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「夜蘭<小狼編>2」


「きゃぁ、わたしのドレス、小狼がチョコのついた手でさわってるぅ〜」
「小狼が金魚鉢の中で手を洗ってる!!」
「痛い!小狼、髪放して!!」
「ダメダメ、小狼、テーブルクロス引っ張っちゃダメ!」

屋敷の奥にある小狼の部屋の方から、賑やかな笑い声や悲鳴が聞こえてくる。そして時々は泣き声も。 泣いているのは?泣かした原因はきっとがんぜない弟。大人しいくせに、けっこうな「おいた」をやらかす。
姉たちはまだ言葉も通じない弟を相手に最初から白旗を揚げている。
ほんのごくまれに、あまりの仕打ちに耐えきれなくなった姉の誰かが鉄拳をくらわせても(もちろん、手加減はしている。さもなければ弟はまっすぐ天国行きだ)、 ニコニコと愛らしい笑みを浮かべるだけなので、被害者の姉の方もついつい弟に頬ずりしたりして一件落着なのだ。

「あなたがた、一日中小狼につきっきりじゃありませんか。まずは自分たちのことをなさい。」
子供部屋のドアを開けて、いつも姦しい娘たちをたしなめながらも、夜蘭はにこやかに微笑んでいた。
「はーい」
四人は口々に母に返事をして、それぞれの部屋に戻っていった。小狼は突然姉たちに取り残されて泣き出してしまった。が、どうせ五分としない内に四人が四人とも小狼の部屋に戻ってくるだろう。
夜蘭は苦笑しながらも、母を見つけて泣きながら歩いてくる息子を抱き上げた。
(よく、元気で育ってくれましたね、小狼)
夜蘭はさっきまでの涙はどこへやら、母に抱かれてきゃっきゃと喜ぶ息子の鳶色の髪をなでてやりながら、二年前にこの子が生まれた日のことを思い返していた。

大方の予想を裏切って、小狼は大きな病気もせずに元気に成長していった。
生まれて八ヶ月もするとチョコチョコと歩き始め、目に入るもの全てをさわりたがり、なめたがったので、周囲のものは目を離せなくなってしまった。
夜蘭も夫も、そして姉たちも、たいした魔力がなくても無事にこうやって育ってくれているだけでいいと思っていた。
李家の当主夫妻がそういう考えでは困る、と陰口を叩いている分家もあったし、野心を持つ者などは早くも次期当主候としての地位を確保しようと躍起になっていると漏れ聞いたりもした。
だが本家としては特になにも対応しなかったし、するつもりもなかったので素知らぬ顔をしていた。
だいたい、魔力なんかないほうがいいーと夫が思っていることを夜蘭は知っていた。

夫はイギリス人で、英国国教会の牧師。そもそもどこで導師の家系である李家の女(それも現当主!)とキリスト教の牧師とが出会ったのか、 なぜ、恋に落ち、しかも結婚にまでいたったのか?夜蘭ですら不思議に思うことがある。
彼は「My Lord」(司教)と呼ばれる身であるが、同時に別の[Lord]をも有している。というのも、本国にいる実兄が伯爵として代々の領地を所有しているからである。
もっとも、現伯爵の実弟であればこその余録のような称号なので、小狼は長じても「Mr.」としか呼ばれない。
第一、夫は夜蘭を伴侶に選んだことで伯爵家から見放された存在になっていた。夫は家族を愛していたのでその仕打ちにひどく悲しんだが、それでも、夜蘭との生活を選び、表面上は伯爵家を 忘れた。
その夫はまた、李一族からもよそ者扱いされ続け今に至っている。彼の居場所は夜蘭と子供たちの側にしかない。
そんな夫のためにも、李一族のためではなく、自分たちの家族のために生きたい、と夜蘭は決意していた。
李家の魔力も、イギリスの貴族の称号もなくてもいい、家族仲良く暮らしていければと、それだけを願っていた。
そして、確かに彼らはそんな家庭を築きあげていたのだった。これ以上何を望む?
だが、後から振り返ってみると、多分、このころが夜蘭にとってもっとも幸福な時期だった。

すでにこの頃、一家の明るい幸せは、風前の灯火だったのだ。
小狼より遅れること約半年、一族に小狼の従姉妹にあたる娘が生まれて以来ずっと…。
名を李 苺鈴という。

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