作:◆l8jfhXC/BA
彼は走っていた。
四方が濃霧に包まれた島の中を、彼は正面を見据えて走っていた。
全身を雨に濡らしたまま、同じく雨を吸った不安定な大地の上を力強く蹴っていく。
ぬかるみに足を取られることなく、立ちはだかった木々や崖はすべて軽く登り飛び越え、所々に建てられた建造物をすべて無視し、彼は走り続けた。
十八時の放送を耳に入れたときから、彼は全力で駆けていた。
(空耳だ)
否定の言葉を、何度も何度も胸中で繰り返す。
あんな放送で──死者の名前を呼ぶ放送などで、彼女の名が告げられることなどありえない。
彼女は死なない。なぜなら彼女は強く、そして自分の恋人だからだ。
しかしそうなると、こともあろうに死者の名前を呼ぶ放送で、恋人の名前を聞き間違えてしまったことになる。
聴覚には自信がある。表裏どちらの職業でも求められるものなので、視力同様最大限の努力をしてきた。
あいにくその能力が彼女の声を聞くために使われることはなかったが、彼女に関することを聞き間違えることなど一度もなかった。
ならば彼女はやはり──いや、そんなことが起こるわけがない。
彼女が死ぬということは、自分と共有していた彼女の世界が壊されたということだ。世界の半身が破壊されるわけがない。
こんな殺人ゲームに自分と彼女を巻き込んだこと自体が世界に対する侮辱だ。さらに傷つけられることなど、あってはいけない。
もちろん放送自体がはったりであることも考えられた。強者をゲームに乗せるための策と考えれば、納得がいく。
だがそんな風に楽観することが出来ないほどの胸騒ぎを、先程からずっと感じていた。
それは彼女に出会うこととなったあの列車の中で、車掌仲間の死を告げられる直前に感じたものとひどく似ていた。
ゆえに彼は走る。
自らの思考の矛盾と不安を解消させるために。恋人の安否をこの目で確かめるために。
彼女を捜し、彼女が待っているであろう場所へと。
遊園地へと向けて、クレア・スタンフィールドは走り続けた。
○
たどり着いた島の西端は、早朝訪れたときとは違いかなり荒れていた。
いくつかの建造物が倒れ、所々に焦げ跡が残っている。さらにバスが瓦礫に突っ込んでいたりと、かなり派手だ。
血の臭いは雨にほとんど塗りつぶされていたが、ここで争いが起きたことは間違いない。
(……シャーネか? ああ見えて元テロリストだし、支給品が爆弾とかだったらこれくらいはするだろうな)
思考を巡らせ、しかし彼女の痕跡を一片たりとも見逃さぬよう神経を尖らせて奥へと進む。
荒れた建造物の山を超えると、落ち着いた雰囲気の場所に出た。
椅子とテーブルが並べられ、小さな売店が設置されている。壊されているものは何もない。
(休めそうなのはここだが……再会の場としてはやはりあの観覧車の方がふさわしいな。
あそこならこの周辺を見渡せるし、もう一度登ってみる価値はある)
そう結論づけ、エリアの最奥へと方向転換し、
「……ん?」
それに気づいた。
売店の死角になり見えなかった場所に、いくつかのベンチが並んでいた。
それは円を描いて並べられ、中央にある円形の花壇を囲っている。
その花壇の中央に。
様々な花々の上に、シャーネ・ラフォレットは横たわっていた。
「シャーネっ──」
──ドレスの鮮やかな赤が痩躯を包み、そこから伸ばされた四肢が白く瑞々しい肌を外気に晒している。
艶やかな黒髪は花々の精彩にも劣らず、むしろ際立った強い影をそこに落としている。
言葉を紡がない朱唇と、言葉よりも正確に意思を紡ぐ金の瞳は軽く閉じられ、まるで童話に出てくる王子のキスを待っている姫君のような、
そんな彼が予想していた光景はどこにも存在しなかった。
「……シャー、ネ?」
紫に変色した唇。白といわず青白くなった頬。硬く強ばって投げ出された四肢。
髪の黒は雨に穿たれ蹂躙された花の残骸と、土の濁った色の中に埋没している。
水を吸って彩度を失ったドレスは所々が切り裂かれ、さらにより暗い赤の染みが布地を侵していた。
それらを覆うように泥水となった土が飛び散り、彼女の全身を汚す。
「シャーネっ!」
知らず止まっていた足を叱咤して、クレアは花壇へと駆け寄った。
彼女を抱えて地面から引き離すと、ドレスから覗く背中が暗い紫に染まっているのが見えた。
死斑、という言葉が浮かぶよりも先に、触れた肌の冷たさに指が震えた。
それでも冷たい身体を思い切り抱きしめ、顔に掛かっていた泥を拭い、何度も何度も名を呼んだ。
しかし身体に熱は戻らず、肌に生気は返らず、声に反応してその目が開くこともなかった。
いつまで経ってもどれだけ呼んでもどんなに信じても、彼女の死が覆ることはなかった。
○
観覧車の頂上から見た景色も、やはり早朝に見たものとはだいぶ変わっていた。
荒れ果てたアトラクション。その向こうには切り倒された木々と割れたコンクリート。北の方には爆破でもされたかのように派手に全壊した建造物も見えた。
「走ってるときは気にならなかったが……どこも結構派手にやってるんだな」
稼働するゴンドラの屋根の上からそれらを捉え、早朝と同じようにクレアは呟く。
今まで特に意識していなかったが、やはりここは異常な世界だった。
殺人を求め、拒否する者には死を与える理不尽な状況。能動的か受動的かはさておき、それに応えざるを得ない参加者達。
自分が午前中に戦った二人や、早朝すれ違った異質な雰囲気を持った青年などは積極的に“参加”するタイプだろう。
もちろん何が何でも殺し合いを拒否して抗う者もいるだろうが、その力が及んでいないのは今回の放送で明らかだ。
だが、今まではそのすべてがどうでもよかった。
殺し合いだろうが何だろうが、そんなちっぽけな世界ごときに自分と彼女が飲まれるはずがないと思っていた。
彼女以外に知り合いがいないことは最初の会場で視認済だったので、彼女にさえ再会出来れば後はどうでもよかった。
しかし、彼女は死んだ。
(いや……殺された)
ポケットにしまい込んだ一枚のメモのことを思い出し、そのことを強く心に刻みつける。
シャーネの遺体の隣には、おそらく彼女のものであろうデイパックが放置されていた。略奪されたのか、それらしき支給武器や食料は入っていなかった。
だがその荷物を重しにするように、何かが書かれた紙片がデイパックと地面の間に斜めに挟まれて残っていた。鉛筆もそばに落ちていた。
内容の大半は雨に濡れて読めず、解読出来たのはデイパックに挟まっていた部分に書かれたごく一部の文字だけだった。
──【クレアへ】という短い一文と、おそらく人名を指している“ホノカ”と“CD”という二つの単語。
それ以外の文字の意味は、断片的すぎてわからない。
(多分シャーネは、この名前の奴らに騙されたかして殺された。それで、何とか最後にこれだけを書き残した)
単に襲われただけであれば、他人の名前はわからない。
彼女は強いが、一度心を開いた仲間を大切にする。そこを利用されて不意を討たれてしまったのだろう。
もっとも、これが彼女によって書かれたものなのかの確証はない。──彼女の筆跡を知らないためだ。
シャーネは喋ることが出来ないが、意思疎通はその目を見れば容易だった。筆談などしたことがない。
そうはいかない他の仲間とも、筆談は必要最低限しか行っていないらしい。手話はそもそも覚えていないと言っていた。
唯一の例外はあの列車の屋根のものだが、ナイフで刻まれたものなので丁寧な言葉遣いという特徴以外はまったくわからない。
自分の魂の名に宛ててくれたということだけが、これがシャーネの書いたものだと信じるに足る唯一にして最大の根拠だった。
(しかし、具体的には何が起こってこうなったんだ?)
シャーネが倒れていたのは確かに花壇だったが、そこに争いの跡や血痕はなかった。
彼女のドレスとすぐそばにあるベンチ以外に、血の跡がついているものが存在していなかった。
少なくともベンチ周辺の石畳には痕跡があっただろうが、すべてが雨で押し流されてしまっている。
ベンチで殺害され、そこからメモを残すためにデイパックに手を伸ばし、花壇に転げ落ちたと考えれば辻褄は合う。
だがそもそも彼女には、出血するような傷跡が一つも残されていなかった。まるで、魔法でも使って傷口を塞いでしまったかのように。
「……いや、どうでもいいか」
ただシャーネが死んだことと、彼女の命を奪った誰かがここにいること。それだけが確かだとわかれば十分だった。それと、
「俺が、お前を──お前の世界を守ってやれなかったってことも、だ。
お前の世界を決して壊さないと約束したのに、俺はそれを破ってしまった」
悔恨の言葉を、横抱きにしている彼女の遺体に向けて、静かに言った。
泥などを丁寧に拭きとっても、彼女が生前の美しさを取り戻すことはなかった。ただ硬くなりかけた肉の塊としての重さだけが、両腕に伝わっている。
埋葬はしなかった。火葬にも水葬にもしない。こんな世界に恋人を葬ることなど出来るわけがない。
「お前が朽ち果てる前に、必ずここからジャグジー達のところまで連れて帰る。
ただその前に、お前の世界を壊したこの世界すべてを、特にお前を殺した奴らをぶち壊す。それが約束を破った俺に出来る、唯一の償いだ」
そう宣言し、クレアはゴンドラの上から飛び降りた。まだ地上からある程度距離があったものの、難なく衝撃を殺し着地する。
足下にあった水たまりに靴が沈み、水音が小さく響き、ふと視線を下にやった。
水面に映った、意気込んだ自分の顔。目に入ったそれに、何となく既視感を覚えた。
(……ああ、似てるな)
揺らぐ鏡面をしばらく眺めて気づき、苦笑する。
少し前にすれ違った、機械の腕を持った赤毛の青年。胸騒ぎが始まった原因。
その表情や雰囲気が、今の自分に酷似していた。先程とは異なり、相違点がほとんどない。
おそらく彼も、求めていたものを失ったのだろう。そして新たにその代償を求めて、彷徨っている。
「……だが、やはり俺は俺だ」
しかしすぐに、重なった幻影を振り切った。
赤毛。体格。雰囲気。表情。そして、感情を自分自身に閉じこめたその目。確かにどれも似ていた。
だがその感情の温度だけが、決定的に違っていた。
彼はひどく冷めていた。荒野を思わせる、虚無を帯びた錆びた血の色の目をしていた。
自分はひどく熱かった。戦場を思わせる、激情を帯びた燃える黒の炎の目をしている。
彼と自分の道は交わらない。それを確信し、独り言を続ける。
「俺は、お前らにとっての怪物だ。お前らをすべて喰らい尽くす怪物だ。
この島も世界も参加者も管理者も、黒幕がいるのならそいつも含めて、この世界のすべてに対しての怪物になってやる」
そのどす黒い両眼で水面に移るもう一対の目を睨み、言った。
「──お楽しみは、これからだ」
【E-1/海洋遊園地・観覧車前/1日目・18:30】
【クレア・スタンフィールド】
[状態]:健康。濡れ鼠。激しい怒り
[装備]:大型ハンティングナイフx2、シャーネの遺体(横抱きにしている)
[道具]:デイパック(支給品一式・パン6食分・水2000ml)、コミクロンが残したメモ
[思考]:この世界のすべてを破壊し尽くす。
“ホノカ”と“CD”に対する復讐(似た名称は誤認する可能性あり)
シャーネの遺体が朽ちる前に元の世界に帰る。
[備考]:コミクロンが残したメモを、シャーネが書いたものと考えています。
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