作:◆l8jfhXC/BA
「だーっ!」
限界に達した頭をかかえて、リナは机の上に突っ伏した。
様々な筆跡で書かれた紙片の山が散らされ、床へと舞い落ちる。
「少し休憩しましょう。無理をしても仕方がないわ」
その紙を拾い集めながら、千絵が声を掛けてきた。片手にはペットボトルを持っている。
それを受け取り一気に飲み干すと、パンクした頭が少しは落ち着く。
刻印の解読はもとより、研究結果の内容の把握自体に時間がかかっていた。
多種多様な異世界の理論をまとめる以前に、その理解に難航していた。
(色々同時進行だと、なかなか進まないわねー……)
筆者のうちダナティアとメフィストは別棟に、保胤は志摩子と重要な話があるらしく別室に、それぞれ移動済だ。
特異な人外の存在であるセルティも、臨也と何か話すためにやはり別室に移動している。
(まぁ、この子はこの子で十分役に立ってもらってるけど)
隣に視線を向けると、てきぱきと書類を整える千絵の姿があった。
彼女には異能の知識こそないものの、頭の回転が早く、細かな論理の綻びや相違点によく気がつく。
複雑な理論を読み解く助手として最適といえた。
「睡眠も取った方がいいと思うわ。確かに“カーラ”の対策は早めに打つべきでしょうけど、先は長いもの」
カーラ、というのはここでは刻印の隠語だ。
筆談ばかりで沈黙し続けるのは、盗聴している管理者達を怪しませる。
そこで同じ“対策を考え”、“呪縛を解く”ことが必要な支給品の名前を使っていた。
「次の放送が終わったら休むつもりよ。こんな中途半端なところで止めたら、気になって眠らんないわ」
『つーか、オレを殺してくれれば一発じゃねえか?』
「ややこしくなるからあんたは黙ってて」
机の上の十字架──エンブリオから響いた声を、リナはぴしゃりと拒絶する。
茉衣子が持っていた“彼”が物騒なことを喋り出したのは、ダナティア達が移動した後だった。
──自分の声を聞ける者が自分を殺せば、潜在的な力を完全に引き出すことが出来る、と。
本人も殺されたがっているのだが、しかし持ち主である茉衣子は彼を死守したいらしい。
ゆえに彼女の意識がない今のうちに殺して欲しいと、彼は語りかけてきたのだ。
「あいにくだけど、あたし達もあんたは殺せない。今はまだ、ね」
『けっ、何でどいつもこいつも渋るかねえ』
そんな強大な力があるならば、調査が進んでいる刻印よりも、この世界からの脱出などのために温存するべきだ。
そんな結論を、先程携帯電話でダナティア達と出したところだった。
ただ精神不安定な茉衣子の元にあると、何かの拍子に壊される可能性があったため、ひとまずリナの元に退避することは同意された。
「あんたに役に立って貰うのは、もっと重要な問題にぶち当たった時よ。
“カーラ”はあたしと千絵で十分。──よね?」
「……え? あ、ごめんなさい、よく聞いてなかったわ」
自信を持って同意を求めた先の少女は、しかしぼんやりと紙片を眺めていた。まだリナが見ていない、他とは異なる紙質のものだ。
彼女は慌てて視線を戻すが、その表情は硬いままだった。
「こんな奴の手を借りなくとも“カーラ”は倒せるって言ったのよ。あたしを誰だと思ってるのよ?」
「……ええ、そうね」
あえて軽い調子で宣言しても、千絵は暗い表情のまま答え、
「ごめんなさい」
「……なによ、いきなり」
なぜか謝罪の言葉が続けられた。反応に困り、思わず強い口調を返してしまう。
千絵との関係は未だに修復されていない。
刻印関連以外の話となると、双方共に遠慮がちになっていた。
また、話をする暇がないほどに、彼女が刻印解読に積極的だったとも言える。
単純にレポートを読んだ量ならば、リナよりも多いだろう。
「私は、何かしなければって思って……でもそれが結局、現実から目を反らしてるだとは理解してるの。
あなたには特に償わなければいけないのに、何も出来ていないことも。
でも今は、どうしても立ち向かえるだけの気力がないの」
「…………」
千絵の素直な告白に、リナは驚きとわずかなを戸惑いを覚える。
確かに彼女の必死に何かを成そうとする姿は、罪滅ぼしというより一種の逃避に見えていた。
しかしそれを本人が自覚して、その上わざわざ告げてくるとは思わなかった。
彼女の言は、ただ率直に自身の行動を咎めていた。
「……いいんじゃない? 逃げれば」
「え?」
それゆえにリナは、あえて素っ気なく答えを返した。
あっけにとられた表情で見返す千絵に対し、淡々と言葉を続ける。
「頑固に立ち止まって何もしてないよりは、ずっといいじゃない。
そういう風に自分の状態をちゃんと理解して、素直に話せるなら十分よ」
おそらく、彼女は真っ直ぐすぎるのだ。
たとえ自分自身であろうと、間違っていると思ったものは容赦なく糾弾してしまう。
「だから、逃げるんなら謝ってないで全力で逃げなさい。
うじうじしてる暇があるんなら、あたし達に協力してくれた方が助かるわ」
「……リナさんは、私を恨んではいないの?」
「当たり前よ。あんたはアメリアと同じ被害者側の人間だってわかったもの。
恨むのは主催者だけにするって、もう決めたから」
彼女と、そして自身の迷いを断ち切るように断言した。
確かに千絵は被害者だったが、負の感情がまったくないと言えば嘘になる。
アメリアを殺した聖の義妹である志摩子に対しても、その事実を知って以来気まずくなっている。
そんなわずかに残る私怨も主催者に向けなければ、集団内にいらぬ波風を立ててしまうだろう。
(でも、あいつだけは許せない)
吸血鬼騒動の原因であり、現在の気落ちした状態をつくり出した女だけは、発言とは異なり恨みを捨てる気はなかった。
彼女が引き金となって死んだ人間と、心を壊された人間が多すぎる。
直接手を下したことはないらしいが、間接的な被害が甚大すぎた。
(……そうだ、エンブリオを使えば、あいつも倒せる?)
先程は気圧されてしまったが、これさえあればアメリアの敵を討てるかもしれない。
もちろん勝手に使いはしないが、この十字架の有用な使い道の一つとして候補に入れておくべきだろう。
「あの、リナさん」
思考に沈んでいると、千絵がふたたび口を開いた。
その表情はやはり暗いが、声は幾分かしっかりとしている。
「……ありがとう。私はまだ、あなたに何も返せていないのに」
「いーのよ。今は、こっちを片付けるのが先でしょ?」
明るく返すと、千絵はわずかに口の端を緩め、ふたたび紙に手を伸ばした。
作業を再開させる彼女を見ながら、リナは手元の十字架を引き寄せる。
ひそかに強く握ると、決意が固くなった気がした。
○
「──来たわ」
来訪者を告げるダナティアの一声で、場の空気が一瞬にして張りつめた。
バクテリアの治療を終了し、全員が万全の準備を整えたところだった。一定の緊張はあるが、恐れはない。
視線を集めるダナティアは、目を閉じたまま魔術の視界に映る人物の特徴を羅列する。
「二人組ね。一人は長い黒髪の若い女性。細身の長身。白い外套を羽織っているわ。
武器は見たところ持っていないわね。もう一人は……」
言いかけて、彼女は眉をひそめた。
「何かあったのか?」
終の問いかけにも、ダナティアは黙り込んだままだった。
しばらく何かを考え込むように動きを止めた後、彼女は口を開く。
「深緑色の……ブレザーって言うらしい制服に、薄い茶髪の少年。
手にはナイフ。背負っているデイパックからライフルらしき銃口が覗いているわね。
……彼はあたくしが知っているわ。あたくしの知り合いの探し人よ」
「ってことは、危険な奴じゃないのか?」
「その知り合いはどこからどう見ても人畜無害だったわね。
でも、油断は禁物よ。準備はいいわね?」
目を開いて透視を終えると、ダナティアは他の三人の意思を確認する。
と、おずおずと一人の挙手があった。
「何か問題があって? 終」
「おれの準備はいいんだけど、ちょっと気になってさ。
……今更遅いけどよ、ダナティア。あんたは少し休んだ方がいいんじゃないか?
ずっと魔法使いっぱなしだろ? さっきも弾丸を防ぐために、派手なの使ってたじゃねえか」
「ええ、少し辛いわ」
強がることなく、彼女は即答した。
「だからこそ、万全の戦力をこちらに集めたのよ。あなたも含めて、ね。
それに、放送を流した張本人が隠れてるなんてみっともないわ」
疲れをまったく見せず、それどころか傲然と振る舞うダナティアに、終は口を噤む。
(……親友を失ったばかりだってのに、どうしてこうも落ち着いていられるんだ?)
ダナティアと違い、終は兄と従姉の死に対して未だに強い怒りを持っていた。
始の死を知った直後には、中途半端な竜化という事態にも陥った。彼女のように怒りを凍結させることなど出来やしない。
「そんなに心配なら、彼女の護衛はキミがやれ。マンションの入口で出迎えるんだろう?」
「ええ、ベルガー。もちろん待つだけなんて真似はしないわ。
そもそもあたくし達がどの部屋にいるか、普通はわからないでしょうし」
言うとダナティアは立ち上がり、迷いなく出口へと歩き出した。
半ば強引に連れられる形になったが、仕方なく終もそれに続く。
使い慣れないナイフは置いてきて、いつでも彼女を守れるように気を引き締めて進む。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
と、一階に下りた直後、彼女は立ち止まらずに告げた。
「悲劇は繰り返させない。あたくしは死なないわ。
少なくとも、あなたのいる間は絶対に。そうでしょう?」
「……ああ」
否定を許さない強い口調に、決意を込めて返事をする。
彼女が茉理のようになってしまうことは、絶対に避けなければならない。
「絶対に……させるもんか」
呟き、終はダナティアの背後を追いかけた。
どんなことが起きようと、絶対に挫けぬことを強く決意した。
「先程の放送を流した方々ですね? ──降伏します」
さすがにいきなり両手を挙げた少年に、にこやかにこんなことを言われると気が抜けたが。
○
一番奥の部屋の扉を開けると、先程と変わらぬ二人の少女の姿があった。
柔らかな笑みを浮かべて出迎える志摩子に、保胤もまた微笑を返す。
「あ、保胤さん。エンブリオさんの話はもう終わりましたか?」
「はい。リナさんの方で一時預かることになりました。
茉衣子さんから直接話を聞ければよかったのですが……」
エンブリオの持ち主の少女は、湯浴みが終わった後も意識を失ったままだった。
今は代わりの服を着せられて、隣の寝台で寝息を立てている。
(……あんな話をする分には、都合がいいと言えるんでしょうか)
少しでも人の不幸を喜んでしまった自分に嫌悪感を覚えながら、保胤は部屋の中へと上がり込む。
志摩子と向かい合うように床に座り、右手に握っていたものも隣に置く。
「その短剣は、保胤さんが使うのですか?」
「いえ、ただ余ったから持っていろと言われまして……」
短刀に似たその武器は、臨也の武装解除時に出てきたものだった。
扱える者は既に十分武装しており、かといって彼に返すのは躊躇われたらしく、消去法で保胤に渡されていた。
リナ曰く“魔力を感じる”有用な品らしいが、技術のない保胤に取っては無用の長物だった。
「ところで……志摩子さんに少しお話があるのですが、よろしいですか?」
落ち着いたところで、意を決して本題を切り出した。
そもそもこちら側に残った理由は、志摩子の真意を探るためだった。
強い疑念は早めに払拭しておかなければ、彼女を含めた集団に迷惑を掛けるだろう。
しかし、もし彼女が本当に自分を恨んでいるのならば──
「ちょうど良かったです。私も、保胤さんにお話ししたいことがあるんです」
「え? 僕に、ですか?」
「はい」
予想外の答えにあっけにとられる。告げた志摩子の表情は、ひどく真剣だった。
こちらの動揺に小首をかしげながらも、彼女は先に話を進める。
「先程のダナティアさんの放送のことを、どう思いますか?」
至極簡潔な問いだった。だが、それを聞く理由がわからない。
ただの雑談ならば、わざわざ先に断らないだろう。
ともかく黙り込むのが一番悪いと考え、ゆっくりと慎重に答えていく。
「素晴らしい宣言でした。彼女の力強い言は、多くの参加者の支えになるでしょう」
「私もそう思いました。
でも、ダナティアさんのルールを遵守するのは、とても難しいとも感じました」
「ええ、残念ながら、彼女のように前を向き続けられる方は多くありません。
それに、彼女の存在自体を許せないと思う方もいるでしょう」
奪うな、喪うな、過つな。そして、絶望するな。
彼女の定めた規定はとても単純だ。しかしそれを守ることは、志摩子の言うとおり簡単ではない。
(彼女が放送の内容を聞いたら、どんな思いを抱くでしょうか)
寝台で眠る少女に、一瞬哀れみの視線を向ける。
彼女が殺人を犯したことは知っていた。
あの放送の後にダナティアから伝えられ、面倒を見て欲しいと頼まれていた。
このことは彼女以外にはベルガーしか知らず、また口外無用とも言われた。まだ全員に話せる時期ではないらしい。
大役を任されたことに改めて責任を感じながら、本心からの考えを志摩子に告げる。
「ですが、どんな悪鬼の心を持った人間にも、必ず仏は住んでいます。
それがささやかなものであろうと、否定することは出来ません。
だから僕は、そんな人たちでも戦わずに、まずは話し合いたいと思っています」
甘すぎる考えだとは自覚していた。
しかしこんな状況下だからこそ、分かり合おうとする努力を惜しみたくはなかった。
その見解を聞いた志摩子は、表情になぜか悲哀の色を含ませて、
「……保胤さんは、あの吸血鬼の女性の話を聞きましたか?」
「ええ。だいたいのところはメフィストさんからお聞きしました」
志摩子の義姉である聖を吸血し、そこから千絵とシャナという犠牲者が生まれた。
さらに志摩子が知り合ったアシュラムという青年を支配し、かなめを人質に取り宗介を脅迫したこともあった。
この集団が関わった、ほぼすべての悲劇の原因の女性は、今もまだこの島を闊歩している。
「私は、彼女に悪意はないと思います。
ただ自分の欲望とわずかな悲哀の赴くままに、好きなことをしているだけなんでしょう。
それが鬼に当たるのかはわかりません。
でも……いえ、だからこそ、私は彼女を許してはいけないと思うんです。強い怒りを覚えるべき相手だと」
いつになく強い口調の発言は、同意を求める主張というよりも糾弾に近かった。
それに保胤に対する訴えと言うよりも、独白と言う方が相応しい。
(彼女は僕に、何を伝えたいんでしょうか)
未だにその意図がわからず、ただ、頭の中で彼女の話を反芻する。
ダナティアを引き合いに聞いた自分の意見、悪意のないまま利己的に動く女性、それを強い怒りで糾弾する──
(……まさか、これは、僕のことでしょうか?)
ずっと抱いていた疑念が頭をもたげ、思考に絡みついた。
由乃を殺害した青年の懺悔を志摩子に隠したのは、紛れもない善意からだった。
また彼女を成仏させる前に、仮の姿を与えたのも哀れみからだった。
どちらも本心から、彼女らのためを思って行ったことだ。
「あの人は、人の命を弄んでいます。元から悪気がないため、悔いることもありません。
だから、誰かが怒るべきだと思うのです。ひょっとしたら、恨むべきなのかもしれません」
ひどく真剣な眼差しから、目を反らすことが出来ない。
今の一言は、完全に自分に向けられたものだった。そうとしか思えなかった。
もちろんその女性のことも言っているだろう。どちらにも当てはまることだと、疑心が言う。
──保胤の行いはあの女性と変わらない。
そう、志摩子は糾弾しているのだ。
「ですが、……保胤さん、どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
こちらの身を案じた言葉も、もはや皮肉にしか聞こえない。
既に疑心は確信の域に達していた。彼女は、自分を恨んでいる。
(それなら僕は、彼女に何をすればいいんでしょうか?)
まず、精一杯の謝罪をすべきだ。どんな非難も受け入れなければならない。
しかしその程度で、彼女の怒りは収まるだろうか。
もし、彼女に保胤を許す気はなく、謝罪以上の何かを求めているとしたら。
たとえば彼女は、由乃を──
「返して!」
「エンブリオをどこにやったんですか!?」
わめきながら、茉衣子は志摩子に詰め寄った。
その右手は、かきむしるように胸元に当てられている。「まさか──殺したんですか!?」
「そんな、殺すなんて……」
「あの十字架には、傷一つ付けていません! どうか落ち着いてください!」
慌てて割って入ると、茉衣子はすぐに直垂の襟に掴みかかった。
「別のところって、ここにはないんですか!?」
「今は別の部屋に置いてあります。ここからすぐの、安全な場所です」
「…………」
それだけ聞くと、彼女は襟を掴む手を緩めた。
その視線は、未だ焦燥と疑念に満ちている。
「そもそも、ここはどこなんですか?」
「あなたがダナティアさんと出会った場所にあったマンションの一室です。
彼女や一部の方々は、現在は別の棟に移動しています」
「では今は、ここにはあなた達しかいないのですか?」
「いえ、別の部屋に何人か待機しています。
何が起きてもすぐに対応できますので、安心してください」
「…………」
そこまで言い終わると、茉衣子は詰問をやめてうつむいた。
何かを考え込むように口を閉ざし、しばらく沈黙が続く。
「……わかりました。お騒がせして申し訳ありませんでした」
彼女はそれだけ言うと、その場に座り込んだ。
先程の激情が嘘のような、ひどく平静な声だった。
「……あの、保胤さん。エンブリオさんを茉衣子さんに返すことは出来ないのですか?」
その様子を見た志摩子が、保胤に提案する。
単に茉衣子を気遣っての発言のようだったが、あんな話をした後では、何か裏があると思えてしまう。
彼女をこれ以上傷つけぬよう──恨ませぬよう気をつけながら、答える。
「リナさんに一言伝えれば、大丈夫だとは思いますが……」
「いえ、かまいません」
しかし当の本人が、なぜかそれを遠慮した。
「でも」
「どうせエンブリオが、わたくしが眠っている間に殺してくれとでも仰ったんでしょう?
今のところ無事ならば、問題ありません」
「ですが……どちらにしろ、茉衣子さんが目覚めたことは報告しなければなりません。
やはり、僕がリナさんのところに行って交渉してきます。そこで待っていてください」
そう告げると、返事も聞かずに保胤は廊下へと足を踏み出した。
一見彼女は冷静に見えるが、底知れない何かを抱えているようにも思えた。
何より彼女は、既に人を殺めている。違和感を覚えたのなら、積極的に行動した方がいいだろう。
(それに志摩子さんは、もう僕とは一緒にいたがらないでしょうし。
……いえ、僕の方が合わせる顔がないだけですね)
扉を閉める一瞬志摩子と目が合ったが、すぐに逸らしてしまった。
今この部屋を出ることは、茉衣子をだしに彼女から逃げることにもなるのだろう。
明かりのない、居間へと繋がる薄暗い廊下が、保胤にはひどく澱んで見えた。
○
「下腕骨の半ばから、捻るように折れているな。しかし周囲には余計な力がかかっていない。
加害者はどんな能力を?」
「実体のない銀の糸。それを巻き付けられたらこうなったわ」
訪問者二人に戦う意志がないことと、その片方が大怪我を負っていることを知り、ダナティア達はメフィストの治療を勧めた。
武器とデイパックの一時没収にあっさり承諾し、彼らはダナティア達が詰める部屋に入っていた。
「実際に見てみないことには何とも言えぬな。加害者の特徴は?」
「十代前半くらいの女の子。短い茶髪で、左眼が白いわ」
午後のときと同じく、メフィストは話しながら易々と、彼女の怪我を治療していった。
元々ほとんど道具に頼らずに、両腕切断という大怪我を二十分で済ませた実力だ。
パイフウ自身も特殊な力で治癒を促進出来るらしく、治療は相当なスピードで進行していた。
情報交換の方も、それなりに順調だった。
内容の好悪を別にすれば、だが。
「ところで、あなたは最初会ったとき、僕のことを知っていると言いましたよね?」
「ええ。あなたのことは朝比奈みくるから聞いていたわ」
「……朝比奈さん、ですか」
既に死んでいる知人の名を言うと、古泉が表情を硬くする。
「開始当初にあの子と出会い、少しの間同行したわ。
……そして、あたくしが油断した隙に死なせてしまった」
みくるのことを、ダナティアは今も悔いている。
あの時もっと慎重に動いていれば、彼女は殺されずに済んだ。
「彼女が仲間と言っていたあなたに謝らせてもらうわ。本当に、ごめんなさい。
彼女の遺体はF−5に埋葬したわ」
「開始当初の話ですから、彼女もあなたも、運が悪かったとしか言えないでしょう。
そんなに気に病まないでください。彼女を葬って下さったことには、本当に感謝します」
こちらを気遣う古泉の苦笑には、若干疲労の色があった。
彼は参加していた四人の仲間の内三人を、第一回目の放送時点で失っている。
それがどんなにつらいことかは、想像に難くない。
彼はしばし黙り込んだ後、表情をふたたび微笑に戻すと、
「実は、僕もあなたのことは他の方から聞いていたんですよ。サラ・バーリンさんという女性から」
「……サラから?」
予想外の名前に、ダナティアはわずかに驚く。
彼女とは、“夢”以外では再会はもとより、目撃情報さえ聞くことがなかった。
「それはいつ、どこで?」
「昼の放送前にG−4の城で会いました。秋せつらさんという方と一緒でしたよ」
「……秋せつら?」
割り込んできた声の主は、治療の手を止めぬまま視線だけを向けた。
確かにその名前は、以前メフィストから聞いていた彼の知人のものだった。
(よくもこう、“偶然”が続くこと)
手を組んだ参加者の知人と、自分の無二の親友とが同じく手を組んでいた。
これがどれくらいの確率なのか、もうあまり考えたくない。
「ええ、確かにそう名乗っていましたよ。集団で人を探している、と言っていました」
……そういえば、今回の放送でサラさんは」
「死んだわ」
その言い切り方で、彼はこちらの心情を察してくれたらしい。
無用な同情を示すことなく、ただ一言、
「あまりお役に立てずに申し訳ありません」
「いいのよ。気にしないで」
短い応答だったが、互いに気遣いは感じられた。
「ダナティア。パイフウについての情報はなかったが、古泉一樹の名前を聞いたと言う奴がいたぞ」
と、待機側と話していたベルガーが声を掛けてきた。
携帯電話を机に置くと、音量を上げて全員に聞こえるようにする。
連絡した直後の話によると、保胤とリナ、志摩子と目覚めた茉衣子がそれぞれ重要な話をしており、受話器の前には出られないらしい。
前者が話す声は、確かに受話口からわずかに漏れていた。
『や、そっちの調子はどうだい?』
「まだこれからよ、臨也」
そしてはっきりと聞こえてきたのは、予想通りの人物の声だった。
元から集団にいたメンバーからは、十分に話を聞いている。
新たな情報を持っているとすれば、今は出られない茉衣子と、この“信用できない”セルティの知人だけだった。
「それで、古泉についての情報があるというのは本当なんでしょうね?」
『既に散々セルティに念押された後なんだけど? いつになったら俺の信頼度は上がるんだろうね』
「そういう態度を止めた時じゃないかしら。とにかく、知っていることを話してちょうだい」
『はいはい。……昼に俺がある同盟にいたとき、女の子の二人組に出会ってね。
その一方が、古泉一樹って名前の参加者を捜してたのさ』
淡々と告げられた情報に、古泉の顔色が変わった。
「その一方というのは、もしや長門有希と名乗っていましたか?」
『うん。短めの黒髪でセーラー服を着ていたね。自分の名前しか喋らない無愛想な子だったよ』
それは、ダナティアがみくるから聞いていた少女の特徴と同じものだった。
「あ、そいつならおれも知ってるぞ。メフィストも聞いただろ?」
「ああ。悠二君から聞いた名だな。シャナ君と同じく、その少女も探していたようだった」
「……奇遇ね」
追加された証言に、ダナティアは半ばげんなりと呟く。
情報が多いのはいいことだが、多すぎてあの黒幕達の思惑を疑ってしまう。
「にしても、古泉の方はこれだけ引っかかってるってのに、あんたの方は誰も知らないなんて運がないな」
「わたしはさっき言ったクルツって男以外とはまともに会話もしてないし、仲間もいないわ。
ずっと城に潜伏して、これとは別の怪我を治していたもの」
「……城?」
と、終のパイフウへの問いに、なぜかベルガーが割り込んだ。
「ええ。でもさっき名前が出たあなた達の知り合いには会っていないわ」
「そうか。……しかし、城か」
「何かあるの?」
「いや……」
彼は引き下がるも、何かが引っかかっているような表情をしていた。
気にはなったが、ひとまず臨也の話を優先させる。
「話を元に戻すわ。もう一方の少女の特徴は?」
『匂宮出夢っていうややこしい名前の、長い黒髪に革ジャケットを羽織った、その有希ちゃんと同年代の女の子。……知ってる?』
問いかけに一瞬会話が止まるが、返ってくるのは沈黙だけだった。
『誰も知らない、か。やたら騒々しくて目立つ子だったんだけどね。
……俺が知ってるのはこれで全部。
その二人は、捜し人のことだけ聞くとすぐに行っちゃったからね』
「場所はどこですか?」
『D−1の公民館だよ。時間は昼頃』
簡潔な答えだったが、問うた古泉の表情が一瞬固まった。
「どうかして?」
「……いえ、ちょうど僕も夕方に訪れた場所だったんですよ。
入れ違いになってしまったようですね。手掛かりもありませんでしたし」
『それは運が悪かったね。
そういや、俺、確かあそこにナイフを置き忘れたんだけど、君が拾ってくれた?』
「……ええ。今はダナティアさん達に預けてありますが。返した方がいいですか?」
『いや、いいよ。ちゃんと状況を見誤らずに分別を持って使える人ならね』
「ええ、それはもちろん」
話を聞く限りでは、彼は問題ないだろう。
どちらかというと気になるのは、
「あなたが“置き忘れる”なんて、珍しいこともあるものね?」
『それは過大評価ってもんだよ。
まぁ、正確には“逃げるのに夢中になって”置き忘れたって言った方がいいかな。
その子達が来た後に色々あってね。危なそうだったから離脱したのさ』
確かに彼ならば、厄介ごと対しては立ち向かうよりも、こっそり抜け出しそうではあった。
なんにしろ、これは後で詳しく聞く必要があるだろう。
「あなたにはまだ色々と聞く必要がありそうね。後で時間を取らせてもらうわよ」
『容赦ないねぇ。まぁ、覚悟しておくよ』
覚悟と言った割には余裕がある声に呆れつつ、ダナティアは通信を切断した。
「長門、か。確かに我が着ぐるみごしに奴と再会したときに、そんな名前を叫んでいた覚えがあるな」
軽く息をついていると、胸元のコキュートスから声が響いた。
「悠二と長門はここで知り合い、しかし何かがあって別れざるを得なかった。
あなたやドクター達が匂宮出夢の名前を聞かなかったのは、はぐれた後に長門だけが出会ったからかしら」
「危険な人間だと思ったから、ってのもあるぜ」
「ええ、その可能性も忘れてはいけないわ。
それにしても、何かと悠二が話題にあがるわね。一度彼の行動をまとめた方がいいんじゃないかしら。
……そういえばベルガー、あなたセルティ達とシャナを捕まえたとき、彼の日記を……ベルガー?」
呼びかけても応答はなく、彼は黙り込んだままだった。
なぜかその表情には、彼にしては珍しい、はっきりとした驚きの色があった。
「……ああ。さっきの臨也との会話で少し気になったことがあってな。ちょっといいか?」
硬い表情のまま、ベルガーはダナティアを部屋の隅へと呼び寄せる。
「何か信用できない情報があったかしら?」
小声で話しかけても、彼は答えない。
ただ置いてあったデイパックから紙と鉛筆を取り出し、壁を下敷きに何かを書き付ける。
「──っ!」
提示されたのは、短い一文だった。
“パイフウはゲームに乗っている。主催者に人質に取られたところを悠二が聞いていた”
思考を呼んだかのような叫びに、ぎょっとして背筋を伸ばす。
声の方を向くと、志摩子ではなく、寝台から飛び起きてこちらを睨み付ける少女の姿があった。
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