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「夜蘭<小狼編>1」


香港の7月は雨季にあたる。
さすがに春先のように濃霧が立ちこめることはないが、それでも多湿にはかわりなく、ここしばらく蒸し暑い日が続いていた。
その日、朝から夜蘭はひどく汗ばんでいたが、それは暑さのせいばかりではなかった。
彼女は数年ぶりに子供を産もうとしてたのだ。
夜蘭が今いるのは、李家本家の敷地内に新築された産屋で、まだ真新しい木の香がした。
李家の次期当主が生まれるかも知れないというので、彼女の出産の度に同じように産屋は建てられてきた。この度で7回目になる。
昼間の暑さがよんだのか、夕刻になると突然雷鳴が辺りにとどろき、激しい雨が屋根を打つ音も響いてきた。
天候の激しさに怯えたのか、その子が産まれてきたのは雷雨もおさまった払暁になってからだった。
その、彼女にとって久しぶりの出産はずいぶん時間がかかったが、母子ともに健康でやきもきしていた周囲をほっとさせた。

古くから数多くの導師を輩出した名家、李家の女主人の出産は、家族・一族だけの関心事ではなく、畢竟、本来部外者であるはずの 多くの者たちも期待や不安、畏れなど勝手な感情をもって「結果」に並々ならぬ興味を抱いていた。
李家に大恩ある者やその縁者あるいは信奉者などの内のある者は、夜蘭の跡を継げ得る者の誕生をひたすら祈り、またある者は無事に生まれてくることだけを欲した。
逆に李家によからぬ思いを抱く者たちの中には、その胎児に呪詛を試みる者までもいた。
あれこれ周囲に渦巻く感情の渦に時には飲み込まれそうになりながらも、夜蘭は無事、大任を果たしたのだった。

生まれたのは初めての男の子。夜蘭はこの三年間に二度も男子を死産している。
四人もいる娘たちは初めて無事に生まれた男の子に大喜びだったし、それは夜蘭も同じだった。
だが、李家にとって大事なのは、性別などではない。ただ、「魔力があるか、ないか」。それが一番大事であり、それが全てであった。
その重みの前では個人の感情など無にも等しい。
先に生まれた娘たちのいずれもが、多少の魔力は持ち合わせていたものの、一族に連なるうるさがたのおめがねにかなう者は誰一人としていなかった。
そもそも本家はなぜか代々女系で、女の子の出生率が極端に高い一族でもある。
そして多くの場合、その女の子たちの内もっとも魔力の強い者が一族の長となってきたし、夜蘭とて例外ではなかった。
そんな訳で、世間では即、世継ぎの誕生と見なされる本家での男子出生は、李一族にとっては「珍しいこと」という位置づけでしかとらえられなかった。
大広間に控えていた分家筋にあたる男たちは、産後すぐに夜蘭と赤子のいる産屋を取り囲んで赤子の気を読んだ。

「まずいの」なかでも年長に見える男がつぶやいた。皺いっぱいの顔で渋面を作っている。
「うむ、実に」先ほどの男によく似た、だが十分若い男も同調した。
「本家は呪われておるのか。今度は男の子だったというばかりではなく魔力も弱い」実に悲しげな声で第三の男がうめいた。
「あれの姉たちのほうがマシじゃろう」と、初めの男。
「なんと不首尾な…」一番若そうな、整った顔立ちの男があからさまに落胆の表情をして言った。

一方、一族の女たちは遠慮なしに産屋の中へと入っていった。
彼女らが目にしたのは産後とは思えないほど居住まいを正した夜蘭と、生まれたばかりでふにゃふにゃと頼りなさ気な赤ん坊。
一目でその赤子は弱々しそうなことが見てとれた。おまけに、魔力の強さは当代随一といわれる夜蘭に、姉たち同様全く似ていなかった。
茶色い髪、大きな瞳。どれをとっても夜蘭の面影は見あたらない。忌まわしいことに、またしてもその父親そっくりの子供が増えたというだけ。
李一族にとってただのよそ者にすぎず、魔力も持たないあの男に!
一族のその子への関心は急速に失せた。
それでも、まがりなりにも李家当主の子供である以上、出生に伴うそれなりの儀式は執り行われなくてはならなかった。
およそ一週間をかけて執り行われたそれらの儀式もやがて終わりに近づき、最後にこれまた家令に則った命名式でやっと赤子に名が授けられた。

李 小狼と。
   

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