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・蜷川新右衛門親当(にながわしんえもんちかまさ)
蜷川新右衛門


 蜷川新右衛門親当(にながわしんえもんちかまさ 生年不詳〜1448)
 シンエモンさんは実在するのか?これが私の好奇心の原点だった。 日本史の人名辞典ごときではなかなか登場しない。しかし、実在するのであった。中学の頃のある日、偶然NHK教育の「一休を歩く」をみて、興味は深くなった。そこで新右衛門の存在が気になったのだ。次の放送が待てず、本屋に一休の本を探しに行き、いろいろ読んでるうちについに蜷川新右衛門についての記述を見つけるのだった。
 アニメでは、当初、南朝方の一休さんをみはる侍かつ、将軍さまの片腕の「寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)」として登場したのだが、第20話くらいから、サヨチャンのように「一休さん」とよぶようになり、その頃から給料泥棒のごとく日常茶飯事のように安国寺に遊びにくるようになる。

 人間味あふるるばかりのシンエモンさんは、足利家最強の剣の達人に描かれる反面(武力99!)、さよちゃんに滅法弱く、やんちゃ姫に不意打ちをくらったり、一休さんと一騎打ちして負けたり、大内家の「すえ姫」さまに惚れてふにゃふにゃになったりする。
蜷川新右衛門2

 しかし、実在のシンエモンさんは、3代義満ではなく、6代義教(よしのり)につかえる、政所(まんどころ)公役(くやく)であった。(アニメで寺社奉行なのは、一休さんのところに遊びに行きやすいようにしかけた、スタッフのアイデアだったようだ・・・と、書いたが、武者小路実篤氏の一休さんの読み物には、寺社奉行でかかれている。また、しんえもんではなく、新左衛門となっている。・・・昇進したりしているのか?謎?) とはいえ、次に挙げる水上勉氏の「一休」にも蜷川新右衛門は寺社奉行とも伝えられるとある。が、これは清太夫の「行実譜」の記述からのものを根拠としているのみのようであり、氏も清太夫の空想の作によるものかと疑問に思われている。寺社奉行であった根拠がないからである。

 「蜷川新右衛門」は、水上勉氏の「一休」(中央公論社・中公文庫)で、氏は、「この人(蜷川新右衛門)は、一休を語るに欠かせない人」 との紹介をされている。

 現在、新右衛門のことで最も信じるに足るものはこの本にでてくる安宅雅夫氏なる人の情報であろうと思われるので、以下に要約し、紹介する。

 蜷川新右衛門親当は、足利将軍(足利義教:第6代)の側近、伊勢氏に属し、丹波園部の蜷川城の主であり、一休が譲羽山にいたときには、京都との往還の道筋に城があったとのこと。また、晩年は出家し、智蘊(ちうん)を号し、連歌をよくしていた。息子の親元は大徳寺の檀越であり、父親当と一休の交流に真実性がうかがえるという。文安5年(1448年)12月に没し、京都真如堂に葬られ、越中の最勝寺に墓碑があるという。さらに、智蘊(新右衛門)は宗祇にも連歌の達人と認められていたというので、宗祇の弟子の宗長が一休の法弟子であることからも交流の可能性がうかがえる。
 さきに挙げたNHK教育の「一休を歩く」も水上氏の解説・講義によるもので、大切な一冊である。
 実際に一休さんと交流があり、「道歌(どうか)問答(もんどう)」には、一休さんとの掛け合いの歌がしるされている。また、歌を正徹(しょうてつ)に学び、連歌を梵燈庵(ぼんとうあん)にまなぶ。かなりの連歌師(号は「智蘊(ちうん」)としてぶいぶいいわせていた模様。(アニメでも歌はよく披露している) 室町文化の第一人者といってよく、「連歌の七賢」の一人でもある。新右衛門さんの作品は新撰筑久波集、竹林抄などにおさめられている。(「道歌問答」は後の人の手による可能性が残るようだ。)
 蜷川作の歌には、

 浮き世をば
   なんのへちまとおもうなよ
  ぶらりとしては
    くさられもせず

 などなどある。
 生年不詳で、武者小路実篤の本(子供向け)には、1448年5月12日になくなっていることになっている。が、これは、先にあげた安宅雅夫氏の12月没説と大きく異なる。

 ホントにあごが割れていて、もみ上げが長かったかどうかは不明。シンエモンさんの奥さんは、すえ姫さま・・・・と言いたいところだが、一休さんに目を付けられたこともあるらしい、辰女という人(道歌問答に登場)である。
子の親元(ちかもと)(1433〜1488)も政所に勤め、不白を号する。「蜷川親元日記」が残されている。

 なお、K1戦士「武蔵」選手の祖先は、祖父の蜷川新(にながわあらた)氏を通して蜷川新右衛門親当らしい。
以下に、納言様より投稿がありましたので、掲載いたします。感謝!
すみません、、ちょっと長くなります。
投稿者:納言  投稿日: 5月23日(水)14時05分48秒

こんにちは。新右衛門(親当)の命日と墓所についてご説明をば。

>命日について
水上勉さんが『一休』に引用されている安宅氏の説は、根拠が不明です。 安宅氏がどんな史料を使って調査したかすごく知りたいですが、 あいにく不勉強でして…(汗)。
新右衛門の命日を5月12日とする根拠はいくつかの史料に求められます。
  • 同時代人の日記『康富記』文安5年5月17日の条に  「蜷川新右衛門入道智蘊がこの数日の間に亡くなったそうだ」という  記事があること
  • 新右衛門の和歌の師、正徹の歌集『草根集』寶徳2年5月12日の条に  (息子の)親元が新右衛門の三回忌(「第三年の追善」)を行い、それに  ともなって詠んだ歌が見えること (三回忌の記事は常縁の『東野州聞書』  にもあります。)
  • 同じく『草根集』文安5年5月(日にち不明)、新右衛門の死後に、  包み紙に歌を書き付けて経を贈ったこと
などが挙げられます。江戸期に作制された『寛政重修諸家譜』 (諸武家の系図集)でも5月12日没が見解のようです。


>墓所について
 真如堂は、京都市左京区真如町に在します。るるぶ等に載ってると思います。
紅葉の名所ですが、参拝客は少ないようです。門から入った境内の、向かって 右側に墓地があって、その中に蜷川家のお墓らしいものがあります。古いです。
 梵語らしき語が刻まれた一基の墓石と、その両脇に、家紋の「合子に箸」が入った 花立てがあります。右の花立ての左側面に「蜷川右衛門尉」、左方の右側面に 「慶應元乙丑年十月」と刻まれてるのを確認。どうやら後代に建てられたもの らしく、新右衛門が葬られているかどうかは不明ですが、一応、蜷川家の墓碑です。
 瑞龍山最勝寺は富山市蜷川、北陸本線富山駅より西の番行きバス乗車、西の番下車、 徒歩5分のところにあるそうです。古い情報だからこのとおりじゃないかも。
こちらは不覚にも参ったことがないのですが、資料によると、 源頼朝挙兵時に功のあった宮道親直が越中新川郡蜷川荘を賜ったことからそこを 所領とし、蜷川姓を名乗ったらしいです。最勝寺は親直の息子親綱が開基のよう ですが、開山以降歴代の和尚の名やその他の事情も不明。当初は臨済宗だったが 室町末期に曹洞宗に転じたそうです。

 境内には7つの墓碑があり(現在の地には そのうち5つを天正の戦乱後の復興の際に移したらしい)、富田景周の 『来因概覧』によると、その4つめが新右衛門のもの(ただし没年月日がまちがって 刻まれてる…。)綿抜豊昭氏によれば、墓碑はあるけど磨滅しちゃって文字は 判別できないそうです。綿抜氏いわく、「親当の没年が誤っているのは、親当の 没した時に建てられたものではないことの証左である。とすれば、天正期の復興の 際とか、元禄期の復興の際に建てられたのではあるまいか。」ということです。
 最勝寺のことは、綿抜豊昭氏の論文『蜷川新右衛門親当と越中―『来因概覧』の 記述を中心に―』に詳しいです。

 富山の図書館なら『最勝寺誌』とか、地元の資料がいっぱいありそうですよね〜。 ホントは手元に置いときたいけど絶版で、っていう本が市立図書館に所蔵されてる ことは検索済みなんですが…。他県には貸し出してもらえないかなあ。 うちの地元の図書館にはないし。妹が卒業した今、妹の大学の図書館で借りるという 手も、もう使えません(泣笑)。古書店で探すしかないか。やっぱり富山行きたい〜!




おはつです。 投稿者:st  投稿日:2003年 7月 5日(土)19時17分14秒
初めまして。
こんなページがあるとは吃驚デス。
>伊勢氏に属し、丹波園部の蜷川城の主であり
という記述ですけど。蜷川親当は、城主ではないです。弟かなんかだった筈。
地方史の元教授に貰った資料によるとです。紛失したんですけど。
では。





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