作:◆l8jfhXC/BA
小屋の中には暗闇が立ち込めている。
何の感情も感覚も伝えさせない──虚無そのものの暗闇だ。
あらゆるものを潰し飲み込み同化させ、後には何も残さない。
『見ての通りって、ここは……おい、しずく!? くそ、一体何があった!』
『だから見ての通りだよ。あんたがぶつ切れてから色々あったんだ』
その闇を、ただ茉衣子はその目に映していた。映すだけで、見てはいない。
澱んだ沼の中にいるような錯覚を覚えながらも、働いているのは思考のみだった。
内側に留まり溜まっていく澱みを掻き混ぜるように、あるいはさらに奥へと沈めるように、ただ思いを巡らす。
『あの騎士と女はどうなった!? 宮野の姿も見えねえが……』
『あいつがその騎士に殺られたんだよ。それでここまで逃げてきた。奴らが今どこにいるのかは知らねーよ』
『……』
対魔班。なぜかセットで見られる日々。鬱陶しいと思った。思っていた。
何が起ころうと余裕の笑みで片付けてしまう彼。何かと自分に構う彼。世界の外側を求める彼。覚えていてほしいと照れた彼。
そして無断でいなくならないでほしいと願い、共にあることを望んだ自分。
『じゃあしずくは、何でこうなった?』
『残ってる役者の数を考えればわかるだろ? ……まさか意識が回復した途端、こうなっちまうとはな』
彼がそれに応え、受け入れてくれたとき、確かに嬉しいと感じられた。
その後も彼にいつもと変わらず引っぱり回され、予想通り願ったことを思い切り後悔したが。
それでも今なら、あの時の判断は間違っていなかったと断言できる。
そう、本当に嬉しかったのだ。
『…………、おい茉衣子! お前自分が何やったか分かってるのか!?』
『何を言っても無駄だろうよ。さっきからずっとあんなんだ』
その死ぬはずがない彼が死んだ。
物語を勝手に掻き回し改変してしまうはずの彼が死んだ。
決して消え去りはしないと約束してくれたはずの彼が死んだ。
しぶとい害虫を徹底的に潰すかのように、何度も何度も何度も殺された。
だから──
「……少し、静かにしていただけませんか? 騒がれると耳に響きますので」
先程から聞き流していた声二つに対して、茉衣子は億劫そうに口を開いた。視線は未だ闇に投げたままだった。
その突然の発言に十字架とラジオが押し黙ると、それ以上は何も言わずにふたたび思考に沈んでいく。
『……何でしずくを殺した?』
それから少し間をおいて響いたラジオの声に対しても、何ら関心を持たぬまま即答を返す。
「正当な報復です。それ以外に何がありますか?」
直後、身体が浮いた。
そう感じた次の瞬間には、全身が小屋の壁に思い切り叩きつけられていた。後頭部にも衝撃を受け、視界と思考が歪む。
『おい!』
『加減はしてる。あの馬鹿みてえに丈夫じゃねえからな』
何かを非難するような声と、それに反論する声。
それらを認識できるほどに意識が回復したところで、やっとラジオの衝撃波を受けたのだと理解できた。
加減したというのは本当だろう。全身鎧を着た男を飛ばすほどのものをぶつけられたら、こんなものでは済まない。
『頭は冷えたか?』
静かな、しかし強い怒りが籠められた声が正面から響く。
ゆっくりと頭を上げると、いつの間にか男が一人、暗闇の中に立って──いや、浮いているのが見えた。
ラジオから溢れ出た暗緑色のノイズのような粒子が、不鮮明な人間の影を形成していた。
鍔つき帽を目深に被った、頬の痩けた壮年の男の姿だ。血と泥まみれの兵服と膝から下が喪失している片足が、ある意味闇に映えている。
その両眼は鮮やかな緑で固められ、異様な存在感を像に付加していた。
『正当、と言ったな?』
ノイズの像──ラジオの憑依霊である兵長が、こちらを見据えて言った。
その眼光は確かに鋭いものだったが、特に恐怖は感じなかった。彼の目には怒りはあるが、殺意はない。
それを確認し、淡々と言葉を返す。
「ええ。わたくしは彼女の責で、班長を失いました」
『殺したのはあの騎士だろう? しずくはただ助けを求めただけじゃねえか!』
「彼女が助けを求めなければ、班長が殺される必要はありませんでした」
『じゃあ見捨てた方がよかったって言うのか!?
……最初にあいつを落ち着かせて休ませたとき、一番世話を焼いていたのはお前だったろうが』
確かにそれは事実だった。しずくの必死な姿が、以前助けを求めて縋ってきた類に似ていたからだ。
彼女は今どうしているだろう。いつも誰かのために泣いていた少女は、今は自分と宮野のために泣いてくれているのだろうか。
『……俺はそれを見て、お前らに付き合うことにしたんだがな』
沈思の間を言葉に詰まったものと思ったのか、彼は若干怒気を収めて呟いた。
やりきれないといった感情──過ちを咎めるような表情を新たにノイズが形成し、続ける。
『ここまで逃げてこられたのはしずくのおかげなんだろう?
お前とここの状態を見るに……色々と気を遣って、今度は逆にお前の世話をしてたんじゃねえか』
「…………」
彼女は確かに、自分をここまで連れてきてくれた。──彼はまだ教会にいるのに。
彼女は確かに、自分の身体を拭くなどしてくれた。──彼は血塗れのままなのに。
彼女は確かに、自分を見て嬉しそうに笑っていた。──彼は二度と笑えないのに。
「そう、ですわね」
彼女は確かに、自分の隣にいてくれた。────そこは彼の場所なのに。
「ええ、本当にその通りですわ」
呟き、ゆっくりと立ち上がった。数十分ぶりに四肢を動かし、身体を小屋の壁から離していく。
『わかっているのなら、どうして、』
「どうして彼女は生きているのだろう、という疑問に思い至っただけです」
『なっ──』
喋りながら、前方に一歩踏み出した。黒い靴が床板を噛む。
彼は何もわかっていない。彼には何もわからない。
もとより他者の理解など期待はしていないし、求めてもいないが。
「確かに彼女は、わたくしをここまで退避させました。──なぜでしょう?」
一歩。
足音が鳴る代わりに、何かを踏みつけた感覚が伝わる。柔らかく、少し弾力がある筒状の何か。さながら人間の腕のような。
しかしどうでもよかったので、そのまま強く踏みつけて歩みを進める。
『なぜって、』
「もちろん班長が死んだからです。──なぜでしょう?」
さらに一歩。今度はぎぃ、と音が響いた。
ラジオとそのノイズに視線を留めたまま、密かに右指に意識を集中し始める。
「アシュラムと言う方に殺されたからです。──なぜでしょう?」
『お前、また──』
「あなたはお黙りなさい」
ぎぃ。
意図に気づいたらしいエンブリオの声を、さらに声と足音で遮る。
そして少し腰を下げて左手で彼の本体を掴み、引き抜いた。
彼が刺さっていた場所から液体か何かが飛び散ったが、特に気にしない。
「彼と戦ったからです。──なぜでしょう?」
『……茉衣子』
ぎぃ。
「力を顕す必要があったためです。──なぜでしょう? 千鳥かなめを助け出すためです。──なぜでしょう?」
ぎぃ。ぎぃ。
「助けてほしい、と言われたからです。──誰に?」
ぎぃ。
そこで、足を止めた。
「そこに転がっている方に、です」
一息ついた後、続ける。
「ですから彼女は当然代価を支払うべき存在であり、しかし彼女は生存しているために、わたくしは彼女の生に疑問を持ちました。
これで、おわかりになりました?」
『……ああ』
唸るような低い声が、スピーカーから絞り出される。それに呼応してノイズの像が歪み、怒気を放つ表情を一層いびつにさせた。
一歩踏み出せばラジオに触れられる距離。それを確認した後、タイミングを計るための言葉を付け加える。
「何か他に仰りたいことはありますか?」
『ねえよ。……もう何も言うことはねえ』
「そうですか」
そして呟きと同時に指先に蛍火を灯らせ、ラジオに向けて放った。
『っ──!?』
何の兆候も躊躇もない動作は、怒号と同時に衝撃波を出すつもりだったでだろう彼よりも速かった。
複数の光球が螺旋を描いてラジオの筐体とノイズの像に打ち込まれる。そして、破裂。
同時に足を踏み出し、右指をラジオの側面──にあるスイッチに引っかけ、思い切り下げた。
○
霧が晴れた後も視界の悪さは変わらず、眼前に開ける森の入口は、吸い込まれそうなほどの黒い闇を保っていた。
小屋の入口からその鬱蒼とした木々を見つめ、茉衣子は溜め息をついた。
(まぁ、夜になってしまったのですから当然ですわね。あまり気は進みませんが、明かりはどうしても必要になります)
蛍火は長続きしないし、懐中電灯の光は強すぎ、人を呼び寄せる。
しかし光源なしで夜の森を横切るのは、歩き慣れていない人間にとっては自殺行為に近い。
(でも森のない隣のエリアは既に立入禁止。迂回するには距離がありすぎます。
何かあれば、二十三時には間に合わないかもしれません)
この森を無理にでも横切らなければいけない理由はそこにあった。
ここから北東にある教会──宮野の遺体がある場所は、二十三時をもって禁止エリアとなる。
そこに一歩でも足を踏み入れた参加者は、刻印が発動して無惨な肉塊と成り果ててしまう。
そこに元からあった死体も、例外ではないかもしれないのだ。
刻印が発動しなくとも宮野は既に相当ひどい状態になっていたが、それでも彼があの最初の犠牲者達と同じになってしまうことには抵抗を覚えた。
(……そうでなくても、班長をあのままにしておくのは、嫌ですもの)
放送で彼の名前が呼ばれたとき、悲嘆に暮れたり絶望を覚えたりはしなかった。そんな感情はもう使い果たしていた。
感じたのは、途方もない喪失感だった。胸と言わず全身に穴が空いたような。
ここでは誰かが死んでしまっても、その名が淡々と呼ばれるだけで済まされる。死という現象に数としての価値しか与えられない。
その空虚さを、彼のために行動することで埋めたかった。少なくとも自分だけは、彼のことを記憶し、思っていなければならない。
覚えておいてもらいたい──と、他でもない彼に言われたのだから。
『……これからどうすんだ?』
と。
あれからずっと沈黙を保っていた、首にかけたエジプト十字架──エンブリオが、小さな声で呼びかけてきた。
「教会へ戻ります」
『そうか』
「あら、理由は聞きませんの?」
反応の薄さに疑問を持つと、彼は投げやり気味な口調で、
『聞いたところで何も変わらねえだろうしな。オレが何を言ったって、どうせあんたは行くだろうよ」
「よくわかってますわね」
『それに、どうせこの分だとオレのことも殺──』
「あなたは誰にも殺させません」
『……そーかい』
ぴしゃりと即答すると、エンブリオはまた黙り込んだ。
彼は班長が遺してくれたものだ。手放す気はないし、彼の願いを叶えてやることなど論外だ。
(それもすべて、わたくしに生のある間の話ですけれど)
生き延びること──というよりも宮野に関すること以外のすべてについては、半ば諦めていた。
もちろん、帰りたいとは思っていた。
しかし生存するための能力が何もないこの状況では、そんな願いは到底叶えられないものだと理解していた。
(小屋の時は、たまたまうまくいっただけと考えた方がいいですわね)
しずくはまだしも、兵長のときはぎりぎりのタイミングだった。
筐体のスイッチを切る際には、今にも爆発しそうな空気の震えが頬に感じられた。
あの時行ったこと──会話の主導権を握り、相手に隙を生じさせるタイミングを計る──も、たまたまうまくいっただけだろう。
宮野がいつもやっていることを、単に真似しただけなのだから。
(……意外と現実的に、物事を考えられますのね)
思考は割と冷静だった。
少なくとも、隙をつくって機械知性体と亡霊憑きのラジオを行動不能に出来る程度には。
あるいは、その程度でしかないとも言えるが。
(とにかく歩きましょう。ここにいたって寒いだけですわ)
思考の迷走を溜め息一つで切り上げ、茉衣子は懐中電灯のスイッチを入れた。
木々の合間に現れた鮮やかな光は、しかしすぐにでも闇に喰われてしまいそうなほど頼りなく見えた。
【E-5/森の入口/1日目・19:00頃】
【光明寺茉衣子】
[状態]:体温低下。生乾き。服の一部に血が付着。
精神面にかなりの歪み(宮野関連以外はまだ冷静に物事を処理出来る)
[装備]:エンブリオ
[道具]:デイパック(支給品一式・パン6食分・水2000ml)
[思考]:森を越えて教会へ。宮野を埋葬したい。
エンブリオを死守。帰りたいとは思っているが、半ば諦め気味。
[備考]:夢(478話)の内容と現実とを一部混同させています。
※ラジオの兵長(電源がオフになっているため意識が停止している。オンにした途端衝撃波が飛ぶ)が小屋の中に放置されています。
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