remove
powerd by nog twitter

火車の資料(近代)


『遠野物語』
一一三 綾織村から宮守村に越える路に小峠という処がある。其の傍の笠の通(かよう)という山にキャシャというものがいて、死人を掘り起こしてはどこかへ運んで行って喰うと伝えている。また、葬式の際に棺を襲うともいい、その記事が遠野古事記にも出ている。その恠物(かいぶつ)であろう。笠の通の付近で怪しい女の出て歩くのを見た人が、幾人もある。その女は前帯に赤い巾着を結び下げているということである。宮守村の某という老人、若い時にこの女と行き逢ったことがある。かねてから聞いていたように、巾着をつけた女であったから、生け捕って手柄にしようと思い、組打ちをして揉み合っているうちに手足が痺れ出して動かなくなり、ついに取り逃がしてしまったそうな。
一一四 同じような話がまだ他にもある。稗貫郡外川目(そとかわめ)村の猟人某もこの女に行き逢った。鉄砲で打ち殺そうと心構えをして近づいたが、急に手足が痺れ声も立たず、そのまま女がにたにたと笑って行き過ぎてしまうまで、一つ処に立ちすくんでいたという。後でこの男はひどく患ったそうな。およそ綾織宮村の人でこの女を見た者は、きっと病気になるか死ぬかしたが、組打ちをした宮守の男ばかりは何事もなかったということであった。(P119〜P120)
注:『遠野物語』は柳田國男が明治42〜43年に遠野地方に伝わる話を採集したもの。

【参考文献】柳田國男『遠野物語』角川書店 S30.10.5

目次へ


菊池寛「頸縊り上人」
引用箇所までのあらすじ:平安時代、寂真上人は寵愛していた児(ちご)が急死したのを契機に「首を縊って極楽浄土に生まれ変わろう」と決意する。その決意が世間に知れ渡り、大評判となる。だが、寂真は段々死ぬ気が失せていってしまい、何とか止められないものかと思案するが、もはや引っ込みがつかなくなっていた。そして頸縊り決行の日…。

 そのうちに、いよいよ結願の日が来た。上人は、前の夜心悩ましく睡れなかった。ただ、暁(あけ)ごろにふとまどろみけるに、坊の外におおぜいの足音よと覚えて、おびただしくとどろき聞こえけり。あやしやたれやらんと、見たまいけるに、はや中門のなかに込み入りぬ。庭上には、猛火烈々たる火の車を遣り据えてあった。炎の中に、鉄の札の立てるが、おぼろげに見えけるが、無間地獄の罪人とかきたり。時に、青赤黄白黒の鬼ども、大床に飛び上がって、上人を引き立てんとす。上人おどろきおそれて、
 「こはいずこへつれ行くぞ。年ごろの戒行をあわれみて、ゆるさせたまえ。」と叫んだが、会釈もなく、かいつかんで、火の車に抛げのせ、刹那の間、空中を翔ると見て夢さめたり。その間の苦しさたとうべきものもなかった。額には、あぶら汗が玉のように浮かんでいた。あわれ、死んで地獄に落ちる正しきしらせだと思うと、上人の心も肝も、身に添わず、ただはげしくふるえるばかりであった。
 よしなき往生の思いを起こしたために、かえって思いがけぬ妄執にとらわれて地獄へ落ちるかと思うと腸(はらわた)がかきむしられるように悲しかった。(P210-211)

【参考文献】菊池寛『恩讐の彼方に・忠直卿行状記』岩波書店 2006.1.16
※菊池寛は近代の小説家で、博識である。この文章は擬古文と現代文が入り混じって少々読みにくいが、近代の人間が平安時代の火の車をどう見ていたかを知る傍証になりはしないか。尚、ここの火の車の描写、特に鉄の立て札などは、平家物語から材をとっているように思う。

目次へ


南方熊楠「柳田国男宛書簡」
「柳田国男宛書簡35」
 前書申し上げしカシャンボ(河童)は火車のことなるべし。火車の伝、今も多少熊野に残るにや、一昨年南牟婁郡に死せる女の屍(しかばね)、寺で棺よりおのずから露われ出で(生きたる貌にて)、葬送の輩駭(おどろ)き逃げしということ『大阪毎日』で見たり。河童と火車と混ずること、ちょっと小生にはわからず。(P143)
※この書簡の冒頭に「明治四十四年十月八日夜十二時過」と日付を記してある。

「柳田国男宛書簡36」
 御下問のものに縁あることども、扣(ひか)えども閲して少々かきつけ候。以下は、『続々群書類従』よりとるなり。
『世田谷私記』穂積隆彦撰。世田谷勝光院の什物に火車の爪あり、これはある亡者を送りける時、火車亡者を取らんとせしに、この寺住持智徳あり、数珠にて払いぬ。この時この者の爪落ちたり、と。文化九年十二月五日、これを見るに爪四つなり。数珠は水晶なり。焼けたる袈裟もあり、云々。『一話一言』にも、火車切りし人の刀のことあり。また『常山紀談』にも、多田新蔵とか信濃のものにて信長を狙撃し殺さるる大勇士、火車切りし話あり。(P146)
※この書簡の末尾に「明治四十四年十月九日」と日付を記してある。

「柳田国男宛書簡67」
 ついでに申す。熊野にて河童のことをカシャンボと申す。これは疑いもなく火車坊の意に候。(支邦にも罔両と申すもの、水にすみ、また死人の魄を食らう、とあり。河童と罔両と似たことなり。)しかるに今日、カシャンボが死尸を犯すという伝話は、小生知るところにては絶えおり候。全く河童のみを申すなり。(ただし、死人、火車に取られ候ことは、今も南牟婁郡辺には多少行なわれ候由。)さて、亀の梵名車婆と申し候。(『梵語字彙』当地になきゆえ正音は知らず。)前般申し上げ候諸国に亀が人を取ること、河童にはなはだ近き話多し。軽卒なる人は火車のことを知らずに、カシャンボは車婆の訛りにて、取りも直さず河童の話は、亀、人を取る話より出でしということも難きにあらず。例の言語のみで古話、俚談を判ずるの誤り多き例として申し上げ置き候。(P267)
※この書簡の冒頭に「明治四十五年一月十五日夜」と日付を記してある。

【参考文献】『南方熊楠全集 第八巻 書簡2』平凡社 S47.4/20
※南方熊楠の「河童とは火車のことではないか」という説に対しての柳田國男の回答は柳田国男「山島民譚集(一)」を参照されたし。

目次へ


南方熊楠「岩田準一宛書簡」
「岩田準一宛書簡112」
 東晋天竺三蔵法師仏陀跋陀羅訳『観仏三昧海経』(一〇巻あり、『観経』また『海経』という)巻五に、「仏、阿難に告げていわく、何を名づけて火車地獄となすか。火車地獄なるものは一々の銅、縦広(さしわたし)まさに四十由旬に等しく、中に満たして盛んなる火あり。下に十二の輪あり、上に九十四の火輪あり。おのずから衆生あり、仏の弟子、および梵天九十六種に事(つか)うる出家の徒衆および在家者たるものにして、誑惑(まどわ)して命を邪(よこしま)にし、諂曲(へつら)いて悪を作すあり。かくのごとき罪人は命の終わらんとする時、風大まず動き、身冷たきこと氷のごとし。すなわちこの念を作す、何の時か、まさに大猛火聚を得て、中に入って坐する者永く冷病を除かん、と。この念を作し已(おわ)れば、獄卒の羅刹、化して火車と作り、金蓮華のごとし。獄卒、上にあって、童男の像のごとく、手に白払(ほっす)を執り、鼓舞して至る。罪人、見已わって心に愛著を生ず。かくのごとき金華の光色顕赫(かがや)き、われを照らして熱からしむれば、必ず寒冷を除かん、もし上に坐するを得れば、快さ言うべからざらん。この語を作し已わって、気絶え命終わる。火車の上に載すれば、支節火に燃え、火聚の中に堕ちて、身体焦げ散ず。獄卒、活きよ唱うれば、声に応じてまた活く。火車、身を轢くこと、すべて十八返にて、身砕けて塵のごとし。天、沸きたつ銅(あかがね)の雨ふらし、あまねく身体に灑(そそ)げば、すなわち還(ふたた)び活く。かくのごとく往き返りして、上れば湯の際(ふち)に至り、下れば(かま)の中に堕つ。火車の轢くところ、一日一夜にして、九十億たび死し、九十億たび生く。この人、罪畢(おわ)れば、貧窮の家に生まれ、人の使うところとなり、緊(きび)しく他に属して自在なることを得ず。(下略)」(P246-247)

【参考文献】『南方熊楠全集 第九巻 書簡3』平凡社 S48.3.1
※この書簡(葉書)の冒頭に「昭和九年三月二十三日早朝二時」と日付が記してある。源信『往生要集』の項参照。

目次へ


柳田国男「山島民譚集(一)」
紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ッテ「カシャンボ」ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六、七歳ホドノ小児ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ青キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々悪事ヲ為ス。同国東牟婁郡高田村ニ高田権頭(ゴンノカミ)・檜枝(ヒヅエノ)冠者ナド云フ旧家アリ。此中ノ或家ヘ毎年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ来ル。姿ハ見エザレドモ一疋来ル毎ニ一ノ小石ヲ投込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈々山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイヘリ[南方熊楠氏報]。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ為スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繋ギ置キタル馬ヲ取隠サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦悩スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水辺ヨリ出デ来リテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。試ミニ小屋ノ戸口ニ灰ヲ撒キ置ケバ、水鳥ノ如キ足趾一面ニ其上ニ残レリ[同上]。「カシャンボ」ハ火車ヨリ転ジタル名称カト南方氏ハ言ハルレドモ未ダ確証ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ住ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見エタリ。(P78)

(現代語訳)紀州熊野では、河童は冬には山に入って「カシャンボ」というものになるという。「カシャンボ」は6〜7歳ほどの小児の形で、頭は芥子坊主で、青い衣を着ている。姿は愛らしいが、結構悪いことをする。同国東牟婁郡高田村に、高田権頭(ゴンノカミ)・檜枝(ヒヅエノ)冠者などという旧家がある。この中のある家へ毎年の秋、河童が新宮川を上ってきて挨拶に来る。姿は見えないが、一匹来るごとに1つの小石を投げ込んで到着を知らせ、それから山林に入って「カシャンボ」になるのだという[南方熊楠氏の報告]。「カシャンボ」は牛馬に害を及ぼすことが多い。あるとき、木を伐りに山へ入った者が、木に繋いでおいた馬を(カシャンボに)奪われて隠され、(探し回って)ようやく見つけたが、馬がたいへん苦しんでいる。そこで大日堂の護摩札を受け取って、わずかに効果があった。またあるときは、水辺より出てきて毎夜牛小屋を襲い、涎(よだれ)のようなものを吐いて牛の身に塗りつけて牛を苦しめた。試しに小屋の戸口に灰を撒いておくと、水鳥のような足跡が一面に残っていた[南方熊楠氏の報告]。「カシャンボ」は火車より転じた名称ではないかと南方熊楠氏は言うが、私はいまだ確証を持てない。とにかく夏の間に里の川の水に棲む者をも同じく「カシャンボ」と呼ぶようである。

【参考文献】『定本 柳田国男集 第二十七巻』筑摩書房 S42.8.25
※ここに記されているカシャンボのエピソードを読む限りでは、どうみても火車ではありません。河童です。

目次へ


柳田国男「口承文藝史考」
是と稍々似たのは我の謂ふ「猫檀家」、即ち貧乏寺の老和尚を救う為に、猫が火車(くわしゃ)に化けて長者の葬式を脅かすといふなども、和尚はワキだから動物譚と謂ってもよいのである。(P101)

【参考文献】『定本 柳田国男集 第六巻』筑摩書房 S42.6.25
※火車について調べていたら、上に引用した一文に遭遇いたしました。では、「猫檀家」とは何ぞや? 「猫檀家」のあらすじは以下の通り。

猫檀家[ねこだんか]
 寺の飼い猫が、世話になった恩返しに呪力を用いて寺を富ませる話。貧乏寺の和尚が食べる物に困り、可愛がっていた猫に暇を出す。猫は<まもなく長者の娘の葬式がある。そのときに棺を空中に上げるから経をあげろ、《ナムトラヤー》と唱えれば棺を下ろす>と教えて去る。葬式の野辺送りで棺が舞い上がり、大勢の和尚が来て経を読むが下りない。最後に貧乏和尚が招かれて<ナムトラヤー>と唱えて下ろす。和尚の名声は広まり、檀家がふえて裕福な寺になる。(常光徹、P193)

【参考文献】『昔話・伝説小事典』編・野村純一、佐藤凉子、大島広志、常光徹 みずうみ書房 S62.11.25
※たしかに、野辺送りで棺が突如空中に浮揚したら、参列者は「火車の仕業だ!」と思うかもしれません。しかし、棺を持ち上げたのは化け猫であって、火車ではありません。火車なら棺だけ残して死体を掻っ攫ってしまうことでしょう。

目次へ


折口信夫「河童の話」
人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になってゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件になつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅城門で切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い處から、地上の人をとり去らうとする火車なる飛行する妖怪と、古猫の化けたのとの関係をも説かれた。其後、南方熊楠翁は紀州日高で、河童をかしゃんぼと言ふ理由を、火車の聯想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべてくわしやと稱へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起こす狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を傳へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た弥三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓堀りの際にあつた。坊さんの知識から、火車なる語の出た順序は考へられる。
江戸中期まで色町に行はれたくわしやなる語は、用法がいろいろある。よび茶屋の女房を言ふ事もあり、おき屋の廻しの女を斥しても居る。くわしやを遣り手とも言うてゐるが、後にはくわしやよりも、やりてが行はれた。さうして、中年女を聯想したくわしやも、やりてと替ると、婆と合点する程になつた。くわしやの字は花車を宛てゝゐるが、實は火車であらう。人を捉へて引きこむ様からの名であらう。芝居に這入つて「花車形」といはれたのは、唯の女形のふけ役の總名であつた。(P296-298)

<現代語訳>
 人に捕えられた河童は、以後はその村の人と取らないという誓約書をしたためる。あるいはその誓約書は、引き抜かれた腕を返してもらうためにすることになっている。腕が抜けやすいということも、河童から切り離すことのできない、重要な条件になっていた時代があったに違いない。
 その後、妖怪の腕を切り落とす形になっていく。柳田国男先生は、これを河童考の力点にしておられる。羅城門で切られた鬼の腕(渡辺綱が茨城童子の腕を切り落とした話)も、その変形で、河童から鬼に移ったのだと説かれた。
 それから、南方熊楠先生は、紀州日高で河童を「かしゃんぼ」という理由を、火車からの連想だと決定された。
 自分が思うに、生きている人・死んでいる人を取って食おうとするものを、全て「くわしや」と称していたことがあったらしい。人を殺し、墓を掘り起こす狼のようなものも、火車の一類として、化け猫の話同様に伝わっている。老女に化けて、家で留守番をしている子どもをおびき出して食べてしまう話は、日本にもある。又、『今昔物語』以来、いくばくかの変形を経た話――弥三郎という猟師の母が狼の心になって息子が出かける先の山に待ち伏せて息子を食おうとしてかえって切られた越後の話――などがそれである。
 そういう人食いの妖怪の災いを除く必要は、特に、葬式・墓堀の際にあった。坊さんの知識から、火車なる語が出た、という順序は考えられる。
 江戸中期まで、色町で使われた「くわしや」なる語は、用法が色々ある。呼び茶屋の女房をいうこともあり、置屋の廻しの女を指してもいる。「くわしや」を遣り手をも言っているが、後には「くわしや」よりも「遣り手」の語が使われた。そうして、中年女を連想した「くわしや」も、「やりて」に交替すると、婆とみなされることになった。「くわしや」は「花車」の字を当てているが実は「火車」だろう。人を捕えて引き込む様からそう名づけられたのだろう。ちなみに、芝居で「花車形」といわれたのは、ただの女形の老け役のあだ名であった。
(訳:安澤出海)

【参考文献】『折口信夫全集 第三巻』中央公論社 S47.7.20

目次へ


井上円了『井上円了 妖怪学全集 第三巻』
「第八 雑部門 第二講 怪物篇 第十四節 通り物」
また、わが国にては怪火空中を飛行するを見るときは、一般の火車の通過するなりといい伝うることなるが、この説は仏教の地獄説よりきたりしものなること疑うべからず。しかして、ときにその火中に鬼の形を見、また車の形を見たりなりと唱うるは、もとより妄説にして、もし真にかくのごときものを見し人あらば、その人は妄覚の作用によりてこれを認めしにて、実にかかる形がその中に存在すべきはずなきなり。しかるに『茅窓漫録』には「火車」と題して、人の死体が空中に巻き上げられ、ついにその跡をかくししことを記せり。その文、左のごとし。
(引用箇所省略)
 かくのごときことは、けだし渦風のために起こりしものならん。それ渦風の力は実に驚くべきものにして、その強き場合には往々、家屋その他の地上の物を空中に巻き上ぐることあり。されば、死体なりひつぎなり、たまたまこの風にあうときは、また空中に巻き上げらるるならん。かつ、その落つる所に定まりなく、あるいは遠き山林の中に落ちて、ついに人の目に触れざるに至ることもあるべし。これ、別に怪しむべきことにあらずといえども、古代未開のときにありては、従来の想像に導かれて、たちまちこれを地獄に誘われたるものとなし、あるいは天使もしくは鬼神が、その死体を奪いしものとなすを常とす。また、ときとしては、すでに葬りし死体が跡をかくすことあり。これは獣類のなすところなるか、しからざれば他人が思うところありてその塚をあばき、さらに他所へ移すにほかならざれば、迷心なき者より見れば、もとより怪とするに足らず。しかるに、古代にありては一般に種々の迷信をいだけるをもって、かくのごときことのありたる場合には、大抵その原因を探知することあたわず、率爾に鬼神、妖魔の所為に帰するを常とす。これ、この種の怪談が古代に多くして、今日にはほとんどなきに至りしゆえんなり。(P642-644)
【参考文献】井上円了『井上円了 妖怪学全集 第三巻』柏書房 1999.4/30
※井上円了は、妖怪を否定するために妖怪を研究していた妖怪博士である。

目次へ


(戻る)