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火車の資料(近世)


雑誌「怪」vol.0024
「ぬりかべが描かれた謎の妖怪絵巻」より
火車(P14)
 湯本さん所蔵の絵巻の作者は八戸南部藩のお抱え絵師・狩野洞林由信。享和二年(一八〇二年)頃に室町期の『百鬼夜行絵巻』を参考に制作されたものだ。(P12)

【参考文献】
雑誌「怪」vol.0024 角川書店 2008年2月22日

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「半日閑話」大田南畝
○屋根に溺死人落つ  浅草堀田原堀筑後守屋敷に怪異の事あり。庚申四月七日の昼の事成りしが、屋根の上に物を投し音あり。あやしみて見せしむれば、日を経たる溺死人にて、臭気甚し、漸々に取て寺に葬しとなん。屋敷にても至て秘して人に語られずといふ。火車と云ものゝ取てすてしにや、支体糜爛して分知難しと云う。〔割注〕四月廿二日府中にて小嶋に聞けり。奥方の居間の屋根なりとも云。(P263)

【参考文献】日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成<第一期>8』吉川弘文館 S50.7.25
※『半日閑話』は明和五年から文政五年に至るまでの大田南畝の見聞手録。

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「北越雪譜」鈴木牧之
○北高和尚
 魚沼郡雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺村松にあり村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚は、霜台君の謙信の事親籍にて、高徳の聞えは、今も口碑にのこれり。景勝君もこの寺に物学びたまひしとぞ。一国の大寺なれば古文書・宝物等も多し。その中に火車落しの袈裟といふあり。香染めの麻と身ゆるに血の痕のこれり。これを火車落しとて宝物とする由来は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備の尊者にておはせり。その頃この寺にちかき三郎丸村の農家に死亡のものありしに、時しも冬の雪ふりつづき、吹雪もやまざりければ、三、四日は晴をまちて葬式をのばしけるに晴れざりければ、強いていとなみをなし、旦那寺なれば北高和尚をむかへて棺をいだし、親族はさらなり、人々蓑笠に雪をしのぎて送りゆく。その雪途もやや半ばにいたりし時猛風俄かにおこり、黒雲空に布き満ちて闇夜のごとく、いづくともなく火の玉飛び来り棺の上に覆ひかかりし。火の中に尾はふたまたなる稀有の大猫牙をならし、鼻をふき、棺を目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨て、こけつまろびつ逃げまどう。北高和尚はすこしも惧るるいろなく口に呪文を唱へ大声一喝し、鉄如意を挙げて、飛びつく大猫の頭をうちたまひしに、かしらや破れけん、血ほどはしりて衣をけがし、妖怪は立地(たちどころ)に逃げ去りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。この時めしたるを火車おとしの法衣(ころも)とて今につたふ。(P98〜99)
注:『北越雪譜』は鈴木牧之という者が、天保年間(1830〜1840)に著した物である。ちなみに、天正年間は1573〜1592。

【参考文献】監修・宮榮二『図説 北越雪譜事典 別冊資料編』角川書店 S57.2.26
「北高禅師勇気図」
北高禅師勇気図
監修・宮榮二『図説 北越雪譜事典 別冊資料編』角川書店 S57.2.26 より

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「茅窓漫録」茅原虚斎
   ○火車
西国雲州(注:出雲)薩州(注:薩摩)の辺、又は東国にも間々ある事にて、葬送のとき、俄に大風ありて、往来人を吹倒す程の烈しき時、葬棺を吹上吹飛す事あり。其時、守護の僧数珠を投かくれば異事なし、若左なきときは、葬棺を吹飛し、其屍を失ふ事あり、是を火車(クハシャ)に捉れたるとて、大に恐れ恥る事なり。愚俗の言伝に、其人生涯に悪事を多くせし罪により、地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後に其屍を引裂き、山中の樹枝、又は岩頭などに掛置く事あり、火車と名付るは、仏者よりいひ出したる事にて、法事讃に、無量刀林当上而下。火車炉炭十八苦事。一時来迎。(無量の刀林まさに上るべくして下り。火車炉炭十八の苦事。一時に来り迎ふ。)といひ。因果経に、今身作後母。諛尅前母児者。死墜火車地獄中(今身後母と作て。前母の児を諛尅する者。死して火車地獄の中に墜つ)など、愚俗を驚畏せしむるなり。慈鎮の拾玉集に、
   火の車今日は我門やりすぎてあはれいづ地に巡り行らむ
其火車に捉れたるといふは、和漢とも多くある事にて、是は魍魎(モウリョウ)といふ獣の所為なり。罔両とも方良とも書く。酉陽雑俎に、周礼方相氏殴罔象。好食亡者肝。而畏虎与栢。墓上樹栢。路口致石虎為此也(周礼に方相氏罔象を殴る。好て亡者の肝を食ふ。而して虎と栢とを畏る。墓上に栢を樹え。路の口に石虎を致すは此が為なり)とあり。此獣葬送の時、間々出て災をなす。故に漢土にては聖人の時より、方相氏といふものありて熊皮をかぶり、目四ツある形に作り、大喪の時は、柩に先立て墓所に至り、壙に入て戈を以て、四隅をうち、此獣を殴事あり。是を険道神といふ。事物紀原に見えたり。此邦にても、親王一品は方相轜車を導く事、喪葬令に見ゆ。今俗葬送に竜頭を先に立るも、其遺意なり。時珍の綱目に、述異記を引て、秦の時陳倉の人、猟して此獣を得たり。形は若若羊(テイのごとく羊のごとし)とあり。古より、愚俗の誤て火車と名付るゆゑ、地獄の火車と思ふ笑ふべし。〔割注〕淮南子に載たる罔両は、大和本草に、俗いふ河太郎といふ獣なりと。是は本草綱目渓鬼虫附録に出たる水虎にて、通雅に、水唐、水蘆の名あり、形猴のごとく、円く鼻長く赤毛を戴く、項に皿あり。全体亀の種類にて、水に居て、人を捕り食ふ者なり。(P352〜353)
注:「茅窓漫録」には、文政二年(西暦1819年)の自序がある。又、魍魎との混同が甚だしい。
注:(テイ):『山海経』によると、「獣がいる、その状は虎の如くで牛の尾、その声は犬がほえるよう、その名は(テイ)、これは人を食(くら)う。」(南山経)

【参考文献】日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成<第一期>22』吉川弘文館 S51.5.31
「茅窓漫録」の火車上記の参考文献に
収録されていた、
火車のイラスト。
テイ『山海経広注』付図(康煕六年刊)
京都大学人文科学研究所蔵

ここではテイと訓んだが、
ある本には「イノコ」と表記している。

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「新著聞集」神谷養勇軒
   ○音誉上人自乗火車(音誉上人自ら火車に乗る)
増上寺第三世、音誉上人は智道兼備の高僧にて、世挙て崇敬しける。ある時、大衆をあつめ告げて曰、我今日遷化するなり。疑事あらば、皆速に出て決を取るべしと、則ち法問を宣たまひ、已に時至れりとて、看々天地清濁の色、五境界浄利の台、三悪火杭阿鼻の底、一機不転古今の事といへる頌を書して、筆をなげすて、山門に出たまえるを、大衆、不審におもひて見送りけるに、火車の炎の熾然たるが、雲の中よりおち来る。上人、手にもてる団扇にて招きよせ、そのまゝのり移り、又大衆に向て、火宅には又も出まじ小車ののり得てみれば我あらばこそ。と吟詠して、西方へ飛去たまふと也。(P289)

   ○火車の来るを見て腰脚爛れ壊る
武州(武蔵国の事)騎西のあたり近き妙願寺村に、酒や安兵衛といふ者あり。ある時、不図、大道へ飛出、やれ火車が来るはと、高声に呼て倒れし。家内、周章て出みれば、正体なく、物をも得いはで、それより煩つき、腰より下腐れたゞれ、十日計して死けり。二三軒となりの者は、炎の燃上るを見て、安兵衛方に、火事ありけるやと来りしに、しかじかの事を見て、身の毛を立てゝ、舌をふるひけるとなり。(P355)

   ○葬所に雲中の鬼の手を斬とる
松平五左衛門殿従弟の葬礼に、雷電四方に閃き、龕の上に、黒雲かゝりしを、五左衛門殿、龕に手を掛うかゞひみたまふに、熊の手のごとく成もの、雲の中より指出す処を、抜うちにしたまへば、手答へして雲はれぬ。跡を見れば、血おびたゞしく流れたり。其中に、怖ろしき爪三つ付、その本に、銀の針をすりならべたる様の、毛生ひたる物切おとしたり。それよりこの刀を、火車切と名づけ所持ありしを、諏訪図書を聟にとりて、其引出物にせられしを、諏訪若狭守殿、強ちに所望、黙止がたくて、つかはしけるとぞ。(P357)

   ○死骸雲に入り両足をたれ出す
寛文七年閏二月六日、俄かに雹ふり、雷さはがしき折ふし、江戸牛込の者死て、高田の狢霍の焼場に送りしに、黒雲一むらまひ下り、龕の上にかゝると思へば、死骸を其中に提げ入たり。両の足、雲の中より、ぶらぶらとさがりしを、諸人見侍りし。(P358)

   ○面火車を見る
一雪、親の下女に、西京の者ありしが、夫が伯父、永々死すべき七日前より、青き赤き鬼形の者来る。ハやれ怖ろしやなど云て、泣叫ぶ事昼夜やむ事なし。七日にあたる日、あなくるしや。其火車に乗れとや。アラかなしや。免したまへと、手を合せ、足ずりをせしが、兎角まいらでは叶まじきとや、是非もなき事かなとて、久しく腰の立ざりしが、不図、立て走り出、門口の敷居に、つまづき倒れて死にたりし。(P361)

   ○慳貪老婆火車つかみ去る
大村因幡守殿、備前の浦辺を船にて通りたまふに、むかふの方より、黒雲一むら立来り、其中にて、嗚呼かなしやと、呼こゑのしけるを、恠しくおもひみる程に、船のうへ間ちかく来る雲の中より、足のさがりしを、近従の者飛つきて引おろし、是をみれば、姥の死たるなり。不審におもふ処に、浦里に、人をほく立さはぎしかば、足軽二人、船より出だし、其故をたづねさせたまふに、所にては、歴々の者なりし材木屋が母、つねづね、慳貪放逸の者なり。只今がた、便に行とて外へ出し処を、黒雲たち来り、連行しといふを、頓てそれが子なりしものを誘ひ、船につれ来りて見せしに、是こそ、某が母にて候とて、泣々死骸をもらひて帰れり。寛文十年の事なり。世に火車といへる者の、悪人を掴とるといふ事のありしが、これも、それが所為なるべしと、人々、舌をふるひし。(P399)
注:『新著聞集』は寛延二年(西暦1749年)の作である。寛文十年は西暦1671年。尚、「○死骸雲に入り両足をたれ出す」は火車の仕業だとは書いていないが、火車の仕業だと思われるので紹介しておく。

【参考文献】日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成<第二期>5』吉川弘文館 S49.1.25

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『日本永代蔵』巻四ノ四「茶の十徳も一度に皆」
 小橋の利助は茶の商いで成功するが、更に欲に駆られて、お茶の葉に茶殻を混ぜて売り、暴利をむさぼるようになる。しかし、天罰が下ったのか、利助は発狂し、遂には死んでしまう。ところが、死んだはずの利助は動き出して自分が稼いだ金にしがみつく。死体が動くさまを見た人々は、生きた心地がしなかった。

 其まゝ乗物にをし込、野墓に送りける折ふし、春の日の長閑なるに、俄に黒雲立まよひ、車軸平地に川を流し、風枯木の枝折て、天火ひかり落て利助かなきからを、煙になさぬ先に取てや行けん、明乗物ばかり残りて、眼前に火宅のくるしみ。をのをのにげ帰りて、皆菩提心にぞ成にける。(P147〜150)

※これは火車とは書かれていないが、これは明らかに火車の仕業であると思い、ここに記した。なお、『日本永代蔵』は、貞享五年(西暦1688年)正月刊行。

【参考文献】井原西鶴『日本永代蔵』桜楓社 H7.4/5

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井原西鶴『本朝桜陰比事』巻一ノ二「曇は晴る陰法師」
むかし都の町に夏を棟として、軒に木曾山を引請し裁木の問屋有。二葉より家業にかしこく松はちとせ蔵とて、鳥の孫曾孫まで居喰にしても此たくはひつくる世もあらじ。亭主は八十歳余まて一子に財寶もわたさず。大暮の勘定をよろこび、かしらは霜を抓り額に不断の浪立腰は反橋のごとく、わたりかねざる世界をさりとは無用の勤め。今にも死れたらば火車のつかみ物と、人の取沙汰やうやう耳に入てお八つの太鼓におどろき、俄の御堂まいりの暮て後世をいそかるゝと人皆又笑ひけるが、あしき事にあらねばいつとなく佛心発りて其後は常精進になつて以前に替る事天地也。(以下略)

【参考文献】編・潁原退蔵、暉峻康隆、野間光辰『定本西鶴全集第五巻』中央公論社 S48.2.24
※『本朝桜陰比事』は元禄二年(西暦1689年)正月刊行。ここでは火車は直接出てこないが、当時の人たちの火車の認識が窺える。

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井原西鶴『西鶴名残の友』巻一の四「鬼の妙薬爰に有」
「鬼の妙薬爰に有」 道中あふぎの朝風、水無月のはじめ、江戸伝馬町より乗掛仕立て、斉藤徳元といふ人、都にのぼる夏旅、汗水の流るゝ玉川をおもふに、瀑布の袖の色、富士の雪かと心の涼しさ、三保の松陰に夕虹、今も天人の帯なるかと詠め、まだうつの山蔦も青葉にて、秋よりさきに見るもおもしろし。
 日をかさねてけふ逢坂の関とまり、京のちかきを嬉しく、夜をこめて鶏の鳴時、焼や出立をいそがせ、まだ人顔見えぬに、大津馬を引たりや六蔵、旅人の眠り覚しのこうたひとつは、酒機嫌ぞとおかし。
 やうやう粟田口、蹴揚の水になれば、諸々の鬼ども、火の車を引捨、清水を手してすくひ呑、胸の燃るをたがひにあらそひ、後は鉄棒を枕として、「やれやれくるしや」と、虎の皮の腰当をなやまし、「もはや命がせまるなり。むかしより世の人たとへ置しごとく、鬼が死で行所がない」と、おそろしき目より泪を流し、あの世此世のさかい、角のうなだれて、此面影、見るも哀れなり。
 中にも物になれたる鬼らしく、かしらすこしはげて、ぢごくの虎落分別ありそふなる顔つきなりしが、徳元の薬箱持に気を付、お馬の前にかしこまり、「御覧なさるゝ通り、我々は、ざいにんをさいなみまする役人どもにて、此度大悪人の人ごろし目を、御せいばいなされましたを見かけ、いづれも火車をはやめ、粟田口までむかひにまいり、心見に死骸一口づゝたべ申候に、思ひなる御事、塩八付とぞんじもよらず、皆々たべすごして、咽をかはかし、此水を呑しに、しよくしやういたしての難義。ぢごくには近付のおいしやも御座れど、旅の事なれば、お情に御養生たのみたてまつる」といふ。
 徳元かんがへ、「是はつねのごとくのりやうぢにては行まじ」と、塩八付をも喰付たる、此あたりの烏をとらせ、是をせんじて呑せけるに、あぶなき命をたすかり、車を飛せ鉄火をふらせ、「さらばさらば」と声をかけ、「あの世へ御越なされた時、お礼はあれにて」と申ける。

【参考文献】校注:谷脇理史、冨士昭雄、井上敏幸『新日本古典文学大系77 武道伝来記 西鶴置土産 万の文反古 西鶴名残の友』岩波書店 1989.4.20
※巻末の「解説」によると、「『西鶴名残の友』大本五巻四冊は、西鶴没後六年の元禄十二年(一六九九)四月、西鶴庵を継いだ北条団水の手によって出版された第五番目の遺稿集である。」(P621)

<現代語訳>
 朝から扇を使わねばならないほど暑い六月始め、斉藤徳元という人(※俳諧師)が江戸伝馬町から乗り掛け馬を仕立て、都に上る夏旅をした。多摩川、富士山、三保の松原、宇津谷峠と過ぎて行った(※原文は西鶴の技巧を凝らした文章だが、一々訳すのは面倒なので省略)。
 日を重ねて逢坂の関に宿泊したが、京に近いのが嬉しくて、鶏が鳴く頃に朝飯を急がせ、まだ暗くて人の顔も見えない。大津の宿の荷物馬を引いた馬方の六蔵の、旅人の眠りを覚ます馬方節は、酒で機嫌が良いのか面白い。
 粟田口までやってくると、鬼たちが火の車を引いてきたがそれを放り出して、清水を手ですくって飲み、胸が燃えるようだとたがいにわめき、その後は鉄の棒を枕にして
「やれやれ、苦しい」
 と、虎皮のパンツをおさえ、
「もう命がない。昔から世間の人が言っているように『鬼が死んでも行くところがない』」
 と、おそろしい目から涙を流し、半死半生で、頭の角をうなだれて、この面影は、見るもかわいそうである。
 その中で世間に通じている鬼らしく、頭が少しはげて、地獄の強請分別がありそうな顔つきをしたのが、徳元一行の、薬箱を持っている者を発見し、馬の前でかしこまり、
「御覧になったとおり、我々は罪人を責めさいなむ地獄の役人です。このたび、大悪人の人殺し野郎が処刑されたのを見かけ、みんなで火車を早めて、粟田口まで迎えに参り、試しに死骸を一口づつ食べたのですが、思いがけないことに、塩八付(※塩漬けの死体を磔にしたもの。磔前に死んだ)とは知らず、みんな食べ過ぎて、喉をかわかし、この水を飲んだが、食傷して困っています。地獄にはかかりつけの医者がございますが、旅の途中ですので、頼むから治療してください」
 と言った。
 徳元は思案して、
「これは通常の治療では治るまい」
 と、塩八付を食べたであろう、このあたりの烏を獲ってこさせて、これを煎じてのませると、食傷が治った。鬼たちは車を飛ばせ、鉄の火を降らせ、
「さようなら〜」
 と声をかけ、
「あの世へお越しになった時は、お礼をいたします」
 と言った。

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鳥山石燕「画図百鬼夜行」より「火車」
鳥山石燕「火車」
「火車」
【参考文献】鳥山石燕『鳥山石燕 画図百鬼夜行全集』角川書店 H17.8.30
※文庫本に記されている著者略歴によると、「鳥山石燕/とりやませきえん 正徳二年(1712年)〜天明八年(1788)、江戸の人。本名は佐野豊房。狩野派の絵師で、妖怪画を好んで描いた。その豊かな想像力で描かれた妖怪たちは、現代にいたるまで妖怪画家たちに大きな影響力を与えてきた。」とある。

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穂積隆彦撰「世田谷私記」
○勝光院の什物にくわしやの爪あり、是はある亡者を送りける時に、俄に天かきくもり、黒雲おほひ亡者をとらんとせしに、此寺の住持智徳ありて、珠數にてはらひぬ、其時此もの、爪落たりと傳ひあるよし、文化九申年十二月五日是を見るに、爪四つ也、珠數水晶なり、焼たるけさもあり、氏朝の守一寸三分観音の像也、(P121)

<現代語訳>
勝光院秘蔵の宝物に火車の爪がある。これは、ある死者を野辺送りにする時に、にわかに天がかき曇り、黒雲が(死骸を)覆って死体を取ろうとしたが、この寺の住持に智徳という人がいて、数珠で追い払った。その時、この化け物の爪が落ちたのだと伝えられているとのこと。文化九年(西暦1812年)12月5日にこれ(宝物)を見ると、爪が4つある。数珠は水晶でできている。焼けた袈裟もある。(勝光院を中興した)吉良氏朝のお守りは一寸三分の観音像である。
(訳:安澤出海)

【参考文献】『続々群書類従 第四 史傳部』編纂・国書刊行会 S60.2.20
※参考文献の説明によると、「一 世田谷私記は、奥州吉良氏後の領、武州荏原郡世田谷に於ける事跡を記述せるもの、吉良氏は、治家に至って足利持氏に従ひ、世田谷郷を賜はる、子孫小田原北条氏姻親を結び、徳川氏に至って蒔田とも称し、高家衆たり、本書は、水戸家所蔵本を謄写せる、大学史料編纂掛所蔵本を採集せり、」(P3「例言」より)とのこと。尚、勝光院は現在も世田谷にあります(東京都世田谷区桜1-26-35)。

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「近代百物語 巻五 一.巡るむくひの車の轍」
<引用箇所までのあらすじ>
 備中国の山城屋善左衛門の妻は、初産で腰を痛め、寝たきりになってしまう。医薬・灸・湯治などの手を尽くすが効果がない。これでは台所が立ち行かないので、善左衛門は「いま」という女性を妾にして家に迎え入れ、女房の代役を務めさせる。「いま」は妻の役目を立派に務めて評判も上々だったが、正妻の存在が気がかりでならない。「いま」は「正妻が死ねばいいのに」と思い、正妻に呪詛をかける。その呪いの効果があって正妻は死んでしまうが、今度は正妻が怨霊となって「いま」を苦しめる。「いま」は実家に戻り、旦那寺の和尚に全てを打ち明け、和尚に正妻の供養をしてもらった。その甲斐あって怨霊は出なくなったが…

<原文>
四五日すぎて初夜のころ、表に「わつ」とさけぶ声、母はあはてゝはしりゆき、くすりをあたへ、だきおこせば、しばらくありてよみがえり、「たゝ゛今しばらくまどろむうち、うつゝともなくゆめともなく、車のおとの聞ゆるにぞ、あらふしぎやと見る所に、火の車をとゝ゛ろかし牛頭馬頭の鬼大おんあげ、『なんぢが罪広大なれば迎ひの為の此車はやく来たれ』と、つかみのせ、虚空に追つたてゆきけるが、俄にはげしき風ふきおこり猛火さかんにもへあがり、骨もくだくる其くるしさ、『わつ』と、さけぶとおもひしがお世話でふたゝびよみがへれど、火の車にまでのせられて、ちごくにおつる我が身の上。かくまでおもき罪科も身よりいだせる事なれば、たれをうらみんやうもなし、さきだゝせます父母をあとに残してなげきをかけ、これまた一つのとがぞかし。娘のせめを見るにつけかならず悪事し給ふな」と、いふうちに面色かはり、はやだんまつまの四苦八苦、虚空をつかみ眼をいからし、「うん」とばかりに息たへたり。かゝるむくひをありありとまさに見たりし其人のことばのごとくかきしるす。(P321)

近代百物語 巻五 一.巡るむくひの車の轍 <現代語訳>
(供養から)4、5日過ぎた日の午後8時ごろ、表座敷から(「いま」が)「わっ!」と叫ぶ声が聞こえ、「いま」の母が慌てて走って行き、「いま」に薬を与えて抱き起こすと、しばらくたって「いま」は目が覚め、
「只今、まどろんでいると、夢とも現実ともなく、車の音が聞こえてきた。不思議なことだと見ていると、火の車が音を立て、牛頭馬頭が大声で『貴様の罪が大きいので、迎えの車に早く乗れ!』と言い、私をつかんで車に乗せ、空に追い立てていったが、急に激しい風が吹き起こり、猛火が盛んに燃え上がり、骨も砕けるような苦しさで、『わっ!』と叫ぶと思うと、(母が起こしてくれた)おかげで目が覚めたが、火の車にまで乗せられて、地獄に堕ちるのがこの私。ここまで重い罪も、自分が仕出かしたことなので、誰かを恨むわけにもいかない。(私は)先に死んで父母を後に残して悲しい思いをさせ、これもまた一つの罪(※逆縁)にちがいない。娘が地獄の責め苦を受けて苦しむのを見て、(このようにならないように)絶対に悪事をしないでください」
 と言ううちに顔色が変わり、既に断末魔の苦しみとなり、虚空をつかんで目をいからせ、「うん」とだけ言って死んでしまった。このような報いをまざまざと、まさに見てきた人の言葉のように書き記す。
(訳:安澤出海)

【参考文献】『叢書江戸文庫27 続百物語怪談集成』責任編集:高田衛・原道生、校訂:太刀川清 国書刊行会 1993.9.20
※参考文献巻末の「解題」によると、『近代百物語』五巻は明和七年正月の刊行。

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『諸国百物語』巻五の二「二枡をつかひて火車にとられし事」
 西国巡礼、札をうちに京へ上り、誓願寺へ参りけるに、如来の庭にて、とし四十あまりなる女を、牛頭馬頭の鬼、火の車より引き下ろし、いろいろに呵責して、又、車に乗せ、西のかたへ連れ行きけり。
 巡礼不思議に思ひ、跡を慕ひて行きければ、四条堀河のほとりの、米屋のうちにいりぬ。巡礼不思議に思ひて、米屋にはひり、事の様子を尋ぬれば、「米屋の女房、此の四、五日俄かに病(わずら)ひつきけるが、昼夜に三度づつ身が焼けるとて、苦しむ」とかたる。巡礼、さてはと思ひ、くだんの次第を語りければ、亭主おどろき、「さればこそ。此の女房欲深き者にて、つねに二枡を使ひ候ふを、それがし、いろいろと止め申し候へども、用ゐず。その罪にて、生きながら地獄に堕ちけると、見えて候ふ」とて、亭主は、そのまま出家になり、諸国修行に出でにけり。女房は程なく相ひ果てけるが、その跡絶え果てたると也。(P133-134)

【参考文献】編・校注:高田衛『江戸怪談集(下)』岩波書店 1989.6.16
※巻末の「解説」によると、「編著者不詳。半紙本(現存本)五巻五冊。開板は延宝五年(一六七七)四月。書肆は現存本刊記によれば京寺町通松原上ル町 菊屋七郎兵衛。」とのこと。

<現代語訳>
 西国三十三観音霊場の巡礼者が、御朱印を貰うために京へ上り、誓願寺にお参りすると、阿弥陀堂の前の庭で、年齢が40余りの女性を、牛頭馬頭の鬼たちが、火の車より引き摺り下ろし、いろいろと責めたてて、それから再び車に乗せ、西の方へ連れ去った。
 巡礼者は不思議に思い、あとを追いかけてゆくと、四条堀河のほとりの米屋の中に入った。巡礼者は不思議に思って米屋に入り、店の中の様子を尋ねると、
「ここの米屋の女房が、この四、五日、急病で患っていたのだが、昼と夜の三度ずつ、体が焼けると言って苦しんでいる」
 と語った。巡礼者は「さては…」と思って先ほど見たことを語ると、米屋の亭主が驚き、
「やはりそうでしたか。ここの女房は欲深い者でして、二種類の枡を使って(買う時は大きい枡を使い、売る時は小さい枡を使う)いましたのを、私がさまざまにやめるよう言っていたのですが、女房は聞き入れませんでした。その罪で、生きながら地獄に落ちたのでしょう」
 と言って、亭主はそのまま出家して、諸国修行の旅に出た。女房はそれから間もなく死んだが、その家の血筋は絶え果ててしまった。
(訳・安澤出海)

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鈴木正三『盲安杖』
燃出(もえいづ)る瞋恚のほむら消やらで 我と引(ひき)けん火の車かな(P258)

<歌の意>我が身から燃え出る、激しい怒りの炎が消えず、自分から火の車を引く(=自ら地獄の呵責を受ける)ことだ

【参考文献】『日本古典文学大系83 假名法語集』岩波書店 1984.8.10
※『盲安杖』は鈴木正三(しょうさん)(1579-1655)の作で、成立は元和5年(1619年)。

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根岸鎮衛『耳嚢』巻之四「鬼僕の事」
 芝田何某といへる御勘定を勤めし人、美濃の御普請御用にて先年彼地へ至りしに、出立前に一僕を抱へ召連しに、貞実に給仕なせしが、或る夜旅宿に寝しに夜半頃と覚へ、夢ともなく彼僕枕元へ来りて、「我等人間に非らず、魍魎といへる者なり。無拠(よんどころなき)事あるまゝ暇給はるべし」と乞ひし故、「無拠事あらば暇も可遣(つかはすべき)なれ共、其子細承り度(たし)」と申けるに、彼僕がいへるは、「我輩の者順番いたし死人の亡骸を取る役あり。此度我等右順役に当りて、此旅宿村より一里斗(ばかり)下の百姓何某が死骸を取る事なり」とて無行衛(ゆくえなく)なりし故、「埒なき夢を見し」と心にも不掛(かけず)伏して翌朝起出しに、右の僕行衛不知(しれざる)よし故大に驚き、彼壱里余下の何某が母の事を聞しに、「今日葬送なしけるが、野道にて黒雲立覆ひしが棺中の死骸を失ひし」と、所の者咄しけるを聞て、弥(いよいよ)おどろきけるとや。(P125)
【参考文献】根岸鎮衛著・長谷川強校注『耳嚢(中)』岩波書店 1991.3.18
※『耳嚢』は、佐渡奉行・勘定奉行・南町奉行などを歴任した旗本、根岸鎮衛(1737-1815)が天明から文化にかけて、三十余年間に渡って巷説奇談を書き留めた随筆集。
※※この話の現代語訳はこちらに出ているので省略。尚、この話は、死体を奪う火車と、死体を食らう魍魎とが混同されている例であろう。

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『新御伽婢子』巻一の六「火車の桜」
版画・吉田半兵衛  摂州大坂にちかき、平野といふ所に、或る老人夫婦あり。娘二人持てり。皆、外に嫁しけり。
 或る時、老母いたく煩(いたわ)りけるに、二人の娘、昼夜つき添ふて、看病する日数経て、漸う快気の色みえける時、娘ども自が家に帰る。其の夜、ふたりの娘の夢に、牛頭馬頭の獄卒、火車を引き来たって、母を取りのせ、呵責してつれ行く。娘兄弟もだえ、此の車を引きとどめ、庭前の桜の木に結ひつけければ、綱も桜も燃えきれて、火車は虚空を引き帰る、と見しが、忽ち夢覚めて、額に汗し、手の内あつく覚えける。兄弟ともにおなし夢也。
 驚き急ぎ、親の方に行くに、早道迄、使ひ来たって、「ただ今、老母、御果てなされたる」といふに、肝きえ心狂ずるばかり也。さて、なき骸にむかひ、面色を見るに、よのつねの人にかはりて、目をいららげ、歯を喰ひしばりたる悪相、浅ましといふも余り有り。夢に見し事身にしみて、庭前の桜を見るに、炎に燃えて枯れ凋み、つなぎたる縄目のあと、明らかにくい入りて残りけるこそふしぎなれ。今に此の桜庭にありとぞ。業障懺悔(ごっしょうさんげ)のため掘りも捨てぬなるべし。(P212-214)

【参考文献】編・校注:高田衛『江戸怪談集(下)』岩波書店 1989.6.16
※巻末の解説によると、「編著者は本屋作者であった西村市郎右衛門と推測される。大本六巻六冊。天和三年(一六八三)開板。書肆は江戸神田新革屋町西村半兵衛、京三条通西村市良右衛門、八幡町通大津屋庄兵衛。」(P373)とのこと。

<現代語訳>
 摂津の国の大坂の近く、平野という所に老夫婦がいた。娘が二人いたが、二人とも他家へ嫁いでいた。
 ある時、老母が重病に陥り、二人の娘が昼夜付き添って看病し、幾日か経って段々と快方に向かっているように見えたので、娘たちは嫁ぎ先に戻った。
 その夜、二人の娘の夢の中に、牛の頭と馬の頭の獄卒が、火車を引き立てて母を乗せ、責めさいなみながら連れて行こうとした。姉妹は苦しみながらこの車を引きとどめ、庭の桜の樹に(綱を)結びつけると、綱も桜も燃え尽きて、火車は虚空に去っていった…と見たところで急に目覚めた。額に汗をかいていて、手の内側が熱くなっていた。姉妹は共に同じ夢を見たのだ。
 驚きつつも急いで親のもとへ行くと、道の途中まで使いの者が来ていて、
「只今、老母が亡くなられました」
 と言ったので、非常に驚いて心が乱れるだけであった。さて、亡骸に対面して顔を見ると、常人のそれではなく、目に角立てて、歯を食いしばった悪相で、ひどいなんてものではない。夢に見た事を痛感しながら、庭の桜を見ると、炎で燃やされて枯れしぼみ、つないだ縄目の跡が明らかに食い込んで残っている。何と不思議なことか。今でもこの桜が庭にあるのだ。業障懺悔(悪業による妨げを告白して悔い改めること)のためには土ごと掘って捨てるべきなのだ。
(訳:安澤出海)

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『奇異雑談集』
巻四の一「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」
巻四の一「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」  ある人語りていはく、越後の国上田の庄に寺あり。雲東庵と号す。その檀那庄内の人死す。その長老引導をなす。葬礼すでに山頭にいたるとき、電雷はなはだ鳴りて、人頭を割るがごとし。大雨降ること、盆(ほどき)の水を傾くるがごとし。下火(あこ)の松明も消えなんとする時に、黒雲一むら、龕のうへに落ちくだりて、龕の蓋をはねのけて、死人を掴んであがる処を、長老松明をすてて走りかかりて、死人の足にとりつく。なほ引きてあがる。長老手を離さず、固く抱きつきて、共に空にあがる事、一丈ばかり上つて、四、五間横にゆくとき、死人落つるゆへに、長老地に落ちて気を失ふ。諸人抱きたすけ、死人をばとりて、龕にいるるなり。
 雷雨漸く止み、長老、気平らかにして、つゐに下火をなすなり。此の事風聞かくれなし。「長老の機分、強精(がんじょう)なり。如何なる罪人なりとも、助けらるべし」と、諸人いへり。
 その辺りに高山あり。黒雲嶺にかかれば、火車いでて雷雨甚だしき事あり。此の葬りの日、黒雲かかれるゆへに、「葬りいかが」といへば、長老雅意にて、「苦しからじ、ただ葬りをせよ」といはれ、かくのごとく也。(P230-231)

<現代語訳>
 ある人が言った。
 越後の国の上田の庄に寺があって、雲東庵という。その寺の檀家で庄内に住んでいる人が死んだ。雲東庵の長老が先導役を務めた。葬送の列が山頂に差し掛かった時、雷電が激しく鳴って、頭が割れんばかりであった。盆をひっくり返したような大雨が降りだした。先導の松明の火が消えようとする時に、黒い雲の一群が棺の上へ下りてきて、棺の蓋をはねのけて、死人を掴んで上がるところを、長老が松明を捨てて走り寄り、死人の足に取り付いた。それでもなお引き上げられる。長老は手を離さず、固く抱き付いて、一緒に一丈(約3m)ほど上がって、4、5間横に行くと、死人が落ちたので長老も地に落ちて気を失った。周囲の人間が長老を介抱し、死人を再び棺に入れた。
 雷雨も段々止んで、長老も平常心を取り戻し、最後には先導の役も務めた。この事件の話は有名である。
「長老の性分は、頑固で強情なのだ。どんな罪人でも助けられるだろう」
 と人々は言った。
 その近くに高い山がある。黒雲がその山の嶺にかかっていると、火車が出てきて激しい雷雨をもたらすことがあった。この葬礼の日に、黒雲が嶺にかかっていたので、ある人が
「葬送しても大丈夫でしょうか?」
 と訊くと、長老は我意を張って、
「苦しゅうない。葬礼をせよ」
 と言って、このような事態になったのだ。

巻四の三「筥根山火金の地蔵にて、火の車を見る事」
 ある人語りていはく、伊豆の国筥根山の権現のかたはらに、火金の地蔵と申して、験仏の堂あり。権現へ参詣の人は、必らず此の地蔵へ参るなり。駿河の府中に、屋形衆朝日名孫八郎殿といふ人あり。その隣家に地下人左衛門といふものあり。天文五、六年の比ほひ、伊豆の三嶋に、所用ありてくだる。四、五日逗留して、所用未だ済まざるゆへに、先づ筥根の権現へ参詣す。そのついでに、火金の地蔵へまゐる。
 仏前に看経して、数刻あるに、女性一人まゐる。見れば、我が隣の朝日名殿の女中なり。色蒼白し。痩せ衰へて姿見苦しく、幽霊の如し。大名なるゆへに、従類下人多かるべきに、ただ一人は不審なり。ことに我仏前にあるをも知り給はず、人目もみ給はざる事、なほもつて不審なるに、地蔵の錫杖自然に振る声、たかく聞こえて、仏のきはには人なし。是もまた不審なるに、すなはち晴れたる天、俄にかき曇り、黒雲そらにみちて、震動雷電し、光甚だし。黒雲地におちて、雲の中より火車出で来たりて、かの女性の後ろに到れば、そらに「ひひひひ」と、鳴るこゑ聞こゆ。何物の声とも知らず、雲の中より鬼神現じきたりて、女性をつかんで火車にのせてさる。地蔵堂の前に、無間の谷といふ谷あり、火車ここに到ると思ふ時分に、大きに響きてどうと鳴ると聞こえて、すなはち雲晴れ、天あきらかなり。
 かの左衛門、仏前にありて怖ぢ恐れ、肝魂を失ふといへども、気を静めてよく見るなり。地蔵堂の別当に問ふていはく、「只今の事、不思議の次第なり。先例ある事に候や」といへば、別当のいはく、「かくの如きの事、常に有るゆへに、それがしは驚かず候。或ひは雨のふる日、或ひは日の暮るる時、姿は見えずして、行く足音きこえ、或ひは泣き悲しみて行く声きこえ、或ひは馬に乗りて行く音聞こゆ。此の無間の谷のみにあらず。この山の奥に地獄谷と云ひて、熱湯沸きかへり、硫黄出でかたまる所あまたあるを、地獄と申しつたへて候」といふなり。左衛門のいはく、「別当もさきの女性を御覧じ候や」といへば、「中々よく見候に、いきたる人にはあらず、魂魄幽霊なる事一定に候」といへば、左衛門のいはく、「さては朝日名殿の女中、死去あるものなり。いたはしき事かな。別当御覧じ候ほどに、弔ふて参らせられ候」といふて、下向申すなり。又三嶋のさとに行きて、四、五日ありて所用すんで、府中にかへり行く。
 私宅につけば、留守の内婦いはく、「朝日名殿の女中死去ありて、いま中陰にて候」と申す。それについて不思議の事有るほどに、先づ殿へ行くなり。中陰とりみだしの処に、左衛門語りていはく、「それがし、ただ今筥根より下向申し候。火金の地蔵堂にて、これの上様を見申し候」といへば、みな驚きて、御たづね候ほどに、上くだんの次第を、具さにかたりて申せば、皆々愁涙を流したまへり。その中にその雑談を疑ふ人もあるゆへに、左衛門がいはく、「地蔵堂の別当も、幽霊の御姿をよく見られ候。その日をかぞへ候へば、けふ六日になり候」と申す処に、「明日初七日の作善の用意あるゆゑに、日数あふたり。さては一定なり」といへり。
 しかれば、別当へ使者をやり、香典をつかはして、かの亡者を御とぶらひたのみ入り候よし、申さるるなり。そのあたりの諸人の申すは、「朝日名殿の女中は、平生慳貪の人にて、後生をしらず、一紙半銭をも、施す事なき人也。地獄に落ちらるべきことうたがひなし」といへりと云々。(P235-238)

【現代語訳】
 ある人が言った。
 伊豆の箱根山の箱根権現の傍に、火金(ひがね)の地蔵といって、霊験著しいお堂がある。箱根権現へ参詣する人は、必ずこの地蔵堂へも参詣する。
 駿河の府中に、屋形衆・朝日名孫八郎という人がいた。又、その隣家に庶人の左衛門という者がいた。
 天文五、六年の頃、左衛門が伊豆の三嶋に用事があって出かけた。四、五日逗留したが、用件が終わらないので、とりあえず箱根権現へ参詣した。そのついでに、火金の地蔵へもお参りした。
 仏前で経文を読んで数刻が経つ頃、女性が一人やってきた。見ると、隣家の朝日名殿の奥方であった。奥方の顔色は蒼白く、痩せ衰えていて姿が見苦しく、幽霊のようであった。朝日名家は身分が高いので、側近や家来が多いはずなのに、奥方がたった一人でいるのはおかしい。特に、(顔見知りの)自分が仏前にいるのもわからないようで、人目もこちらを見ないのは尚更おかしい。とそこへ、地蔵の錫杖の音が高く聞こえたが、仏像の傍には人はいない。
 これもまた不審なことだが、晴天にわかにかき曇り、黒雲が空に満ち満ちて、雷鳴り響き、稲光がすさまじい。黒雲が地に落ちて、その雲の中から火の車が出てきて、その女性の後ろに到着すると、空から「ひひひひ」という声が聞こえた。何物の声かもわからず、雲の中から鬼神が出現して、女性を掴んで火の車に乗せて去った。
 地蔵堂の前に、無間の谷という谷があって、火の車がそこに到着するかと思う時分に、どうと大きく鳴り響いたと聞こえると、雲が晴れて天が明るくなった。
 この左衛門は、仏前で恐怖に駆られ、たまげてしまったが、気を静めて(この有様を)よく見た。そして地蔵堂の別当(長官)に訊ねた。
「今起きたことは、不思議なことです。以前にもあったのですか?」
 別当は言った。
「こういう事はいつもあることなので、拙僧は驚きません。ある時は雨の降る日、またある時は日が暮れる時、姿は見えず、足音だけが聞こえ。ある時は泣き悲しみながら行く声が聞こえ、又ある時は馬に乗って行く音が聞こえる。この無間の谷だけではない。この山の奥に地獄谷といって、熱湯が沸きかえり、硫黄が湧き出て固まる所がたくさんあるが、それらが地獄だと伝えられています」
 左衛門は言った。
「別当も先ほどの女性を御覧になりましたか?」
「確かに見たが、あれは生きている人間ではない。きっと幽体ですな」
 左衛門は言った。
「ということは、朝日名殿の奥方は死んだのだ。いたましいことだ。別当が御覧になったとおり奥方は死んで地獄に落ちました。ですから、お弔いをしてください」
 そして、左衛門は立ち去った。
 再び三嶋に戻り、四、五日経って所用が済んで、府中に帰った。
 自宅に到着すると、留守を守っていた妻が言った。
「朝日名殿の奥方が亡くなられ、今は四十九日の最中です」
 それについては不思議なことがあったので、左衛門はすぐさま朝日名邸へ行った。服喪期間でバタバタしているところへ、左衛門が語って言った。
「私は箱根から戻ってきました。その箱根の火金の地蔵堂で、こちらの奥方を見ました」
 すると皆驚いて、左衛門に事情を訊ねると、左衛門は地蔵堂で見てきた次第をつぶさに語ると、皆涙を流した。しかし、その中にこの話を疑う人もいたので、左衛門は言った。
「地蔵堂の別当も、幽霊の姿をよく御覧になりました。その日から数えると、今日で六日になりました」
 朝日名孫八郎は言った。
「明日は初七日で、初七日の作善の用意をしているから、日数は合っている。それでは確かなことだ」
 ということで、朝日名孫八郎は地蔵堂の別当のもとへ使者を送り、香典を送って、死んだ奥方の弔いを頼んだ。
 ところで近所の住民は、
「朝日名殿の奥方は、常日頃からケチンボで、死んだ後のことを気にかけず、ほんの少しでも施しをすることのない人だ。地獄逝きは間違いない」
 などと言った。

【参考文献】編・校注:高田衛『江戸怪談集(上)』岩波書店 1989.1.17
※巻末の「解説」によれば、『奇異雑談集』(きいぞうたんしゅう)は、「編著者不詳。半紙本六巻六冊。貞享四年(一六八七)開板。書肆は京都の茨城多左衛門。刊記には江戸の刊行以前にも、写本で行なわれていたことは、数種の現存する写本によって確認できる。」(P396)

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『本草綱目啓蒙』巻之四十七 獣之四 寓類之怪
罔両 クハシヤ クハジヤ薩州
魑魅ノ類ナリ。葬送ノ時、塗中ニテ疾風迅雷、暴ニ至リテ、棺ハ損ゼズシテ中ノ屍ヲ取去、山中ノ樹枝、巌石等ニ掛置コトアリ。コレヲ、クハシヤト云。東都及薩州、肥前、雲州ニモアリト云。京師ニハコレ有コトヲ聞ズ。又淮南子ニ載ル罔両ハ水虎(ガハタラウ)ノコトナルベシト、大和本草ニ詳ニス。同名ナリ。周礼ニ、方相氏執戈入壙ト云。方相氏ハ四目アルノ仮面(メン)ヲ著スルヲ云。是、罔両ヲ禦グ為ナリ。京師九月十一日東寺ノ尼寺ニ六孫王ノ祭アリ。俗ニ宝永祭ト云。此時首ニ紅(シャグマ)ヲ蒙リ、方相氏仮面ヲ著テ、四神ノ旗ヲ持モノアリ。服ハ赤黒青白各一人ナリ。(P105)

【参考文献】小野蘭山『本草綱目啓蒙 4』平凡社 1992.7/10
※『本草綱目啓蒙』は李時珍の『本草綱目』を訳し改良したもので、享和3年(1803年)脱稿。

(現代語訳)
罔両 カシャ カジャ 薩摩
魑魅の類である。葬送の途中、暴風と雷がやってきて、棺は壊さずに中の死体を取り去って、山中の木の枝や岩石にかけておくことがある。これを「カシャ」という。江戸、薩摩、肥前、出雲にもあるという。京都にはこれがいるということを聞かない。又、『淮南子』に載っている罔両とは水虎(かわたろう)のことだろうと、『大和本草』に詳しく書いてある。『周礼』に、方相氏が矛を持って穴に入るという。方相氏は目が4つある仮面をかぶるという。これは罔両の侵入を防ぐためである。九月十一日、京都の東寺の尼寺に六孫王の祭りがある。俗に宝永祭という。この時、首にシャグマをかぶり、方相氏の仮面を着て、四神の旗を持つ者がいる。服は赤・黒・青・白の各一人である。

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宝泉寺蔵地獄極楽図
「宝泉寺蔵地獄極楽図」の火の車
箱書きには「十王軸物拾幅」とあり、一八五三年(嘉永六年)の年記がある。(2008年4月27日付日経新聞朝刊17面)

※宝泉寺の住所:山形県上山市金瓶北165。ちなみに嘉永六年はペリーの浦賀来航の年です。

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嬉遊笑覧
巻九(娼妓)
○やり手とは後の名にて、もとくわしやといへり「人倫訓蒙図彙」に、傾城に付くるをやり手と有、また芝居役者太夫の条に、三十より四十におよびてはくわしやかたといふと有り、火車とはつかむといふ意、つかむは昔のはやり詞、女郎を買をつかむといへり、心易く我儘にする意なり。つかめなどいふはとらへてこよと云が如し、やりても女郎の掟するものにて、つかむといふ意あれば名けしなるべし。金銀をつかむにはよらじ、火車は聞苦しきゆゑ花車として風流の名としたり、さるを花車とは花にまはる心なりといふは、かの散茶をふらぬといふ謎とせしと同日の談なり、偶その意に通ひし也、やりては花車の車より出たる名なり「庭訓抄」に鳥羽白川には車の遣手といふ者あり云々。この名をとれり、道恕が香車の説は非なり。(P374-375)

【参考文献】
編者・日本随筆大成編輯部『日本随筆大成 別巻 嬉遊笑覧3』吉川弘文館 S54.4/5

※『嬉遊笑覧』は喜多村庭(たかにわ)の随筆で、文政十三年庚寅(西暦1830年)冬十月の漢文自序がある。

(現代語訳)
「やり手」とは後世に付けられた名称であって、元々は「かしゃ」と言った。『人倫訓蒙図彙』という書物には、遊女に付いてくるのを「やり手」だとし(遣手婆のこと)、また、「芝居役者太夫」の条に、30歳から40歳までは「かしゃかた」というのだとある。火車とは掴むという意味で、掴むは昔の流行り言葉である。遊女を買いに来た男を掴むという、(男を)自分の意のままにするという意味である。掴めなどということは、捕えてこいというようなもので、やり手も遊女に指図するものであって、掴むという意味があるので変な名である。金銀を掴むという謂れによらず(罪人を掴むという意味によるものなので)、火車は聞き苦しいということで花車と表記して風流な名前としたのだ。それを「花車とは花に回る心である」というのは、散茶女郎を振らぬという謎としたのだと同様の話である。偶然その意味が通じてしまったのだ。やり手は花車の車から出た名前であると説き、(その根拠として)『庭訓抄』に鳥羽白川には車の遣手がいる云々。この名を取ったのだ。道恕が述べている香車の説は違う。(訳・安澤出海)
訳者コメント:必要に迫られてとりあえず現代語訳しました。しかし一読すれば、意味の通じにくい悪文になってしまったことがわかります。実を言うと、正確に翻訳できたという自信はありません。例えば「名けし」の語を「名・怪し」と解釈しましたが、どうにもすっきりしない。又、「かの散茶をふらぬといふ謎」も正直よくわからない。

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河鍋暁斎「地獄極楽図」

【参考文献】『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師』平凡社

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『堪忍記』
『堪忍記』巻七
 女鑑 中
 憐気のおもひある堪忍第廿二
 九 物ねたミ故に死して火車にとられし事 并亡霊になりて来りし事

 今ハむかしの物語に成ける。東国がたに。物ねたミふかき女あり。その夫かぎりなく思ひ入ける。妾を別に家をつくりてをきたるに。夫爰に行けるを聞てハ涙雨のごとくに落て。妻の顔あかくなり。筋ふとくたちて。髪の毛すくすくと。上にたちあがる。めしつかハるゝ女房たちもありしが。おそろしく。すさまじき事いふはかりなし。かくて思ひつもりて。むなしく成たるに。かしらの髪ハ馬の尾のごとく。くろき色赤く枯て。そらさまにたち。口ひろくあきて。耳もとにさけあがり。目をふさがず。にらミつめて死にけり。鬼とハ是なるべしとぞ。人々おそろしく思ひ。葬礼の事いとなミけれバ。空かきくもり。いかづちいなびかりして。さしもの法師バら。わなゝきふるい。法事をいたすべき。力もなし。雨は風まじりに横きりて。うつすがごとくふりけれバ。蓑も笠も吹ちらす。あまりの事に。人の家をかりて尸をかきいれたりしに。火車落かゝり。女のかばねをとりて去けり。法師原ハにげまどひ。その供しける人々も。地にふしたりしバしありて。空はれたれバ。女のかバねハ引さきて。うしろなる木にかけたり。引おろして火葬にいたしける。その夜よりかの女の亡霊きたりて。いつもすみける所にうづくまり居る。それよりたつとき僧を頼ミ。経をかきとふらひしに。しるしなし。真言の阿闍利に仰せて。加持しけるに。此女又来る。あしやりいましめてはく。五道りんゑの衆生の中に。ことさら女人ハ。罪障おもく成仏する事はなはだかたし。つとめて仏道をねがふへき所に。まさなき妄念をおこし。ねたむをもつて心をしばり。死して後も猶その執心にひかれ。かゝるあさましき恥をほどこす事やある。それ万法ハもとこれ不生也。わが今おこなふ観念加持によりて。まさに執心ねたみの思ひをわすれ。はやく成仏したまへとて。様々ふかきことハりをときしかバ。かきけすやうにうせにけり。そのゝちハ何事もなかりしと也。ねたミそねミぬる心ざしすでに。尸をハ火車にとられ。魄ハまた恥をのこす。いはんや業愛しんゐの。罪さらに悪道に身をこがし。うかひあかる時のなからんこそ。かなしけれ世の中ハ。かりのすみか盛なる花ハうつろひやすく。人つねにわかき時なし。たれか一たびハ死せざらん。いたづらにねたミをおこして。たけき焔をむねにもやさんよりハ。たゞ後世を竜女か成仏にまなび。さとりを韋提希の観念にとゞめて。心をとりなをし仏法になぐさミ。たてまつるべき也(P169-171)
『堪忍記』の火車

【参考文献】
校訂:坂巻甲太、責任編集:高田衛・原道生『叢書江戸文庫29 浅井了意集』国書刊行会 1993.12.20

(現代語訳)
 今となっては昔の話となってしまったことだ。東国に嫉妬心の強い女がいた。夫はすっかり厭になり、別宅を造って妾を囲っていたのだが、女は夫が妾宅へ行ったのを聞いて、雨のように涙を流し、顔が赤くなり、血管が大きく浮き上がり、髪の毛が逆立って怒髪天を衝く状態になった。召使の女たちもいたのだが、恐ろしさのあまり言い表わすことができない有様だった。
 このように女の嫉妬心は鬱積して、とうとう死んでしまったのだが、その様子たるや頭髪は黒かったのが馬の尾のように赤く枯れ、天に向かって立ち上り、口が大きく開いて耳まで裂けていた。眼は開き、睨みつけるようにして死んだ。
 鬼とはこのようなものをいうのだろうと人々は恐ろしく思いながら女の葬式を執り行なっていたところ、空が曇って雷鳴が轟いた。さしもの僧侶たちもブルブル震え、法事を営む力もなかった。雨に風が加わり横なぐりに降ったので、蓑も笠も吹き散らされた。
 あまりに風雨が強いので、人々は他人の家を借りて死体を運び入れたのだが、火車がやってきて、女の死体を奪って去って行った。僧侶たちは逃げ惑い、お供をしていた人々も地べたに這いつくばっていたりなどしていた。
 暫くすると、空が晴れてきた。女の死体は引き裂かれて後方の木にかけられていた。人々はそれを引き下ろして火葬にした。
 その火の夜以降、その女の亡霊がやってきて、いつも住んでいたところに蹲(うずくま)っていた。そこで偉い僧侶に依頼して読経してもらったのだが、効果はなかった。
 次に真言宗の阿闍梨に頼んで加持してもらったところ、この女がまた来た。阿闍梨は女に戒めて言った。
「五道(天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道)に輪廻転生する衆生の中でも、特に女性は罪障が重く、成仏することはとても難しい。つとめて仏になることを願うべきなのに、よからぬ妄念を起こし、嫉妬で心を縛られ、死んだ後もまだ嫉妬心にとらわれ、このようなあさましい恥をさらすことがどうしてあってよいものか。そもそも、万物の法則は不生不滅。私が今から行なう加持によって、嫉妬の執心を忘れ、早く成仏しなさい」
 と、様々な物の道理を説き聞かせると、女の亡霊はかき消すようにいなくなった。その後は何事も起こらなかった。
 妬み・嫉みの心ざしだけでも恥なのに、死体を火車に取られ、亡霊はさらに恥を残した。愛欲による怒りの罪がさらに悪の道へと我が身を追い立て、思いが晴れる時がないのは言うまでもない。
 この世は儚いものだ。仮の住処の栄華を誇る花は移ろいやすく、人間は常に若いということはない。死ぬことのない人間がどこにいようか。無闇に嫉妬心を起こして、強い嫉妬の炎を胸の内で燃やそうとするよりは、ただ死後のことを竜女(沙竭羅竜王の娘で、8歳で成仏した)に学び、悟りを韋提希(マガダ国の頻婆沙羅王の后)の思念にとどめて、心を取り直し仏法に精進すべきである。
(訳:安澤出海)

※巻末の「解題」によると、『堪忍記』は「万治二年三月刊」とある。万治二年は西暦1659年。ちなみに、現代語訳の作業をしていて、そのあまりの抹香臭さに苦しみました。仏教の知識が少しばかりあったからどうにか訳せたものの、正確さには自信がありません。

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『片仮名本・因果物語』
「二枡を用る者、雷に攫まるる事 付地獄に落つる事」

 江州松原と云ふ処に後家あり。表家を人に貸して、奥に居たり。寛永廿年の六月、表の庭に雷落ちて、表屋の中を通り、六歳に成る子を攫んで、三間ほどなげければ、持仏堂の戸に打ち当てけり。
 母、是に駭きて、奥の後家に行きて、「唯今の雷に、子をなげられたり」と云ふて、見れば、音もせず臥し居たり。「何とし給ふぞ」と云ふて引き起こしければ死してけり。
 驚きて是を見れば、肩黒く成りたる所ばかりあつて、疵もなし。不思議に思ひ、頓死也とて、其の日は其の儘置きけり。
 明日磯山と云ふ廟所へ、舟にて行く処に、俄かに大雨降りて車軸を流し、雷電轟きて、四方黒暗と成り、東西を失す。各々叶はぬことと思ひ、先づ内へ帰らんと議す。其の時水主ども、是程のことに臆病也と、互ひに精を出だし櫓を推す。漕ぎ行く舟に添ひて、雷声、頭の上に落ち掛かるやうに、鳴り渡りければ、八人の者、此の度仕損じては癖気也とて、命を捨て声を掛けて推しければ、漸う天も晴れて廟所へ着きけり。
 さて、棺を彼に据ゑ、薪をつみ火を掛けて帰りけり。明日行きて見れば、死骸を取り出だし、十間程遠くに捨て置きたり。宗庵慥かに見たる也。此の後家飽くまで欲深く、二枡を用ひて、一生を送りたる科也。天罰違はずと人々云ひあへり。

【参考文献】
高田衛編・校注『江戸怪談集 中』岩波書店 1989.4.17

(現代語訳)
 近江国の松原(現滋賀県彦根市松原町)というところに後家がいた。表家を人に貸して、自分は奥に住んでいた。寛永20年(1643年)6月、表家の庭に雷が落ちて、表屋の中を通り、6歳になる子供を掴んで三間(約5.4m)ほど投げつけると、仏間の戸に当たった。
 子供の母親はこれに驚き、奥に住んでいる後家のところへ行き、
「今落ちた雷に、子供を投げられた」
 と言って後家を見ると、後家は息もせずに倒れていた。
「どうしたのですか!?」
 と言って引き起こしてみると、後家は既に死んでいた。
 驚いて後家を見ると、肩の部分に黒くなっているところがあるだけで、外傷はなかった。不思議に思ったものの、急死したのだと判断してその日はそのままにしておいた。
 翌日、葬列の一行が磯山という墓所へ舟で行く途中に、急に激しい大雨が降って雷鳴が轟き、四方が暗闇となり、右も左もわからなくなった。葬列に参加していた人たちは各自、
「これでは葬儀ができない」
 と思い、ともかくも帰ろうと相談しあった。その時、船頭たちが、
「この程度のことで帰るのは臆病だ」
 と言って互いに励まし合い、舟を進めた。漕ぎ行く舟に雷雲が付き添い、雷声が頭上に落ち掛かるように鳴り渡ったので、8人の船頭は、
「これで失敗したら俺たちの負けだ」
 と言って、命がけで声を掛け合いながら舟を進めてゆくと、だんだん天も晴れてきて、一行は墓所に着いた。
 さて、一行は棺を火葬場に据え、薪を積み火をかけて帰った。翌日行ってみると、死骸が棺から取り出され、十間(約18m)ほど遠くへ捨て置かれていた。宗庵(この話の語り手)は確かに見た。この後家は充分に欲深く、二枡を用いて(穀物を買う時は大きい枡、売る時は小さい枡を用いて暴利をむさぼること)、一生を送った罰である。天罰は間違いがないと、人々は噂し合った。
(訳:安澤出海)

※巻末の解説によると、「義雲雲歩編。大本三冊。寛文元年開板。編者雲歩は石平道人鈴木正三の高弟の一人。」(P406) 尚、寛文元年は西暦1661年。鈴木正三は『盲安杖』の作者。
 本文では火車とは明記していないが、火車(雷神タイプ)の仕業と思われるので、参考までに掲載しておきます。ちなみに、「付地獄に落つる事」は本編とは別個の話であり、火車とは無関係と判断したので省略。

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