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[三段論法]




2004.07.04


漫画『Holy Brownie −ホーリーブラウニー−』(作:六道神士)を読みました。
 ショボくれた人間の生み出すちっぽけな空想やチンケな寓話をオムニバス形式で用意し、唯一それに干渉できると定義されている神の使いが、正論・暴論織り交ぜながら大願を成就させたりブッ潰したりしてケラケラ笑う、とっても愉快な話です。
 無駄に大規模な世界を俯瞰して嘲笑。これが本作のスタンスです。神の使いのヤンチャな振る舞いと半端に達観した発言にだけ目を向けていれば、ちょっと邪悪な寓話集と言えなくもありません。

そもそも寓話と言うものは教訓的な意味合いのものを俳句程度の許容量に留めたもので、教訓として心のどこかに置いたり子供に教え聞かせるにはその簡素さが便利だったりしますが、そこに「実体験」や「深層心理」のような細かい不確定な要素が介入することは、そんなにありません。
 しかし本作は、その寓話に欠如している人間臭さを豪快にブチ込む事で、独自のオリジナリティを醸し出しています。

例えば女体
 本作は舞台となる世界が毎回変化するため、登場人物もその世界に合わせたキャラクターとなります。が、そのほとんどがどこかの場面で欲情もしくは肉奴隷
 いろんな意味でお伽噺な世界を主軸としていますので、中世のヨーロッパは闇深い森の中に棲むバンディッツから、玉手箱を開けて老いてもなお盛んな浦島太郎までもが己の劣情を暴発させています。その光景を目の当たりにすると、どうも自分が今まで受けてきた二十数年分の情操教育を否定されているような気分になりますが、しかしこれこそ本作の語らんとする「具体性に欠ける寓話への肉付け」なのでしょう。
 まあ、やたら多い性的表現は、その有難いお話をパロディとして表すための記号という意味も強いようですが。

つまりこの『ホーリーブラウニー』は、舌足らずで無菌状態なお話に対して適度に毒を振り掛けることで真実味を増していく、寓話専門のパロディ漫画です。
 ほらアレですよ。誠実で正直だけど、思ってることを全部言っちゃうから嫌われる人みたいな。




----------キリトリセン----------




ファミコンのRPGは、ある頃から容量面の都合でちゃんとした物語を綴る余裕が出てきました。

『ドラクエ』やそれの二番煎じを「王道」としますと、それに対して乱暴に反旗を翻したのが『FF』ですよね(ここで『ローグ』とか『ウィザードリィ』とか『ウルティマ』とか出されると、非常に面倒な上に本テキストの論旨から外れますので黙っててください)。
 そういう極端な見方からすると、『MOTHER』というソフトは王道の頬をなぞるような佇まいで、しかし二番煎じと呼ぶほど構築された世界が汚い訳ではなく、反対を向くほど『ドラクエ』を拒絶していない作品だと思うんです。

『ドラクエ』が主人公目線の古典的善悪二元論を標榜し、『FF』が神の視点から物語を紡ぎつつ主要キャラを衝撃的に殺していたのに対し、『MOTHER』はまず「人の日常」を描くことに専念しました。
 本作に登場するキャラクターのセリフは、その全てが生きています。他力本願なマザーズディの市長(きみではムリかなぁ。 きたいしてるんだけどなぁ。)や、サンクスギビングの小学校に通う生徒(あたし スージー。 ミス・いなかまちにえらばれたのよ。 きれい?)から、果てにはPPを回復してくれる町外れのヒーラー(しんじようが しんじまいが わたしはヒーラー。どうしたい?)までもが、その言葉にゲーム進行に必要な情報を詰め込みながら、日常を意味する言葉を発しようとしています。本作品の中で最も抽象的な世界のマジカントでさえも、人はそこに住んでいます。
 それに関しては、爆笑問題の太田さんが嫁と一緒に『MOTHER』をプレイしながら表示されるメッセージを全て読みあっていた話が個人的に印象的でしたが、つまり本作では従来のRPGで情報でしかなかったセリフを意図的に用意し、それに別の意味を持たせようとしているのです。

それはゲームシステムの面においても同様で、例えば『パンくず』の「そのアイテムを使った場所からパンを千切っていくことで、パンの後を追えば元の場所に戻る」という仕組みは、ルーラやマロールが「魔法」という不可思議な言葉を用いて意味の説明を保留していた概念を、分かりやすく表現しています。

つまり『MOTHER』は先駆者が作り上げた王道やら反旗やらをなぞりながら、それぞれに意味を持たせる事で作品世界に厚みを持たせたゲームであり、ある意味ではパロディとも言える作品なのです。
 ドラクエ的でありながら意味の類似を意図的に避けているシステムや、シナリオ担当の糸井重里氏が綴る独特な台詞回しは、パロディと呼ぶには鮮やかすぎると思いますけど。




----------のりしろ----------




つまり『ホーリーブラウニー』と『MOTHER』は、原型となった作品世界をパロディ化することで価値を見出すという点で同類項にあります。




そもそもパロディやオマージュは、それの原型の本質を見極めることで初めて成立する概念ですので、そういった考えからすると表現としては至極全うだとも言えます。
 『ホーリーブラウニー』の表面上の汚さから『MOTHER』との繋がりを見るのは難しいかもしれませんが、フライングマンが唯一持つ自己犠牲の精神に、純粋さとは別の乱暴で欠落した何かを感じるのは私だけでしょうか。




全然関係ないですけど、『ホーリーブラウニー』の2巻に『ヘンゼルとグレーテル』をモチーフにした話がありますね。子供がパンくずを撒いて、目印にしようとする話。





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