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火車の資料(現代)


『妖怪画談』
   火車(かしゃ)
 葬式のとき、にわかに大風雨が起こり、葬列の人々を倒すほど激しくなって、かついでいる棺桶を吹き飛ばし、棺の蓋まで取ってしまうことがある。
 これを「火車に憑かれた」といって、大いに恐れまた恥とした。
 それは、その亡者が生前に悪事を多くした罪により、地獄の"火車"が迎えに来たという民間伝承があったからである。
 葬式に限らず、日頃から人に忌み嫌われていた老婆が、便所に行くと言って外へ出たとき、急に空から黒雲が舞い下り、そのまま連れ去られるという事件があった。人々は皆これを「魍魎だ」と噂しあったが、おそらく"火車"と同じ類のものであろう。(P71)

【参考文献】水木しげる『妖怪画談』岩波書店 1992.7.20

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『幻想動物事典』
【火車】Kasha 日本
葬儀の場所を襲って棺の蓋を開け、使者を奪って行く妖怪の一種。鳥山石燕の画集『図画百鬼夜行』では人間ほどの大きさで、2本足で立つ巨大な猫の姿として描かれている。出現するときは嵐を巻き起こし、黒雲に包まれているともいわれるが、江戸後期に書かれた随筆『北越雪譜 』では、吹雪の中を火の玉に包まれて棺の上までやって来たとされている。平安時代頃は、火車といえば死者を冥土へ運ぶ炎に包まれた車のことだったが、これが転じて猫姿の妖怪になったらしい。(P80)
幻想動物事典【火車】

【牛頭/馬頭】 Gozu-Mezu 日本
仏教の地獄で、鉄杖を持って罪人を苦しめるの仲間。牛頭は牛頭人身、馬頭は馬頭人身という姿をしている。人が死ぬと、牛を苦しめたり喰ったりした者のところには牛頭が、馬を苦しめた者のところには馬頭が迎えに行くという。日本では、人が死ぬと火の車が迎えに来るといわれるが、この車を引いて来るのが牛頭と馬頭である。地獄には、牛頭、馬頭の他にも、羊、猪、鹿、虎、獅子などさまざまな動物の頭を持った怪物がいる。(P138)
※赤文字は引用者(泉獺)による。

【参考文献】草野巧『幻想動物事典』新紀元社 1997.5.3

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『遠野物語小事典』
キャシャ
葬式の際に棺を襲う妖怪のことで、猫が化けたものと伝えられている。棺の上に刃物を置く風習はこの猫の化け物から死体を守るためだともいう。
『遠野古事記』には、葬礼の時に暴風と黒雲が起こり、「魍魎(クハシャ)」が障害を成したことが記されており、『大和本草』では<亡者の肝を食う>獣類とみなしている。
『拾遺』113では、旧綾織村から旧宮守村に越える路の小峠のそばにある笠通(かさのかよう)山にキャシャがいたという。遠野市内では、他に土淵の山口沢から大洞沢へ抜けるダンノハナの途中のゴロ(洞穴)にキャシャがいたと伝えられている。
笠通山のキャシャは怪しい女にも化けたという。一方のダンノハナのキャシャも、女好きには女に化けてみせ、力の強い者には大力士に化けて出てくると伝えられている。
ダンノハナのキャシャは、「猫と茶釜の蓋」という昔話の型に沿って伝説的にも話されており、その猫を飼っていたという女性の墓も残っている。
岩手県陸前高田市矢作(やはぎ)町にある猫淵様も、同地の宝鏡寺にいたカシャという猫を祀ったものだという。ここでは、宝鏡寺を盛んにする猫の話として、昔話「猫檀家」の型を通して伝えられている。
キャシャの名が、猫の登場する昔話の中に出てくることにも注意する必要がある。(川島秀一)(P90)

遠野古事記【とおのこじき】
宇夫方広隆(1688=元禄元年〜?)の撰著。3巻。広隆は遠野に生まれ、通称を平太夫また宗右衛門といい、詩文和歌をよくし、武芸をたしなんだ人であった。本書は、1762(宝暦12)年に書いた『遠野旧事記』(一名『多賀城物語』)を、翌年に増補改定して成立したという。その内容は、遠野の「風俗」の変化を自分の体験や「老人の咄」をもとに書きとめたものが中心になっている。本書は『物語』の文語文に少なからぬ影響を与えたといわれているが、実際にその関係を述べているのは『拾遺』を含めて2話にすぎない。
1つは『物語』114で、今は共同墓地になっているダンノハナにおいて、ある者が館の主の墓と思われる大きな瓶を掘りあてたことを述べ、末尾に<『遠野古事記』に詳かなり>と記す。しかし、南部叢書所収本には、この話に相当する内容を見つけることが出来ない。もう1つは『拾遺』113で、キャシャというものが葬式の際に棺を襲うという記事が<遠野古事記にも出ている>と指摘する。これは南部叢書所収本の下巻に、<魍魎(クハシャ)に棺を攫(さら)はれたる導師>が他国に出奔したことなどが記されている。なお、この南部叢書所収本は、伊能慶矩が柳田國男の蔵書を謄写したものをもとにしている。→阿曽沼興廃記(石井正己)
【参】『南部叢書』4,1972,歴史図書社。岩崎敏夫『柳田國男と遠野物語』1985,遠野市立博物館。

【参考文献】『遠野物語小事典』編著・野村純一、菊地照雄、渋谷勲 ぎょうせい H4.3.20

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『神の民俗誌』
福島県南会津郡檜枝岐(ひのえまた)村の伝承。

 桧枝岐の野辺送りの最中、カシヤとよばれる魔物が、死骸を盗みにくると信じられていた。カシヤがとりつくと棺が重くなったり軽くなったりするといわれているのである。(P157.1L-2L)

【参考文献】宮田登『神の民俗誌』 岩波書店 1979.9.20

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『水木しげるの中国妖怪事典』
 人間の精気を吸うといわれる妖怪は他にもいて鬼車"という。
 頭が九つある鳥で九頭鳥"とも呼ばれているが、これは生者・死者に限らず精気、あるいは霊魂を食いつくす。
 頭は、もともと十個あったが、そのうちの一つは犬にかみ切られてしまい、その傷口から血を滴らせるようになった。
 この血には凶事を招き寄せる力があり、この血が滴った家にはよくないことが起きるという。
 鬼車"は犬に首をかみ切られたために犬を非常に恐れていて、鬼車"が現われたら犬を連れてくれば難を逃がれることができる。
 鬼車"というのは、日本にも出没する火車"と同じものか、あるいは、その親類と思われる。
 いずれにしても、もともとは中国渡来のものであろう。(P34)

※水木しげる氏の、火車は中国渡来であるだろうという考察は、重大な示唆を含んでいるのかもしれない。

【参考文献】水木しげる『水木しげるの中国妖怪事典』 東京堂出版 H2.9/28

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京極夏彦『巷説百物語』「帷子辻(かたびらがつじ)」
 さとの亡骸は、荼毘に付されるその前に、通夜の席から煙のように掻き消えてしまっていたのであった。
 稀にみる怪事であった。死したりとはいえ与力の妻、これは由由しき事態である。お上に対する挑戦か、延(ひい)ては武家を愚弄する所業なりと――奉行所内は色めき立ったのだという。しかし、探索の甲斐なく下手人の目星もつかぬ。そもそも遺体盗人など聞いたことがない。さては狐狸妖怪の仕業かと噂する者も勿論あった。聞けば猫は骸を操るという。猫魂(ねこだま)の籠った骸は歩き出すともいう。また、猫のような獣の乗った火の車、火車(かしゃ)なる名前の妖魔があって、葬儀の席から骸を盗むと故事にも見える。そうしたもののけの仕業なら、仮令(たとえ)奉行所所司代と雖も手出しの叶うことではない。(P472)

【参考文献】京極夏彦『巷説百物語』角川書店 H15.8/25
※この小説の中で骸を盗んだのは、火車などの妖怪の仕業ではなくて、とある人物(ネタバレになるのでここには書かない。真犯人を知りたければ本書を参照されたし)です。それはさておき、これは現代人(京極夏彦)が思い描く火車の一例ですな。

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千葉幹夫『妖怪お化け雑学事典』
死骸を持ち去る火車
 葬式の列が進んでいく。とつぜん天に黒雲が湧いたかと思うと、参列の人を吹き飛ばすような突風が吹き、バケツをひっくり返したかと思うほどの雨が降ってくる。そして黒雲からニュッと手が出て棺の蓋を開け、死骸を持ち去ってしまう。これが「火車」の仕業である。火車は生前に悪行を積み重ねた死者を地獄から迎えにくるものなのだという。
 江戸の牛込(現在の新宿区牛込)では死者の足が黒雲のなかからぶらぶらと垂れ下がっているのを多くの人が目撃したという。そして持ち去られた死骸は引き裂かれて山中の木の枝や岩角に引っ掛けてあるというからすさまじい。
 地獄というからには仏教と関係のあるものであることは間違いないが、この火車、生前でも迎えにくることがあるらしい。武州の西方というからいまの神奈川県あたりであろうか。ある村に油屋安兵衛という人がいた。ある時、とつぜん道に飛び出して、
「やれ、火車がくるわ」
 と高声で叫んだと思うと倒れて正体を失った。それからわずらい、腰の下が腐れて十日ばかりで死んだという。安兵衛が死んだとき、家から炎が上がったので近所の人が家事かと思ってかけつけたが、どうやら火車のものであったらしい。そうであれば陰火なので火事になることはない道理である。それにしても腰から下が腐るというのは、生前どんな罪科をなした報いなのであろうか。
 その他、穀物売買に大小の升を使いわけてごまかし、暴利をむさぼった女、心だてがはしたなくて人々につらく当たり、召使いに朝夕の食事もろくに食べさせなかったという庄屋の女房などが生前から火車の迎えを受けたといっている。(P192-193)

火車に乗ってくる怪・魍魎
 火車に乗ってきて死骸を奪うものは「魍魎」であるという。江戸のころ、芝田某という勘定方を勤める役人が、仕事上から飛騨(現在の岐阜県高山市)に行った時のことである。一人では不便だと現地で召使いの男をやとった。よく勤めてくれるので喜んでいたが、ある夜のこと、宿で寝ていると夢とも現ともわからない頃合いに、その召使いが枕元にやってきてひざまずいた。
「ご主人さま、私はじつは人間ではありません。魍魎というものでございます。やむをえぬ用件ができましたので、これにてお暇させていただきます」
「どうしてもやめるというのなら暇をやらぬでもない。くわしくわけをいえ」
 芝田がいうとその男は、
「私どもは順番で死人のむくろ(死体)をとる役が回ってまいります。このたびは私がその役をやることになりました。この宿から一里(約四キロメートル)ばかり下がったところの死骸をとります」
 というと姿が消えた。芝田は変な夢を見たものだと思いながら、そのまま熟睡してしまった。ところが、翌朝目がさめると召使いがいない。
「夢と思ったのは、あるいは現実のことであったか」
 と驚き、宿で一里離れた村のようすを聞いてみた。するとある農民の母の葬式が野道にさしかかった時、にわかに黒雲が湧きでて棺中の死骸を持ち去ったというので、芝田は再度驚愕したというのである。
 この魍魎が腕を切り落とされたという話もある。松平五左衛門ろいう武士がいとこの葬式に参列していると、雷が四方にとどろき黒雲がかかった。すわとばかり五左衛門が棺に手をかけて様子をうかがっていると、雲のなかから熊の手のようなものが出てきた。それを抜き打ちに切り払うと手ごたえがあって雲が晴れた。
 あとを見ると、おびただしい血が流れておりその中に爪が三つつき、銀の針を並べたような毛が一面に生えている腕が落ちていた。この刀はのちに「火車切り」と名づけられ、名刀として大切にされたという。
 こうしてみると、どうも魍魎というものは動物の怪であるように思えるが、なんにしろ化けたり空を飛んだりするのであるから、並みの怪とはいえないだろう。

【参考文献】千葉幹夫『妖怪お化け雑学事典』講談社 1991.7.10

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『地獄』
火車――――――――――――――【日】
画・シブヤユウジ 日本で古くから言い伝えられている死者の魂を冥界へ運ぶための車。人が死んで閻魔の庁へ行くときは牛頭・馬頭のような地獄の鬼が何人かで迎えにくるが、普通は使者は歩いて牛頭・馬頭について行く。しかし、ときとしてこれらの鬼が燃えさかる車を引いて死者を迎えにくることがある。これが火車あるいは火の車と呼ばれるものである。
 火車は見たところは平安時代の牛車のような木製の車輪を持つ車が、炎に包まれている。車で迎えにくるといっても、死者の地位が高いとは限らない。一般人でも火車で迎えがくることがある。
 火車にはいろいろなタイプがあり、火車の前部には鉄の札が立ててあって、行くべき地獄の名前が書いてることがある。
 『平家物語』巻第6の入道(平清盛)死去の章によれば、清盛が死んだときに迎えにきた火車ははっきりと行く先が書いてあったよい例である。これは清盛の妻の時子の夢に登場するのだが、猛火がものすごく燃えさかっている火車が牛頭・馬頭に引かれて清盛邸に入ってくると、車の前に「無」という文字が書かれた鉄の札が立っていた。そこで時子が尋ねると、「閻魔の庁から平家太政入道殿を迎えにきた。無という字は、入道殿がその罪によって無間地獄の底に堕ちるので、無間の無の字が書かれているのだ」と鬼が答えたとされている。
 火車は夢の中だけでなく現実にも見えることがある。こういう場合は火の車が尋ねた家には必ず死者がいるし、火の車に乗せられている者は必ず死んでいると考えられる。宝暦年間(1751〜63年)に瀬戸内海にある広島県御手洗港で実際にそういうことがあったと伝えられている。その言い伝えによると、御手洗港付近の人々には旧暦8月23日の晩に月の出を待って拝むという月待の行事があり、大勢の者が月のよく見えるところに陣取って、酒を飲みながら花見ならぬ月見をする習慣だったが、そんなある月待の夜のことだ。待ちに待った月がついに出たぞとみんなが思ったとき、どこからともなくゴロゴロと車輪の音が聞こえてきた。それがどんどんと近づいてきたのでみんなが目を向けると、炎が燃えさかる火車が東から西の夜空へと激しい音をたてて飛んでいくところだったのである。空を飛んでいるのに、車輪がゴロゴロ音をたてるというのは奇妙だが、人には見えない火車の通り道がまるで虹のように空中にかかっているのかも知れない。とにかく、火車の速度は見る間に速くなってあっという間にみんなの見ている前を飛んでいってしまった。が、このときにはどういうわけか、火車を引く青鬼・赤鬼の姿と火車に乗せられている男の姿だけははっきりと見えた。驚くことに火車に乗せられていたのはみんながよく知っている髪結屋の主人だったのだ。「そんな馬鹿な、あいつはついさっきまで元気だったのに」と誰かがいった。しかし、驚いたみんなが髪結屋を尋ねると、その亭主は本当に死んでしまっていたというのである。
 ここで火の車は西の夜空に飛んでいくが、火車が空を飛ぶのはけっして珍しいことではない。『近代百物語』(1770年)に丑の刻参りで主人の女房を殺そうとした妾が、その罰で牛頭・馬頭の引く火車に乗せられるが、ここでも火車は空を飛んでいる。これには挿絵がついているが、死れを見ると牛頭が火車の前を引き、馬頭が後から押しており、乗せられている妾は炎の中でもがいているように見える。
 火車といいながら、燃えさかる火の車ではなくて、身体中毛むくじゃらの鬼のような妖怪を指すこともある。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に描かれているのがこれで、女の死体を抱えて屋根の上に立っている姿が描かれている。一説に葬儀の場所を襲って棺の蓋を開け、死者を奪っていく妖怪で、出現するときには嵐を巻き起こすといわれる。(P24-26)

【参考文献】著・草野巧、画・シブヤユウジ『地獄』新紀元社 1995.12/22

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『猫神様の散歩道』「豪徳寺」
 実は、この「招福猫児」には、もう一つの由来談が伝わっている。井伊直孝が亡くなり、その遺体を彦根に葬るための行列が箱根にさしかかったとき、激しい雷雨に襲われ、そのなかから火蛇が現れて直孝の棺を奪おうとした。そこに老僧が現れて経文を唱えると、雷雨がやみ、火蛇もいなくなった。その老僧は、弘徳庵の住持だと名乗って姿を消した。直孝の跡を継いで井伊家の当主となった直澄は、この不思議な出来事に驚いて、雷雨を晴らした高僧がいる寺こそ菩提寺にふさわしいと、直孝の遺骸を弘徳庵に葬り、井伊家の菩提寺と定めた。箱根に現れた老僧はこの弘徳庵で飼われていた猫が化けたもので、かわいがってくれた和尚の恩に報いたのだという。
 この話はほかの地域でみられる猫の恩返しの話とそっくりだが、豪徳寺周辺の地域で語り継がれてきた話だったそうだ。(P73)

【参考文献】八岩まどか『猫神様の散歩道』青弓社 2005.6.15
※弘徳庵とは、豪徳寺の元々の寺名。ここに出てくる「火蛇」とは火車のことではないか(カシャがカジャに転訛して火蛇の字が当てられたのかもしれない)と思い、念のためにここに掲載した。尚、文中の「ほかの地域でみられる猫の恩返しの話」とは、いわゆる「猫檀家」であろう。ちなみに、豪徳寺は東京都世田谷区にあり、近くに勝光院もあることも付記しておく。

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京極夏彦・多田克己『妖怪図鑑』「火車【かしゃ】」
 仏教では、生きている間に悪行を働いた者は、地獄へ落とされて裁かれるという。そんな罪ある亡者を地獄へ連行するため、火車という地獄の使者が地上に派遣されるという。『菩薩本行経』上(大)三巻によれば、「火車」は罪人である亡者を乗せて運ぶ車、あるいは罪人を責めるのに用いる、猛火の燃えている車といわれる。火車という護送車を、亡者を呵責する地獄の獄卒が引くことから、その地獄もまた火車と呼ぶようになった。地獄から訪れる鬼は、牛の頭をした牛頭鬼と馬の頭をした馬頭鬼の二鬼である。『今昔物語』や『新御伽草子』『諸国百物語』などに登場する火車は、この牛頭馬頭鬼タイプである。
(中略)
 『奇異雑説集』に出る、越後上田(現新潟県上田市)で葬礼を襲った火車もまた、雲に乗って激しい雷雨を起こし、龕のふたをはねのけて中の屍体をうばってゆく妖怪であった。その挿絵に描かれた火車の姿は、虎皮のふんどしをはいて、雷を起こす太鼓を持つ雷神になっている。
 また『茅窓漫録』には、こう書かれている。葬送の時に、にわかに風雨が起こり、棺を吹き飛ばされて屍体を失うことがある。これは地獄の火車が迎えに来たと言って人々は恐れ恥じる(死者の生涯に罪があった証拠)。後にその屍体を引き裂き、山中の木や岩頭などに掛け置くことがあるそうである。
 この屍体ごと魂を地獄へ迎えに来るという性質から、いっぽうで火車は人間の死体の肝を食べるという「魍魎」という別の妖怪と同一視され、屍体を奪って心臓などを食べる化け物というようにも解釈されるようになる。
 また火車の正体は、年を経た猫が化けたもので、猫股(猫又)ともされる。死者の枕元に鎌などの刃物を置くのは、猫股を防ぐためとする俗信もある。群馬県甘楽地方では「テンマル」とも呼ばれる。鹿児島県出水郡では「キモトリ」と呼んで、葬式以後に墓場に出るともいわれる。愛知県知多郡の日間賀島では、「マドウクシャ」と呼んで、死人を取りに来る百歳以上も年を経た猫であるとされる。
 時代が下るにつれて、はじめ地獄の獄卒であった火車は、鬼→雷神→魍魎→猫股→化け猫と、その性質を変えていっている。
 亡者が火車で苦しめられる(赤字で家<火>事の切り回しが大変になる)とこから転じて、家計が非常に苦しくなることを「火の車」という。また江戸時代の遊里である吉原の遣り手(遣り手婆)の異名に、「花車」というものがあるが、語源は火車であるらしい。遣り手婆とは妓楼を取り締り、万事を切り回す女。遣り手が牛車を動かす人の意でもあることからそういわれる。(P150-151)

【参考文献】京極夏彦・多田克己『妖怪図鑑』国書刊行会 2000.6/20
※膨大な資料を用いて、火車の変遷を説いています。尚、文中に出る『奇異雑集』は『奇異雑集』の誤りか。

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『日本と世界の「幽霊・妖怪」がよくわかる本』
火炎に包まれた車輪か、猫か
火車
○死体を奪う火焔車
 葬式のときや、墓場から死体を盗んでいく妖怪が火車である。古来よりその姿は、燃える火の車だというが、江戸時代になると、正体は年を経て化けた猫だともいわれ、火炎に包まれた猫の姿で表わされることもある。
 言い伝えによれば葬式で棺桶を墓場まで運んでいる最中に、いきなり天気が荒れ、棺桶のふたが開くと、それは火車が死体を奪いにきたのだという。
 この火車とは別に、火に包まれた車の妖怪には、片輪車というものもいる。
 その昔、近江国(現在の滋賀県)の村に、毎晩怪しい女がひとり乗る、炎に包まれた片輪だけの車がやってきて徘徊したという。ある家の女房が好奇心にかられて、そっと戸の隙間からのぞいていると、片輪車は「我見るより、我が子を見よ」と言って、女房の子どもをいつのまにか隠してしまった。女房は悔いて詫びると、子どもは返され、それ以来、片輪車は現れなくなったそうである。(P54)

【参考文献】多田克己監修・造事務所編著『日本と世界の「幽霊・妖怪」がよくわかる本』PHP研究所 2007.8/16
※原稿のスペースが余ったからだろうか、後半は別の妖怪の記述に割かれている。

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『江戸諸国百物語』
 葬送の時、往来の人が倒れるほどの大風雨をにわかに起こして死者を奪い去る妖怪で、出雲や薩摩に多く、東国でも時折見られる。これは、死者が生前に悪事を多く働いたため地獄の火車が迎えにきたのだとされた。ただ、万が一火車がきても、葬送を司る僧侶が数珠を空に向かって投げつけると何事も起こらない。…と天保年間の随筆、『茅草漫録』に記されている。
 出雲のある村には、こんな話が残っている。昔、葬送の列が墓地に向かう途中で、急に強い風雨が吹きつけた。この急な嵐の途中で棺桶の担ぎ手は、急に肩が軽くなったように感じたが、気のせいと思いそのまま担いでいった。
 埋葬前、先ほどの一件を思い出した担ぎ手は、周囲に人がいなくなった隙に棺桶の中を覗きこんだが、あるはずの遺体がない。ひょいと上を見ると、墓地の大木の枝に老女の白い着物だけが引っかかっていたという。この他、嵐で棺桶の蓋が飛んで化物が遺体を持ち去ったとも、棺桶ごと飛ばされたとも伝えられる。(P73)

【参考文献】『ものしりシリーズ 諸国怪談集成 江戸諸国百物語 西日本編』人文社 2005.11.1

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『仏教いわくいんねん故事来歴辞典』
 火の車 三界は安きことなく、なお火宅の如し。衆苦充満してはなはだ怖畏すべし。常に生老病死の憂患(うげん)あり、かくの如き火は熾然(しねん)として息(や)まず―法華経。この世を燃えている家にたとえて、火宅、また火の家という。その火宅の中を走りまわるのが火の車。罪ある亡者を乗せて地獄にはこび責め苦しめるのが火車で、転じて貧乏に苦しむさまをいう。江戸川柳にいう「ようように火宅を出でて御慶(ぎょけい)なり」十二月の大晦日(おおみそか)、ようやくに借金取りを逃れ明けると元日。(P408)

【参考文献】著・大久保慈泉『仏教いわくいんねん故事来歴辞典』国書刊行会 H4.4/30

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『日本の妖怪の謎と不思議』
死体をさらう火の車
 出雲地方では、死者を火葬場や葬儀場まで運ぶ野辺の送りの際、激しい風雨により棺のふたが開いてしまうことがあった。人々は、これを「火車が死人を取りにきた」といって恐れたという。
 火車は、猫のかたちをしたもので、死者があると黒雲とともに現れてはその死体をさらっていくといわれており、かつては全国的にその名前を知られていたようだ。
 さらわれた死体は、地獄へ連れていかれるとか、火車が喰ってしまうのだという。江戸では、火車が捨てた溺死者の死体が、武家屋敷の屋根に落ちてきたというおぞましい話もあったようだ。
 また、火車とは仏教用語で、地獄の獄卒が罪人を乗せたり、責め苦を与えるために使う、「火が燃えさかる車」のことも指す。
 そういったところから、火車にさらわれる者は、生前に悪事を働いていた者と考えられるむきがあった。そのため、死者の遺族は、死体を火車にさらわれないように偽の棺を用意して、葬式を二度行なうということもあったようである。

火車の正体は何者か?
 火車の正体はいったいなんだろうか。一説によると、それは年経た猫が化けたものだという。猫は死体に悪さをするため近づけてはいけない、という俗信は数多い。たとえば、猫が死体をまたぐとその死体がいきなり踊りだす、その者が後で化けて出る、などという話を聞いたことがないだろうか。死体と猫には浅からぬ関係がありそうである。
 また、火車に死体をとられるのは「魍魎」という獣のせいだという話もある。魍魎は「罔両」「方良」とも呼ばれ、亡者の肝を好んで喰うという。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では、「形三歳の小児の如し、色は赤黒し。目赤く、耳長く、髪うるはし」とその見た目について解説がされている。
 いずれにしろ、死してなお妖怪の障りを恐れなければならないとは、なんとも落ち着かない話である。(P86)

【参考文献】『ヴィジュアル版謎シリーズ 日本の妖怪の謎と不思議』学研 2007.5.9

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『日本妖怪大事典』
火車[かしゃ] ほぼ全国に分布する妖怪。葬式の式場や葬列、あるいは墓場で死体を奪うというもの。岩手県遠野、長野県南佐久郡ではキャシャ、福島県南会津、静岡県、愛媛県大三島、徳島県ではクワシャ、群馬県甘楽郡ではテンマル、愛知県知多郡日間賀島ではマドウクシャ、鹿児島県出水郡では肝取りなどとよばれている。
 その正体は猫とする地方が多く、猫が歳を経ると火車になるともいわれた。
 古くから猫は魔性のものと考えられていて、「死人には絶対に猫を近づけてはいけない」とか、「猫が棺桶を飛び越えると死人が起き上がる」など、猫と死体に関する俗信が全国的に伝わっている。
 猫と葬式に関する怪談も多く語られ、火車とはいわなくとも、暗雲を垂らして葬式を襲い、死体を奪う恐ろしい怪物として登場する。
 火車の名前は、地獄からの迎えである火の車よりきているようである。火の車については『宇治拾遺物語』などに見え、獄卒が燃えさかる火の車を引いて、罪人の死体、あるいは生きた人間を奪っていくものとされていた。死体を奪う火の車と、死体と猫との俗信が入り交じり、さらには中国由来の魍魎の観念が結びつき、火車という妖怪が生まれたようだ。
『綜合日本民族語彙』民俗学研究所編 『神話伝説辞典』朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健編 『日本俗信辞典』鈴木棠三

火の車[ひのくるま] 『奇異雑談集』『新著聞集』『譚海』『因果物語』『今昔物語集』といった説話集や怪談集に見られる怪異。
 生前の行いがよくない者が死ぬとき、牛頭、馬頭といった地獄の獄卒が、猛火に包まれた火の車を牽いて迎えに来るというもの。場合によっては、生きながらにして迎えがやって来ることもある。
『因果物語』には、ある庄屋の強欲な妻が火の車(火車という表記になっている)に取られた話がある。
 河内国八尾に弓削(大阪府八尾市弓削町)という土地があり、ある夜、八尾の庄屋が平野街道の弓削を通ったとき、向こうから松明を灯してやって来るものがあった。
 飛ぶような速さで近づくのを見れば、松明と見えたのは大きな光で、その中に八尺(約2.4m)ばかりの大男が2人で若い女の両手を持って引きたてていた。
 その女は弓削の庄屋の女房だった。八尾の庄屋はただ恐ろしくて見送り、夜が明けてから弓削の庄屋の様子を聞きに使いを出した。
 すると、弓削の庄屋の女房は4、5日間は病気で寝込んでいるということだった。
 この女房は心だてがよくなく、けちな性格で、人につらくあたり、下働きの者に食べさせる食事も満足に与えていなかった。
 それから3日後にかの女房は死んだが、生きながら地獄に堕ちたのだということである。
 他の怪談本では火に包まれた車と獄卒が描かれる場合が多いが、『因果物語』には刀を差した2人の武士のような姿が描かれている。
 火の車は、後に、死体を奪う猫の怪異と混同されるようになり、近代では、火車といえば猫の妖怪を指すようである。
(参)火車
『江戸怪談集(下)』高田衛編/校注 『続妖異博物館』柴田宵曲 『江戸文学俗信辞典』石川一郎編

【参考文献】
画・水木しげる、編著・村上健司『日本妖怪大事典』角川書店 2005.7.20

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雑誌「怪」vol.0024
「妖怪と化した猫たち」
水木しげる・画、村上健司・文
火車(かしゃ)
 死体を奪う妖怪で、その伝承は日本各地に広く分布している。野辺送りをしているとき、急に黒雲が現れて暴風雨となり、突風とともに死体を奪っていくというのが一般的だが、墓場から亡骸を奪うという言い伝えもある。
 その正体を猫とする地方が多く、岡山県阿哲郡(現・新見市)などでは、猫が年を経ると火車になるともいわれた。火車とよばれなくても、各地に伝わる猫と葬式に関する伝説では、暗雲を垂らして葬式を襲い、死体を奪う恐ろしい怪物として猫が登場している。
 しかし、そもそも火車というのは読んで字のごとく、火の車よりきているようである。火の車とは地獄からの迎えのことで、獄卒が炎に包まれた車を引いて、罪人の死体、あるいは生きた人間を地獄へと連れて行くのである。
 死体を奪うという火の車と、死体と猫との俗信が入り交じり、さらに中国由来の魍魎の観念が結びついて、火車という妖怪が生まれたようだ。(P93)

【参考文献】
雑誌「怪」vol.0024 角川書店 2008年2月22日

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『新妖怪草子 百鬼繚乱』
火の車(ひのくるま)
「火の車」とは仏教用語の「火車」を訓読みした語。火車とは字のごとく燃え盛る炎の車であり、地獄の獄卒が亡者を乗せて運んだり、あるいは責め具として使われる。亡者が火車によって責めさいなまれるところから、転じて家計が苦しい状態や経済状態が困窮している状態に対して用いる語となった。
 どの家庭の家計も今は火の車であろう。この車に乗ってしまうと容易に降りることができない。ひたすら根気強く浪費をせず辛抱するしかなかろう。
 さて、日本各地には「火車」という妖怪が伝わる。獄卒が亡者を乗せて地獄へ運ぶという思想から、葬式や墓場から死体を奪うといわれる。多くの場合その正体は猫とされる。(P171)
東雲騎人「火の車」

【参考文献】
著:多田克己・東雲騎人『新妖怪草子 百鬼繚乱』PHP研究所 2002.7.29

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『日本化け物史講座』
火の車――火車、片輪車の原型
 一四七九年(文明一一)に、芝増上寺の音誉上人が、生きながら火の車に乗ってこの世を去ったという伝承があります。
 そもそもこの火の車というのは、地獄に死者を連れていく車のことです。人が死んだ時、仏様が迎えに来たのであれば、七つの色に輝くような雲がやってきて仏様の姿が見えると当時は信じられていました。ところが音誉上人は人々に尊敬された高僧だったけれども地獄に引きずられていってしまったという、ちょっと意外かつネガティブな話なんです。雲に乗れば極楽に行ける、火の車に引きずられていけば地獄に落ちるという風に、死後の世界が非常に即物的なイメージで語られていた時代らしい話です。
 このエピソードを取り上げたのは、後世にこのエピソードから派生したような化け物がいくつか現れるからです。その一つが火車で、これはたとえば江戸中期の妖怪絵師・鳥山石燕の絵だと、猫のような姿の獣としてイメージされています。猫になぞらえられた理由は、おそらく猫は体臭の変化に敏感で、死期が近い人の様子を見にきたりするからでしょうね。二〇〇七年のニュースでも、アメリカの病院にいる猫が死期の近い患者の病室によく現れて、あたかもなぐさめるように寄り添うという記事がありました。このニュースは心温まる話として取り上げられていましたが、猫を気味悪く思っている人がそんなところに出くわせば、「こいつ、人が死ぬのをまっているんじゃないか」と解釈しかねない。おそらくそんなわけで、しばしば猫は、あの世の使いとイメージが重なるようになるのでしょう。
 また他にも「地獄に人を引きずっていく火の車」のイメージを持つ化け物として、片輪車とか輪入道とか呼ばれるものがいます。これらも、音誉上人がそれに乗ってこの世を去ったとされている火車から派生したと思われる化け物です。(P109-110)

【参考文献】
原田実『日本化け物史講座』楽工社 2008.2/21

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『鬼の大事典』
かしゃ[火車] 仏語では生前に悪事を働いた罪人を乗せて、地獄に運ぶという火が燃えている車のこと。なかにいる者は、すでにして地獄の苦しみを味わう。これより生計のやりくりに苦しむさまを「火の車」と称した。また火車という妖怪がいたとも伝えられる。この妖怪は葬送の時になると、にわかに大風雨を起こし、棺の中の死体を奪い去るといわれた。この妖怪を火車婆(かしゃんば)ともいう。それより悪心ある老婆を火車婆と称した。山口地方では気むずかしい老女を「がしゃばあ」という。(P431)

【参考文献】
沢文生『鬼の大事典 妖怪・王権・性の解読(上)あ〜き』彩流社 2001

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『とうほく妖怪図鑑』
カシャ猫の木彫(福島県三島町)
カシャ猫
 山形市長谷山観音堂には「カシャ猫」という化け猫の尻尾が寺宝として保管されていると言われている。伝承によると、昔この付近に権佐ェ門という裕福な男が住んでいたという。ある日の事、権佐ェ門が亡くなってしまった。その葬儀の途中、突如化け猫が現れ、死体を奪おうとした。しかし清源寺の和尚の恫喝により化け猫は逃げ去ったと言われている。ちなみにこの時、現場に残されていたものが「カシャ猫の尻尾」であるらしい。それ以来毎年正月に公開され、その毛は魔除けとして珍重されたといわれている。
 この伝承の類話は『遠野物語拾遺』にも記載されている。
「綾織村から宮守村に超える路に小峠という処がある。その傍の笠の通という山にキャシャというものがいて、死人を掘り起こしては、どこかへ運んで行って喰う。」
 この「キャシャ」あるいは「火車」などはいずれも同型の妖怪であり、死体を奪うのが特徴である。
(引用頁忘失)

【参考文献】
山口敏太郎『とうほく妖怪図鑑』無明舎出版 2003.7.30

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民俗小事典 死と葬送
火車
 地獄から現われ、異体を奪っていくと考えられた魔物。火を発する車のためこの名があり、生前悪業をなした人が連れて行かれるともいう。猫が遺体を飛び越えると死者が火車に襲われるという伝承や、火車に奪われそうになった時、高僧が袈裟や数珠を投げたため奪われなかったという伝承などもある。群馬県北勢多郡赤城根村のように火車に遺体を奪われないように、天に向かって矢を射るという地域や、かつて火車に死体を奪われたという伝承のため、葬式前に遺体を埋葬してから式を行うカラダメ(空荼毘)という方式の葬儀を行なっていた千葉県下の地域もある。
[参考文献]井之口章次『日本の葬式』(「筑摩叢書」二四〇、一九七七)、最上孝敬『霊魂の行方』、一九八四
(山田 慎也)(P57)

【参考文献】
編者:新谷尚紀・関沢まゆみ『民俗小事典 死と葬送』吉川弘文館 2005.12.20

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『怪 vol.25』妖怪四十七士を考える 妖怪五人馬鹿ばなし
村上 難しいのは、火車とかですね。
京極 特定地域のイメージはないもんねえ。
及川 火車って、文献によっては、牛車のように描かれてますよね?
京極 死体を乗せる火の車というだけしか決まりはないから、車種は何でもいいんです。石燕は火の車に乗せるために死体をさらったところを描いてるのね。この後、車に乗せるんです。
村上 乗せる車が描かれてないんです。
京極 車はたぶん、駐車場に停めてある。火の車パーキング(笑)。
及川 これ、猫なんですか?
京極 猫が牽くという言い伝えもあるのよ。魍魎も牽くけど。
村上 元は、その火の車が罪人を生きたまま地獄へ連行する話ですよ。
及川 火の車が、火車の本体?
京極 どっちが本体ってことはないからなあ。車の部分はアタッチメントなんだよ。
村上 (笑)。いいのかなぁ。
京極 だってこれ、車とセットで火車でしょ。車なしの単体だと、化け猫みたいなものだから。車は強化パーツみたいなものなんだ。遠くから見た場合は火の車しか見えないから、車だけという地域もあるという。
及川 火車は全国的ではないですよね。
梅沢 わりと西が多いかな。
京極 火車って和漢書籍を問わずたくさん記述があるでしょ。地獄から悪人を連れにくるものという説話自体は地域限定ではないです。ただ、そこに出た! とか、捕まえた! とか、言い伝えが残っている場合は、そこの地域の妖怪になるのかなあ。
村上 情報が広がっちゃうんですね。江戸にいったん情報が集まって、それがまたバラまかれていく。
(P81-82)

※この対談の出席者は、京極夏彦、村上健司、郡司聡、及川史朗、梅沢一孔。

【参考文献】
『怪 vol.25』角川書店 2008年8月7日

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『知っておきたい 世界の幽霊・妖怪・都市伝説』
死体を奪う猫の妖怪
火車(かしゃ)

 全国に生息し、葬式の式場や墓場で死体を奪う妖怪である。『宇治拾遺物語』では、地獄の牢獄をとり締まる下級鬼が火の車を引いて、罪人の死体や生きた人間を奪っていくとされた。昔の人は、家族の遺体を火車に奪われることを一族の恥だと感じていた。
 また、猫が年月を経ると火車になるとも考えられていた。それは、「猫が棺桶を飛び越えると死人が出る」など、猫と死体にまつわる迷信が伝えられ、魔性のものと位置づけられていたのに関係あるのだろう。
 火車は、死体を奪う火の車、死体と猫の迷信が入り混じって生まれたのではないかといわれている。(P57)

【参考文献】
一柳廣孝監修『知っておきたい 世界の幽霊・妖怪・都市伝説』西東社 2008.8.25

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『百鬼解読 妖怪の正体とは?』
火車(かしゃ)
『菩薩本行経』上(大)三巻によれば、「火車」は罪人である亡者を乗せて地獄に運ぶ、あるいは罪人を責めるのに用いる、猛火の燃えているという車。その火車を地獄の獄卒(地獄で亡者を苛責するという鬼)が引くことから、地獄へ亡者を連行する鬼をも火車と呼ぶようになった。苛責(むごく責め苦しめる)と火車の音が通ずることから「火車地獄」ともいう。
 悪業ある者を死ぬ前に迎えに来るという獄卒は、本来、牛の頭と馬の頭をした牛頭鬼と馬頭鬼であったが、後には火車といえば虎のような容貌の鬼とされた。日本では鬼がこの世に出現するときは、東北方位である「鬼門」から侵入すると信じられた。北を子とし南を午とするのは方位を十二支で表わしたもので、その場合、東北にあたる「鬼門」は丑寅の間で表現される。そこから鬼の姿は、牛の角、虎のような裂けた口、牙、口ひげをもち、そして虎皮のパンツをはく様に描かれることになった。火車の鬼の姿は、とくに虎のイメージが強調されるようになる。
 亡者が火車で苦しめられることから、転じて家計が非常に苦しいこと、生計のやりくりに苦しいことを「火の車」という。それについては、また一説があり、臨終のまぎわに訪れた火車に対し、音誉聖観(一四一四〜七九)が、「まて暫しなし(少しの間もなく)」と言った故事に由来するともいう。音誉聖観(音誉上人)とは、現在の東京都港区芝公園にある、大本山増上寺(徳川将軍家の菩提寺でもある)の住職三世であった。
 文明十一年(一四七九)七月二日、増上寺では御盆会に先立って施餓鬼会が行われ、本堂には多くの人々が集まっていた。このとき音誉上人は「獄火来現」という題で説法され、「いかなる者にも臨終のまぎわには、必ず幽鬼が『火の車』を引いて迎えに来る。これはことわることができぬから、極楽往生を願う者は、生前のうちに善行を積み正しい信仰念仏を申すがよい」と語った。
 しかしその説法を聞いた大衆は、「火車来現」などというものを、頭から疑って信じることができなかった。するといきなり上人は、「今や私の寿命はつきようとしている。もう皆さんとお別れしなければならない」と、驚くべきことを告げ、静かにあいさつをして、いつもと少しも変らない様子で、偈文(仏徳の真理を詩の形にした文)を誦し、辞世の和歌として「火宅をば、はやもえ出ん、小車の、乗り得て見れば、我あらばこそ」と詠んだ。
 詠み終えた上人が手にした中啓(扇の一種)を上げ、空に向かって指しまねくと、たちまちたなびく黒煙とともに、三匹の幽鬼に引かれた火の車(火車)が出現し、こちらをめがけてやって来た。人々が驚きどよめく中、上人は合掌して人々に別れを告げ、静かに火の車に乗ると、いずこともなく去って行ったのである。
 この不思議なできごとを一部始終見ていた人々の中には、「音誉上人を迎えにきた乗りものは、仏様が座る宝蓮台のようなものだった。訪れた使者たちは天童(仏法を守護する少年の姿をした護法、もしくは鬼神)のようであった。音誉上人は五彩の雲にまかれ、微妙なる音楽が鳴るうちに、西方をめざして去っていった」と証言する者も少くなかったという。この伝説は『新著聞集』などにも書かれている。
 はじめ、臨終のきわにその者の魂をあの世へ運ぶ護送車とされたが、後に死ぬ間際にある人を運ぶとされ、また罪ある人を生きたまま地獄へ連行して行くとし、さらに死者の屍(死体)を運ぶとされて、転じて棺をあばきその中の死体を盗むといわれるようになった。
茅窓漫録』に、「葬送の時、にはかに風雨おこりて、棺を吹き飛ばす事あるをくわしや(火車)と云ふ。妖ありて屍を取らむとするにて、即ち地獄の火車の迎へに来りしなりとて、大いに恐れ恥づることなりと云ふ」とある。
 仏教説話としてあった「火車」は、死者が生前に悪事を多くした罪により、火車という妖怪にその死体を捕えられる(盗まれる)という民間伝承となり、さらに火車とは「魍魎」という妖獣で、人の死体がほしくて葬列の時を狙って、とつぜんの嵐を起こし、棺桶を吹き飛ばして中の死体を盗むといわれるようになる。そして鹿児島県出水郡などでは「キモトリ」などと呼ばれて、墓地に現われて墓をあばき、死者の肝(内臓)を食うという話にまで変質するに至った。  これは「火車」が「魍魎」という別種の妖怪と同一視された結果で、「地獄へ護送するために迎えに来た使者」という意味が忘れさられ、かわって「死体を盗む」という意味が強調され、その理由として「死体の肝を食べるために」と考えられるようになったからである。また火車の姿は、(1)地獄の使者である牛頭鬼と馬頭鬼→(2)牛の角をもち、虎皮のパンツをはいた地獄の鬼→(3)牛の角をはやし虎のような貌の鬼→(4)人食い虎のような妖獣→(5)人ほどもある化け猫→(6)魍魎という妖獣(猫のように長い耳をもつ、人面のような顔の獣)と変遷していった。鳥山石燕が『画図百鬼夜行』に描いた「火車」は、ちょうど(5)の、人ほどもある化け猫という姿のタイプで、この時代には石燕の絵からもうかがえるように、猛火の燃えている地獄への護送車などというものは引いていない。そのため江戸時代後期以後ともなると、「火車」と漢字で書かれることもなくなり、単に「カシャ」、もしくはなまって「クワシャ」などと呼ばれるようにもなった。
 火車が鬼から虎のような妖獣に変化したいきさつの一因に、桃山時代の豊臣秀吉による朝鮮への派兵があるのではないかと思われる。霊怪である鬼に、人を食う虎というリアリティが加わったのかもしれない。ちょうどその頃に前後して、中国より日本へはじめて家猫が輸入され、それ以降より化け猫の伝承が日本各地に発生している。日本には山猫は今も昔も生息しないが、猫の輸入と時を同じくして、山猫の怪が人を襲って食い殺すという話が各地で言われるようになる。「火車」もまた「化け猫」、「山猫の怪」の亜種として、考えられるようになったのである。肉食動物である猫は、人の死臭にさそわれてそのそばに近よってくる性質があるため忌みきらわれ、人の魂を盗むとか、人の死体に憑いて動かす、妖をなすなどの俗信が生まれた。
 死臭にさそわれる猫の性質から、火車は墓をあばき、死体の肝を食べるという魍魎と同一視され、ひいては火車といえば化け猫の怪であり、魍魎でもあるということになった。またそれと同じ頃、魍魎は河童と同一視されており、河童もまた人の肝を抜き食べる妖怪だとされている。河童の姿は水虎などをモデルとし、川獺や山猫などと同一視されている。対馬では「川虎」と呼ばれるが、その性質は日本で唯一の山猫である対馬山猫に擬せられたふしがある。山猫の類は水辺で魚を捕る習性があり、虎もまた水辺に棲む習性があった。ところが日本の本土では山猫は存在しないため、その代用として川獺に擬せられたようだ。山猫も川獺も人間のように立体視できる構造の頭蓋骨をしているために、見た者によっては人面と見まちがえることもあったかもしれない。また山猫も川獺も、その鳴き声が赤ん坊の泣き声のようにも聞こえる。河童や魍魎の姿は、ちょうど三歳ぐらいの人の子のようなもの、とされる伝承からも、じゅうぶんに同一視される下地はあった。
 和歌山県では河童(甲羅法師もしくは川太郎ともいう)が秋に、川下から川上に行ったものをカシャン坊(山童の一種)という。和歌山県のある地方では「火車坊」ということから、その名の起源は「火車」であったと推察される。いずれにせよおとなしそうに見える河童が、人を溺れさせて死なせ、その肝を取るという伝承は、火車の性質を帯びているからだと思われる。
 こうして、鬼=地獄の獄卒=火車=化け猫=魍魎=河童=川獺=山猫という図式が成り立つことになる。ちなみに中国では山猫を総称して「狸(リイ)」と呼び、そして狐と狸は陰陽の関係にあってもともと両性具有の一つの霊獣であったとする伝説があることから、さらに、山猫=狸=狐という図式さえできてしまう。妖怪とはそれぞれ個別化されている存在ではなく、ある統一された共通項をもつ存在だということがうかがえる。(P41-45)
火車(京極夏彦版)
イラスト:京極夏彦(P46)

【参考文献】
多田克己『百鬼解読 妖怪の正体とは?』講談社 1999.11/10

※引用文中に「日本で唯一の山猫である対馬山猫」とありますが、西表島にはイリオモテヤマネコがいます。この部分を執筆したのは、イリオモテヤマネコが「発見」される前だったのでしょうか。

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