火車の資料(中世以前)
『今昔物語集』巻第十五「薬師寺ノ済源僧都、往生セル語第四」
今ハ昔、薬師寺ニ済源僧都ト云フ人有ケリ、俗姓ハ源ノ氏。幼ニシテ出家シ、薬師寺ニ住シテ、□ト云フ人ヲ師トシテ法文ヲ学テ、止事无キ学生ト成ヌ。其後、成リ上テ、僧都マデ成テ、此ノ寺ノ別當トテ年来有ルニ、道心並ビ无クシテ、寺ノ別當也ト云ヘドモ、寺ノ物ヲ不仕ズシテ、常ニ念佛ヲ唱ヘテ極楽ニ生レム事ヲ願ヒケリ。
老ニ臨テ、既ニ命終ラムト為ル時ニ成テ、念佛ヲ唱テ絶入ナムト為ルニ、起上テ、弟子ヲ呼テ告テ云ク、「汝等年来見ツラム様ニ、此ノ寺ノ別當也ト云ヘドモ、寺ノ物ヲ犯シ不仕ズシテ、他念无ク念佛ヲ唱ヘテ、命終レバ必ズ極楽ノ迎ヘ有ラムト思フニ、極楽迎ヘハ不見エズシテ、本意无ク火ノ車ヲ此ニ寄ス。我レ、此ヲ見テ云ク、『此ハ何ゾ。本意无ク、此クハ不思デコソ有ツレ、何事ノ罪ニ依テ、地獄ノ迎ヲバ可得キゾ』ト云ツレバ、此ノ車ニ付ケル鬼共ノ云ク、『先年ニ、此ノ寺ノ米五斗ヲ借テ仕タリキ。而ルニ、未ダ其ヲ不返納ズ。其ノ罪ニ依テ、此ノ迎ヲ得タル也』ト云ツレバ、我レ、『然許ノ罪ニ依テ、地獄ニ可堕キ様无シ。其ノ物ヲ可返キ也』ト云ツレバ、火ノ車ハ寄セテ、未ダ此ニ有リ。然レバ、速ニ米一石ヲ以テ寺ニ送リ可奉シ」ト云バ、弟子等、此ヲ聞テ、急テ、米一石ヲ寺ニ送リ奉リツ。
真ノ鐘ノ音聞ユル程ニ、僧都ノ云ク、「火ノ車ハ返リ去ヌ」ト。其ノ後、暫ク有テ、僧都ノ云ク、「火ノ車返テ、今ナム極楽ノ迎ヘ得タル」ト云テ、掌ヲ合セテ、額ニ充テ泣泣ク喜テ、念佛ヲ唱ヘテゾ失ニケル。其ノ往生シタル房ハ、薬師寺ノ東ノ門ノ北ノ脇ニ有ル房、于今其ノ房不失ズシテ有リ。
此ヲ思ニ、然許ノ程ノ罪ニ依テ、火ノ車ノ迎ニ来ル。何ニ況ヤ、恣ニ寺ノ物ヲ犯シ仕タラム寺ノ別當ノ罪、思ヒ可遣シ。
彼ノ往生シタル日ハ、康保元年ト云フ年ノ七月ノ五日ノ事也、僧都ノ年八十三也。薬師寺ノ済源僧都ト云フ、此レ也トナム語リ傳ヘタルトヤ。(P352-353)
【参考文献】校注:山田孝雄・山田忠雄・山田英雄・山田俊雄『日本古典文学大系24 今昔物語集 三』岩波書店 S40.1.30
※今昔物語集は平安時代後期の説話集。又、康保元年は西暦964年。
<現代語訳>
今は昔のことになってしまったが、薬師寺に済源僧都という人がいた。俗姓は源氏である。幼い頃に出家して薬師寺に住み、○○という人を師として経典を学び、立派な学僧となった。その後、出世して、僧都の位にまで上って、さらにこの寺の別当(長官)として長年過ごしていたが、正義感がとても強く、寺の別当であっても、寺の財物を少しも使わず、常に念仏を唱えて極楽浄土に往生することを願っていた。
年を取り、もはや寿命が尽きようかという時になって、念仏を唱えて死のうとしていると、ふと起き上がって、弟子たちを呼んで告げて言った。
「お前たちが長年見てきたように、私は別当という地位にあっても寺の財物を取らず、他の思いもなくひたすら念仏を唱えて、死ねば必ず極楽浄土に往生できると思っていた。ところが極楽の迎えは見えず、不本意ながら火の車がやってきた。私はこれを見て、言った。
『これは何だ!? 不本意にも、こうなるとは思っていなかった。何の罪で地獄の迎えが来たのだ!?』
すると、この車に付き従っていた鬼たちが言った。
『先年、この寺の米を5斗ほど借りて使っただろ。だが、まだ返してはいない。その罪によって、この迎えが来たのだ』
私は、
『その程度の罪で地獄に落ちるはずがない。その借りた物は返そう』
と言った。すると鬼たちは火の車を寄せて、まだここにいる。だから、すぐに米一石を寺に送りなさい」
弟子たちはこれを聞いて、大急ぎで米一石を寺に送った。
現実世界の鐘の音が聞こえてくる頃、僧都は言った。
「火の車は帰って行った」
その後しばらくして、僧都は言った。
「火の車は帰って行き、今こそ極楽浄土の迎えが来た」
そして合掌し、額に手を当て、泣きながら喜び、念仏を唱えて死んだ。済源が往生した所は、薬師寺の東の門の北の脇にある房であって、今でも残っている。
これを思うに、この程度の軽い罪で火の車が迎えに来たのだ。言うまでもあるまい、好き勝手に寺の財物を使い込んでいる寺の別当たちの罪の重さは。考えてもみよ。
この人が往生した日は、康保元年(964年)7月5日であり、僧都の享年は83歳。薬師寺の済源僧都というのはこの人であると、語り伝えられている。(訳:安澤出海)
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『宇治拾遺物語』巻四ノ三「五五 薬師寺別當事」
今は昔、薬師寺の別當僧都といふ人ありけり。別當はしけれども、ことに寺の物もつかはで、極楽に生れんことをなん願ひける。年老、やまひして、しぬるきざみになりて、念佛して消えいらんとす。無下にかぎりと見ゆるほどに、よろしうなりて、弟子を呼びていふやう、「見るやうに、念佛は他念なく申てしぬれば、極楽のむかへ、いますらんと待たるゝに、極楽の迎へは見えずして、火の車を寄す。「こはなんぞ。かくは思はず。何の罪によりて、地獄の迎はむきたるぞ」といひつれば、車につきたる鬼共のいふ様、「此寺の物を一年、五斗かりて、いまだかへさねば、その罪によりて、此むかへは得たる也」といひつれば、我いひつるは、「さばかりの罪にては、地獄におつべきやうなし。その物を返してん」といへば、火車をよせて待つなり。されば、とくとく一石誦経にせよ」といひければ、弟子ども、手まどひをして、いふまゝに誦経にしつ。その鐘のこゑのする折、火車かへりぬ。さて、とばかりありて、「火の車はかへりて、極楽のむかへ、今なんおはする」と、手をすりて悦びつゝ、終りにけり。
その坊は、薬師寺の大門の北のわきにある坊なり。今にそのかた、失せずしてあり。さばかり程の物つかひたるにだに、火車迎へにきたる。まして、寺物を心のまゝにつかひたる別當の、地獄のむかへこそ思やらるれ。
【参考文献】校注・渡邊綱也、西尾光一『日本古典文学大系27 宇治拾遺物語』岩波書店 S46.5.20
※宇治拾遺物語は、鎌倉時代前期の説話集。
<現代語訳>
今は昔のことになってしまったが、薬師寺の別当である僧都がいた。別当という地位にいたが、寺の物を使い込んだりはせず、極楽浄土に往生することだけを願っていた。年老い、病気をして、いよいよ死ぬ段になって、念仏を唱えて死のうとしていた。最期かと見える時、容態が良くなって、弟子を呼び集めて言った。
「お前たちが見ている通り、私は他の事は考えずに念仏をしており、極楽浄土の迎えは今か今かと待っていたところ、極楽浄土の迎えは見えず、火の車が来た。
『これは何だ!? こうなるとは思っていなかった。何の罪で地獄の迎えが来たのだ!?』
と言うと、車に付き従っていた鬼たちが言った。
『一年前、この寺の米を五斗ほど借りて、いまだに返していないので、その罪によって、この迎えが来たのだ』
私は言った。
『その程度の罪で地獄に落ちるはずがない。その借りた物は返そう』
すると鬼たちは車を寄せて待機した。だから、早く一石分の読経を始めよ」
弟子たちは、手に物もつかないほど慌てて、言われたとおりに読経した。その寺の鐘の音がする頃に、火の車は帰って行った。さて、しばらくして、
「火の車は帰り、極楽浄土の迎えが今こそ来た」
と手を擦り合わせて喜びながら死んでいった。
その住居は、薬師寺の大門の北の脇にある坊である。今もそれは残っている。この程度の物を使い込んだだけで、火の車が迎えに来たのだ。まして、寺の財物を好き勝手に使い込んでいる他の寺の別当たちに、地獄の迎えが来ることは推察されよう。
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「平家物語 巻六 入道死去」
入道相国の北の方、二位殿の夢に見給ける事こそおそろしけれ。猛火のおびたゝしくもえたる車を、門の内へやり入たり。前後に立たるものは、或は馬の面のやうなるものもあり、或は牛の面のやうなるものもあり。車のまへには、無といふ文字ばかり見えたる鐵(くろがね)の札をぞ立たりける。二位殿夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御たづねあれば、「閻魔の庁より、平家太政入道殿の御迎にまい(ッ)て候」と申。「さて其札は何といふ札ぞ」ととはせ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼ほろぼし給へる罪によ(ッ)て、無間の底に堕給ふべきよし、閻魔の庁に御さだめ候が、無間の無をかゝれて、間の字をばいまだかゝれぬなり」とぞ申ける。二位殿うちおどろき、あせ水になり、是を人々にかたり給へば、きく人みな身の毛よだちけり。(P408)
<現代語訳>
平清盛の正妻・平時子が夢に見たことは、恐ろしいものであった。
(夢の中で)猛火が夥しく燃え立っている車が、屋敷の門の内に入った。その車の前後に立っていたのは、馬の頭や牛の頭をしている者であった(※牛頭と馬頭。地獄の獄卒)。車の前には、「無」という文字だけが書かれた鉄の札が立っていた。
平時子が夢の中で、
「その車はどこから来たのか?」
と尋ねると、
(牛頭もしくは馬頭は)
「閻魔の庁から、平清盛をお迎えに参りました」
と言った。
平時子は
「ところでその札はなんという札か?」
と尋ねると、
(牛頭もしくは馬頭は)
「(平清盛は)奈良の大仏を焼き滅ぼした罪によって、無間地獄の底に落とされることを、閻魔の庁が決定したのですが、無間の無だけを書いて、間の字をまだ書いていないのです」
と言った。
平時子は吃驚仰天し、冷や汗をかいて、この夢を人々に語った。これを聞いた人は皆、恐怖で身の毛がよだった。
(訳:安澤出海)
【参考文献】『日本古典文学大系32 平家物語 上』校注・高木市之助、小澤正夫、渥美かをる、金田一春彦 岩波書店 1980.8.15
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鴨長明『発心集』巻四の七「或る女房、臨終に魔の変ずるを見る事」
或る宮腹の女房、世を背けるありけり。病ひをうけて限りなりける時、善知識に、ある聖を呼びたりければ、念仏すすむる程に、此の人、色まさをになりて、恐れたるけしきなり。あやしみて、「いかなる事の、目に見え給ふぞ」と問へば、「恐ろしげなる者どもの、火の車を率て来るなり」と云ふ。聖の云ふやう、「阿弥陀仏の本願を強く念じて、名号をおこたらず唱へ給へ。五逆の人だに、善知識にあひて、念仏十度申しつれば、極楽に生る。況や、さほどの罪は、よも作り給はじ」と云ふ。即ち、此の教へによりて、声をあげて唱ふ。(P182-183)
※「火の車」の語の注に「罪人をのせて地獄にはこぶ車。火を発している。火車(かしゃ)。」とある。
その後、火の車が消えて玉の車と天女が女房の前に現われるが、聖は「それに乗るな。ひたすら念仏せよ」と言う。
更に念仏していると、玉の車などは消えて、僧が出現して女房を招く。だが、これにも聖は「ついて行くな」と言う。
更に念仏を続けていると僧も消えた。
更に念仏を続けていると遂に女房は息絶えた。女房は無事に往生したのだ。そして、このように結んでいる。
「これも、魔のさまざまに形を変へて、たばかりけるにこそ。」(P184)
【参考文献】校注・三木紀人『新潮日本古典集成(第5回) 方丈記 発心集』新潮社 H10.2/20
※鴨長明は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた人で、『方丈記』の作者として夙に知られる。ちなみに、芥川龍之介の小説「六の宮の姫君」は、この話を材にとっているが、ここで取り立てるほどでもないので省略。
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源信『往生要集』巻中末 大文第六 別時念仏、第二 臨終の行儀、次 勧念
問 『観仏三昧経』の説によると、
仏は阿難に告げていわれた、
「もし父母を殺害し、六親を罵り辱しめるような罪をつくる衆生があって、その命を終わる時は、銅の犬が大きく口を開いて十八の車の形をあらわす。その形は黄金の車のごとく、上に宝蓋があり、一切の火炎は化して美女となっている。罪人ははるかにこれを見て心に歓喜を生じ、その中に行きたいと思う。息を引き取る時、寒さがきびしくして声を失い、むしろよき火を得て車上に坐り、燃える火に自ら爆(あぶ)られようと思った時に、命が終わり、たちまちにしてその黄金の車の上に坐っている。そこで美女を顧みると、みな鉄の斧をとって罪人の身を切りきざむ」
と。
【参考文献】責任編集・川崎庸之『日本の名著4 源信』S58.6/15
※南方熊楠「岩田準一宛書簡」の項参照。
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『沙石集』巻第二「(六)地蔵菩薩種々利益事」
或遁世門ノ僧、随分ニ後世ノ心アリテ、念佛ノ行者ナルアリ。時料ノ為ニ耕作ナドセサスル事、サスガ由ナク、罪深ク思ヒケル夜ノ夢ニ、或山ノ邊ニ火車アリ、是ヲ師子ニカク。獄卒、是ヲヤリケリ。火炎オビタタシク見ユルニ、オソロシナドモ、イフ斗ナシ。獄卒云様、「是ハ敵ノアルヲ責ベキナリ」トイフ。ナニトイフ返答ニモ及バズ、恐テ過。其山ノ嶺ニ、若僧三人立テ云ク、「獄卒ガイヒツル事ハ、御房ハ聞ツルカ」ト宣フ。「承候ヌ」ト、答フレバ、「アレハ耕作シテ、多クノ蟲ヲ殺ス者ヲ、敵トシテ誡ムベキモノ也」[トテ]、
極楽ヘ参ラン事ヲ悦バデ 何ニ歎ラン穢土ノ思ヒヲ
カク三反バカリ詠ジ給フト見テ夢覚ヌ。サテ耕作ノ事、努ゝ思ヒ止マリタル由、親リ語侍リキ。地蔵ノ御方便ニヤ。忝ナクコソ覚侍レ。(P111-112)
【参考文献】校注・渡邊綱也『日本古典文学大系85 沙石集』岩波書店 1980.11.20
※『沙石集』は鎌倉時代の説話集で、無住法師の著。弘安六年(1283)成立。それにしても、農業をやるだけで地獄逝きというのはタマラナイ。尚、「罪深ク思ヒケル」からこそこんな悪夢を見たのではないだろうか。
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謡曲「綾鼓」
冥土の刹鬼阿防羅刹(足拍子を踏む)、冥土の刹鬼阿防羅刹の、呵責もかくやらんと、身を責め骨を砕く、火車の責めといふとも(足拍子を踏み、正面へ出る)、これにはまさらじおそろしや、さて何となるべき因果ぞや(ツレへ向き一歩出る)。
【参考文献】校注・訳:小山弘志、佐藤喜久雄、佐藤健一郎『日本古典文学全集34 謡曲集 二』小学館 S61.4.1
<綾鼓のあらすじ>
場所は筑前の国の、木の丸御所(斉明天皇の行宮)。そこの庭掃除の老人が女御に恋をした。身分違いとはいえ、女御はこれをあわれに思って、池の畔の桂の木の枝に鼓をかけさせる。そして、その鼓の音が御所に聞こえたなら逢おうという。老人はその鼓を打つが、皮の代わりに綾を張ってある鼓だったので、一向に音は鳴らない。老人は悲嘆の余り池に身を投げて死んでしまう。投身自殺の知らせを受けて女御が池の畔へ行くと、老人が怨霊となって出現し、女御を責め苛む。
※「綾鼓」は世阿弥の作とされるが、確証はない。尚、引用部分は、女御が怨霊に責めさいなまれた時に言ったセリフ。
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