作:◆l8jfhXC/BA
『三時頃。城の中を歩いていると、突然争うような声と銃声が、廊下の奥から聞こえてきた。
声は男女二人分。途切れ途切れだったけど、何を話しているのかはだいたい分かった。
どうやらパイフウという女の人が、ほのちゃんという人を主催者に人質に取られてしまったらしい。
そして返して欲しければ殺し合いを盛り上げろ、と──』
『ずっと引っかかっていた名前だったんだが、今思い出した。
三人ともあのレポートは流し読み程度しか読んでいない。セルティは単に気づかなかっただけだろう』
硬い表情のまま、ベルガーは鉛筆を走らせる。
『この後その主催者と鉢合わせして“警告”をされ、さらに何者かに襲撃されたという記述もあった。彼女である可能性は高い』
『古泉の方は? 長門関連の描写に何か書いてなかった?』
新たに鉛筆を取り出し文を加えると、彼は少し考え込んで、
『長門の仲間についての描写自体がなかった、と思う。
古泉も城にいたと言っていたが、このことを知っている“共犯”なのか、大怪我ゆえの“囮”なのかは不明だ』
「……そう。わかったわ」
口に出して返答すると、ダナティアは鉛筆を置いた。そして、目を閉じた。
透視で周辺と待機側に危険が無いことを確認すると、そのまま思考に沈む。
人質を取られて殺人を強制される人間に出会うのは、二度目だ。
その時はダナティアの仲間であった、その者を想う少女を死なせてしまった。
そして今回は、同じく自分のミスによって死なせてしまった少女の仲間がそばにいる。
(たとえこれが仕組まれた偶然だろうと、やることは変わらないわ。今度こそ──)
決意を固め、ゆっくりと目を開けた。ベルガーの眼が、こちらをじっと見据えている。
サングラス越しのその青は、失った友のものと似ていた。
『救うわ。もちろん二人とも』
それをまっすぐに見つめ、意志を込めて文字を刻んだ。
『主催者側に完全に取り入った可能性も考えておけよ。
あんな派手な放送だ、“粛清”として送り込んできたのかもしれない』
『上等よ。初っぱなから大物がかかってくれて嬉しいわ』
『初っぱなだからこそもっと慎重に』
「あたくしを誰だと思って?」
鉛筆を動かすベルガーの腕を掴み、声量を抑えることなく宣言した。
集まる視線を気にも留めず、歩き出す。
パイフウのそばまで辿り着くと、適当な椅子に座り、紙と二本の鉛筆を彼女の前に置く。
内一本を手に取ると、二つの問いを同時に投げかけた。
「もう一度あなたの開始当初の行動について聞きたいのだけど、いいかしら?」
『“ほのちゃん”はまだ無事?』
無表情に一変して動揺が走るのは、ある意味壮観だった。
○
「本当に、大丈夫なんですか? どこか痛むところはありませんか?」
「ありません。……この身体は、洗っていただいたのですか?」
「はい。泥だらけだったのでお風呂に」
不安を滲ませた声で問うと、素っ気ない返答が戻ってきた。
目覚めた直後の錯乱が嘘のような茉衣子の態度に、志摩子は戸惑いを覚えていた。
「わたくしの服はどこですか?」
「そこに置いてありますが、まだ生乾きなので……」
「かまいません。自分の服を着ます。
お気遣いは感謝しますが、こちらの方が落ち着きますので」
淡々と告げて、茉衣子は湿った私服へと手を伸ばす。
ここで調達していた簡素な服を脱ぐと、黒一色のゴシックロリータ一式に、慣れた手つきで着替える。
「──喪服」
「え?」
「いえ、ただの独り言です」
彼女はそれだけ言うと、口を閉ざした。
着替え終わり、最後に黒のヘッドドレスを長い黒髪に付けると、動きも止める。
(……この人も、大切な方を失っているんですよね)
視線を虚空に漂わせる茉衣子に、志摩子はただ哀れみを覚える。
元々ここを訪れたのも、遺体を埋葬するためだったという。
闇の中、動かなくなった仲間を背負って彷徨う孤独を志摩子は知らない。
しかし、それがどんなに辛いことなのかは容易に想像できた。
「……あの」
「何でしょう?」
思い切って話しかけると、茉衣子はふたたび視線をこちらに向ける。
感情のない瞳に一瞬躊躇いを覚えたが、すぐに振り切って続けた。
「今までのことを、話してくれませんか? もちろん辛いのならば、かまいません。
でも、外に出した方が楽になることも多いでしょうから」
彼女の苦しみを理解したいと、志摩子は心から思っていた。
志摩子自身もこの島では辛い思いをしてきたが、他者と比べれば相当ましな部類だとわかっていた。
大半の時間を、誰かに庇護されて過ごしていた。
知人を殺されることはあったが、自身が被害を受けたのは、開始当初に海に突き落とされたことくらいだ。それも、すぐに助けられた。
ゆえに、他者に降りかかった不幸を嘆く“余裕”があった。
それを自覚しているからこそ、少しでも多くの人々の苦しみを共有したかった。
問われた茉衣子は、しばらくぼんやりとこちらを見つめていた。
吸い込まれそうなほど深い黒瞳に、志摩子の顔が映っている。
「……最初に、嫌になりました」
ようやくぽつりと告げられた言葉は、ひどく弱々しく聞こえた。
「いきなり殺し合いをしろと言われ、逆らった方々が惨殺されて。
気がつけばどこかわからない建物の中にいて……自暴自棄になりかけましたわ」
「……私もそうでした。ただ怖くて、不安だけが募りました」
海岸で人影を見つけるまでの孤独の時間は、本当に怖かった。
「でも、支給されたラジオ──兵長が話しかけてきて、少し気を持ち直せました。
彼は主催者への怒りをわめいたかと思えば、何かとわたくしを気遣い……わたくしよりもよく喋っていました。
良くも悪くも落ち着きのない方でしたけど、彼のおかげでわたくしは平静になれましたわ。
それでも外に出る気にはなれなくて、ずっとその場にいたのですが……しばらくすると、班長──唯一の知人がそこを訪れました」
“班長”と言ったとき、茉衣子の瞳がわずかに揺らいだ。
「本当にすんなりと、わたくしを見つけてくれましたわ。
いつもと何も変わりなく、殺し合いゲームのまっただ中だと言うことを忘れているんじゃないかと思うくらい、何も。
本当に最後まで、いつも通りの班長でした」
「……とても、強い方なんですね」
「ええ。だから、死んでしまった」
○
「……さっきも言ったけど、城にいたわ」
沈黙を挟んだ後、パイフウは嘆息混じりに返答した。鉛筆には手も触れない。
「一番最初に飛ばされた場所がそこだったの? 近くに他の参加者は?」
『無事と判断して話を続けるわよ。“ほのちゃん”は今ここにいるの?』
「最初に着いたのは城の東の雑木林。気がついたらさっき言ったクルツって男が目の前にいたわ」
やはり筆談に対する答えはない。
しかしかまわず、ダナティアは会話を続ける。今はまだ一方的でかまわない。
鉛筆を走らせながら、ベルガーに視線を送った。
彼は頷き、書かれた内容に疑問符を浮かべる終達に、先程の筆談の紙を見せる。
古泉に対しては逡巡したようだったが、かまわず目で促した。
「……ふむ」
「ちょっ……おいダナティア、なんだっ」
「情報交換中は静かにな」
声を荒げる終の口を、予想通りベルガーが手で塞ぐ。
メフィストの方は紙をちらりと見ただけで、そのまま治療を続けている。既に右脚は終了し、左腕に移っていた。
『せめて治療は止めるべきだろ!?』
『途中で患者を放置するなど、医者の風上にもおけぬ行為だと思わんかね?』
殴り書きされた抗議もあっさりと無視された。
確かにこの時点で万全の状態に戻されるのは困るが、いきなり中断しても管理者に怪しまれるだけだ。
「…………」
問題の古泉は、息を呑み、素直な驚愕の表情を見せていた。
そのまま沈黙し、何かを考え込み始める。
(白ね)
今までの情報から、これほどの演技が出来る人間ではないと判断する。
ふたたび視線をパイフウに戻し、今度は口だけを動かす。
「クルツは、誰か知人を捜していた?」
「ええ。でも名前はあまり覚えて──」
言いかけたパイフウを手で制し、名簿を机に広げて指で示す。
一瞬眉をひそめた後、彼女は仕方なく羅列された名前を目で送る。
やがて鉛筆を取ると、三つの名に疑問符を書いた。
──千鳥かなめ、相良宗介、テレサ・テスタロッサ。
嫌と言うほど見覚えがあるその名前をひとまず無視し、わざわざ彼女の手から鉛筆を取り上げて、
「何を──」
彼女が名前を探す間に見つけた、本題の名前に丸を付ける。──火乃香。
やはりあからさまな反応を見せる彼女に、あえて微笑を送ると鉛筆を彼女の手元に戻した。
「あまりこの言葉は使いたくないんだけど、偶然ね。
その三人は全員顔を合わせたことがあるわ。特にテレサ──テッサは長い間あたくし達と組んでいたわ」
『あたくしに心当たりはない名前ね。ただ知っているかもしれない人間が二人いるから、後で連絡を取ってみるわね。
自力では、何か手掛かりがあって?』
「そう。でもすぐに別れたし……わたしには関係のない名前だわ」
最後の言葉だけ、一方的な筆談の紙を見て告げられた。
初めて得られた反応に、ダナティアは目を細める。
そしてやや長い文章を綴ると、パイフウの前に突きつけた。
「クルツ・ウェーバーは一回目の放送で呼ばれていたわね。彼の死に、あなたは立ち会っていたのかしら?」
『関係ない? 身勝手にも程があってよ。
あなたが殺した命はあなただけじゃなく、その“ほのちゃん”にものしかかるわ。
あなたが自己犠牲に陶酔している間にも、彼女は“自分が生き残るために”殺された業を感じなければならない。
彼女が犠牲者の知人に“お前のせいで友が死んだ”と弾劾されたら、あなたはどうするつもり?』
あえて強い口調で書いた文章は、昼に宗介に言ったこととほぼ同じ内容だった。
もちろん、結果まで同じにする気は毛頭無い。
周囲に視線を送ると、紙を覗き込んでいた終とベルガーが身構えるのが見えた。
激昂した彼女が攻撃してきても、十分に対抗できる。
「……?」
しかし返ってきた彼女の反応を見て、ダナティアは訝しむ。
彼女の表情にあったのは、動揺でも怒りでも自責の念でもなく、
「ええ。確かに彼が殺されたとき、その場にいたわ」
『ちょっと遅かったわね』
微笑して、彼女は初めて文字を綴った。
意外に可愛い片えくぼが出来た、しかしどこか歪んだ自嘲の笑み。
その表情と文の意味がわからず手を止めていると、彼女は鉛筆を置き、なぜか筆談の紙を手に取って、
「わたしが殺したから」
言うが早いが、彼女は紙を破り捨てた。
○
ひどくあっさりと、茉衣子は身内の死を告げた。
悲しみも憎しみも表さず、無表情のまま志摩子を眺めている。
かける言葉が思いつかずにいると、茉衣子はふたたび口を開き、
「そう、班長は死にました。あの男が殺したから。
首を斬られて死にました。あの女は姿さえ見せなかったのに」
「あ、え──」
「袈裟懸けに斬られ頭頂から両断され死にました。あの子は生きているのに
両腕を落とされ脳髄を掻き回されて死にましたあの子は笑っているのに。
そう班長だけが死にました両脚を断たれ心臓を斬り破りあの子は」
数学の公式を並べ立てているような声だった。
呪詛と呼ぶには熱が無さ過ぎる、感情の伴わない言葉の羅列が延々と続く。
恐怖より先に混乱が思考を満たした。
そもそもあの女とは誰か。あの男は何故殺したのか。あの子が生きていると何がだめなのか。
具体的に何が起きたのか、まったくわからない。
ただとにかく何か返さねばと、疑問を一つ、おずおずと切り出した。
「あの、あの子、というのは」
「殺しました」
「え?」
まったく的を射ない答えに、思考が追いつかない。
ただ“あの子”のことを聞こうとしただけなのに、なぜ殺したになるのか。そもそもころしたとはどういういみか。
「彼女はわたくしが殺しました」
加えられた言葉も、やはりひどく短かった。
彼女はそれだけ言うと口を閉ざし、ただ無を宿した眼でこちらをじっと見つめる。
何の意志も感情も存在しないそれは、すべてを飲み込んでしまいそうな虚無に満ちていた。
(……殺した? 茉衣子さんが、その子を?)
やっと理解すると、背筋を悪寒が這いずった。
恐怖と疑問と何かとが順繰りに頭の中を回り、思考が追いつかなくなる。
「なんで、そんな」
「だから班長が死んだからです。それなのにあの子が生きているのはおかしいでしょう?」
平然と茉衣子は即答した。理解できない方が異常だと言わんばかりに。
彼女が何を考えているのか、まったくわからなかった。
目の前にいるのは同年代の少女のはずなのに、得体の知れない化け物に見えた。
○
「!? おい──!」
唐突な殺人告白に動いた終の身体を、ふたたびベルガーが取り押さえた。
その彼も緊張の色を張り付かせて、パイフウを睨み付けている。
しかし当人は、散り散りになった紙片を邪魔そうに払いのけただけだ。
その所作は極めて平静で、ここに来た直後よりも落ち着き払っているほどだった。
「確かにわたしは、管理者に脅迫されて殺人をやっているわ」
淡々とした、どうでもよさそうな声も変わらない。
「あなたに指摘されたことは、ついさっき自覚したの。
だからもう、迷っていないわ」
「じゃああんた、わかってて背負わせるのかよ!」
開き直るパイフウに、終には怒りしか湧いてこない。
「背負わせることなんてさせないわ。ほのちゃんには、そのままで生きていて欲しいもの。
何も知らずに、笑っていてくれればいいの」
「……知られる前に終わらせる、ということかね?」
一見矛盾する論理に、メフィストが推論を加えた。
彼は未だに治療の手を止めず、その指は彼女の右腕に溶けている。
「どういう意味だよ?」
「……おそらく、自分のために殺しをしていることを本人に知られる前に、管理者を満足させればいいってことだろうな。
世界で二番目に現実的な考え方だな。後ろから数えてになるが」
「んな無茶な!」
こんな島の中でも、情報は伝わるときは伝わる。先程の古泉に関する繋がりがまさにそうだった。
それが危険人物の情報ならばなおさらだ。名前はともかく、彼女の目立つ容貌はすぐに覚えられてしまう。
「そんな姑息な手段で、本当にその娘を救えると思っているのか?
奴らが約束を守る証拠なぞどこにある?」
「少なくとも、わたしが奴らを満足させている間は無事よ。
ここまでわたしがバラして、あいつらが何もしないってことが最大の証拠」
アラストールの重い言葉にも、パイフウはあくまで淡々と返す。
確かに自分達の手先がばれたというのに、彼女の刻印は発動しない。
これも“ゲームに参加するプレイヤー間でのやりとりに反則はない”からなのか。
「それにわたしは……わたしの住んでいる町も脅迫手段にされているもの」
「細菌兵器でもばらまかれたのかね?」
「そうよ」
こともなげに、彼女は絶望的な状況を告げた。
「……だからって、なんで屈するんだよ!
あいつらの思い通りに動いたって、使い潰されるだけだろう!?」
弱みにつけ込んでの誘惑に救いなどない。
それをカーラによって痛感していた終は、パイフウを絶対に認めたくなかった。
動揺していたとはいえ、あの時サークレットに手を出したことは、今でも強く後悔している。
「そうなる前に殺し尽くせばいいわ」
「だから、そんな無謀な──」
「あなた達がそれを言うの? あんな放送をしたあなた達が」
あくまで淡々とした糾弾に、反論が思いつかず黙り込む。
彼女もそれ以上何も言わぬまま、しばし沈黙が続いた。
「……あの子はここでも、きっと自分の進む道をちゃんと見つけられている。
だからわたしは、それを邪魔したくない」
ふたたび口を開いたとき、彼女の表情にわずかに陰が差した気がした。
しかしすぐに無に戻すと、あれから沈黙を続けているダナティアの方へと視線を向け、
「わたしはあの子を悲しませたくない。あの子を汚したくない。あの子を死なせたくない。
そしてわたしの街を──わたしの日常を取り戻したい」
一息ついて、続ける。
「わたしを動かすのは、その決意だけよ」
ダナティアが放送で告げた言葉を、彼女はそのまま返した。
たとえそれが頭に悲壮と付くものであっても、彼女の意志はダナティアと同じく強かった。
「つまりあなたは、元の生活を取り戻すために、その火乃香さん以外の全員を殺すつもりなんですね?」
と、ずっと黙っていた、彼女の同行者である古泉が口を挟んだ。
その声に非難の色はない。ただ単に、真意を確認するような口調だった。
その反応にパイフウはわずかに怪訝の色を見せた後、短く返す。
「ええ」
「……やれやれ、ここで少しは平穏にすごせると思ったんですが、うまく行かないものですね」
肩をすくめると、彼はそれ以上何も言わずにダナティアへと視線を向けた。自然と全員がそちらを向く。
未だに沈黙を保っている彼女は、唇を引き結び、何かを考え込んでいるようだった。
そして。
「あなたの言い分はよくわかったわ」
それだけ言うと、彼女はふたたび口を閉じ、なぜか腕を足下のデイパックへと動かした。
取り出されたのは、新たな白紙だった。
先程と同じように、ダナティアはそれをパイフウの手元に置く。
これ以上管理者に隠すべきことなどないというのに、彼女は鉛筆を動かしていく。
「このままあなたが主催者側につくというのなら」
そして何かを書き終えると、それを先程と同じようにパイフウへと提示した。
「あたくしはあなたを殺すわ」
『あたくしはあなたを救うわ』
同時に告げた言葉と正反対のことが、そこには書かれていた。
○
身体中が凍える。心臓の音がうるさかった。
首筋を撫でるのは脂汗か。何度呼吸をしても息苦しさを覚えるのは何故か。
恐怖が限界を超え、喉が助けを呼ぼうとする。
それを何かが押しとどめ、何かを茉衣子に伝えようとする。
と。
「──これでわたくしの話は終わりです。つまらないものだったでしょう?」
何事もなかったかのように、淡々と茉衣子が告げた。
話がまだ平穏だった頃の雰囲気に唐突に戻り、志摩子は混乱する。
「あの……」
「同情など求めていません」
とにかく何かを言おうとしたが、すぐに彼女は遮った。
「ただあなたが話せと言ったから話しただけです。反応は必要ありません。
わたくしに危害を加えるならば対処しますが、それ以外はどうでもいいです。
わたくしはただ、班長の遺志を長く継いでいたいだけですから」
そこまで言うと彼女は一息ついて、僅かに眼を伏せ、
「どうせ、今のわたくしの感情は、誰にも理解できないでしょうし」
「…………」
その呟きも、やはり他と同じ無感情な声だった。瞳にも未だに虚無がある。
彼女は壊れていた。
一見理性的に見えるが、その理性が狂気を肯定してしまっている。
捻れた思考を異質だと自覚しながらも、それが異常すぎることには気づいていない。
それはもう、修復不可能な域にまで達しているのかもしれない。
(……それなのになぜ、悲しそうだと思えるんでしょうか)
ふと気づいた自分の思考に、志摩子は疑問を持つ。
今まで恐怖の隅に追いやられていた感情が、今になって自覚できた。
彼女のために何かがしたかった。
しかし共感は出来ない。同情は彼女が望んでいない。
他に、力のない自分に出来ることは何か。
「……私は、今の私には、あなたの気持ちが理解できません。
班長という方や“あの子”が何故そうなったのかまったくわかりませんでしたし、とても怖いと思いました」
意を決して、志摩子は口を開く。
未だに考えはまとまっていない。
ただ彼女を虚ろなままにさせてはいけないと、漠然と思っただけだ。
「でも私は、あなたを拒絶したくありません。あなたのことを理解して、受け入れたいんです」
失うことはとても痛い。戻れないことはとても悲しい。
そう思うのは、誰でも同じだ。
その感情から行ってしまった凶行を許すことは出来なくても、その感情自体を否定することは誰もしてはいけないと思った。
「先程あなたは、わからないと言ったばかりではありませんか」
「はい。今は、わかりません。
でも、理解しようと思い続けたいんです。差し伸べようとした手を、引っ込めたくはないんです」
志摩子は考え続けている。
由乃の遺言のことを。聖を討つことを。心の証明のことを。そして、茉衣子のことを。
未だそのすべてに結論を出せていない。それでも、答えを探り続けること自体に躊躇いはなかった。
「私は戦えません。守る力も奪う力もありません。
私は恨めません。そう言った強い感情を持つことが出来ません。
それでも、失いたくないと思っています。私の見えるところにあるすべてを」
「それは……ただの欲張りではありませんか?」
「……同じことを、義妹にも言われました。以前は、だから欲しがらないようにしてきました。
でも、だめでした。
気がついたら、周りに大切なものがたくさんあって、孤独に耐えることが出来ませんでした。
誰も悲しませたくないと、誰にも消えて欲しくないと、思ったんです」
最後の言葉を言ったとき、茉衣子の目がわずかに揺らいだ。
「その気持ちは、ここでも変わりません。
……ここに連れて来られた私の友人のうち半分が、既に亡くなってしまいました。
誰が殺したのか、どうして殺してしまったのかはわかりません。
でも私は、その人ともわかり合いたいと思っています。
その人に後悔があるのなら許しを。どうしようもない理由があるのなら理解を。
たとえどちらもなかったとしても、否定したくはありません」
その感情は、一度は迷い、保胤に問おうとしていたことだった。
──恨むという強い感情を抱く前に悲しみを覚えてしまう自分は、殺された友人達に対する愛が足りないのか。
──そして、そんな自分に許すだの受け入れるだのと言える資格はあるのか。
そう聞きたかったのだが、話が終わる前に茉衣子が起きてしまった。
部屋から出て行く彼は、ひどく暗い顔をしていた。もしかしたら質問を見越されて、失望されたのかもしれない。
それでも今はもう、その思いに迷いはなかった。
「私はこれ以上、悲しみを繋げたくはありません。
もう、誰かが目の前から消えるのは嫌なんです」
そう言って、茉衣子の方へと手を伸ばす。彼女はこちらを見つめたまま、動かない。
その手に触れた瞬間、彼女の肩が震えて強張った。しかしかまわず、ゆっくりと包み込む。
冷たい手だった。だから少しでもこちらの体温が伝わるよう握りしめた。
「私は、あなたを救いたいんです」
その瞬間、確かにその眼に何かの感情が映った気がした。
○
絶句したパイフウを真っ直ぐに見据え、ダナティアは口と鉛筆を同時に動かしていく。
「街ごと人質になっているですって? そんなの誰でも同じよ。
複数の異世界の人間を、まるごと別の場所に移せる技術があるんだもの。
ここにはいない仲間や故郷をどうこう出来ることは、最初から言外に提示されていてよ」
『だからその技術を利用出来れば、あなたの街を救うことが出来るわ。
能力制限さえどうにかなれば、メフィスト医師が治療出来る』
横目でパイフウの向かいを見ると、治療を終えた彼と目が合った。
何も言わずに首肯する彼に微笑むと、ふたたび彼女に視線を戻し、
「そもそもそのご大層な決意の一番前に、あたくし達が立ち塞がっていることはわかっていて?
不確かな約束に縋るだけで、隙を見て取り返す気力すらない人間に、あたくし達は倒せなくてよ」
『不確かな約束しかできないのはあたくし達も同じ。
でも、悪意からと善意からの違いは大きいと思わない?』
紡ぐ言葉は、どちらも本音だ。カモフラージュではない。
「確かにあたくし達の行いも無謀と言えるのでしょうね。
でも苦痛しか生まない無謀よりも、苦痛を消そうと抗う無謀の方が価値があってよ!」
『それにあたくし達は、あなたの苦痛を肩代わりできる。“ほのちゃん”のことも含めてね』
他人の犠牲を許さず己の犠牲を厭わない意志だけは、何があろうと曲げるつもりはない。
「あたくしの前に立ちはだかるというのなら、容赦なく撃ち破ってあげてよ」
『あたくしの前で声もあげずに泣いているのなら、遠慮なく手を差し伸べるわ』
その声だけは、パイフウではなく右手に浮かぶ刻印に向けて放った。
手の届くすべてを見捨てはしない。それが自分の進む道だ。
そこに塞がるのがたとえ管理者だろうと主催者だろうと、やることは変わらない。
勢いよく机に手を叩きつけ、告げる。
「あたくしは道を遮る者達を、一人残らず叩きのめして突き進む!」
『あたくしは救いを欲す者達を、一人残らず助け出して突き進む!』
○
緊張も痛みも伴わない、ただ静かなだけの沈黙が部屋に満ちた。
何も言わない茉衣子を優しく見つめたまま、志摩子はゆっくりと切り出す。
「それでは、今度は私の話をしましょう」
「…………」
「悲しいことが多いですが、その中にあったわずかな希望を、あなたにも話したいんです」
たくさんの人と出会い、別れたまま二度と会えなくなった人間も多かった。
それでも、かけがえのない人を救えたこともあった。確かにこの手に残ったものはある。
「私も、一番始めに出会った人に助けられました。
その人は中世の騎士に当たる方で、その騎士としての苦悩を、ここに来る以前からずっと抱えていました」
「騎士……?」
「ええ。茉衣子さんは、最初の会場で中世のおとぎ話に出てくるような恰好をした方々を覚えていますか?
その方は、本当にそんな世界から来たそうです」
無感情だった茉衣子の表情に、わずかな興味の色が見えた。
話に乗ってくれたことに安堵を覚えながら、回想を続ける。
「その後、とある女性に出会いました。
……彼女はその苦悩につけ込んで、彼を支配してしまいました」
「支配?」
「催眠術のようなものだと思います。
後で話しますが、その女性は、それとは別に肉体ごと変化させる力も持っているんです」
「…………」
眉をひそめた茉衣子に対し、慌ててフォローを加える。
「でも、その彼女も苦しそう……寂しそうだったんです。
たとえ傷の舐め合いだとしても、それが救いになるのならかまわないと思い、私は彼女を止めませんでした」
(でも、結局あの人は苦しんでいて……今は、どうしているのでしょうか)
数時間前に再会した男は、支配と苦悩の呪縛が解けても彼女に同行することを選んだ。
彼ともう一度話をしたかった。出来れば、その隣にいるであろう彼女とも。
そのことも話そうと口を開き、
「その騎士の特徴を教えてください」
茉衣子の声が遮った。
有無を言わせない、鋭い視線が志摩子を貫いている。
態度の変化に戸惑いながらも、言われるままに特徴を並べていく。
「三十代半ばくらいの、色白で長い黒髪の男性です。黒い甲冑を着ていて、名前をアシュラムさんと言い」
ぱし、
と、乾いた音が言葉を遮った。
思わずえ、と声が漏れた。
続いて、右手にじんわりとした痛みを感じた。
握っていた手をはたかれたと気づくまでに、随分と時間が掛かった。
「あなたも……?」
呟く茉衣子の表情が一変していた。
目覚めたときと同じ、怒りと怯えに満ちた目でこちらを見つめ、
「あなたも、そうなんですの?」
「え……?」
「あなたも仲間で、操られていて? 確かにあの男も、自覚したまま認めていた……」
「…………」
「でもなぜ……まさか、エンブリオを? あの男が……いえ、あの女が能力に気づいて欲しがった?」
わけのわからない呟きに、疑問符だけが浮かびあがる。
それでも彼女を理解しようと、志摩子は必死に頭を回す。
彼女はアシュラムの詳細を聞いた瞬間に、こちらの手を振り払った。
そういえば、最初に“騎士”という言葉を聞いたときにも彼女は反応していた。
彼女とアシュラムは知り合いだったのか。それも、印象が最悪の。
「ここは教会の北……そう、教会には誰もいなかった、禁止エリアを考慮してこちらに移動した?
じゃあ、わたくしはあの女の庭に、班長を埋めたんですか……?」
『──宮野という少年だった。奴は美姫と交渉を行い、俺は美姫に従い戦い、その男を切り捨てた』
「あ……」
『その男の……親友かそれ以上である少女と、仲間達は退いた。おそらくは心に傷を残しただろう』
「……そんな?」
やっと気づいた。
脳裏に浮かんだ最悪の可能性に、思わず声が漏れる。
うつむいて何かを呟き続ける茉衣子に、頭が真っ白になった。
それでもとにかく、もう一度手を伸ばそうとして、
「来ないでっ!」
拒絶の言葉と身体を突き飛ばす両腕が、志摩子の心を砕いた。
壁に叩きつけられた少女が意識を失ったことを確認すると、茉衣子は大きく息をついた。
油断していた。
ダナティアの言葉に、ここでなら生き延びられるかもしれないと思ってしまった。
エンブリオも、集団の中にあり奪回が難しい状況でも無事ならば、機会が出来るまで待てばいいと思っていた。
ゆえに、最悪の可能性に気づけなかった。
この集団は、あの女の“巣”だ。
(まだ、生きていますよね……)
少女の胸が上下するのを見て、茉衣子は歯噛みする。
彼女はあの女を知っていて、かつ肯定していた。
操られていることを自覚しながらも、忠誠だけは認めたアシュラムのように。
外見や簡単な話から掴める性格だけでは、支配の有無は区別出来ない。
この集団にいる全員が、そうなっていると考えた方がいいだろう。
(どうすれば……!)
エンブリオを奪回し、この地域から脱出しなければならない。
だが、先程部屋を出て行った男の発言が事実ならば、エンブリオがある場所には複数の“同類”が集まっていることになる。
早く手を考えなければ少女が目を覚ましてしまう。
彼女だけ殺しても意味がない。男が帰ってきてこの状況を見られれば終わりだ。
手元にあるのは、役立たずな光球を出すだけの能力。目くらまし程度にしかならない。
(……でも、兵長には効いている気がしました。
それに、もし役立たずなことを伝えられていなければ、はったりが可能です)
焦る思考を抑え、ゆっくりと深呼吸する。
出来る限り冷静に。あくまで論理的に戦術を。宮野ならばどうするか。
「……あ」
ふと、視線が部屋の隅にある何かを捉えた。
銀色の美しい刃を持つ短剣を見たとき、茉衣子に一つの案が浮かんだ。
○
「大丈夫じゃない? かまわないって言ってるならさ」
「ですが目覚めた直後の茉衣子さんは、錯乱と言ってもいいほどに動揺していました」
「目覚めた直後、でしょ? 今は落ち着いてるってあんたが自分で言ったじゃない」
「それはそうなんですが……」
『だいたい、こういうのはもっと本人の意見を尊重すべきだよな。まず第一にオレをよ』
「だからあんたは黙ってて」
必死に説得を試みる保胤を、若干苛立たしげにリナが拒絶。たまにそれをエンブリオが擁護。
そんなループする議論を端から眺め、セルティは胸中で嘆息した。
臨也との会話を打ち切って立ち会った、舞台側との情報交換が始まる前だった。
別室から戻ってきた保胤がエンブリオを返すようにと言い、それをリナが即座に拒否した。
以後、ちょうど情報交換が終わった現在まで、口論が延々と続いていた。
セルティの隣に座る臨也は最初こそ口を挟んでいたが、今は刻印のレポートの方に興味を向けていた。
唯一千絵だけは積極的に場を収めようとしていたが、あまり効果はなく、少し前に顔を洗いに行くと言って席を外していた。
(どうにかしたいのは山々なんだが……)
“口”論に筆談は割り込みにくいという点もあったが、自分のことで精一杯なのが実情だった。
臨也と話してから今までずっと考えていたが、自分が抱えるどの問題にも結論は出なかった。
保胤の件も行動を思い返しては見たが、怪しい点など一つもなかった。
(すべてが静雄の勘違いであってほしいが……とにかく由乃のことは、保胤に直接聞く必要があるな)
『そういや、あんたはさっきからずっと黙ってるな?』
と。
思いを巡らせていると、机の上から声がかけられた。
『喋れない体質なんだ。なかなか話に割り込めなくて困っている』
『そりゃ難儀だな。……で、あんたはオレを殺したくねえか?』
十字架をつまみ、文字を書いた紙と対面させるように持ち上げると、物騒な問いが発された。
『今のところその気はない。どちらかというと保胤派だ』
『何だよ、つまんねぇなぁ。リナの奴も茉衣子に返さないだけで、“今は”殺さないって言いやがるし』
エンブリオについてはあちら側とも協議して、一時的にリナが預かることに決めていた。
しかし、それにしても彼女は少し強情すぎる気がした。絶対に使いたい目的があり、それを譲りたくないように見える。
確かに茉衣子の手元に戻ってしまえば、肝心なときに殺しづらくはなりそうだが。
そこでふと、疑問が湧いた。
『そもそもなぜ茉衣子は、お前を殺させたがらないんだ?
お前の嫌がり方からすると、可哀想だから、ではないよな』
文字を見て、エンブリオはしばし沈黙を挟んだ後、
『……形見みてえなもんだからかねぇ』
『そんな重要なものだったのか!?』
『あーいや、いつも身につけていた物、ってわけじゃねえぞ?オレの本来の持ち主は別にいる。
ただ一番最初にオレを見つけた奴が、茉衣子の身内だったってだけだ』
「……そなの?」
と、エンブリオの解説に、不思議そうなリナの声が割り込んだ。
議論の途中でこちらの会話に気づいたらしく、保胤も注意を向けていた。
「あれ、詳しい話はまだ聞いてなかったんだ?」
「ずっと“カーラ”の方に集中してたからね。あんたもさっきの情報交換が初めてだったでしょ」
レポートから目を離した臨也も話に乗ってくる。
全員の注目を集めた十字架は、視線に促されるままに境遇を語る。
『お前らと一緒で、あいつもオレをなかなか殺してくれなくてな。
最初は弟子──茉衣子に使わせるって言ってたんだが、あいつ話を聞いた直後に誇りがどうのとかで拒絶しやがってな。
で、結局殺してくれそうな奴に取引材料として渡すことになったんだが……』
「そこで何か、あったんですね?」
察した保胤の声に、場の空気が重くなる。
エンブリオの語る茉衣子の身内は、既にこのマンション手前の緑地に埋められている。
『ああ。やっと殺してくれると思ったのによ。そいつがまた面倒な奴でな。
そもそも取引ってのは、そいつがとあるグループに人質とって脅迫を──』
ぎぃ、
と、何かが軋む音が声を遮った。
音の方へと振り返ると、内開きの扉が押され、ゆっくりと開かれていくのが見えた。
ほのかな室内の明かりが少しずつ廊下に差し込み、その先を照らす。
(……茉衣子?)
そこには少女がいた。
髪も身体もすべて黒に包まれ闇に溶けた、小柄な人影がそこにあった。
うつむかせた白皙の容貌と、長袖から出た白い手だけが、闇から浮き出ている。
右手には刃があった。わずかな光を反射させて銀色に輝く、美しい短剣。
左手は廊下の奥に伸びていた。背後にある何かを掴んでいる。
そのまま彼女は一歩、部屋へと足を踏み入れる。ブーツが床を叩く足音と、何かを引き摺る音が響く。
続いて二歩、三歩。
「……っ!」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
茉衣子の背後には志摩子がいた。制服の襟を掴まれ、ぐったりとしている。
四肢に力はなく、その身体は床に倒れ込んでいた。
「ちょっとあんた、志摩子に何を……!」
リナの鋭い声にもかまわず、さらに一歩彼女は進む。
その瞬間漏れた志摩子の呻き声に、保胤が安堵の気配をみせた。
そして、もう一歩。
「…………」
そこで茉衣子は止まり、志摩子を盾にするように回り込むと、立ち膝をついた。
そしてゆっくりと顔を上げると、初めてこちらに視線を送る。
その目には、暗闇があった。
廊下に広がる闇と同じ、虚ろな黒の色が部屋の奥に向けられている。
一瞬その視線が何かに合わせられ、瞬いた。
その直後。
何の躊躇いもなく、銀の刃が志摩子の脚に振り下ろされた。
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