ばれる事が一番判りきっている、その名前が呼ばれた時。
『095坂井悠二――』
ピシリと――何かにヒビが入った。
「シャナ!」
「シャナさん!」
背後と前方から声がする。
その声に立ち止まり、シャナは自分が歩き続けていた事に気づいた。
あのマンションのすぐ近くに立っている。
この周辺の霧は不思議と薄く、そのおかげでぼんやりながらマンションが見えていた。
だけどそんな事はどうでもいい。
目の前に居る保胤とセルティ、背後から息を切らせながら追いついたベルガーの事も。
自失状態にあって歩き続けていた事も、最早意味の無い事なのだ。
それでも言う。
「どいて。敵を追ってるんだから」
前方から心配げな声がかかる。
「待ってください。あなたの腹部には散弾銃の欠片とやらが残っているのでしょう?
これ以上の激しい運動は危険です」
「問題ない。もう痛くない」
これは本当だ。
零崎との戦闘と追撃で腹部の散弾銃の欠片は大きく暴れ回り、内蔵を傷つけた。
だがその傷は、前の時よりも更に急速に塞がっていった。
ある欲求を強めて。
血を啜れ
(……うるさい)
浮き上がってきた不快な言葉を抑え込み、沸き立つ思考の底に押し戻す。
それはダメだ。それだけはイヤだ。
その位なら怒りと殺意に身を任せた方がずっとマシだ。
「零崎はエルメスに乗って逃げたんだ。その様じゃ追いつけない」
背後からは冷静な指摘が飛んだ。
それだって判っている、けど。
「捜せばいい。ずっと走ってはいられない。いつか何処かで休むはず」
「そんなもの道を2度3度曲がられたら終わりだ。
追いかけられて逃げたのに一本道の途中で休むとも思えない」
「それでも、見つかる可能性は零じゃない」
「……冷静になるんだ、シャナ。今は動いても無駄だ」
「私は……!!」
ベルガーもシャナを無理に抑える事はシャナにとって危険だと判っている。
だがそれでも、今はシャナを行かせる事の方が危険に思えた。
シャナがどれだけ傷ついてしまったかは語る必要も無く明白だったのだから。
「それに、やらないといけない事も有るだろう」
「やらないといけない事?」
「ああ」
ベルガーは袂に抱えたマントの包みを見せる。
何故気づかなかったのか。
そこからはこんなにも食欲を掻き立てる芳しい香りが漂って……
ひうっ
それが何であるかに気づいて息を呑み、奇妙な声が漏れた。
マントには大きな赤い染みが広がっている。
「早く埋葬してやろう」
それは坂井悠二の遺体だった。
「……要らない」
震えを抑えて声を絞り出す。
「悠二はトーチだから、お墓なんて作ってもその内に消えて、存在すらも忘れられる。
意味が無い」
だから、悠二の物を遺す事など何一つ出来はしない。
「それはよく知らないが、君の記憶からは消えないんだろう?」
「私の記憶にしか残らない」
「それなら十分に意味がある。君が前に進むために、埋葬という区切りは必要だ」
「前に……」
前に進む? そうだ、進まなければならない。
だが――何処へ? それが判らなかった。
折れた心はもはやその行く先を示さない。
「そうですね。埋葬は使者の為であり、生者の為でもあります」
保胤はそれを言う事に意味が有るか少し迷いつつも続けた。
「それに彼の魄は、極簡易であれ埋葬すれば悪霊と化す事はまず無いと言っていい。
心のどこかで死を覚悟していたのかもしれません」
「……そう」
彼の言う魄だの悪霊だのはよく判らない。
でも悠二が死を覚悟していたというなら……自分も『ちゃんと』しなければならない
その想いは少しだけシャナを保たせてくれた。
* * *
埋葬する場所に選んだのは近くの森だった。
「ここで良いだろう。そう遠くまで歩き回るわけにもいかない」
「墓の形式は私の知る物の略式で良いですね?
古い物ですが、“彼”の国の形式です」
こくり、こくりとベルガーと保胤の言葉にシャナは頷く。
それを待ってベルガーはシャナに“包み”を差し出した。
「……降ろすぞ。そっちを持て」
「うん」
二人でそっと、病人を扱うように丁寧に、死者を包んだマントを地面に降ろす。
ゆっくりと水に濡れ柔らかくなった大地に坂井悠二を……
「…………あっ」
その時、二人の身長差と緊張、地面のぬかるみがちょっとした失敗を生みだした。
少し傾いた包みから何かが転げ落ちたのだ。
一瞬『悠二だった一部』が転げ落ちたのかと緊張し、すぐにそれが勘違いだと気づく。
それは奇跡的に血に濡れてすらいなかった。
包みから転げ落ちた小さな包みを拾い上げてベルガーは首を傾げる。
「悠二の荷物だな。これは……」
シャナは驚愕に目を見開く。
別に有って絶対におかしい物というわけではない、だが自然には有り得ないそれは……
「メロンパン、か?」
「…………私の、好物」
「……そうか」
ベルガーは包みを確認すると、シャナにメロンパンを差し出した。
重いほどに想いが詰まったそれを、そっとシャナに委ねる。
「食べるか?」
シャナは、震える手を伸ばして。
坂井悠二からの最後の贈り物を受け取った。
『他の遺品はどうする?』
すっと目の前にセルティの言葉が差し出された。
ベルガーは少し考え、シャナに声をかける。
「他の遺品も整理しておくぞ」
シャナがメロンパンを食べている今の内に、それを済ましてしまいたい。
シャナが頷くのを確認して、悠二の入った包みからデイパックを取りだした。
血に濡れ、悠二の体もろとも大きく引き裂かれたデイパック。
細切れにされたわけではないのだから、中には無事な物もないわけではない。
それでもメロンパンの包みが無事だったのは運が良いと言うべきなのだろう。
(本当にこれは『幸運』な『偶然』なのかね)
ベルガーは疑問を感じた。
佐山の言葉はあの時は少々極論に思えたが、今の状況が本当に偶然なのか、
そして本当に僅かでも幸いが混じっているのかは疑問に感じざるをえない。
疑問に感じた所で自力で答えを出す材料も答えてくれる者もありはしないのだが。
ベルガー達は静かに、そして速やかに遺品の整理を続ける。
デイパックには他にも幾つかのメロンパン――しかしこれは袋が破れ、血に濡れていた。
それにそれなりの量の支給品とは違う保存食と、眠気覚ましのガム。
ペットボトルはお茶の物に替わっていた。
「どうやら彼は大量に食料を調達できる場所を通ったようですね」
「多分、西の市街地のどこかだろう。そっちの方なら色々見つかりそうだ」
囁き声を互いに交わす。
(……なんだ、これは?)
セルティは小さなスーパーのビニール袋の中から、畳んで束ねてあった紙束を見つけた。
紙束は一枚と3つの紙束に分けられている。
セルティはそれが重要な物だと気づき、二人の服の袖を引き注意を引いた。
一枚は地図。しかしそれには薄ぼんやりと別のものが記載されている。
(……地下水脈の地図)
酷く劣化してまともに見えないが、どうやらこの島の地下には空洞が広がっているらしい。
もしかすると地下通路や、それ以外の人工施設も有るのかもしれない。
紙束の一つ目は『物語』についての数枚の記述。
坂井悠二の信じる通りならば、刻印の無力化に繋がる……『かもしれない』。
「……さて、役に立つのかね」
僅かに“何かに憑かれたような”狂熱さえ感じさせる説明にベルガーは困惑する。
「立つかもしれません。思うより冷静だったようです」
保胤が指で示したそこには警告が記されていた。
『次の紙に物語の本体を記載します。危険性は上に書いた通りです。』
「……ひとまずは後回しだな」
『物語』の本体は読まずに次の束に進む。
二束目。
この束は最も枚数が多い。
その内容は世界への考察と、脱出への足掻き。
坂井悠二が書き残したゲームとの戦いの記録だった。
このゲームが始まってから自分がどんな道筋を辿り、どんな人間と出会ったのかという事。
城に現れたディードリッヒの事。自らの中にある零時迷子の事。
魔界医師メフィストと出会い、他の参加者より一つ多く施されていたという制限が外された事。
血だまりの中から拾い上げた水晶の剣の事。
(水晶の剣?)
指差されたその単語に、ベルガーは怪訝に首を振った。
死体の周辺にそんな物は見かけなかった。
佐山の武器は槍で、零崎は奇怪な鋏だ。
宮下藤花という少女は非武装で……武器を持っている様子は無かった。
(どこかに隠していたのか? それとも……坂井悠二があそこに着く前に手放したのか?)
少し疑問が湧いてその後を適当に流し読みしたが、関連する記述は見当たらなかった。
二束目をよく読み込もうと思った時……三束目の見出しが目に飛び込んだ。
『※:この島の外について』
(な……に……?)
絶句が三つ重なった。
二束目に比べれば少ない枚数の三束目の見出しにはそんな文字が踊っていた。
慌てて次のページを開きその内容に目を通す。
『二束目で書いた通り、僕はどうやら他と比べても過剰らしい制限が掛けられていた。
更に後で気づいた事だけれど、その制限により僕はもう一つ力を封印されていた。
いつの間にか体内に入っていた誰かの血が見せる物だ。
今思えば、廃屋で手に入れたペットボトルの水に僅かに同じ物を感じていた。
参加者の誰か……多分、そこに一緒に置いてあった『物語』の製作者の物だ。
学校で出会った空目恭一の話から推測するなら“魔女”十叶詠子の物だと思う』
記述は続く。
『その二つを封じていた制限が、ドクター・メフィストにより外された時の事。
過剰な封印の反動からか、一瞬だけ凄く色んな物が見えた。
例えば刻印に盗聴機能が有る事。例えば……世界の外の事』
ゲームの深層にある真相を抉りだす禁断の記述。
『だけど、ドクター・メフィストにも話せなかった。これを書く前も迷った。
この事が“多くの参加者を絶望させて破局を加速させる”ように思えたから。
それでもこのゲームの参加者達の中に希望が有る事を信じて、
そして希望を知っている人に届く事を祈って、僕はその全てを記載する事にする』
彼らは最後のページをめくろうとし……ふと、背後のシャナを振り返った。
* * *
「………………」
シャナは受け取ったメロンパンの包みをじっと見つめ……ややあって、包装を破いた。
芳ばしい網目が入った、果汁の入っていないタイプのメロンパン。
ぴりぴりと開いた破り目からメロンパンを出すと、外側のクッキー部分を少しずつ囓る。
奇跡的に完全な気密を保った上に潰れてもいなかったメロンパンは、
シャナの大好きなカリカリという食感をしっかりと残し、
口の中に入ってすぐにメロンパン特有の甘い香りが鼻腔まで立ちこめた。
この香料臭さの無い自然な甘い香りもシャナが重視するポイントだ。
咀嚼すれば甘い味が口内いっぱいに広がって、香りと相まった適度な甘さを堪能する。
よく噛んで呑み込むと、今度は食べた所から覗いたパン生地にかぶりつく。
しっとりとしたパンが生み出すモフモフという食感が返り、
柔らかで落ち着いた甘みとパン生地の香りが口の中に広がった。
そのままメロンパンの円を直線に削るようにモフモフとした生地の部分を食べる。
その後でまた、カリカリとしたクッキーの部分を囓るのだ。
『こうすることで、バランスよく双方の感触を味わえる』
得意ぶって悠二にメロンパンの食べ方を講釈した時の事を思いだす。
(早く、食べないと)
本当はもっとゆっくり味わって食べたいけれど、こんな霧の中ではパンはすぐに湿気てしまう。
二口、三口、四口……もう、湿気出した。
どういうわけかしょっぱさまで混じり始めている。
(潮風のせいだ)
ここは島だ、潮風が吹いて来てもおかしくない。
きっとそうに違いない。
湿気始めたメロンパンが不味くなってしまわない内に食べてしまおうと、
カリカリ、モフモフと、囓って、かぶりついて、メロンパンを平らげていく。
(いつもみたいに、笑顔で)
だってメロンパンを食べている時はいつも笑っていられた。
“育ち故郷”である天道宮に居る頃に養育係であるヴィルヘルミナがくれていた頃から、ずっと。
(笑って……)
“育ち故郷”である天道宮を出た時のメロンパンも、旅立つのだと笑う事が出来た。
悠二と出会う御崎市に辿り着くまでの戦いの日々でも、メロンパンを食べる時は笑う事が出来た。
御崎市について、悠二に出会ってからは……
もっともっと、心の底から満足感を溢れさせて笑っていられた。
幸せの象徴だ。
今、こうしてメロンパンを食べている間は笑ってないと嘘だ。
(だから、私は泣いてなんかいない)
そう言い聞かせる。
湿気たのは霧のせいで、しょっぱいのは潮風のせいだ。
(ぜったいに、涙なんかじゃない)
「う……うう…………」
せっかくの、悠二に貰った、悠二が残してくれた、とびっきりのメロンパンなのに、
もうカリカリでもモフモフでもなくて、味も香りも何も判らなくなっている。
だけど残すなんて出来るわけがない。
もう悠二は居なくて、だからこれが悠二がくれる、最後の――
「……う…………ひっく…………」
ビショビショにふやけてしょっぱくなってしまったメロンパンを、必至になって呑み込む。
顔の表情を出来る限り笑顔にしようと引きつらせる。
「私は……泣いてなんか……」
口に出して自分に言い聞かせようとする。
「泣いて……なんか…………」
止まらなかった。
「あ…………」
既にひび割れ、折れていた心は、今度こそ完全に――
「わあああああああああああああああああああああああああぁっ!!」
決壊した。
(そう。悠二は……死んだ)
裂かれた死体を見て。
殺人者に遭遇して。
放送を耳にして。
遺品を手にして。
完膚無きまでにそれを理解した。理解させられた。
(悠二が……死んだんだ……)
何よりも大好きだった少年はもう居ない。
そこにある残滓さえ、日を経れば全て消えてしまう。
紅世の関係者以外の全ての記憶から消え、死体や戸籍も消えていく。
後には何も残らない。
何かを遺す事さえできない。
(そんなのイヤ)
悠二の死体が包まれたマントを見つめると、心の奥から声が響いた。
――血を啜れ
(……いっそ、それでも良いのかもしれない)
もしも悠二の血を吸えば、悠二の何かを遺せるだろうか。
もしも悠二の血を吸えば、その力で零崎を捜し出して殺せるだろうか。
それは彼女、フレイムヘイズが戦ってきた悪、紅世の従の所業。
フレイムヘイズになるものとして生まれ、フレイムヘイズになる事を選び、
フレイムヘイズとして生きてきた彼女にとって死よりも最悪の行為。
だが同時に、一人の少女であるシャナは彼を求めていた。
強く、同時に弱いシャナのその弱さは、行為を求めていた。
(アラストールの声は聞こえない。
冷静なテッサは死んでしまった。
気高いダナティアでもテッサを守れなかった。
ダナティアの大切な仲間だというサラも死んだ。弔詞の詠み手も、死んだ)
咎める者も救う者も居なくなった。
全ての偶然が悪意を持ってシャナを追いつめた。
遂にシャナは悠二を包んだマントに屈み込み……
「――シャナ。君は坂井悠二を二度殺すのか?」
ベルガーが食い下がった。
セルティと保胤、そしてベルガーがその行為を否と言う。
「二度、殺す……?」
悠二はもう死んでいる。なのに何を……
「彼の遺志が残っています」
「遺志……?」
保胤の言葉が虚を突く。
「こいつは、誰かに殺された場合の事さえ考えていた」
ベルガーは“二束目”をシャナに投げ渡した。
「このゲームを打破するために出来る事は無いか。
そう考えて……死ぬまでに自分が考えた事、通った道筋すら、
そのレポートには全部書き込んである」
「ぇ……!?」
このゲームが始まってから死ぬまでの間に悠二がどんな道筋を辿り、
どんな事を考え、どんな人と出会ったかが、全て記載されたレポート。
物語と禁断の記述以外の全てが記載された二束目。
「悠二が何を考え、何を託したかはそれを読めば判るはずだ。
……そこに込められた想いを、殺しちゃいけない」
それは悠二から遺された何かと、ベルガーの言葉。
その二つはシャナに浸み入り、励まし、支え、叱咤する。
挫けるな。
立ち上がれ、前に進め、まだおまえは終わっていない。
「ありがとう、ベルガー。保胤にセルティも、ありがとう」
シャナは本当に心から礼を言った。
心配してくれた、気遣ってくれたベルガーと仲間達に。
「でも……ごめん」
シャナはベルガーの思いやりに感謝すると同時に、怖れた。
ほんの数十秒前、シャナは完全に吸血衝動に身を委ねていた。
もう耐えられず……ベルガーの血をも求めてしまうかもしれなかった。
悠二以外の誰かに助けられることまでも恐かった。
悠二を失って苦しんでいるのを悠二のせいだと言ってしまうようで嫌だった。
「悠二は置いていく。……埋葬して」
血塗れの悠二を見る度、未練と欲望、衝動が膨れ上がる。
自分が壊れていく。悠二を汚していく。
だから辛うじて、それを認めた。
「置いて……いく? おい、シャナ……」
だけど、レポート一束じゃあまりに心細かった。
だから……
「ダメだ! 待て、シャナ!」
悠二の遺体に近づこうとしたベルガーの一瞬の隙を突き、シャナは信じがたい速度で駆けた。
狙いは一つ、坂井悠二のデイパック。
理性的判断などではなかった。
単に悠二の物を一つでも多く持っていきたかった、それだけだ。
目の前にセルティが、保胤が立ち塞がる。
シャナは贄殿遮那を抜き放ち、セルティへと叩きつける!
セルティはそれに反応しギリギリで鎌の柄だけを作り受け止め……
(峰打ち……!?)
斬るためではなくはね除ける為の打撃は重く、セルティの体を吹き飛ばす。
保胤もセルティの下敷きとなり道が開いた。
シャナは半ば裂けたデイパックを僅かに残された中身ごと抱え、飛んだ。
跳躍ではない真上への飛行だ。
炎の翼を翻し、一気に上空へと舞い上がる。
『待て、シャナ!』
「待ちなさい、シャナ!!」
幾つもの声を振り切り、シャナは霧の夜へと消えた。
* * *
悠二のデイパックの中に残っていたのは血に濡れた食料だった。
袋が破れ血を吸い込んだメロンパンが5つ。
同じく袋が破れた、血に濡れた保存食が3食分。濡れてない物が2食分。
元々は更に有ったのかもしれないが、穴の空いたデイパックに残っていたのはそれだけだった。
(これ……全部、悠二の血…………)
悠二の何かを求める想いと煮え滾る吸血衝動が混ざり合いつつあった。
僅かに正気を取り戻した心は吸血を否定する。
悠二から血を吸いたくなくてデイパックだけを持ってきたのだ。
悠二の血に堕落しないその為に。
なのに目の前には悠二の血に濡れた食料が有った。
(考えればすぐ判った事じゃない)
血塗れで破れたデイパックの中に血塗れの食料が回収されずに残っていた。
それは起きて何の不思議も無い事だ。
(早く、捨てなきゃ……)
悠二の血を見ていたら、その匂いを嗅いでいたら、その水音を聴いていたらダメになる。
血に触れてしまい、すくって飲んでしまいそうになる。
その味に堕ちてしまいそうになる。
だから捨てよう。そう思い、しかし――
(死人の血でも、ダメなの?)
――迷いが過ぎった。
かつて出会った“屍拾い”ラミーを思い出した。
死者の力だけを集め、世界に影響を与えない無害な紅世の従。
シャナとアラストールは害の無い存在だとして逆にラミーを守りさえした。
(あんな風に、誰にも迷惑をかけなければそれでいいじゃない。
フレイムヘイズの役目は世界の歪みを正す事、化け物を狩る事じゃない)
弱った心に、その甘えが染み込んでいった。
甘い、あまい、アカイ誘惑が染み込んでいった。
シャナは取りだしたメロンパンの包みをじっと見つめ……ややあって、包装を破いた。
芳ばしい網目が入った、果汁の入っていないタイプの……赤く濡れたメロンパン。
ぴりぴりと開いた破り目からメロンパンを出すと、外側のクッキー部分を少しずつ囓る。
包装が破れ斑模様に血を吸ったメロンパンは、カリカリという食感を僅かに残してくれた。
口の中に入ってすぐに濃密な血の匂いが鼻腔まで立ちこめた。
濃密すぎる血の香りは、それが悠二の物だと思うと悲しく、なのに愛おしかった。
咀嚼すれば血の味混じりの甘い味が広がって、自分が何を食べているのかが判らなくなる。
よく噛んで呑み込むと、今度は食べた所から覗いたパン生地にかぶりつく。
しっとしとしたモフモフという食感に時折ニチャニチャという嫌な響きが混じる。
柔らかで落ち着いた甘みと濃厚で鉄の味のする血の香りが口の中に広がった。
そのままメロンパンの円を直線に削るようにモフモフとした生地の部分を食べる。
その後でまた、カリカリとしたクッキーの部分を囓るのだ。
『こうすることで、バランスよく双方の感触を味わえる』
得意ぶって悠二にメロンパンの食べ方を講釈した時の事を思いだす。
今ではカリカリにもモフモフにも血の嫌な、なのに気にならない食感が混ざる。
悠二はもう居ないけれど、悠二の血の味はシャナを甘く慰めてくれた。
(まるで悠二がギュッとしてくれているみたいで……)
ふと気づくと手が真っ赤に染まっていた。
口元も血だらけだった。
メロンパンに付いていた血が付いたのだ。
それだけだと判っていて、でも……悲鳴をあげた。
シャナはまだ、メロンパンを笑いながら食べてはいなかった。
* * *
少しだけ、別の話をしよう。
坂井悠二の、最後の不幸についての話だ。
坂井悠二の最大の不幸は、シャナに巡り会う事も出来ず殺された事だろう。
だがその不幸は死後にもう一つ追記される事となった。
それは悠二がシャナの為に想いと優しさを篭めて遺した物が、
少女を奈落に突き落とす最後の一押しとなった事だった。
そう、少年と少女は運が悪かった。
そうとしか言い様が無いほどに運が悪く、全ての偶然に牙を剥かれた。
「…………帰ったのか、ダナティア」
「ええ、一歩遅くね」
ダナティアは帰還した。
近くまで来た時点で透視で霧の向こうを見据え、仲間達の居場所を確認。
その状況が危急である事に気づき、転移で帰還するも……間に合わなかった。
『…………あと少しが、届かなかった』
ダナティアの胸でコキュートスは悔やみの言葉を発した。
それはアラストールにとって珍しいことだ。
それでも思わずそんな言葉を発していた。
少しして、背後の茂みを掻き分け更に数名が顔を出す。
リナ・インバース。
彼女に担がれた意識不明の海野千絵。
魔界医師メフィスト。
藤堂志摩子。
竜堂終。
もし霧が晴れていれば何らかの手段で追跡が出来たかもしれない。
もしリナの帰還がもう少し早ければ、高速飛行魔法で追えたかもしれない。
もしダナティアの帰還がもう少し早ければ、幾つかの対策は有った。
コキュートスを渡し安静を計っても良い、メフィストの治療を受けさせても良い。
その要因はどれも一つ違えば結果が違ったものだ。
海野千絵に逃げられなければリナはシャナを止めるのに参加し追跡を行えた。
美姫と出会わなければリナはもう少し戻っていた。
そしてそれはダナティアにも同じ事が言える。
小早川奈津子のバクテリア騒ぎが無ければ、誰かが志摩子を抱えて急ぐ選択肢が有った。
もし、もしも。
幾つもの、無数の仮定。
だが届かなかった今となっては――その全てに意味が無かった。
【F-5/森/1日目・18:30】
【大集団】
【海野千絵】
[状態]:吸血鬼化回復(多少の影響は有り?)、血まみれ、気絶、重大なトラウマ
[装備]:なし
[道具]:なし
[思考]:………………。
[備考]:吸血鬼だった時の記憶は全て鮮明に残っている。
【慶滋保胤】
[状態]:不死化(不完全ver)、疲労は多少回復
[装備]:ボロボロの着物を包帯のように巻きつけている
[道具]:デイパック(支給品一式(パン6食分・水2000ml))、「不死の酒(未完成)」(残りは約半分くらい)
[思考]:静雄の捜索及び味方になる者の捜索。 シャナの吸血鬼化の進行が気になる。
【セルティ・ストゥルルソン】
[状態]:平常
[装備]:黒いライダースーツ
[道具]:携帯電話
[思考]:静雄の捜索及び味方になる者の捜索。
【ダウゲ・ベルガー】
[状態]:平常。
[装備]:鈍ら刀、携帯電話、黒い卵(天人の緊急避難装置)
[道具]:デイパック(支給品一式(パン6食分・水2000ml))
PSG−1(残弾ゼロ)、マントに包んだ坂井悠二の死体
悠二のレポートその1(異界化について)
悠二のレポートその3(黒幕関連の情報(未読))
[思考]:悠二を埋葬する/シャナを助けたいが……見失った。
・天人の緊急避難装置:所持者の身に危険が及ぶと、最も近い親類の所へと転移させる。
※携帯電話はリナから預かりました
【ダナティア・アリール・アンクルージュ】
[状態]:健康/生物兵器感染
[装備]:コキュートス/UCAT戦闘服(胸元破損、メフィストの針金で修復)
[道具]:デイバッグ(支給品一式・パン4食分・水1000ml)/半ペットボトルのシャベル
[思考]:救いが必要な者達を救い出す/群を作りそれを護る
【藤堂志摩子】
[状態]:健康
[装備]:なし/衣服は石油製品
[道具]:デイパック(支給品入り・一日分の食料・水2000ml)
[思考]:争いを止める/祐巳を助ける
【Dr メフィスト】
[状態]:健康/生物兵器感染
[装備]:不明/針金
[道具]:デイパック(支給品一式・パン5食分・水1700ml)/弾薬
[思考]:病める人々の治療(見込みなしは安楽死)/志摩子を守る
【リナ・インバース】
[状態]:精神的に動揺、美姫に苦手意識(姉の面影を重ねています)
[装備]:騎士剣“紅蓮”(ウィザーズ・ブレイン)
[道具]:支給品二式(パン12食分・水4000ml)、
[思考]:仲間集め及び複数人数での生存。管理者を殺害する。
【竜堂終】
[状態]:打撲/上半身裸/生物兵器感染
[装備]:コンバットナイフ
[道具]:なし
[思考]:カーラを倒し祐巳を助ける
【F-5周辺/??/1日目・18:30】
【シャナ】
[状態]:吸血鬼状態突入。吸血痕と理性はまだ有り。
[装備]:贄殿遮那
[道具]:デイパック(支給品一式(パン6食分・水2000ml))
悠二の血に濡れたメロンパン4個&保存食3食分、濡れていない保存食2食分、眠気覚ましガム
悠二のレポートその2(大雑把な日記形式)
[思考]:せめて人を喰らう事はしないように
[備考]:内出血は回復魔法などで止められるが、体内に散弾片が残っている。
手術で摘出するまで激しい運動や衝撃で内臓を傷つける危険有り。
吸血鬼の再生能力と相まって高速で再生するが、その分だけ吸血鬼化が進む。
吸血鬼化はいつ完了してもおかしくない。
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