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日本永代蔵巻二ノ四心理学考 〜「ゑびす」の正体〜
安澤出海 H14.11/23
 この章の主人公・天狗源内は、鯨骨の再利用や鯨網の発明で成功し、金持ちとなった。
 又、源内は神仏を篤く信仰し、特に西宮神社へは毎年正月十日の早朝に参拝していたが、ある年、酒に酔って参拝に遅れてしまった。
 それでも何とか参拝を終えて、乗ってきた船で寝ていると、「ゑびす」がやってきて、源内に鯛を活かしたまま運搬する方法を教えて去って行った。
 それでは、この「ゑびす」を心理学で読み解いてゆくと、どうなるであろうか。ユング心理学とフロイト心理学の視点で読み解いて行く。
 しかしながら、両者は全てにおいて対立するものではなく(※1)、ここにおける読解もまた然りである。次章では、両者に共通すると思われることを中心に、ゑびすが登場する前までを読み解いてみる。

1.ゑびすが登場する前の源内の心の状態
 自然というものは気まぐれなものだ。人々に恵みをもたらすかと思えば、災害という猛威を振るって人々を苦しめ、時には容赦なく命を奪う。現在ではそういった自然のメカニズムは科学の進歩によってある程度解明できているが(※2)、当時の科学知識では、自然がどのように動いているのか、殆どといってよいほど人間には、計り知れないのである。
 ここに、人知を超えた何者かの采配を感じる事になる。それを人は神と呼び、祭り上げて、なんとか暴威を振るわずに恩寵を頂けるよう願うのである。
 特に漁の場合、出来不出来は偶然性に左右されやすい。畑に種を蒔いたら芽が出てくるのとはワケが違う。又、源内の成功も、特に捕鯨などは多分に偶然性が強い。従って、自然の恵みを受ける為に、神に気に入られようと他の者より気にする傾向があるのかもしれない。

 西の宮に例年より遅れて参詣した時、源内は「いつの年よりおそき事を、何とやら心がゝりに思」っていた。つまり、源内の心の中には、(日の入りに参拝して、神様(ゑびす)の御利益を失うのではないか)という危惧を持っていた。しかし、源内はその事を率直に認めたくはなかったであろう。神の恩寵を失う事は、自身の没落へ直結すると考えるからである。
 その為、その思いは無意識へと沈んでコンプレックス(観念複合体)を形成し、家来の一言、「二十年此来、朝ゑびすに参り給ふに、当年は日の入、旦那の身袋も挑灯程な火がふらふ」が、そのコンプレックスを刺激して、「いよいよ気をそむきて、脇指に手は掛」けて、あわや抜刀という事態にまで突き動かしたのである。
 しかし源内は「爰が思案とおさめて」、つまり自我意識の力で暴れかかったコンプレックスを押さえる事に成功し、「春の夜の闇を、挑灯なしにはあるかれじ」と、家来の言葉を合理化するのである。合理化するのも、その危惧を受け容れたくないからである。
 又、この後源内は参拝するのだが、この時、神社が例年の早朝参りと同様の神聖さを有していたなら、源内の心は多少なりとも納まったかもしれない。(※3)
 しかし、源内が見たのは、「神前になれは、『お神楽』といへど、社人は車座にゐて、銭つなきかゝり、誰の彼のと兼ひあひ、舞姫の跡にて鞁ばかり打て、そこそこに埒明、鈴も遠ひからいたゝかせて、仕舞れける。」という、俗物的でいい加減なものだった。これでは、折角参拝しても、効果が薄い、もしくは逆効果にさえなってしまう(※4)と感じるのではないか。

2.フロイト的解釈(1)
 夢は実際にひとつの意味を持っており、在来多くの研究家たちが考えたように、決して支離滅裂な脳活動の表現ではないということがわかる筈である。夢判断を終わってみると、夢というものがひとつの願望充足であることがわかるのである。(※6)
 フロイト心理学によれば、夢は願望充足である。無意識内に自分が持っている願望を夢の中で叶えようとするのだという。
 では、源内の夢が願望充足だとするならば、源内の願望とはなんであろうか。又、それはどのようにして満たされたのであろうか。
 源内は参拝に遅れた事が気にかかり、ゑびすの御利益を失うのではないかと危惧していた事は前章で散々述べた。
 だとすれば、この時の源内の願望は、この危惧を解消する事だったのではないか。もし解消されるならば、例年通りの御利益が得られると考えられるのである。
 無論、源内はその為に参拝するのだが、この時源内が目の当たりにしたのは、先述した通りの神社の有様だった。
 これでは御利益は望むべくもないと思ったのであろう、源内は「少腹立て、大かたに廻」って舟に戻ってしまった。
 こうして源内の心にあった、「ゑびすの御利益を得たい」という願いは、形式的には解消されたかもしれないが、心理的には解消されずに残った。
 そこへ夢の中でゑびすが現れ、鯛を活かしたまま運ぶ方法を教えてくれる。そしてそれによって新たなる繁栄を手にする事になるのである。
 このゑびすが告げた言葉こそ、源内の願望を充足させたことであろう。夢から覚めた源内が、ゑびすが教えてくれたアイディアを「是は世の例ぞ」といってお告げの通りに実行したのは、ここに御利益があると信じたからであり、この時既に源内の願望は充足されていたのである。

3.フロイト的解釈(2)
 ちなみに、ゑびすの烏帽子が脱げる箇所について述べておきたい。
 烏帽子が脱げるというのは、みっともない事である。
 なぜ、ゑびすはそのようなみっともない姿をさらしたのか。言い換えるならば、源内はなぜ、みっともないゑびすの姿を夢に見たのか。
 フロイト的解釈を続けるならば、源内は父なる神・ゑびすに対して畏敬の念を払い、心理的に屈服しながらも、その反作用としてそれとは反対の感情――屈服に対する反抗心、即ち自分を屈服させる存在(ゑびす)への攻撃性――を抱いていたと考えられる。フロイトの考えを適用すれば、これは子供が父に対して抱く感情と同様である。又、両者の感情は互いに相容れない、アンビバレンス(ambivalence)な状態にある。
 これは父を尊敬しながらも同時に憎むという、エディプス心理に他ならない。
 異常な心的状態(ノイローゼなど)では両者が堂々と並存している事があるかもしれないが、平常時はどちらかが優先されて自我の体系に組み込まれ、劣勢である方は抑圧されて無意識下に沈む。自我はなるべくなら、矛盾の無い、統一した価値体系を持とうとして、相矛盾するものに対して取捨選択を行うからである。
 この場合、優勢なのは前者(畏敬の念)であって、劣勢なのは後者(反抗心)である。だからこそ源内は西宮神社に参詣したのであり、もし逆であったら――ゑびすへの反抗心がゑびすへの畏敬の念より勝っていたら、そもそも参詣なぞしなかったであろう。
 抑圧されて無意識に沈んだその感情(コンプレックスといってよいかもしれない)は消えることなく残り、表に出る機会を伺う。だが、平常時は自我の統制が働いている為、表に出ることはない。
 しかし、睡眠時には自我の統制が緩む為、夢の中で、抑圧された思いが顔を出すのである。もっとも、フロイトの考えによれば、それは歪んだ形で出てくるのである。なぜなら、夢の中でさえも検閲が働いて、自我の価値体系が受け容れ難い内容を、自我が受け容れられるように(必ずしもそうなるとは限らないが。)シナリオが書き換えられるのだ。
 この夢の場合、源内の無意識内に沈んだゑびすに対する攻撃性が、検閲によって歪められた結果、烏帽子が脱げるというみっともない姿を見せる事で自我の価値体系と妥協しつつも同時にゑびすを攻撃したい(貶めたい)という無意識的な願望を充足させているのである。

4.フロイト的解釈(3)
 フロイト的解釈といえば、そのあまりに性的なものと結びつける傾向があることは有名である。今まではそうした方面にあまり触れていなかったが、ここでもうひとつのフロイト的解釈として、性的な解釈を(批判の集中砲火を承知で)試みる。
 鯨にせよ鯛にせよ、これらは海産物であり、海産物とは「海が産んだ物」という意味だ。又、海というものは、「生命を生み出す母なる海」と言われるように、母胎を象徴している。その母胎がいろいろなものを産み出すわけである。そして出産の前段階として性交が存在するのは世の道理だが、この性交も本文の中で象徴的な形をとって表われている。
 鯨の場合、銛(本文では「鑓」と表記してある)を打ち込んで捕らえるわけだが、銛は先端が尖っており、従って男根の象徴である。その男根を刺し込むのだから、「鯨突」は性交の象徴である。
 また、銛を刺す者である天狗源内は「鯨突の羽指の上手」であり、これは母胎(女性器)との接続及びそれによって生じる利益の獲得が上手い事を示す。そして「天狗」といえば高い鼻が特徴的である(※7)が、この鼻は男根の象徴である。従って源内は行為においても、又、名前においても男根的であり、これが母なる海と交わる事(象徴的な性交)によって、母なる海に海産物を産ませているのだ。
 又、ゑびすの訪問においても、象徴的な性交が見受けられる。
 源内は舟に乗り、「浪枕して、いつとなく寝入」っていた。船は人間や物資を収納する形状であるから、女性器、殊に母胎の象徴である。そうなると、源内はここではさしずめ、胎児の象徴となっているのであろう。
 そしてそこへゑびすがやって来たのだが、そもそもゑびすは右手に竿を持っている。竿は男根の象徴である。又、「ゑぼしのぬげる」ということは頭部が露出する事であり、頭は男根の象徴であるから、これは男根が露出する事の象徴である。又、「玉襷」の「玉」は睾丸を連想させる。「片足」「岩の鼻」も男根の象徴である。従ってゑびすはあらゆる方面から見て、実に男根的なのである。
 そのゑびすが母胎の象徴である舟に乗り込むということは、性交の象徴である。
 この象徴的な性交によって、「鯨突」と同様、何かが生み出されることになるのだが、それは「生て働く鯛の療治」であろうか。いや、これは男根的なゑびすがもたらしたもの(精液の象徴)である。従って、ここで産まれたものとは、そのアイディアと結びついた(身につけた)源内自身なのではないか。即ち、源内は母胎の象徴である舟の中で象徴的に生まれ変わって、更なる飛躍を遂げることになるのである。
 又、鯛に「とがりし竹にて突」というのは、鯨に銛を刺すのと同様、性交の象徴であることはいうまでもない。
 そして、最後に「仕合のよい時津風、真艫に舟を乗ける。」とあり、舟が順風満帆であるように稼業も順風満帆であるという意味なのだが、実はここにも性交の象徴が潜んでいる。風を受けるということがそれである。
 こう書くと不思議に思われるかもしれないが、ボルネオの神話ではルミムウトという女神が風を体に浴びて妊娠したとあり(※8)、風を受けることが性交の役割を果たしているのである。
 風を受ける事によって何が生み出されるかはわからないが、新たなる可能性を孕んでいる事は確かなようである。

5.ユング的解釈(事典)
 源内の夢をユング的に解釈するならば、どうなるであろうか。尚、この章では、ユング派の夢事典を引くことを中心に据えて解釈を試みる。
 私の手元には、ユンギアンが著した夢事典がある。ちなみに、この事典は予知夢の事例を盛んに用いるなど、いわゆるオカルト的な雰囲気がある。
[神仏・神霊]
 神霊は、多くの場合、夢主の心や性格・感情などの象徴ですが、予知夢においては、運命そのものの象徴として現れます。
(1)夢に現れた神仏から宝や薬などをもらったり、祝福されたり、教えを受けるなどの場合は吉夢で、その神が司る福を授かります。逆に、(2)神仏が何かを奪ったり、去ったり、にらんだりした場合は凶夢で、その神の司る福を失います。(※10)
 ゑびすは右手に竿を持ち、左脇に鯛を抱えている。この事からも分かるように、ゑびすは漁業を司る神であり、そのキャラクターはまさしく漁師であるといってよい。源内もまた、漁師である。源内は漁業を生業にして成功したし、その後も「弐百余人の猟師をかゝへ、舟ばかりも八十艘」を持つ身分となるが、これはいわゆる漁師の網元であり、これも漁師である事にかわりはないのである。
 従って、源内の漁師というキャラクター(性格)は、ゑびすによって表現されるものと同一であり、言い換えるならば源内の性格はゑびすによって象徴的に言い表す事が出来るのである。
 また、ゑびすの行為は、
【1】岩から船に乗り移った。
【2】「あらた成御声聲にて、」自分がやって来た理由を話す。
【3】「耳たぶによせられ、」「生て働く鯛の療治」を教えてくれた。
1と2は事典の(1)(2)のいずれにも該当しない。3が(1)の「教えを受ける」に該当するし、「その神が司る福を授かる」というのはゑびすがもっている魚(鯛)で利を得たことと符合するのである。
 従って、この事典を適用するならば、源内の夢は吉夢であったということがわかる。

6.ユング的解釈(創造的退行)
 第一章で述べてきたように、源内は早朝参りによってゑびすの御利益を得ていると信じ、又それを行動に移してきた。
 しかしある年、酒に前後を忘れて遅れてしまい、その事がゑびすの御利益を失うのではないかと危惧し、それを抑えて参詣したが、とても御利益が得られそうな状態ではなかった。
 そして「大かたに廻りて、又船に取乗、袴も脱がず浪枕して、いつとなく寝入」ってしまった。つまり、源内は、自分でどうにかして例年通りの御利益を確保しようとする気力を喪失して、袴も脱がずに寝てしまったのである。
 この状態は心理学の用語で言うと、「退行」(regression)ではないだろうか。退行とは、意識の力ではどうすることも出来ない、行き詰まりの状態に陥った時、心の中で心的エネルギー(気力)が意識から無意識へ流れて行くことである。
 このときに外に現れる彼の行動は、思索をやめて馬鹿げた空想にふけっている状態や、時には幼児的な行動や衝動的な行動として見られるかもしれない。あるいは、その本人は、なかなか仕事が手につかなかったり、何をしてよいか分からない状態となって、強い焦りや、いらいらした気分におそわれるかもしれない。(※11)
 源内は「手船の弐十挺」を率いてきたので、参詣が終わった時点で、それを率いて家路に着くのが彼の仕事であっただろう。疲れがあったかもしれないが、ともかくも源内はこの仕事に手を着けなかった。
退行現象が起こり、自我はその機能を弱めながらも、それに耐えて働いているとき、(略)統合された心像が出てくる。このように統合性が高く、今までの立場を超えて創造的な内容をもつものが象徴であり、このような象徴を通して、今まで無意識へと退行していた心的エネルギーは、進行(progression)を開始し、自我は新たなエネルギーを得て再び活動する。(※12)
 この心像とは、源内の夢に現れた、ゑびすではなかったか。ゑびすがもたらした「新敷事(あたらしきこと)」とは、心的エネルギーが生み出した「創造的内容」であり、そしてそれによって源内は「新たなエネルギーを得て再び活動する」のである。
 もし源内が退行現象を起こさず、活発に動く事が出来たなら、別の手段で御利益を得ようとするなり(例えば日を改めて参詣する、別の神様に縋る等)、帰るなりしていたであろう。そうなると、ゑびすはわざわざ舟まで出向いてこなかったはずである。

7.私の見解
 この辺りで、私の見解を述べる事にする。
 源内の信仰心とそこにある願望、そしてそれが自らの過失によって叶えられなくなるのではないかとの危惧の念があったことは疑いない。それは最初に述べてきたとおりである。
 フロイト的解釈では、夢は願望充足と説明されるが、それがすべてに適用されるものではない(※13)。夢の中には、警告や心の中の描写を指すものがある。私は数年来自分の夢を書き留めており、その経験からしても然りである。
 そういった観点から、源内の夢がどれに分類されるか(いかなる種類の夢か)、検証が必要ではないだろうか。
 又、烏帽子が脱げる箇所をエディプス・コンプレックスと解釈したが、これにも疑問が残る。この箇所だけを切り取ってしまうのは、少々強引に過ぎないだろうか。烏帽子が脱げるのと、玉襷・袖まくり、という格好をワンセットで解釈した方がいいのかもしれない。
 性的なフロイト的解釈については、自分で楽しく解釈を施しておきながらも、何をか言わんやとの感が強い。海産物は母なる海が産んだ物、というのはまだ許せるが、源内が海と性交するといったような解釈は俄かには承認し難いし、解釈の不完全さを表わすものとして、風車や参詣について全く触れられていない事が挙げられる。要するに、叩こうと思えば容易に叩けるほど、欠点だらけなのだ。
 ただ、源内がゑびすによって象徴的に生まれ変わったという解釈に関してのみ、私は興味を持ち続けている。死と再生という神話的モチーフがあり、私がその方面への趣味嗜好を持っているからだ。尤も、興味があるからといって、必ずしもそれに双手(もろて)を上げて賛同するわけではない。
 又、ユング的解釈で創造的退行を述べたが、ゑびすが果たして「統合された心像」なのか議論未消化のままである。私の直感では「老賢者」(※14)の表徴ではないかと思っているのだが、これも詳しい検証が必要であろう。
 これまでに私が施してきた諸解釈は、いずれも多かれ少なかれ一理はあるが、どれも何らかの欠点を有している為、私はそれらのいずれをも自分自身の意見として採用するつもりはない。
 現段階の私ではここまでしか解明できないが、ここではあまり光を当てなかった民俗学的見地からのゑびすのキャラクターを追究することが今後の課題となるかもしれない。

【注釈】
※1.かつてユングはフロイトに師事していたし、また例えば、フロイト心理学のエレクトラ・コンプレックスの概念は、ユングの進言によって創出されたのである。
※2.それでも充全ではない。例えばエル・ニーニョ発生のメカニズムは、まだ完全に解き明かされていないのだから。
※3.参拝する対象が神聖であれば神聖であるほど荘厳であれば荘厳であるほど、効果があると感じられるのだ。
※4.例えばある本(※5)によると、大聖歓喜天を祭る場合、中途半端にやると祟るそうである。
※5.秋月親良ら『密教の本 驚くべき秘儀・修法の世界』学研 1992.1.10 P221
※6.高橋義孝訳『フロイト著作集 第二巻「夢判断」』人文書院 1974.12.20 P104
※7.例えば、「天狗になる」といえば「鼻が高くなる」(傲慢になる)という意味である。
※8.『生蕃傳説集』(※9)によると、「國土が出来たので女神は山に登り、喜んで國原を眺めてゐると涼風が肌を吹いた。すると女神は孕んで男子を生んだ。」(P762)とある。
※9.佐山融吉・大西吉壽『生蕃傳説集』杉田重蔵書店 T12.11.17
※10.不二龍彦『詳細 夢解き事典』学研 1993.7.30 P358
※11.河合隼雄『ユング心理学入門』培風館 1967.10.30 P130
※12.※11と同書。P131
※13.その事はフロイト自身も認めている。苦痛を伴う夢(いわゆる悪夢)がそれだ。
※14.老賢者とはユングの提唱する元型の一つで、主人公が困った時に現われて、困難を打開するアドバイスやアイテムを与えてくれるキャラクターのことで、多くは白髭の老人として登場する。
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