(一九七二年五月、外務省情報文化局)
もくじ
1.急に起こった問題 ……………………………………………2
2.わが国領土に編入されたいきさつ……………………………5
(1) 慎重な編入手続き ‥……………………………………5
(2) 戦前におけるわが国の支配 ‥…………………………5
(3) 戦後における支配 ………………………………………7
3.わが国はこう考える …………………………………………13
(1) 先占による領土編入 ……………………………………13
(2) 明確なサン・フランシスコ平和条約 …………………15
(3) 中国側の文書も認めている ……………………………17
〔資 料〕
◇標杭建設ニ関スル件 ………………………………………24
◇官有地拝借御願 ……………………………………………22
◇沖縄県の郡編成に関する勅令 ……………………………24
◇尖閣諸島中四島の払下げについての国有地台帳 ………25
◇琉球列島の地理的境界(米国民政府布告第27号)………25
◇琉球政府章典(米国民政府布令第68号 …………………26
◇群島政府組織法(米合衆国軍政府布令第22号)…………26
◇尖閣列島における警告板設置について……………………30
◇沖縄返還協定 ………………………………………………31
◇合意された議事録 …………………………………………31
◇中華民国政府外交部声明 …………………………………32
◇中華人民共和国政府外交部声明 …………………………33
◇北京放送 ……………………………………………………34
1.急に起こった問題
尖閣諸島は、第1図のようにわが国の領土である南西諸島西端に位置する魚釣島、北小島、南小島、久場島(黄
尾嶼)、大正島(赤尾嶼)、沖の北岩、沖の南岩、飛瀬などからなる島々の総称です。尖閣諸島の総面積は約6.3 平方キロメートルで、富士の山中を少し小さくしたくらいの面積です。そのうち、一番大きい島は魚釣島で約3.6平方 キロメートルあります。
この尖閣諸島には、昔カツオブシ工場などがあり、日本人がある時期住みついたこともありますが、現在は無人島
となっています。また、尖閣諸島には、天然肥料になるグアノ(鳥の糞)以外には、とくにこれといった天然資源は無 いとされていました。
ところが、昭和43年(1968年)秋、日本、中華民国、韓国の海洋専門家が中心となり、エカフェ(国連アジア極東
経済委員会)の協力を得て、東シナ海一帯にわたって海底の学術調査を行なった結果、東シナ海の大陸棚には、石 油資源が埋蔵されている可能性のあることが指摘されました。これが契機になって、尖閣諸島がにわかに関係諸国 の注目を集めることになりましたが、さらに、その後、中国側が尖閣諸島の領有権を突然主張しはじめ、新たな関心 を呼ぶこととなりました。
昭和45年(1970年)後半になって、台湾の新聞等は、尖閣諸島が中国の領土である旨主張し始めるとともに中
華民国政府要人も中華民国の議会等で同様の発言をしている旨報道されましたが、中華民国政府が公式に尖閣諸 島に対する領有権を主張したのは昭和46(1971年)4月が最初であります。他方、中華人民共和国政府も同年1 2月以降尖閣諸島は中国の領土であると公式に主張しはじめました。
このように、尖閣諸島の領有権問題は、東シナ海大陸棚の海底資源問題と関連して急に注目をあびた問題であ
り、それ以前は、中国を含めてどの国も尖閣諸島がわが国の領土であることに異議をとなえたことはなかったので す。
2.わが国領土に編入されたいきさつ
(1)慎重な編入手続き
明治12年(1879年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県としましたが、明治18年(1885年)以来数回にわた
って、沖縄県当局を通じ尖閣諸島を実地に調査した結果、尖閣諸島が清国に所属する証跡がないことを慎重に確認 した後、明治28年(1895年)1月14日の閣議決定により、尖閣諸島を沖縄県の所轄として、標杭をたてることにき めました。
このようにして尖閣諸島は、わが国の領土に編入されたのです。
(2)戦前におけるわが国の支配
このようにしてわが国の領土に編入された尖閣諸島は、その後、八重山郡の一部を成すことになりました。
他方、明治政府は、尖閣諸島のうち、魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島を国有地に指定しましたが、明治1
7年(1884年)頃からこれらの島々で漁業などに従事していた福岡県の古賀辰四郎氏から、国有地借用願が出さ れ、明治政府は、古賀氏に対してこれ等4島を30年間無料で貸与しました。
古賀辰四郎氏は、これらの島々に多額の資本を投下し、のべ数百人の労働者を送りこみ、桟橋、船着場、貯水場
などを建設し、また、海鳥の保護、植林、実験栽培などを行ない、開拓事業を発展させました。
この古賀辰四郎氏が大正7年(1918年)亡くなった後、その子息である古賀善次氏は、父の開拓事業を引き継
ぎ、とくに魚釣島と南小島でカツオブシ、海鳥の剥製などの製造を行なっていました。
昭和元年(1926年)、古賀氏に無料で貸与していたこれらの国有地4島の貸与期限が切れたために、政府はそ
の後1年契約の有料貸与にきりかえましたが、昭和7年(1932年)、古賀氏がこれら4島の払い下げを申請してきた ので、これを有料で払い下げ、今日にいたっております。
(3)戦後における支配
(イ) 米国政府の施政上の取扱い
終戦後尖閣諸島は、南西諸島の一部として、すなわち、わが国の領土としての地位はそのままにして、米国の施
政権下に置かれてきました。その間、沖縄において米国政府が発した諸法令(群島政府組織法、琉球政府章典、琉 球列島の地理的境界)は、琉球列島米国民政府、琉球政府等の管轄区域を緯度、経度で示していますが、尖閣諸 島は当然のことながらその区域内に含められています。
(ロ) 久場島、大正島の射撃場設置
在沖縄米軍は、尖閣諸島の久場島(黄尾嶼)および大正島(赤尾嶼)に射撃場を設置していましたが、沖縄返還交
渉の際の日米両国政府間の了解に従い、日米両国政府は、これら射爆撃場を、復帰後安保条約および地位協定に 基づき、施設・区域として日本政府から在日米軍に提供することとなりました。
(ハ) 南小島における台湾人の沈船解体工事
昭和43年8月、琉球政府法務局出入管理庁係官は、南小島において数十名の台湾人労務者が不法に上陸し、
同島沖で坐礁した船舶の解体作業に従事していたのを発見しました。同係官は、その人域が不法であることを説明 して退去を要求するとともに、入域を希望するのであれば正規の入域許可証を取得するよう指導しました。これらの 労務者たちは、いったん南小島から退去し、同年8月30日付および翌年4月21日付をもって琉球列島高等弁務官 の許可を得、再び同島に来て上陸しました。
(ニ) 領域表示板および地籍表示標柱の建立
前記(ハ)のような台湾人の不法入域事件にもかんがみ、琉球政府は琉球列島米国民政府の援助を得て、昭和45
年7月8日より13日にかけて尖閣諸島に領域表示板を建立しました。この表示板は、魚釣島(2ヵ所)北小島(2ヵ 所)南小島、久場島および大正島の5島7ヵ所に設置され、日本語、英語および中国語の3ヵ国語で「琉球列島住民 以外の者が高等弁務官の許可を得ずして入域すると告訴される」旨を高等弁務官の命によるとして述べ、琉球政府 がこれを建立したことを明記しています。
また前述の領域表示板とは別に、石垣市は昭和44年5月10日と11日、地籍表示のための標柱を魚釣島、北小
島、南小島、久場島および大正島の5島に建立しました。
なお、尖閣諸島の地籍は、石垣市字登野城に属しています。
(ホ) 日本政府による学術調査
政府は、前述のエカフェによる東シナ海一帯の海底学術調査の結果にもかんがみ、総理府が中心となって尖閣諸
島およびその周辺海域の学術調査を実施することとし、昭和44年以降毎年1回東海大学に委託し、調査を実施して きています。
以上のことから、戦後においても、通常は施政権者である米国政府によって、また場合によっては米国政府の了承
の下に直接わが国政府によって、尖閣諸島に対する有効な支配が行なわれてきたことが理解して頂けたと思いま す。
3.わが国はこう考える
(1) 先占による領土編入
尖閣諸島がわが国の領土に編入されることになったいきさつは、すでに述べましたが、これは国際法的には、それ
までどこの国にも所属していなかったそれらの諸島の領有権を、わが国が、いわゆる「先占」と呼ばれる行為によっ て取得したのだということになります。
国際法上、ある国は、どの国にも属さない地域(無主地といいます)がある場合、一方的な措置をとることによって、
これを自国の領土とすることが認められています。
これが先占と呼ばれるもので、たとえばイギリス、フランスなどが太平洋の島々を領有するに至ったのも、大部分こ
れによったと言われています。
それでは、先占が有効であるためには、どのような要件が充たされなければならないかということになりますが、一
般には、その地域が無主地であること、国家がその地域を自国の領土とする旨を明らかにすること、および、実際上 もその地域に有効な支配を及ぼすこととされています。
尖閣諸島については、すでに述べましたように、わが国は明治18年以降沖縄県当局を通ずるなどの方法で再三
現地調査を行ない、これらの島々が単に無人島であるだけでなく、清国を含むどの国の支配も及んでいる証跡がな いことを慎重に確認した上、明治28年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の 領土として沖縄県に編入しました。(それ以来、尖閣諸島は一貫して南西諸島の一部として取扱われてきました。)
また、その後の支配についても、政府は、民間の人から尖閣諸島の土地を借用したいとの申請を正式に許可し、
民間の人がこれに基づいて現地で事業を営んできた事実があります。これらの事実は、わが国による尖閣諸島の領 土編入が、前述の要件を十分充たしていることを示しています。従って尖閣諸島が国際法上も有効にわが国に帰属 していることば問題がありません。
(2) 明確なサン・フランシヌコ平和条約
以上の説明から明らかなように、尖閣諸島は先占という国際法上の合法的な行為によって平和裡にわが国の領土
に編入されたものであって、日清戦争の結果、明治28年5月に発効した下関条約の第2条で、わが国が清固から 割譲を受けた台湾(条約上は「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」となっています。)の中に含まれるものではありません。
ところで第2次大戦中、1943年(昭和18年)には、英・米・華の3主要連合国は、カイロ宣言を発表し、その中でこ
れら3大同盟国の目的は、「満州、台湾及澎湖諸島ノ如キ日本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ 返還」することにあるという方針を明らかにしていましたが、わが国も、1945年(昭和20年)8月15日ポツダム宣言 を受諾し、9月2日降伏文書に署名したことにより、これを方針として承認するところとなりました。
カイロ宣言において示された主要連合国のこのような方針は、やがてわが国と連合国との間の平和条約の締結に
当り、実際の領土処理となってあらわれ、戦前のわが国の領土のうち、戦後も引き続きわが国の領土として残される ものと、もはやわが国の領土でなくなるものとが、法的に明らかにされました。
即ち、サン・フランシスコ平和条約においては、カイロ宣言の方針に従ってわが国の領土から最終的に切り離され
ることとなった台湾等の地域(第2条)と、南西諸島のように当面米国の施政権下には置かれるが引き続きわが国の 領土として認められる地域(第3条)とが明確に区別されました。
尖閣諸島が条約第2条でいう台湾等の地域に含まれず、条約第3条でいう南西諸島に含まれていることは、先に
詳しく述べた同諸島の領土編入手続及びカイロ宣言の趣旨から見て明らかであり、このことは前述した講和後の同 諸島に対する米国政府の一連の措置によっても確認されています。
また、サン・フランシスコ平和条約に基づく右のような領土処理は1952年8月に発効した日華平和条約第2条に
おいても承認されています。なお、尖閣諸島が第2次大戦後も引き続きわが国の領土としてとどまることになったこと に対しては、後で詳しく述べる通り、中国側も従来なんら異議をとなえませんでした。
このように尖閣諸島を含む南西諸島は講和後も引き続きわが国の領土として認められ、サン・フランシスコ平和条
約第3条に基づき20年間にわたり米国の施政の下に置かれてきましたが、昨年6月17日に署名されたいわゆる沖 縄返還協定により、昭和47年5月15日をもってこれらの地域の施政権がわが国に返還されました。(同協定によっ て施政権が返還された地域は、その合意された議事録において緯度、経度で示されていて、尖閣諸島がこれに含 まれていることは疑問の余地がありません。)
以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位をきわめて明瞭に物語っているといえましょう。
(3)中国側の文書も認めている
逆に、中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づいて
米国の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭和28年12月25日の米国民政府布告第27号 により緯度、経度で示されています。)に対して、従来なんら異議をとなえなかったことからも明らかです。のみなら ず、先に述べましたように、中国側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和45年(19 70年)以後はじめて、同諸島の領有権を問題にしはじめたにすぎないのです。
げんに、台湾の国防研究院と中国地学研究所が出版した「世界地図集第1冊東亜諸国」(1965年10月初版)、
および中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)(第2図)においては、尖閣諸 島は「尖閣群島」というわが国の領土であることを前提とする呼称の下に明らかにわが国の領土として扱われていま す。
(これらの地図集および教科書は、昨年に入ってから中華民国政府により回収され、尖閣諸島を中華民国の領土
とした改正版が出版されています)(別添2)。
また、北京の地図出版社が出版した『世界地図集』(一九五八年十一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日
本の領土としてとり扱われています。
「世界地図集」(1958年11月出版)(第4図)においても、尖閣諸島は「尖閣群島」という島嶼名の下に日本の領土
としてとり扱われています。
第2図
中華民国59年1月初版国民中学地理教科書(1970年)
〔注] 1970年発行の国民中学地理科教科書(初版)に載せられた琉球群島地形図によると国境線は台湾と尖閣
諸島との中間に引かれ、また尖閣諸島には「尖閣群島Jというわが国の島嶼名が使用されている。
第3図
中華民国60年1月再版国民中学地理教科書(1971年)
〔注〕1971年発行の国民中学地理科教科書(再版)では国境線が書き改められ、また尖闇諸島には「釣魚台列嶼」
という中国語の島嶼名が使用されている。
第4図
北京の地図出版社発行の「世界地図集」(1958)の日本図
〔注〕 1958年に北京の「地図出版社」が発行した「
世界地図集」の日本図では尖闇諸島には「尖闇群島」というわが国の島嶼名が使用きれている。
〔資 料〕
◇標杭建設ニ関スル件
◇官有地拝借御願
◇沖縄県の郡編成に関する勅令
◇尖閣諸島中四島の払下げについての国有地台帳
◇琉球列島の地理的境界(米国民政府布告第27号)
◇琉球政府章典(米国民政府布令第68号)
◇群島政府組織法(米合衆国軍政府布令第22号)
◇尖閣諸島に対する警告板の設置に関する米琉往復書簡
◇尖閣列島における警告板設置について
◇沖縄返還協定
◇合意された議事録
◇中華民国政府外交部声明
◇中華人民共和国政府外交部声明
◇北京放送
標杭建設ニ問スル件
秘別第133号
別紙標杭建設ニ関スル件閣議提出ス
明治28年1月12日
内務大臣子爵 野村靖 [印]
内閣総理大臣伯爵 伊藤博文殿
秘別第133号
標杭建設ニ関スル件
沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ハ従来無人島ナレトモ近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル
者有之之レカ取締ヲ要スルヲ以テ同県ノ所轄トシ標杭建設致度旨同県知事ヨリ上申有之右ハ同県ノ所轄卜認ムル ニ依り上申ノ通標杭ヲ建設セシメントス
右閣議ヲ請フ
明治28年1月12日
内務大臣子爵 野村靖 [印]
明治28年1月14日
内閣書記官 [印]
内閣総理大臣 花押
内閣書記官長 花押
外務大臣 花押
大蔵大臣 花押
海軍大臣 花押
文部大臣 花押
逓信大臣 花押
内務大臣 花押
陸軍大臣 花押
司法大臣 花押
農商務大臣 花押
別紙
内務大臣請議沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島卜称スル無人島へ向ケ近来漁業等ヲ試ムルモノ
有之為メ取締ヲ要スルニ付テハ同島ノ儀ハ沖縄県ノ所轄卜認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀仝県知事上申ノ通許可スへ シトノ件ハ別ニ差支モ無之ニ付請議ノ通ニテ然ルへシ
指令案
標杭建設ニ関スル件請議ノ通
明治28年1月21日 [印]
官有地拝借御願
沖縄県琉球国那覇西村23番地
平民 古賀辰四郎
私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ隆盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラス水産っz業挙ラサルハ予
テ憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取り明治12年以降15年ニ重ルマテ或ハ琉球ニ或ハ朝鮮ニ航シ専ラ海産物ノ 探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致居候更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島ノ正東ニ在ル 無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶へサル大東島ニ組合員ヲ送リ一方ニ於テハ農事ヲ勤メテ日常食料ノ窮乏ヲ防キー方ニ 於テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ巳ニ明治24年11月20日時ノ沖縄県知事丸岡莞爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ 得タル次第ニ御座候是ヨリ以前明治18年沖縄諸島ニ巡航シ舟ヲ八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ上陸致 候処図ラスモ俗ニバカ鳥卜名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島ニ棲息スル有様ヲ探究仕候処秋来リ テ春ニ去り巣ヲ営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ来ルモノナル事ハ毫モ疑無御座候 予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大ニ珍重スル処卜承リ居候間試ニ数羽ヲ射殺シ商品見本トシア其羽毛ヲ欧州諸国ニ 輪送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛ハ実ニ海外輸出品トシテ大ニ価値アルモノト 信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ応スルニ足ル数量ナルヤ否ヤヲモ探究仕候処補獲ノ方法ニ因リテハ相 当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候以上ノ次第柄ニ付宜ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ 人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候様ノ事ニ立チ至ルべク自然多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラ ス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有之候間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候 様出願ニ可及ノ処右久場島ハ未夕我邦ノ所属タル事判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候 是レ見本送達ノ際欧洲ノ注文アリタルニ係ラス之ニ応スル能ハサリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ 所属卜確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候
1.久場島バカ鳥ノ数量多キハ即チ多キモ無限ノモノニ無御座候故捕獲ノ自由ヲ各人ニ与へラレ候得ハ必ス右捕獲
ニ競争起リ甲乙ノ得ル処両々共ニ少量タル可ク到底之ヲ貿易品トンテ海外ニ輪出スル能ハサル様相成可申候是レ 能ク外邦華主ノ注文ヲ満足スル所有ナキ故ニ御座候
2.一人ノ利ヲ収ムルヲ見多人数必ス相競フテ同島ニ航シ之ヲ捕獲スルニ至ル可キハ明ニ御座候巳ニ英数量ニ限ア
レハ甲乙共ニ其捕獲スル処少カラサルヲ得サル次第ナレハ共ニ収支ノ相償フ能ハサル結果ヲ生スへク候尤モ収支 ノ償ハサルハ終局自ラ一二ノ人ニ捕獲ノ特権ヲ与へラレタル如キ有様ニ帰復ス可キモ有限ニシテ且ツ感能アル鳥獣 ニ対シテ之ヲ俟ツ可カラス候
3.捕獲ノ競争場ニハ保護ノ念ハ聊カモ見ラレサルモノニ候故各々努メテ種々鋭利ナル狩猟具ヲ用ヰ或ハ鳥ノ胆ヲ
驚カシ再ヒ該島ニ来ラサルニ至ル可ク又或ハ老稚牝牡ノ別ナク之ヲ捕獲候様ニ相成大ニ繁殖ノ妨害ヲ生スルニ至ル 可ク候
4.バカ鳥ノ来ルハ其繁殖期ニ御座候此期ヲ以テ之ヲ捕獲競争場裡ニ投シ候得ハ宜ニ其種類ヲ減殺スルニ至ル可
キハ明ニ御座候是レ此期節ハ総シテ鳥獣ヲ捕獲スルニ最モ容易ナルカ故ニ御座候
5.巣中ニ在リテ卵子ヲ僻化シツツアル若クハ稚雛ヲ哺育シツツアル母鳥ヲ殺スモ捕獲競争者ノ元ヨリ意ヲ置カサル
処為メニ全然繁殖ノ途ヲ杜絶セシム可ク候
以上ハ自由捕獲ニ必ス相伴ッテ明ニ生シ来ル可キ恐ニ御座候得共該鳥捕獲ノ目的ニ於テ全島拝借仕候様ノ事ニ相
成候得バ充分該鳥ノ保護モ立チ行キ人工ノ以テ助ク可キアラハ之ヲ加へテ更ニ繁殖ノ途ヲ開キ自ラ将来永ク海外ノ 輸出品トシテ数へラルルニ至ルへキ事卜被存候繁殖ノ途ヲ杜絶セシメサルノミナラス更ニ其増殖ノ方法ヲ設ケ候ニ ハ先ツ遺憾ナキ充分サル保護ノ道ヲ相立候事最モ肝要ノ義卜存候従テ営業上ノ必要卜併セテ該島ニ移住定居候 様ノ事ニ相成可申候右様致候ニハ是非共該島一円ヲ拝借不致候テハ到底其満足ナル成果モ期シ難キ次第ニ付官 有財産管理規則第7条第2項ノ規定ニ依り何卒久場全島拝借ノ義御許可相成度別紙同島略図相添此段奉願上候 也
右
明治28年6月10日
古賀辰四郎 [印]
内務大臣子爵 野村靖殿
28西第392号
右願出候ニ付奥書仕候也
明治28年6月11日 沖縄県
那覇西村主取 照屋奥行 [印]
288第995号
右奥書仕候也
明治28年6月26日
沖縄県八重山島頭 宮良当宗 [印]
同 喜舎場英詳 [印]
同 大浜用能 [印]
沖縄県の郡編成に関する勅令
明治29年3月5日第13号
内閣官房総務課保管
朕沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
明治29年3月5日
内閣総理大臣
内務大臣
勅令第13号
第1条 那覇首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ尽シテ左ノ5郡トス
島尻郡 島尻各間切、久米島、慶良問諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第2条 郡ノ境界若クハ名称ヲ変更スルコトヲ要求スルトキハ内務大臣之ヲ定ム
付 則
第3条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム
尖閣諸島中四島の払下げについての国有地台帳(写)
鹿児島大林区署
琉球列島の地理的境界
米国民政府布告第27号
昭和28年(1953)12月25日
琉球列島住民に告ぐ
1951年9月8日調印された対日講和条約の条項及び1953年12月25日発効の奄美諸島に関する日米協定に基
づき、これまで民政府布告、布令及び指令によって定められた琉球列島米国民政府及び琉球政府の地理的境界を 再指定する必要があるので、本官、琉球列島民政副長官、米国陸軍少将、ダヴィド・A・D・オグデンは、ここに次のと おり布告する。
第1条 琉球列島米国民政府及び琉球政府の管轄区域を左記地理的境界内の諸島、小島、環礁及び岩礁並びに
領海に再指定する。
北緯28度・東経124度40分を起点とし、
北緯24度・東経122度、
北緯24度・東経133度、
北緯27度・東経131度50分、
北緯27度・東経128度18分、
北緯28度・東経128度18分の点を経て起点に至る。
第2条 前記境界を越えて境界の設定又は管轄の
実施を指定する琉球列島米国民政府布告、布令、
指令、命令、又はその他の規定はここに前条に準じて改正する。
第3条 この布告は、1953年12月25日から施行する。民政長官の命により発布する。
民政副長官
米国陸軍少将
ダヴイッド・A・D・オグデン
琉球政府章典
米国民政府布令第68号
(昭和27年(1952)2月29日)
改正 昭和43年8月12日第14号
第1章 総 則
第1条 琉球政府の政治的及び地理的管轄区域は、左記境界内の諸島、小島、環礁及び領海とする。
北緯28度東経124度40分の点を起点として北緯24度東経122度北緯24度東経133度北緯27度東経131
度50分・北緯27度東経128度18分北緯28度東経128度18分の点を経て起点に至る。(改正5)
群島政府組織法
米合衆国軍政府布令第22号
昭和25年(1950)8月4日公布
昭和25年(1950)9月1日施行
昭和27年(1952)3月15日廃止
第1章 群島の設立及び管轄
第1条 第十軍本部1945年9月7日附降服文書所定の琉球列島及び北緯30度以南近海を4区域に分ち、各区域
は爾今、これを群島と称する。
A 奄美群島は、左の境界線内の島及びその低潮線より3海里の水域とする。
北緯30度、東経120度を起点とし、北緯27度30分、東経124度20分の点、北緯27度30分、
東経128度の点、北緯26度55分、東経128度20分の点、北緯26度55分・、東経131度50分
の点、北緯29度、東経131度の点及び北緯30度、東経131度30分の点を経て起点に至る。
B 沖縄群島は、左の境界線内の島及びその低潮線より3海里の水域とする。
北緯27度30分、東経124度20分せ起点とし、北緯27度30分、東経128度の典、北緯26度
55分、東経128度20分の典、北緯26度55分、東経131度50分の典、北緯24度、東経133
度の点、北緯24度、東経128度の点及び北緯27度、東経124度2分の点を経て起点に至る。
C 宮古群島は、左の境界線内の島及びその低潮線より3海里の水域とする。
北緯27度、東経124度2分を起点とし、北緯24度、東経122度40分の点及び北緯24度、
東経128度の点を経て起点に至る。
D 八重山群島は、左の境界線内の島及びその低潮線より3海里の水域とする。
北緯27度、東経124度2分を起点とし、北緯24度、東経122度の点、北緯24度、東経124度
40分・の点を経て起点に至る。
2 本令により設立する四群島の行政管轄は、前項各区域に限る。
3 各群島の政庁所在地は、左の通りとする。政庁所在地を変更しようとするときは、住民投票を行い、総選挙人名
簿又は補充選挙人名簿による確定選挙人数の100分の70以上の者の投票がなければならない。
A 奄美群島の政庁所在地は、名瀬市とする。
B 沖縄群島の政庁所在地は、那覇市とする。
C 宮古群島の政庁所在地は、平良市とする。
D 八重山群島の政庁所在地は、石垣市とする。
尖閣列島に対する警告板の設置に関する米琉往復書簡
その1
陸軍省琉球列島米国民政府民政官室
1968年9月3日
親愛なる松岡主席殿
最近、琉球政府警察の巡視艇「チトセ」が尖閣列島を巡視したため、同列島内の南小島に不法入域した台湾の解
体作業員は、同島から出て行った。聞くところによると、彼等は道具をたたんで琉球の領域を離れたとこのとである。
今後この地域における不法入域をなくするために不定期に現場点検を行なう制度を確立すべきであると信ずる。そ
のために、本官は、軍の航空機が時々尖閣列島上空を飛ぶように手配中であります。貴政府警察当局が時々同列 島を巡視するように手配すれば、なお有効だと信ずる。混乱を防ぐため、お互いの巡視活動について絶えず連絡をと るべきことは勿論である。
なお、正確な航行ができないため、または同列島の領土上の地位を知らないために偶然同列島に立ち入る漁夫も
あると思われる。つまり、尖閣列島に立ち入る場合に入域許可が必要であることをほんとに知らないで、事実領域侵 犯をすることがあるということである。このような誤解を少くするために、尖閣列島の各島、すなわち琉球列島の領土 に上陸する者に対し、事前に琉球出入管理当局から入域許可を得ること、事前に手続をとらない場合には、琉球の 法令に基ずき起訴され、罰せられることを警告する恒久的な掲示を上陸しそうな地域の各見やすい場所に立てるよう 提案したい。(勿論、琉球の領土に緊急入域を要する不可抗力な事情は考慮される。)この掲示は、英語、日本語お よび中国語の3ヶ国語で書いた方が有効だと思う。
琉球の領土に対する今後の不法侵犯を最少限に喰い止めるためのこれらの提案に対する貴殿の意見をきかせて
いただければ幸甚と存じます。敬具
民政官 スタンレー・S・カーペンター
琉球政府行政主席
松岡政保殿
その2
出総第1994号
1968年10月21日
琉球政府行政主席 松岡政保
琉球列島米国民政府
民政官スタンレー・S・カーペンター殿
尖閣列島に関する米国民政府民政官書簡について(回答)
拝啓
1968年9月3日づけ貴書簡を拝読する光栄に浴します。
貴書簡にもられた諸提案は諸般の情勢から考慮したとき、もっとも有意義であり、かつ適切なご提案であり本職と
して原則的に同意することを表明します。
貴提案を具体的に実効あらしめるために、本職は可能な限り適当な対策を講じ貴官の意に添うよう努める所存であ
ります。
一筆付記させていただければ、貴書簡に示された軍の航空機による随時警戒飛行計画が当政府警察局による警
備艇の配置と合せて実施されれば幸いに存じます。
貴提案のその他の事項および当政府計画の実施については巡視艇の配置、警告板の設置保全など多額の経費
を必要としますので貴官の絶大なるご配慮を御願いします。
敬具
その3
1969年3月28日
尖閣列島における警告板の設置について
琉球列島米国民政府
公安局長 ハリマン・N・シーモンズ殿
琉球政府出入管理庁長
標題については1968年9月3日づけ民政官書簡に対して、当府から1968年10月17日づけ出総第1994号(別
添写)をもって、これの予算援助方を要したとおりであります。就きましては、当該工事の予算並びに施工についてご 参考に資していただきたく、別添のとおり工事概算見積書を送付いたしますので、これの実現方に何分のご配慮を おねがいいたします。
添付書類
1 工事仕様書 1部
2 警告板設計図 1部
3 尖閣列島見取図 1部
4 民政官あての文書の写 1部
1.所要経費 7,459弗
警告板設置工事概算見積(図面は別;紙のとおり)
その4 29JAN.1970
SUBJECT:Transmittalof Funds
Chief Executive
Government of the Ryukyu Islands
ATTN:Director,Legal Affairs Department
1.References:
a.Letter from the U.S. civil Administrator
to the Chief Executive,Government of the
RyukyuIslands,dated 3 September 1968,
suggesting emplacement of warning signs on
Senkaku Retto.
b.Letter from the Chief Executive,Govern-
ment of the Ryukyu Islands to the U.S.
Civil Administrator,dated 21 October 1968
acknowledging receipt of the CA's letter of
3 September 1968 and requesting financial
assistance from USCAR.
2.Enclosed is a check for$6,815 as you requested
for the installation of warning signs on Senka-
ku Retto. These funds will be applied for
contractual services,procurement of materials,
overhead costs,transportation and sundries
necessary for executing this project. Funds
left over from this project may be expended for
other similar projects by your government.
3.The wordingfor warning signs to be erected
on Senkaku Retto should be revised to read:
“Warning.Entry into any of the Ryuku Islands
including this island,or their territorial
waters other than in innocent passage,by
persons other than the residents of the Ryukyu
Islands,is subject to criminal prosecution
except as authorized by the U.S.High Com-
missioner.By Order of the High Commissioner
of the Ryukyu Islands:’
FOR THE CIVIL ADMINISTRATOR:
H.L.CONNER
MAJ,AGC
Chief of Administration
尖閣列島における警告板設置について
琉球政府出入管理庁
1 資金 米国民政府支出 $6,815
経費内訳
工 事 費 $4,150
傭 船 料 $1,700
旅費その他諸費 $ 965
2 設置場所および設置数
魚釣島(2本)、北小島(2本)、南小島(1本)
黄尾礁(久場島)(1本)、赤尾礁(大正島)(1本)
3 警告板の材質、大きさ
材質 コンクリート
4 警告文:添付別紙のとおり
5 竣工:1970年7月12日
6 設置後の不法入域防止対策
(1)米国民政府は、1968年8月、中国人50人に対し、尖閣列島への入域を許可し、1969年4月には同じく78名
の入域を許可したが、これらの有効期限は、1969年10月30日であるので、同日以後同島への上陸は総て不法 上陸であることは明確である。
今回、警告板の設置も終えたので、できるだけ速かに、警察との協力により不法上陸者の逮捕など実施して従来
より強硬な措置をとり、中国側の注意を促す必要がある。
(2)尖閣列島への警備艇の派遣には多額の資金を要する。(「ちとせ」の5日間出動に要する経費は約1,000ドル
で、この中には、警察官の旅費は含まれない。)
このような資金上の問題のほか、不法上陸、領海侵犯などは外交上の重要な問題であるので、その面の配慮を願
いたい。
琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定
日本国及びアメリカ合衆国は、
日本国総理大臣及びアメリカ合衆国大統領が1969年11月19日、20日及び21日に琉球諸島及び大東諸島
(同年11月21日に発表された総理大臣と大統領との間の共同声明にいう「沖縄」)の地位について検討し、これら の諸島の日本国への早期復帰を達成するための具体的な取極に関して日本国政府及びアメリカ合衆国政府が直ち に協議に入ることに合意したことに留意し、
両政府がこの協議を行ない、これらの諸島の日本国への復帰が前記の共同声明の基礎の上に行なわれることを
再確認したことに留意し、
アメリカ合衆国が、琉球諸島及び大東諸島に関し1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との
平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄し、これによって同条に規定するすべ ての領域におけるアメリカ合衆国のすべての権利及び利益の放棄を完了することを希望することを考慮し、また、
日本国が琉球諸島及び大東諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するた
めの完全な権能及び責任を引き受けることを望むことを考慮し、
よって、次のとおり協定した。
第一条
1 アメリカ合衆国は、2に定義する琉球諸島及び大束諸島に閲し、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名
された日本国との平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を、この協力の効力発生の日から日本国 のために放棄する。日本国は、同日に、これらの諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての 権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける。
2 この協定の適用上、「琉球諸島及び大東諸島」とは、行政、立法及び司法上のすべての権力を行使する権利が
日本国との平和条約第3条の規定に基づいてアメリカ合衆国に与えられたすべての領土及び領水のうち、そのよう な権利が1953年12月24日及び1968年4月5日に日本国とアメリカ合衆国との間に署名された奄美群島に関す る協定並びに南方諸島及びその他の諸島に関する協定に従ってすでに日本国に返還された部分を除いた部分をい う。(以下略)
合意された議事録
日本国政府の代表者及びアメリカ合衆国政府の代表者は、本日署名された琉球諸島及び大東諸島に関する日本
国とアメリカ合衆国との間の協定の交渉において到達した次の了解を記録する。
第1条に閲し、
同条2に定義する領土は、日本国との平和条約第3条の規定に基づくアメリカ合衆国の施政の下にある領土であ
り、1953年12月25日付けの民政府布告第27号に指定されているとおり、次の座標の各点を順次に結ぶ直線に よって囲まれる区域内にあるすべてと島、小島、環礁及び岩礁である。
北緯28度東経124度40分
北緯24度東経122度
北緯24度東経133度
北緯27度東経131度50分
北緯27度東経128度18分
北緯28度東経128度18分
北緯28度東経124度40分
(以下略)
中華民国政府外交部声明(1971年6月11日)
中華民国政府は近年来、琉球群島の地位問題に対し、深い関心を寄せつづけ、一再ならずこの問題についての意
見およびそのアジア太平洋地域の安全確保問題に対する憂慮を表明し、関係各国政府の注意を促してきた。
この度、米国政府と日本政府が間もなく琉球群島移管の正式文書に署名し、甚だしきに至っては、中華民国が領
土主権を有する釣魚台列嶼をも包括していることを知り、中華民国政府は再びこれに対する立場を全世界に宣明し なければならない。
(1) 琉球群島に関して− 中、米、英など主要同盟国国は1943年に共同でカイロ宣言を発表しており、さらに1
945年発表のポツダム宣言にはカイロ宣言条項を実施すべきことが規定され日本の主権は本州、北海道、九州、四 国および主要同盟国が決定したその他の小島だけに限られるべきと定めている。したがって琉球群島の未来の地位 は、明らかに主要同盟国によって決定されるべきである。
1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ対日平和条約は、すなわち上述両宣言の内容要旨に基づいたも
のであり、同条約第3条の内容によって、琉球の法律地位およびその将来の処理についてはすでに明確に規定され ている。中華民国の琉球の最終的処置に対する一貫した立場は、関係同盟国がカイロ宣言およびポツダム宣言に 基づいて協議決定すべしとするものである。この立場はもともと米国政府が熟知している。中華民国は対日交戦の 主要同盟国の一国であり、当然この協議に参加すべきである。しかるに米国はいまだにこの間題について協議せ ず、性急に琉球を日本に返還すると決定し、中華民国はきわめて不満である。
(2)釣魚台列嶼に関して−、中華民国政府は米国の釣魚台列嶼を琉球群島と一括して移管する意向の声明に
対し、とくにおどろいている。
同列嶼は台湾省に付属して、中華民国領土の一部分を構成しているものであり、地理位置、地質構造、歴史連携
ならびに台湾省住民の長期にわたる継続的使用の理由に基づき、すでに中華民国と密接につながっており、中華民 国政府は領土保全の神聖な義務に基づき、いかなる情況下にあっても、絶対に微小領土の主権を放棄することはで きない。
これが故に、中華民国政府はこれまで絶え間なく米国政府および日本政府に通告し、同列嶼は歴史上、地理上、
使用上および法理上の理由に基づき、中華民国の領土であることは疑う余地がないため、米国が管理を終結したと きは、中華民国に返還すべきであると述べてきた。
いま、米国は直接同列嶼の行政権を琉球群島と一括して日本に引渡そうとしており、中華民国政府は絶対に受け
入れないものと認め、かつまたこの米日間の移管は、絶対に中華民国の同列嶼に対する主権主張に影響するもの ではないとも認めるため、強硬に反対する。
中華民国政府は従来通り、関係各国が同列嶼に対するわが国の主権を尊重し、直ちに合理、合法の措置をとり、
アジア太平洋地域に重大結果を導くのを避けるべきである、と切望する。
中華人民共和国政府外交部声明
(1971年12月30日)
日本佐藤政府は近年らい、歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視して、中国の領土釣魚島などの島嶼(しょ)
にたいして「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに、アメリカ帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略・併 呑するさまざまな活動をおこなってきた。このほど、米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなか で、米日両国政府は公然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国の領土と主権に たいするおっびらな侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものである。
米日両国政府がぐるになってデッチあげた、日本への沖縄「返還」というペテンは、米日の軍事結託を強め、日本
軍国主義復活に拍車をかけるための新しい重大な段取りである。中国政府と中国人民は一貫して、沖縄「返還」の ペテンを粉砕し、沖縄の無条件かつ全面的な復帰を要求する日本人民の勇敢な闘争を支持するとともに、米日反動 派が中国の領土釣魚島などの島嶼を使って取引をし、中日両国人民の友好関係に水をさそうとしていることにはげし く反対してきた。
釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のな
かに含まれており、それは琉球、つまりいまの沖縄に属するものではなくて、中国の台湾の付属島嶼であった。中国 と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島な どの島嶼で生産活動にたずさわってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をかすめとり、さらに当 時の清朝政府に圧力をかけて1895年4月、「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島の割譲という不平等 条約−「馬関条約」に調印させた。こんにち、佐藤政府はなんと、かつて中国の領土を略奪した日本侵略者の侵略 行動を、釣魚島などの島嶼にたいして「主権をもっている」ことの根拠にしているが、これは、まったくむきだしの強盗 の論理である。
第2次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の付属島嶼である釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリ
カ政府はこれらの島嶼にたいしていわゆる「施政権」をもっていると一方的に宣言した。これは、もともと不法なもので ある。中華人民共和国の成立後まもなく、1950年6月28日、周恩来外交部長は中国政府を代表して、アメリカ帝 国主義が第7艦隊を派遣して台湾と台湾海嶼を侵略したことをはげしく糾弾し、「台湾と中国に属するすべての領土 の回復」をめざす中国人民の決意についておごそかな声明をおこなった。いま、米日両国政府はなんと不法にも、ふ たたびわが国の釣魚島など島嶼の授受をおこなっている。中国の領土と主権にたいするこのような侵犯行為は、中 国人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおかないであろう。
中華人民共和国外交部は、おごそかにつぎのように声明するものである。一釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、
北小島などの島嶼は台湾の付属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様、昔から中国領土の不可分の一部であ る。米日両国政府が沖縄「返還」協定のなかで、わが国の釣魚島などの島嶼を「返還区域」に組み入れることは、ま ったく不法なものであり、それは、釣魚島などの島嶼にたいする中華人民共和国の領土の主権をいささかも変えうる ものではないのである、と。中国人民はかならず台湾を解放する! 中国人民はかならず釣魚島など台湾に付属す る島嶼をも回復する!
北京放送(1971月12月30日)
日本の首相佐藤栄作は日本国会に、いわゆる沖縄「返還」協定を強行採決させる過程で、中国の釣魚島などの島
嶼(しょ)は「日本の領土」であると狂気のようにわめきたてた。これは日本軍国主義とアメリカ帝国主義が互いに結 託して、中国領土併呑の陰謀に拍車をかけていることを物語っている。
共同通信の伝えるところによると、佐藤は11月9日の参議院予算委員会で「尖閣諸島(訳注−すなわち中国の釣
魚島などの島嶼のこと、以下同じ)は、琉球列島の一部分として、アメリカの施政権のもとにおかれている地域であ り、今回の協定に日本への返還が明記されている」と語った。日本の外相福田剋夫も同じ席で「この列島は日本の 領土であり」、「その防衛問題ももちろん含まれている」とのべた。
釣魚島などの島嶼が、昔から中国の領土であることは、もともとなんら疑問の余地のないことである。佐藤の手合
は理不尽にも、さかんにさわぎたてているが、いちぼやく中国の釣魚島などの島嶼を奪いとろうとする日本反動政府 の侵略的野望を暴露するだけであって、いささかも歴史の事実を変えうるものではない。
中国の明朝は倭冦(わこう)の侵入・撹乱に対抗するため、1556年胡宗憲を倭冦討伐総督に任命し、沿海各省に
おける倭冦討代の軍事的責任を負わせた。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などの島嶼は当時、中国の海上防衛範囲に含 まれていた。中国の明、清両王朝が琉球に派遣した使者の記録と地誌についての史書のなかでは、これらの島嶼 が中国に属し、中国と琉球の境界は赤尾嶼と古米島、すなわち現在の久米島との間にあったことが、いっそう具体 的に明らかにされている。
1879年、中国の清朝の北洋大臣李鴻章は、日本と琉球の帰属問題について交渉したとき、中日双方は琉球が
36の島からなり、釣魚島などの島嶼は、全然そのうちに含まれていないことを認めている。
釣魚島などの島嶼が中国に数百年も属してきたのち、日本人はようやく1884年になって、これらの島嶼を「発見」し
た。日本政府はただちにその侵略・併呑をたくらんだが、当時はあえてすぐさま手を着けようとせず、1895年、甲午戦 争で清朝政府の敗北が確定的となったときに、これらの島嶼をかすめとった。つづいて、日本政府は清朝政府に圧 力をかけて『馬関条約』を締結させ、「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島を日本に割譲させた。
以上にのべたいくつかの歴史的事実が十分に立証しているように、釣魚島などの島嶼はむかしから中国の領土で
あり、中国の台湾に付属する島嶼である。いわゆる「尖閣諸島」は「琉球列島の一部分である」などという謬論は、日 本反動派の侵略の野望を暴露するだけである。
アメリカが沖縄「返還」協定にもとづいて、かれらに占領されていた中国の領土釣魚島などの島嶼を「返還区域」の
なかに入れるというにいたっては、いよいよデタラメもはなはだしい。第2次世界大戦後、日本帝国主義は台湾と澎 湖列島を中国に返還した。ところが台湾に付属する島嶼である釣魚島などの島嶼は日本によってアメリカの占領に ゆだねられた。これはもともと不法である。アメリカは第2次世界大戦後、日本の沖縄を占領した。かれらが沖縄を全 面的かつ無条件に日本に返還することは、当然なことであるが、かれらが不法に占領していた中国の領土釣魚島な どの島嶼を「返還区域」のなかに入れる権利はまったくないのである。
佐藤政府は中国のこれらの島嶼を手に入れようとして、歴史の事実をねじまげ、強盗の論理をふりまわすほかに、
これらの島嶼の「領有」という既成事実をつくりだすために、さまざまな陰謀活動をおこなっている。1970年7月、一 隻の琉球沿岸巡視艇が釣魚島などの島嶼におもむき、不法にもこれらの島嶼が琉球に属することを示す標識を立て た。同11月、日本反動派は蒋介石一味とグルになって、これらの島嶼の領有権をめぐる論争を一時「タナ上げ」し て、先に「協力開発」なるものをおこなうという陰謀をたくらみ、先手をうってこれらの島嶼付近の海底石油を略奪しよ うとした。
1971年いらい、沖縄「返還」協定の調印にともなって、佐藤政府は、釣魚島などの島嶼は「日本の領土」であると
再三叫び、アメリカから沖縄の「施政権」返還がされると同時に、武力で「尖閣諸島を守る」と揚言し、また釣魚島な どの島嶼を日本の「防空識別圏」内にくみ入れることを公然と決定した。これは日本軍国主義がふたたび武力で中国 の領土を不法占領しようとしていることを物語っている。
米日反動派が中国の領土釣魚島などの島嶼にたいしてやっていることのすべては、沖縄「返還」協定が大ペテン
であり、アメリカ帝国主義にひきつづき沖縄を不法占領させ、日本全体を「沖縄化」させるだけでなく、日本軍国主義 の対外侵略・拡張を励まし、支持するものであることを、いま一度雄弁に物語っている。
中国人民は、沖縄の即時、全面的、無条件返還を要求する日本人民の闘争をだんこ支持し、日本軍国主義者がこ
の機に乗じて中国の領土を侵略・併呑することを絶対に許さないし、米日反動派がこの機に乗じて中日両国人民の あいだに水をさすことも絶対に許さない。中国人民はかならず台湾を解放する。中国人民はまたかならず釣魚島など 台湾の付属島嶼をも回復する。米日反動派がどんな手管をもてあそぼうとも、それはすべて徒労である。
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