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自分歴 〜電子工学&ジャンク編〜
全ては幼少の頃の遊びから?


幼少の頃 〜おもちゃ、それが勉強の始まり〜
 電池の直列接続と並列接続、学校で本格的に習うとすれば電気、電子系の学科の高校での授業が最初になりましょうか。皆さん苦労して覚えるようですが、これを覚えたのがこの頃だったようです。おもちゃからばらされていたのか、電池と豆電球かモーターあたりをつないで遊び、知らないうちに覚えていたような気がしています。そう、覚えてないんです。
 ウチには当時バンダイの電車のおもちゃ「ミニミニレール」がありました。回路的には(^^)電池、モーター、そしてON、OFFと極性切り替えを兼ねたスイッチがある物です。ある日これが動かなくなって母親に見せると、金具が錆びているから紙やすりで磨けばまた動くようになると教わりました。というか、やってもらったのかな? これにて「電気は金属の中を流れるもの」だと知りました。また、モーターへの線が外れて動かなくなってしまえば父親が半田ごてを片手に直してくれたものです。これにて半田付けという方法を知ることになりました。なお、この時の動作チェックには単1電池を用いました。本来単3電池を入れるおもちゃだっただけに大丈夫かと思いましたが、これらは「ある意味同じ」であることを覚えます。
 さて、直すことの素晴らしさを覚えたワタシは、間もなく生まれて初めての修理に成功します。このミニミニレール、また動かなくなったんです。スイッチの手応えが妙に変化していたので隙間から覗いてみると・・・スイッチの金具が変形し、正しく接触していないのが見えました。見た目で分かる故障だったので何とかならないかとドライバーを持ち出し、ばらしました。苦戦の末?金具が正しく接触するように形を整え、組み立てまして無事に動くようになったのです。これにて壊れたら自分で直すという考え方が身に付くようになったんだと思います。コレ、はっきりと覚えていることは少ないんですが、小学校前だったことは確かだと思います。
 更にウチには、珍しい扇風機があります。スイッチがタッチセンサーになっている物で、触るだけで「がちゃん」と中で何かが切り替わります。見た目に動かずに動くという現象を目の当たりにし、これまたこの分野への興味をそそる物となります。

MITSUBISHI R30-SX3 1960年代の物?
触ると「がちゃん」と風量切り替え。珍!
修理の時、電気屋さんにも信じてもらえなかった。


小学生の頃 〜遊び、子供ながらに徹底的に〜
 幼少の頃から続きまして、電気仕掛けのおもちゃが増えていきます。
 プラレール。小遣いで電池を確保するのは大変。おもちゃが増えたせいか、電池もたくさん転がっていました。このプラレール、単2電池を使用します。ところが、単3電池も長さが同じで実は入れられることに気が付きました。で、無くなった単2電池に変わって元気な単3電池を入れて遊んでいました。これは、怒られました。(^^;)「説明書に書いてないことをしたら壊れる」と。ところがワタシは電池にある「1.5V」の表記を見て大丈夫だと判断していたのです。意味は分かってないんですけど、カンみたいなもので。
 スーパーレール。これは知っている方は少なそうですが、ネット上ではまだまだ。「ミニ新幹線」にはなぜかライトがありませんでした。ところが麦球を入れられるスペースがあるようなので、兄が遊ばなくなったプラモデルから移植してライトが点くようにしちゃいました。さらに「L特急」は重そうにも単2電池2本が並列に入れられていることに気が付きました。1本でも動くことから「これは」と思っていたのですが思い切ってこれを直列に改造しちゃいました。速い、速すぎて脱線しました。うーむ、です。この車両ではスイッチへの配線が取れてしまうことが多かったのですが、そう、ウチには半田ごてがあります。小5の頃だったか、半田付けを自分でやるようになりました。
 順番はどうだか分かりませんが、友達との付き合いの中で充電式の電池を知ったり、鉄道模型Nゲージを見たことも衝撃的でしたね。(ウチにあった)おもちゃではできない速度調節ができますから。
 ゲームウォッチの電池を入れる部分の金具が外れたのを直したのもこの頃だったと思います。
 理科の授業での懐中電灯やベル、これらは意味があったか無かったか、随分いじったような・・・。
 親戚が集まった時、兄は従兄弟と近くの電子工作教室みたいのに行ったらしく、「乾電池テスター」を持ち帰りました。ワタシが電子回路に興味を持った最初のきっかけってもしかしてコレ?

中学生の頃 〜思春期、グレないためには趣味を?〜
 小学生の頃からファミコンで遊ぶのが増えてモノをいじるのは少なくなったようでしたが、決して忘れない何かがありましたねぇ。
 兄がCDラジカセを購入しました。ある日低音を上げて遊んでいました。これを聴いたワタシは「これがオーディオの面白さか」と目覚めました。また、ファミコンのテレビへの配線などを通して、配線ってやつも好きなようにできることを覚えます。ファミコンの音も贅沢にCDラジカセから出したりして楽しみが増えていきました。
 技術家庭の授業で、インターホンのキットを作りました。初めて電子部品を触りました。これはすごい、改めて電子工作=分からないけどすごいものと感じていきます。説明書や技術家庭の教科書や資料集のそれらしいページは全て読みました。しかし、分かりませんでした。どうやったらこの分野の勉強ができるのか・・・。
 父親とオーディオの話をするようになり始めたのはこの頃だったでしょうか。兄がCDラジカセを買ったこともあって自分も欲しくなります。幼少の頃から電池や鉛筆程度なら拾ってきたワタシは、これも拾ってやろうと考えるようになりました。中学校への登校中にカセットデッキが捨てられているのを発見しました。しかし、こんな物を持ち帰って良いやら・・・。まずは母親に相談。「自分で責任を持てるなら好きにしなさい。」すばらしい言葉です。ワタシは拾うことを始めました。この後コンポを見つけては雪に隠して下校時に持って帰るなどだんだんそれらしくなっていきます。このコンポからはグラフィックイコライザーを学びます。テレビを拾ってはテレビ2台、ゲーム機2台をどうやって都合よくつなげるかを考えたものです。念願のAV端子付きテレビは一度自転車から落ちるも半田が割れただけで拾ってから数ヶ月後に完動品となります。時代に逆らい?レコードプレーヤーも入手。しかしレコードには専用の端子が必要であることをまだ知りませんでした。


念願だったAV端子付きテレビ SONY KV18-TR1 多分84年製
2003年秋、フライバックトランス死亡、部品在庫無しとのことで手放す。


高校生の頃 〜そして専門へ〜
 普通科の高校に入れるほどの学力を身に付けなかったワタシは、遠慮無く工業高校電子科に入学しました。ついに電子回路の勉強ができる。授業だけでは飽き足らず、休み時間には習わないことを図書室で勉強するようになります。先生を追っかけては困るほど質問しました。最初の「工業基礎」で作ったテスタはこの後予想以上に大活躍をします。
 1年生の秋頃のある日リサイクルショップでポータブルCDプレーヤーを購入しました。と思ったらおまけが付いてきました。蓋を失い、売り物にならなくなったというアンプを店員がくれちゃったのです。10S-50FDって、トランジスタ式になった初期の物? 「使えるよ」・・・嘘?ばっか。電源を入れるも両チャンネルとも音が出ません。しかし、妙に高級そうに感じたワタシはもしかしたら直れば良い音が聞けるかもしれない、レコード端子もあるし直す価値は十分にあると、これの修理に挑戦します。テスタ以外に役立ちそうな物は、なぜか転がっているスピーカユニット。これでどこまで音声信号が伝わっているか調べようとするわけです。しかしアンプと言えば1年生では習わないトランジスタだらけ、無謀でした。2年生になるとついに「電子技術」の授業があります。トランジスタまでは割とすぐに習い、再び修理への挑戦が始まります。既にどこがどうつながっているか覚えてしまうくらいにらんだ回路。「できるわけないだろう」の声にも遠慮無く反発した(というか無視した)思春期のパワーですな。アンプと言えば左右対称な部分がありますから、片方を参考にし、ある時はちょっくら外し(危険です)、ついに異常な電圧が出ているところを発見。壊れていたのは小さなトランジスタでした。忘れもしない2SC458。電子部品屋が近くにありましたので、次の日の学校帰りだかに寄り、分からない時の「これと同じ物ください」作戦で無事購入。帰って新しい部品を付け、ついに片方の音が出るようになります。まだ使えませんがこれだけでも嬉しく、このアンプによる音を長々と聴いたものです。「ごはんよ〜」を無視したかも。この後、ボリュームの接触不良ではボリュームそのものをばらしての修理、レコードが片方鳴らなくてフォノイコライザー回路のトランジスタを交換、せっかく動いていたのにトーンコントロール回路の電源が落ちれば定電圧ダイオードを外す、修理とごまかしにてついに使えるようになりました。入手後8ヶ月程のことでした。回路毎に基板が分かれている勉強に適した物で、本当にこのアンプに出会えて良かったです。期待に応えた良い品で、物が増えたその後も現役を引退せず現在ではPC用オーディオになっています。・・・蓋が無いまま。


蓋が無いままのアンプ COLUMBIA 10S-50FD
錆びもひどく、これが良い音を出すとは信じ難いかも。

 同じ頃、テレビが増えます。ゲームをやりまくれる環境にしたかったワタシはまたまたAV端子付きのテレビを拾得。しかしこちらは動きません。電源ON直後に止まる症状です。テレビは恐いものでしたがやらないわけにはいきません。テレビの原理は知りませんでしたが、無謀にもテスタでどこまでが動いていて、どこからが動かないのか見極めようとします。・・・やはり無謀でした。学校の図書室でテレビの本と実習でのオシロスコープからテレビの原理を覚えます。このテレビの回路図を入手し、本格的に挑戦しますがなかなか分かりません。過電流保護(このテレビの回路図ではX線保護と書いてある)が働いてしまっていることを突き止めますが、動いている瞬間は全てが動いているようで、長いこと何が悪いのか分かりませんでした。偏向コイルを外して動かすという超無謀な行動の果てには、煙により1年以上体に不調が現れます。結局このまま卒業が近づきます。先生を捕まえまくり、フライバックトランス(テレビ内各部に必要な電圧を作り出すトランス、高圧も出すので危険は危険)がショートしているのだろうという話になります。電気屋にて怪しくも部品注文をし、手に入れます。しかし、半田作業以外が必要でやり方が分かりません。「じゃあ持って来いよ」と言うので、自転車にテレビを積んでの登校です。そして放課後、フライバックトランスを交換します。バチッと感電しながらも「このやろー」となんだか楽しそうな先生。そして復活! この時の感動と先生の嬉しそうなことといったら言葉になりません。そしてこの経験を後に思い出すことで、その後の人生を決定付けます。


人生を決めることになった HITACHI C19-D36
動くようになって10年、半田不良なんか起こしたりしている。

 これら以外にもキットや小物の自作なんかをいくつかやっていきました。ファミコン高速化旧ファミコンAV化のアイディアが出たのもこの頃、AV化だけはすぐにできました。捨てられる予定のオシロスコープを貰っては、何時間も波形を眺めていました。真空管式のアンプも入手、音の違いを感じます。
 そういえばこんなこともありました。(母親リクエストってゆーか、覚えられてるし。)たしか2年生の実習で、増幅回路の最初の実験をやった時のことです。実験が終わってこんな話になりました。
先生「結構な電圧になるでしょ。でもこれをそのままスピーカにつないでも大きな音は出ないんだよ。なんでだと思う?」
更に、
先生「もし分かったら今すぐ卒業してもいいぞ。」
などと付け加えます。これに答えたら先生はなんて言うんだろう? そう思って使えそうな知識を思い出しまくります・・・交流で習ってなくても確か直流で・・・ぁ、同じじゃん。
ワタシ「インピーダンスが合わなすぎるからです。」
先生の反応はさてさて・・・?
先生「・・・卒業するか?」
ワタシ「まだいいです。」
本当にまだ卒業したくありませんでした。お互いびっくりのようでしたが、今の子が苦手な?まだ習っていないことにどう答えるか、問いたかったんだと思いました。今思えばたいしたことないネタですが、習っていなくたって分かることって、大切ですね。・・・確か卒業が近くなって「卒業するな」とも言われたような・・・。
 実習レポートの中で、感想だけで1ページを超えることがあったのも我ながら「変な奴だ」と思いました。普通皆さん嫌がって短く済ませますから・・・。

大学生の頃 〜「大学は遊ぶところだ」 意味を取り違えないで〜
 念願の一人暮らし、やりたい放題の生活が始まります。
 高校時代に入手した真空管式アンプ、良さそうながら雑音が大きいなどちょっとおかしい。使用時間が長いというので音声信号が通るだろう真空管だけ交換し、音質が改善されました。
 1年生の5月にはビデオデッキを拾得。ここからビデオデッキの勉強が始まります。VT-F540。おおよそ正しく動こうとするがキャプスタンモータが2倍ほどの回転数で回ろうとしながらも力が弱く、結局遅いという故障。予想外れが続き余計な部品が増えていきました。回路図を入手し、2年生のある時に半端な電圧を示す部分を見つけ、専用のトランジスタが壊れているらしいと判断しましたが、わざとその電圧を正しそうな値に持っていったらきちんと動くので、これまた外すというごまかしでその後卒業近く、他の故障が現れるまで働いてもらいました。
 テレビについてはこれまた念願?の33インチを拾得。高校時代と同じ故障で早速フライバックトランスを交換、今度は自分だけでやりました。しかし他にも壊れていてこれだけでも数秒後に止まります。珍しく1MΩの抵抗二つの断線が判明し、交換。これにてついに大画面テレビが動き出します。しかし・・・致命的にもブラウン管にも故障有り。緑が出ません。せっかく動くようになったのですがこのテレビでは純粋に大きさだけを楽しむことになりました。ブラウン管10万円では・・・。33インチのテレビを拾う機会はもう一度あったのですが拾えませんでした。一人では運べませんから・・・、友達の都合とかね。
 そして金額的に最高の得となった電子ピアノEP-3500。住んでいた隣のピアノ教室の外に、ある日いかにも捨てられる予定とばかりに置かれていました。これを逃す手はないと呼び鈴を押すが応答無し。勝手ながら貼り紙をして、欲しい意思を伝えようとします。雨に降られた数日後、呼び鈴に応答があり、貰うことができました。故障は見事なまでの音の壊れよう。音源が壊れていると判断し、メーカーに電話をし、基板だけ欲しいと伝えました。見事商談成立、約束の日にメーカーに向かい、古いメイン基板を返し、新しい基板を\8000で買うことができました。これは当然のように直り、PCM音源のきれいなピアノの音を楽しめるようになりました。なんと定価\235000の物だそうです。これでピアノ2台、ギター数本、ベースも、アンプも、エフェクターも、そしてミュージックシーケンサーもあるという状態になり、友達とバンド演奏ができたのです。
 などなど4年間を通してビデオデッキは40台、テレビは10台、ファミコンなどゲーム機10台、ワープロ10台、パソコン数台、ビデオカメラ数台、オーディオもそれなりに良い物、楽器も・・・分からないほどたくさんの物を拾ってはあげたりして友達に喜ばれるほどになっていきました。大学の研究室の環境も大きく?変えてしまいました。「テレビ欲しいんだけど。」と言われれば数時間後に「あいよっ。」と注文通りに届けたり、研究室のパソコンにオーディオを備え付ければ先生に「ありがとう、助かりましたぁ。」なんて言われちゃうし・・・。
 初めてのビデオデッキには苦労しましたが、その後はそのまま使える物をたくさん入手。数があれば故障していても移植が可能な場合もあり、ゴミが使えることを実感していきます。授業「環境と人」のレポートのネタにも利用できるなど、意外なところでも役立ってしまいました。(原則どこかを見学するなどして作るレポートだったが、こんなネタを提出したところ見事単位を貰えた。)

現在 〜それまでの経験が買われる!〜
 これら(かなり省略してるけど)我ながらとんでもない経験はやはり驚かれ、買われます。この職業で若い男性ならだいたい運動部担当になるとも聞いていますが、2年目にして早くも電気部顧問となりました。回路図を平気で眺めたり、PICを知って平気でプログラミングを考える姿は、チョット良いようですね。そんなワタシの姿を見てか、4年目には諸先輩方を相手に「PICの講習会」をやってくれと言われるまでになりました。この講習会は夏休みを利用して行われ、来年からは実習のテーマにすると準備を始めた先生、面白いと新しい趣味となった先生、なかなかのようです。働くようになってからも数点小ネタの製作や高校時代の真空管式アンプの雑音を更に低減したり・・・。高校時代の蓋無しアンプが使えるようになって10年。ついに左チャンネルから「ザーっ」っとばかりに雑音が出るようになってしまいました。しかし今度は長引かずに修理は1日で完了。これも経験あってのことでしょう。
 これからもずっとちょっとずつやっていくでしょう。まぁ、部活は他をこっそり狙っていますけどね。

自己感想
 なんにしても思い出してみると最初のきっかけが幼い頃のものだと思えるのは驚きです。修理の原点を教えてくれたのは間違いなく両親。親の影響って凄いですねぇ・・・。


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