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国鉄があった時代
日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。日本国有鉄道のあった昭和時代を検証するサイトです。

国鉄における労働運動

国鉄末期における、労働運動に関する私見

作成 加藤好啓(blackcat)

戦後、日本の労働運動をリードしてきた総評の中核「国鉄労働組合」と「全逓」は、いずれもその姿を変えてしまった。
そんな中で、国鉄末期における国労の動きに合わせた労働運動の変遷ついて、外野から見た私見を思い出話風に述べてみたい。

 国鉄赤字の解消に向けて
 社会党案VS政府・臨調答申案
 臨調の方針は、基本的には分割民営化であり、どちらにしても民営化は避けられない状況であった、そこで政府・臨調案の「分割民営化」に対して、総評を最大の支持基盤とする社会党(現・社民党)は、独自の改革案を提出することとなった。
具体的には、特殊会社(民営化)は止むを得ないとして、その株式の7割以上を国が保有するとともに、かつ有識者による運営協議会の設定等、「国有」を色濃く残した案であったが、当然世論からは受入れられることも無く消えていった。
 組合憎しの大合唱
 動労の変身
 孤立する国労
 当局の組合潰し
 人活センターという名の檻
 増える自殺者
 出向に怯える労働者
 修善寺大会の持つ意味
 敗走する国労執行部
 俺たちは機関士なんだ
 国鉄の容赦ない合理化は、多くの過員を作り出した、国鉄では意図的に「余剰人員」という言葉を積極的に言葉を使うとともに、直営による飲食店などに意図的に国鉄職員を投入した。
 なにゆえ、これほどまでも過員が生じたかというと、乗務時間の間の休憩時間などを見直したことによる部分もあるが、貨物輸送の大幅縮小による影響は見逃せない。
 しかし、そういった部分は隠蔽した上で、国鉄では余剰人員活用の一環として直営店舗に国鉄職員を採用したと発表、すでに国鉄からは、退職前提の休職、期間限定の出向などが行なわれており、これに応じなかった国労組合員は集中的にターゲットにされた感が強い。
 当時、国労では出向など当局の方針に応じないということを運動方針としており、当局と雇用安定協約を結んでいた「動労」や「鉄労」と比べるとその対応は遅れていたともいえる。
 私も当時駅構内に設けられた多くの飲食店を覗いた事がある、大阪駅に設けらたカレー専門店では、国労の機関士が多数配置されており、国労バッチとともに名札には、元の配置区を書いた紙を名札の上に貼っていたことを思い出す。
 年齢的には、40代半ばのベテラン機関士といえる人たちが中心であった。
 現場で、機関車と正面から向き合い歩んできた男たちにとって、全く畑違いの仕事はどれほど大変であったろうか、同情を禁じえない。
 その後、彼らがどのような道を歩んだのか私は知らないが、機関士に復帰できたのであろうか。少し気がかりである。
 JRに残った国労組合員たち
 新生JRは、国鉄末期の当局側の思惑を外れ、三島会社(特に北海道と九州)で多数の過員(当局の表現に従えば余剰人員)を出してしまい、多くの国労組合員がJRには採用されなかった、しかし、本州会社では採用辞退者や自主退職が予想以上に多かったため結局、定員割れを起こした結果多くの国労職員もJRに採用されることとなった、この頃は既に悪評高かった人材活用センターも閉鎖されていたので、多くの国労組合員も現職に復帰できると思っていたのであるが、実際には直営売店などの売り子など、本来の鉄道業務から外される場合が多かった。
 このため生じた技術断層は深刻なものであり、故障しても車両を直せない若しくはすぐに直せないと言った問題が生じた時期もあった。
 それと期を同じくして、JRに不採用になった国鉄職員(国労が中心)による採用差別問題に対する救済を求めて提訴することとなり、ことごとく救済命令を勝ち取るのであるが、JRの見解は国鉄とJRは別法人であり、JRには一度清算事業団職員となった旧国鉄職員を採用する義務は無いという見解を続けていた。
 国労バッチで処分
 新生JRは、三島会社以外は予想以上の希望退職者が生じた結果定員割れを起こす自体となり、国労組合員もほぼ全員採用されることとなった。
 実際には、国鉄時代に広域配転で、九州や北海道から転勤して来た方も多いので、もし広域配転が行なわれていなければ逆に、三島ではもっと不採用のひとが増えたかも知れない。
 逆に、多くの優れた人材が失われたことも事実であろう。
 そんな中、JRに残った国労組合員は団結を示すため国労バッジを襟に付けていた。これは従前の国鉄時代から変わらないものであった。(さすがにワッペン等は当時から認められてはいなかったが)
 その点を突いてきたのがJR東海であった、JR東海はご存知のとおり、改革3人組の一人で人事畑が長い葛西氏が役員として就任。
 早速、JR東海では、「組合員バッジ」は組合活動の一環であるとして外すことを要求、それを拒否した社員に対して、処分を発令した。
 これを不服として、国労は裁判所に提訴したが、JRの言い分を認め、「組合員バッチ」は労働運動の一環であると認めた。
 これに伴い、「組合員バッチ」を付けることは無くなった。そこで国労は団結の証として次の方策を考えていた。
 それは、国労のマークが入った「ネクタイ」であり「ボールペン」であった。
 国鉄時代は伝統的にネクタイは支給されなかったが、JR東海に関しては独自のネクタイを支給している。
 今も少数派であるが国労は確実に生きている、ただしかっての国労のイメージを感じることは出来ない。