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約束の日が訪れました。
今日この日を持ちまして、僕は一つの答えを明かそうと思います。
といってもそれは、「夕闇通り探検隊」という物語の補完ではなく、無数にある解釈の一つに過ぎません。
従いまして、作り手から提示されたものだからといって絶対視だけは決してしないでください。
(むしろ、そのような間違いが起こるならば、お読みにならない方が良いかと思います)
以下の文章は、ゲーム本編中ではナオのセリフ「血の匂い」など、断片的にしか描かれていない
「クルミの死という現象」についての、現実の側からメスを入れた考察です。
つまり、クルミの死についての論理的注釈なのです。
文書としては、実開発に入る前、先の「目撃談」の後に書いたものです。
あそこで述べた「大量の文章」の主だった一つであります。
今もって若干の迷いもあるのですが、この「答え」により、よりポジティブな作品解釈の助けになればと思い、
謹んで寄稿させていただきます。

ファンの皆様のイメージを壊してしまわぬよう祈りつつ。






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                     クルミその死
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■何故クルミは死ななくてはならないのか?

僕はそれを論理立てて説明することはできない。
これはただのイベント(事実)。
事実に運命論的な「何故」は無い。あるのは原因と結果、それのみである。
むしろ残った二人、ナオとサンゴの事実に対する受けとめ方にこそ、物語はある。
幽霊や呪いを・・ではなく、変われる自分を信じること。
若い自分たちの身体には、悲嘆したり自棄したりすることよりも強い、ポジティブなエネルギーが宿っていること。
黄昏は、夜の闇を経て、必ずまた朝日を迎えるのだ。

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■事象としての、クルミの死

大量虐殺や大災害を別とすれば、個人の死は日常だと思う。
産声をあげる者と同数、死んでいく者がある。それは自然だ。
だからドラマティックであるとか、ないとか、その手の議論は控えて頂きたい。
この死についても、僕は必要以上の演出は無用と考えている。
「殺して泣かす」ような予定調和は、今回の物語には相容れないのだ。
とはいえ、先程も述べたとおり、原因あっての結果である。
それだけは最低限の説得力を与えておかねばならないだろう。
事象としてのクルミの死、その主な原因は以下の二つで、その二つが影響しあいクルミの精神に取り返しのつかないヒビを入れた。

原因その1、脳神経を活性化させる薬物の過剰(?)投与
  医師曰く「過剰ではない、タイミングの問題だった・・」。
  全てにおいて自己の非を認めるという態度ではない。
  むしろ原因2の方にウェイトがあるような口振りである。
  これも一つの事実だが、担当医のアキガワ医師は学会に向けて自説の完成を急いでいた。
原因その2、初潮による精神の変調
  肉体も、幼い心を変えようとする。本人の求めると求めないとに関わらず。
  50日目の出来事である。クルミは明らかに変化が訪れたことを感じた。
  だが、それのもたらす意味を理解することはついにできなかった。
  白い病室に目覚めるなり、彼女は問う「クルミ、なにか悪いことしたの?」。
  医師は安心させようと首を横に振ったが、クルミはその男を信じなかった。
  医者も病院も、その部屋の異様な白さも、彼女は大嫌いだったのだ。

疑うことを知らぬ、幼いが幸福な魂。
誰かがそれを病気だと言った。(教師?親?医師?大人になりつつある子等?)
その人(達)の世界観において、それは不幸だと。
そして、その人達の望んだ通りに、クルミには一時的ではあるが、いわゆる「正常な感受性」が与えられる。
それが彼女に何をもたらしたか、問題はそこだ。

結果その1、現実/非現実の認知
  彼女の見ていた、人の精神の残滓(いわゆる幽霊)や不思議な者らは、姿を消す。
  木々や生きる物達、自然のざわめきも聴こえなくなった。
  代わりに現れたのは、現実という名の、灰色の世界。
結果その2、自他に対する客観性
  みんながみんな、自分や他人を好きだという「信念」の崩壊。
 (一例として2-2クラスの人間関係図参照)
  もっと言おう、他人の「嫌悪」「憎悪」の気持ち。
  暗く沈んだ「暴力」や「欲望」「コンプレックス」。
  始めて知る、もう一つの人間の本質的感情・・。

都市のヨドミを恐れたように、クルミは新たな「自分の感受性」がもたらした「新たな世界」に、言い様のない恐怖を覚えたのである。
(テレパシーが今、使えるようになった。他人の考えが意図せず読めてしまう。
 だが、皆、狂っていた・・。そんな恐ろしさに置き換えられるか。)
また苦痛なのは、自分を哀れむ眼、眼、眼。
自分が周囲に悲しみを与える存在だと知った時の彼女のショックは大抵ではない。
「死ぬの恐くないヨ、でもね、クルミ嫌なの
 クルミのせいでみんな悲しそうな顔する・・
 クルミのせいでみんな笑ってくれなくなる・・」
自分の心が映し出す、どうあがいても逃れられない恐怖。
そこから抜け出すために、やがてクルミは最後の強攻策に出た。
全脳、全神経を自ら閉ざすことで、世界からの脱出をはかったのである。
1998年、夏。享年14歳。
そして小さな蕾は、花開くことはなかった。

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■それでは、クルミは自殺なのか?

前項に対する、そのような質問はもっともである。
自ら命を絶つことはネガティブな「脱出」である。
無論物語として、そうしたネガティブを行わざるを得ないところまで追いつめられる哀しさだとする決着のつけかたもあるだろう。
だが僕は、何故かそれには賛同できない。
まずこの物語をそうは受け取ってほしくないという気持ちがある。
僕の主観においてこの小さな死は、壮絶なミステリーでもなければ、極端に涙を誘う劇的境遇でもなかった。
また「自殺」=「ネガティブな解決」という既存の道徳観念に帰結することも、なにか大きな間違いであるような気がしてならない。
クルミは僕の知る限り、そんなに弱くもなければネガティブでもないからだ。
とすれば彼女は「死」という強攻策の意味を深く理解していなかったのではないか?
否、正確には理解していないというより、全く別の捉え方をしていたのだ。
この物語に長くつきあってくれた皆さんには、もうお分かりいただけたと思う。
この「クルミ的発想」を、ゲーム全編に見ることができるはずだ。

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■霊の種類とクルミの知覚

自己満足的な答えを得られたところで、僕はその理由を明かさなくてはならない。
それにはまず本作のメインシーンとなる100日間の探検において、クルミはどんな幽霊を見ていたのかを説明する必要性が現れてくる。
ゲーム中噂などで扱う霊には律(法則性)があり、その種類は大きく分けて以下の三つにカテゴライズされる。
それがクルミの死について何を意味するか、考えてみたい。

・個人の妄想が生み出す「霊」
 罪の意識などの強迫観念、死へのイマジネーションによるもの。
                     →クルミ見えない
・共同幻想が生み出す「霊」
 噂をはじめとする恐怖するしたいという集団の心理、または宗教など。
                     →クルミ見えない
・精神作用の残滓たる「霊」
 ココロや念、生き霊や死霊と呼ばれる類、科学的説明はできない。
                     →クルミ見える

クルミの目には残存する人の精神が幽姿となって知覚される。
それはある種の証明されていない、この世の真実なのかも知れない。
不可知、・・分からないと言うことだけが、僕らの本当のところである。
そして、ここでの推察はこうである。
クルミの世界において、
〜生と死は連結する一つの輪であり、境い目はない〜

死はクルミにとって得体の知れない「消滅」ではなく、緩やかの連鎖の一環なのだ。
そして人より少しだけ早く、連鎖の中の一歩を自ら進めた。
酸素吸入器が止められ、心拍数が低下、全ての生命活動が停止すると、第三者の目に死は急激に現実化する。(→脳死)
ところが深夜、戸口に現れる見慣れた影。
ふらりと遊びに来るクルミの「精神」・・。
クルミは最後までクルミ的であったと、そう言いたいわけだが、このあたり演出が過ぎやしないかと、僕は少々気恥ずかしくなる。
というわけで、これが僕の「クルミ自殺説」に打ち込む一つの楔(くさび)である。
が、それでもサンゴならこう言うだろう。
・・クルミは自殺だ、と。

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■では実際にあり得るのか

狂気に陥るのではなく、脳が指令を下し、自らの神経機能を停止させる。
痛々しいまでの「力」を見せつけた少女クルミの物語。
はじめに断っておくが、これは現在のところSFに過ぎない。
(似たケースは確認されている。神経性、ストレス性の症例は全てクルミの軽度のケースだといえるからだ。・・ま、幽霊話にSFもくそもないが)
もう一つの問題としては、作中に登場する前衛的神経科医の存在がある。
・・科学万能の宗教に身をやつした医師が、「医の進展」という大義名分を果たすべく、いたいけな少女に危険な投薬実験を行い、結果少女は死ぬ。
当初のアウトラインはこうだったと思うが、改めて考えてみるとあんまりな話である。
「ニュートロピル(脳を活性化させる神経系薬品)のキケン」という、漠然とした、それこそ口承伝承にオチを求めすぎている。
詳しく取材すべきとの心遣いは全く正当な意見だったと思う。
だが、現在の物語はそうではない。
神経科医の登場には代わりないものの、少なくとも彼の処方は功を奏しているからだ。
肉体の変化という相乗効果もあり、彼の治療は、明らかにクルミに「正常な感性」を与えるに至った。
死因も薬物の過剰投与ではなく、クルミ自身の自己の感覚に対する拒絶となった。
これをもし医師の過失と呼ぶなら、あらゆる精神治療は過失の連続である。
自分のことを患者と認識しない相手に治療を施すというのだから。(→ドグラマグラ)
「治療」の認識の違い(正常と異常の認識の違いとも言い換えられるか)。
その前衛的医師は拒絶反応を過小評価し、結果を焦った。
「治療」は成功したが、クルミの意識は肉体から消え去った・・。
やはり行き着くのは、起こってしまった事実。それだけのことである。
(そしてクルミの自己破壊的な拒絶反応はフィクションであるとともに、唯物唯脳を心のどこかで否定する僕の希望でもある・・)

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■しかしあえて・・

問診と称した取材を僕は先週土曜日にやってきた。
患者という甘えで素知らぬ振りをして、担当医に質問を投げかけてみたのである。
担当医村林先生は東邦大付属病院で診察を続ける傍ら、開業医も行っていらっしゃる、その分野では日本でも指折りの名医だという話だった。
TV取材を行った父親の友人から紹介を受けたのだが、診察当初の印象は定かでない。
神経症のひどかった僕には、掴むべき藁にしか見えなかったのだ。
そんな僕に対し、村林医師はそっけなくいった。「治りますよ」
今考えてみれば、治りたがる患者ほど医者にとってありがたい客はなく、逆に治りたがらない、自覚がない患者ほど歓迎できない客はいない。
そんな率直な言葉だったのだと思う。
話が少々脱線したので、ここで村林先生への質問を挙げてみたい。大きく3つある。

1、神経科とは、精神科か?
2、1でないとすると、神経科とは、論理医学か?
3、幽霊(科学で証明できない因縁因果)は存在すると思うか?

まず1については明瞭な答えだった。
ストレートに脳の神経細胞を指す「神経」ではなく、やはり抽象的「精神」の延長なのだとおっしゃられた。
診察が患者の日頃の出来事などを問う、問診中心なのも合点が行く。
となると気になるのが、毎週処方していただいているこの薬である。
僕がもらっている薬には2種類あり、そのどちらも疑似薬ではない。
一つは大正製薬の昇圧剤、低血圧に処方する。
もう一つは○○○という、アルツハイマー等の治療に効果ありとされている薬。
薬という西洋医学的物理療法が存在する時点で、やはり2の質問は避けられない。
肉体のバランスを取ることで精神の安定を図るという答は予期していたが、「○○○」は明らかにニュートロピルで、脳に作用しているハズなのだ。
村林先生の答えは、滑らかなものではなかった。
「脳に作用している」事自体は認められたが、多少躊躇した後、分からないことが多いという事実を述べられた。
「分かっている範囲でしか処方できない、デリケートなブラックボックスだからね」
つまり分からない。普通こんな患者を心配させるような話は、医師は絶対にしない。
その点村林医師は僕の快癒を信用してくれたのだと思う。
同時に村林医師はこの問題に対し、ある意味保守的な立場を保っていらっしゃるように見えた。まだ脳医学を論理化するべきではないという。
当然それは未知なる副作用、拒絶反応の悲劇を危惧してのことだろう。
すると自ずと3に対する答えも予想がついてくる。
「幽霊というものの話は、これも分からないね・・。
 ただあなたが言うような、因果応報によって病気になるという話は賛同しかねる。
 酒を飲んだら肝臓がやられると言う因果関係ほどはっきりしていないからね。
 分からないことには実際かかってから対処していく他ない。
 祟りがあると思いこむストレスこそが原因なのかも知れないのだし。」
なんだ、分からない尽くめじゃないか。
「何もかもを理屈で証明しようとする態度(ニュートロピルを指す)は危険が過ぎる。
 とはいえオウムを例に出すまでもなく、オカルトで解決できるのかと言えば眉唾だ。
 未来論理の進歩は明らかだろうけれど、そのときはもっと、分からないことに対す
 る謙虚さが重要になるだろうね。」
なんというか、見事な肩すかしというか。
そうして再び僕の前には、唯物/精神の奇妙に揺らめく天秤が現れてきたのだ。
多分果てしなく珍妙な顔つきで、僕は診察室を出た。

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■追記

実は僕が手がけている仕事にクルミというキャラがいて、と言う話はしなかった。
人間の脳というものに関する限り、まだそのほとんどが推測の域を出ないと言う事実。
前進を焦れば(その一歩はある種の医師達にとっては魅惑的だが)危険だという意見。
このフィクションにそれ以上の論理的注釈は不要と思ったからである。

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                                  資料作成 1997年2月17日




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