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■ローレライ

ローレライ スタンダード・エディション
story  福井 晴敏 /監督  樋口 真嗣   


本当に、完全にネタばれしておりますのでご注意下さいませ。
かなり忠実にストーリーを追っています。

まず最初に。
あれだけの分量の小説を2時間の映画にするのだから、本当に必要なところだけになるということは覚悟済みでした。
映画は一部分を、ある角度から見た話。という風に福井さんご本人もおっしゃっていましたし。
映画は映画として面白さを楽しもう、と思っていきました。

でも、やっぱり物足りなかった!!

これが結論ですので、あー相容れないわ。見たくない。という方はお気をつけ下さいませ。
もちろん、むやみに批判しまくっているわけではありませんが、念のため。




では、物語を追っていきます。

ストーリーは原爆が広島に落ちたところから始まります。
伊507は次の原子爆弾が落ちるのを阻止するために出航します。もちろんローレライは搭載済み。
こういう明確な目的がなかったのが先が見えなくて面白かったのに!とは思うもののこれは仕方ないと思いました。
時間的に無理ですよね。上巻のほとんどをばっさり落としたイメージです。


そして、米軍に発見され攻撃を受ける伊507。艦長達はローレライの使用を高須に迫ります。
(*事前にわかっていましたが、映画ではフリッツは登場せず高須がローレライの存在を知る唯一の存在という設定。)
その時、パウラに接触していた折笠はそのままナーバルを操縦することに。そして、艦長達はローレライシステムの性能に驚愕し、 折笠はパウラの苦しみを目の当たりにする。

この、海中を行く伊507・発動するローレライシステム・浮上と直接砲撃による敵艦の撃沈 というくだりは、映像で見て「おおお!」と 感動しました。この臨場感・迫力は映画ならではです。ローレライシステムの砂の様子とかイメージ通りでした。ナーバルは逆に、ああこんな風になっているのね。とやっとイメージがわかって嬉しかった。
パウラはかなり変わったコスチュームで、水に浸るのではなく液体が管を伝って体内を巡ります。これがまた痛々しくて、 敵艦が沈んだ時に迫り来る死者の映像といい、生々しくて本当に可哀想だった。


で、この後はしばらく伊507内での人々の心の交流です。小説を再現するのは無理!とばかりに違ったエピソードが入ってきます。
それはそれで良かったと思います。小説と比べるより、映画での楽しみがあったほうが良いものね、と思いました。

パウラと折笠の接近も、小説よりは穏やかなあまり恋愛的なものを感じさせないものになっています。
このあたり、私としては映画で一番オススメのシーン!!(戦闘の臨場感は別として)
もう、とにかくパウラの可愛いこと可愛いこと!!!!
涼やかな目鼻立ちに真っ直ぐな髪。(あの髪型、まさにパウラ!!)
ほんの少し微笑んだ表情・・・・可愛い・・・・vv

そして折笠役の妻夫木くん。文庫では思い切り妻夫木くんのイメージをかぶせながら読み直しました。
本当に違和感なく折笠だった。

二人は日差しをうけて甲板に並び、パウラが歌い出す。
(この歌がドイツ語なのがものすごく残念ですが。日本を思い浮かべる歌をいつの間にか皆が口ずさむ・・・その瞬間は心がひとつになっている、というのが大きな意味があったと思います。)
その歌を聴きながら、折笠は自分の故郷を語り、「日本に戻ったら来ないか?」と言う。
しかし、その快晴が一転、突如襲ってきたスコールの水滴の一粒がパウラに当たり、長崎の原爆による死者の念が襲ってくるという流れは素晴らしく秀逸だったと思います。
しかも、折笠の語る故郷が映画では長崎になっていて切なさというか虚無感が倍増しています。

殺伐とした雰囲気の中での心温まる風景から、一転して突きつけられる現実。
そして、そのまま高須の反乱へとなだれ込んでいく展開は、なかなか緊張感がありました。
しかも、甲板にあがっていた罰としてトイレ掃除をしている間に反乱が起こったので折笠は難を免れるのですよね(笑)
まさかそうくるとは思いませんでした。

さて、高須の反乱により艦の主導権を奪われたローレライ。
時を同じくして、浅倉は海軍司令部に切腹を要求。ローレライ出航の目的が原爆投下阻止ではなく、東京に原爆投下させるための人身(?)御供だったことが発覚する。
ところが、折笠の活躍により状況は一変。艦長の言葉と若者を生かしたい思いに動かされ、田口が高須を撃ち、事態は収束。
本来の指揮下に戻ったローレライは、艦を離れることを望む者を下ろし、今度こそ原爆投下を阻止するためテニアンへと向かうのだった。

この後は戦闘シーンが続き、B29を直接撃ち落とす。また、その前にナーバルは切り離し折笠とパウラを生き残らせるというところは小説と同じです。
ただ、明確に『伊507が沈んだ』とは描かれていません。
ラストは、一人の記者が伊507について取材しているシーン。その記者の腕には、絹見艦長からパウラへと渡された腕時計が・・・。
受け継がれる意志の存在、また伊507はまだ存在するのかもしれないと思わせる神秘的な余韻を残して物語は終わります。





・・・と、話の流れを追ってきて、じゃあどこがそんなに気に入らないの?
と言われると困るんですが、とにかく話の展開を知っているからか観ることに飽きてしまいました。
これはもちろん、小説を読んでいない方は別だと思うので、そんなこと持ち出すな(怒)! と言われればそれまでですが。

ただ、それは抜きにしても心理描写は薄いと感じずにはいられませんでした。
あの小説から細密な心理描写を抜くとこうなってしまうのか・・・どんなに意外性があって面白いストーリー展開であろうと、 やはりそれを動かす人の思いがあってこそ心が揺さぶられるのだな。と実感。
映画だから、他に描く部分があるからといっても、こんなにも受ける感動の大きさ・話の厚みが違うと愕然としてしまいます。

そして、そう感じる一番大きな原因は折笠の扱いだと私は思います。
映画では、キーマンではあるもののパウラとの交流が見せ場の主である折笠。むしろ絹見艦長の方に重点がおかれ、 浅倉の言葉に「否」というのも絹見です。

しかし、『終戦のローレライ』という小説において、紛れもなく主人公は折笠です。
折笠の真っ直ぐな思いが、絹見を、フリッツを、パウラを、田口を・・・伊507にいる人々を変え、物語を動かしていく。
誰もがその術中に陥る浅倉の言に、折笠だけが敢然と立ち向かい、その呪縛から皆を解き放つ。
この場面、展開はわかっていても涙なくして読めません・・・。
折笠が成長し『守るべきもの』を見つけていく過程そのものが物語の核になっているのだと私は感じました。
だからこそ、それがない『ローレライ』が物足りない。
絹見艦長を主にするのが駄目だと言いたいのではないのですが、どうしても物足りないと感じてしまうのです。

また、対する浅倉という男ももう少し描かれても良かったのではないかと思います。
彼の内心を表すのが『罪と罰』だけじゃ・・・あんまりだ。
浅倉と田口達の『絆』も、映画では「これじゃ、ないほうがいいんじゃ?」というくらいわからない。

この辺りの経緯や、パウラがローレライと呼ばれるようになった理由・その兄フリッツ(出てさえいないなんて)の思い・絹見艦長の贖罪・田口の葛藤など 言い出せばキリがないほど小説にて深く掘り下げられていますので、映画のみご鑑賞の方はぜひぜひご一読下さいませ。オススメです。

・・・という宣伝は置いておいて、やはり結論としては小説が面白すぎるから仕方がない。
ということになりそうです。

映画が話題になり興行成績も上々なようですので、これを機会によりたくさんの方が小説を読んでくれたら良いな、と思います。
長々とした感想を読んでくれた方、本当にありがとうございました。

最後に一言。・・・清永のあの死に方はあんまりだ(泣)!!

それでは、お付き合いありがとうございました。

→小説『戦場のローレライ』感想へ

2005.03.26 記

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