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[三段論法]




2004.06.12


最近、佐藤雅彦さんの本をよく読んでいます。

CMプランナー・作家・慶應大学教授など、様々な肩書きを持たれる佐藤氏は、様々なジャンルを股にかけ作品を創りあげたクリエイターです。
 当サイトをご覧の皆さまには、PS初期のパズルゲーム『I.Q』の作者と言えばピンとこられる方も多いかと思われます。

その他にも、毎日新聞にて連載中の「日本のスイッチ」、NHK教育放送の「ピタゴラスイッチ」、古いところでは「だんご3兄弟」の制作者としても知られる、素晴らしい実績を残された方です。

佐藤氏が手がける作品は、どれも「生理的に訴えかける不確定な要素を、丁寧に整理する」という点で共通しています。
 例えば、佐藤氏が初めて作ったCMは湖池屋の「スコーン」でした。ダンスの講師が画面中央で「スコーンスコーンコイケヤスコーン」と連呼し、そのリズムに合わせて周囲ののダンサーが社交ダンスを踊る、という強烈なインパクトを誇る作品は、放映から十数年経過した今も、視聴者の記憶に残り続けています。

こういった「絶対的な制約を定義して、そこから何かを作る」という考え方、私は大好きです。

シンプルであるが故に美しく理解しやすい。
 佐藤氏の素晴らしい点は、難解な法則を丁寧に解きほぐして語ることができるところにあります。

例えば、雑誌のインタビューや著名人との対談の際に本CMについて話が及んだとき、佐藤氏は決まって「音は映像を規定する」という方法論を語っています。
 視覚から感じる世界のオプションとしてでなく、聴覚を主体とした世界を構築しても、一貫したメッセージを視聴者に送ることができる、と佐藤氏は解説します。
 佐藤氏の他作品ですと「カローラ2に乗って」も、同じく「音は映像を規定する」方法論で作られたCMだと言えるでしょう。




----------キリトリセン----------




そう、『マッピー』のボーナス面です。

1983年からアーケードで稼動、1984年にファミコンへ移植された本作。
この『マッピー』のボーナスステージは、マップ内に配置された風船を制限時間内に全て割る、というものですが、その制限時間は「TIME」などと気の利いた厳密性の高い表示ではなく、軽快なBGMによって表されています。
 プレイヤーは、その音楽が途切れるまでに全ての風船を割り終えなければいけません。そして、若干シビアな難易度のボーナスゲームは、BGMが鳴り終える瞬間と最後の風船を割るSEが完全に重なり合うのです。

『マッピー』は、こういった特殊ルールの束で構成されていまして、「ジャンプ」と「敵との接触回避」の2つの意味を持つトランポリン、ドアを開放して敵への攻撃など、それまで前例の無かった要素がたくさん登場します。

こういった斬新なシステムと画像・BGMを組み合わせて、「アメリカのアニメっぽい世界」と定義・宣言し、プレイヤーにシステムごと無理やり認識させてしまった経緯は、今考えると尊敬を通り越して畏怖という他にありません。
 当時のゲーマーが「あの頃のナムコは良かった」と語るのは、そんな同社の底力を自然に感じ取っていたからでしょう。




----------のりしろ----------




つまり、佐藤雅彦の仕事とマッピーのボーナス面は、表現に至るまでの工程の一部が、同類項にあります。




佐藤氏の作品とゲーム創成期のナムコ作品は、どれも素晴らしい完成度と親しみやすさを誇っています。
 そしてそれはどちらも、上の「音は映像を規定する」のような確立された方法論により構築されているのです。

ですから今度、仕事や学校を病欠した朝には是非「ピタゴラスイッチ」を見てみてください。
 「ピタゴラ装置」凄いですから。



2004.06.11


アニメも絶賛放映中な『恋風』のコミックスを、最新巻まで衝動買いしました。
 結婚相談所で働く無骨なサラリーマンが、十数年ぶりに再会した妹に対して怒涛の勢いでハァハァしながらダメ人間になっていく話です。




この作品は、男性向けオタク業界の一翼を担う「妹萌え」のシステムを受け継いだ、ある究極的な形です。

オタク業界で確立した「妹萌え」が父性と征服欲ばかりを過剰に充足するのに対し、『恋風』は従来の「妹萌え」が見なかった事にしていた物を一つ一つ、しっかりと目の前に突き出しています。




例えば深夜のファミレスに、工科系大学の学生4人。
 ドリンクバーになみなみと注いだジンジャーエールに一口つけて、世間話もそこそこに「本題」へと切り込みます。




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A:「でもさぁ。もし本当に現実世界で妹と両思いになったら、どうする?」

B:「そりゃ幸せだろ。俺なら人生の全てを妹に捧げるね」

C:「お前、妹いないからそう簡単に言うけどさ。実際のところ、妹に恋愛感情なんてそうそう持てるもんじゃねぇぞ」

A:「それはお前に限った話だろ。何かのはずみで、妹でヌいたりする可能性が無いとも言い切れん」

C:「もっとマシな例えは無いのか」

A:「こういうのって、妹が居ない奴だけに許された、特権的な妄想なんだろうかねぇ」

D:「…うーん。まあ、一般論では禁忌とされてる事だから、その恋の果てに妹に何かしたいとかなったら、毎日嬉しい反面、苦しくもあるなぁ」

A:「確かに、友人でそんな奴がいたらやっぱヒくかなぁ。相談には乗るだろうけど」

C:「…実際に妹持ちだからか、イメージが湧かん」

B:「いや、毎日天国だろ!」

C:「お前、少し黙ってろ」

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こうした、オタクの禅問答めいた答えの出ない疑問を、「恋風」の作品中では恐ろしく丁寧にシミュレートしています。

妹を汚してしまう事に恐れを抱き、妹が自分と同じ感情を抱いている事に戸惑い、お互いの将来が精神的に潰される事を避け、一人の大人としてあるべき態度で距離を置く。
 その心象風景は、「12人の妹が目の前に現れてヤッホーイ!」とは対極にあるものです。

その、主人公が苦しむさまを直視するという事は、ただただ気持ち悪いだけの作業です。
 この作品を楽しむには、読み手が「もし、シスプリと同じ状況が俺の家で展開されたら、ご近所に何て言い訳しようか」という、冷静に考えればありえない危惧を抱く必要があります。
 つまり「もしも、オレの考える妹萌えの妄想が、現実のものになってしまったら」。

 

「うわヤベ俺も妹好きになっちゃったよ」が実現した際の教科書として読む。これが、『恋風』を本気で直視するための数少ない方法であり、私が最も推奨する読書法です。
 事実、私も「あーそうかぁ。妹好きになった事が会社の同僚にバレた時って、こうして社会的なポジションが崩れてくんだ」と、主人公に対して常に感情移入しながら読んでました。

妹、いないのに。

『恋風』において、主人公のサラリーマンを自己投影させながら、という読み方が正しいのかどうか、私には分かりません。
 ただ、この主人公の人格は「妹好き」という部分を除いては、欠落と言えるほど淡白なように感じます。有り体に言えば『To Heart』のヒロユキ(PS版)の、性に対して淡白な部分を悩みや雑念に差し替えた人間性です。
 主人公の悩みや雑念は、前進も後退もせず停滞しています。無いに等しいと言えるでしょう。「淡白」という表現は、そういった意味を内包して適用しています。




つまり『恋風』は、「妹萌え」という前提を踏み台に作られ、一段階アップしたそれの形なのです。




----------キリトリセン----------




『マインドシーカー』は、ナムコという会社をよく現しています。




かつてスプーン曲げで一世を風靡した『エスパー清田』が超能力養成スクールの講師となり、プレイヤーである私に対して懇切丁寧に超能力の概念、覚醒するまでの心理面の道程を説明してくれます。
 実技試験をパスした先に広がる世界は、己の実力の全てがPSIの強さだけで判定される世界です。同じ区域の住民は、私の超能力をえらく気にしてくれます。彼らの要望に応じて、噴水を出したり飛行船の色を当てたりエレクトーンを弾いたりして見せましょう。
 マインドレベルを最強まで強めたとき、清田氏からパワースポットなる場所へ案内されます(テレポートで)。
 度重なる難関を乗り越え、意識レベルを高め己を覚醒させまくりましょう。

…全てのテストを乗り越えたとき、私は既に人ではなくなっているのかもしれません…。




年号も平成に変わり、全てが昔から変わろうとした頃に「超能力養成ソフト」という胡散臭いこと限りない看板を堂々と掲げ、過剰なまでに超能力とエスパー清田を肯定した本作。
 プレイヤーに課せられる豊富なイベントの数々を見るにつけ、プレイヤーに求められる能力が「超能力」で無ければ、きっと立派なミニゲーム集、例えば『メイドインワリオ』辺りに生まれ変わることができたのではないか、と十数年早い名作の誕生をスルーしてしまった事実に悲しみを隠し切れません。

しかし、それは天命だったのです。なぜならナムコは、ファンを納得させるために『斬新』という茨の道を進んで歩いていたのですから。




そもそも、『スペースインベーダー』一色のゲームセンターに新たな光をもたらしたゲームは『ギャラクシアン』でした。
 一列ずつカニ歩き、なんてチープなローラー作戦は排除し、自決特攻を主軸とした敵の編隊を連射不可のミサイルで打ち崩すスペーシーな空間。
 カラフルな画面と止め処なく流れる流星群は、『インベーダー』という韻を踏んだ進化と呼ぶに相応しいものでした。

その後も、膨大なストーリーとビジュアル、完成度の高い対地・対空攻撃がマニアの目を引いた『ゼビウス』や、アーケードでRPGの概念を導入した『ドルアーガの塔』など、全てが新しく全てが高品質な作品が、ナムコから続々とリリースされ続け、そのうちファンの間では「新しくて面白い作品はナムコ」というレッテルが貼られることになります。

別に、ナムコ側は面白くて新しい作品ばかりを好んでリリースしていた訳ではなく、単に才能があって新たなものを模索する人たちが、ゲーム業界という当時はその概念すらも怪しい場所に多く集まっていただけなんだと思います。
 ただ、新しいものを切り捨てず面白いものを評価し、世に送り出す素晴らしい土壌が当時のナムコにあったことは事実です。

『マインドシーカー』発売(多分、開発会社は別だと思います)の前後は、アーケードで『ワンダーモモ』が稼動したり、『源平倒魔伝』が業務用から移植された際にアクションからボードゲームへジャンルが変更されていたりと、昨今の『ゆめりあアイドルマスター』に負けず劣らずの荒れ狂いっぷりを発揮していました。
 これはナムコが斬新、つまり「今までに無かったやつ」を世に送り出そうと、これまで以上に意識していたからでしょう。

そんな事言われましても、ジャンケンだって握りこぶしとピース、それに掌の3つしか無いんで、新しいものを出そうとしたら昔チョキとかグワシ(by梅図かずお先生)とか、無理やり新機軸を打ち出して一般に定着させるしかないじゃないですか。
 この1987〜88年のナムコを振り返ってみると、そういった夢の世界への欲求がそこはかとなく感じ取れるんです。




ですから『マインドシーカー』は、ゲームとして見れば反則スレスレのビーンボールみたいな作品ですけど、それでも立派にナムコの流儀に則った、由緒正しきファミコンソフトなんです。




----------のりしろ----------




つまり『恋風』と『マインドシーカー』は、「過去を前提とした新たな作品」という点で共通項にあります。




常に後ろを振り向き振り向きしながら、それでいて作品としての違和感は無い。
 「影響を受ける」とは本来パクリやパロディではなく、こういった作品や事象の本質を見抜いて、それを自己流に組み替えてこそ成り立つものなのでしょう。




ゲーム・アニメの世界は、このように文脈でしか語れない事柄が多く存在します。前述した『スペースインベーダー』と『ギャラクシアン』の関連性も、その一つです。

『妹萌え』と『超能力』。
 枠組みこそ雲泥の差がありますが、その制作工程には純然たるオタクの歴史と、それに共存したマニアの血が潜んでいます。



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