『岡崎家<第13話>』
杏が帰って来ないまま、幼稚園の再開の日が来た。
俺は、今までのように汐を送る。
「パパといっしょ♪」
俺と手を繋ぎ通園する汐は、いつに無くご機嫌だった。
「幼稚園が始まって良かったな!」
おそらくそう言うことだろう、と思ってそう訊いたら、汐は、
「ううん。パパといっしょにあるけるのがいい」
と言われてしまった!
…まだまだ、娘の心中の把握は出来ていないようだった。
ただ、どうしても幼稚園の門では、先生たちの出迎えがある。
おそらくそこには杏も立っていることだろう。
俺は、杏に対してどんな言葉をかけてやればいいのだろうか?
「このたびは…まことに……」
…俺は一体誰に話すつもりなんだ……。
「よっ、杏! しばらく振りだなっ」
…デリカシーが無さ過ぎだ。
しばらく考えた後、
「素のままで行くしかないよな」
そう心の中で決めた。
「杏…いや、先生。元気にしてるかな…」
俺は、誰に聞くでも無くそういう言葉を発していた。
すると…。
「…げんきなせんせいにあいたい」
娘はそうはっきりと答えていた。
幼稚園が近づいてきた。
門の前で出迎える先生たちがいた。
その中に、一際映える長髪に目が止まった。
その長髪の片側だけにつけられた髪飾りがなびいていた。
見慣れたはずの髪型が、すごく新鮮に映った。
「せんせーいっ」
その姿を認めた瞬間、俺の手から離れて汐は走り出した。
汐の走っているところは歩道だったので、車に轢かれるような危険は無かったが、
俺も咄嗟に汐を追い、駆け出していた。
「…あ、汐ちゃん」
「せんせいっ」
娘は、そのままの勢いで杏の胸元へと飛び込んでいた。
そして、そんな汐を杏はしっかりと抱きとめていた。
「久しぶりね〜」
「うんっ。ちょっとひさしぶり」
2人して、満面の笑みで再会を喜んでいるようだった。
ただその光景は、1園児と1先生の関係を超越した絆が見えた気がした。
遅れて俺も、その場に到着した。
「よ、杏」
2人の光景を見たせいか、俺は自分でも驚くくらいに冷静に声を掛けていた。
「あ…、朋也」
しかし杏は、若干こわばった表情でこちらを見た。
やつれて見えたのは気のせいだろうか?
視線も微妙に合わせてはくれなかった。
ただ、しっかりとした口調で言った。
「あのさ、今日仕事が終わったら、時間ある?」
「…ああ」
俺の今日の仕事が早く終わるなんて保証はどこにも無かったが、
折角の機会を逃したくは無かったから、そう答えていた。
「…じゃあね」
それだけ言い残すと、杏は再び園児たちを笑顔で迎えていた。
俺には無理なのだろうか?
あの笑顔を引き出すことは。
その日の仕事は全く手につかなかった。
朝のうちは、芳野さんに怒鳴られることもあったが、それも時間の経過と共になくなっていた。
昼休みには、逆に心配される始末だった。
結局、その日の俺の仕事は早く終わることが出来た。
留守番をしていた風子と一緒に、汐を迎えに行く。
「岡崎さん」
「ん? どうした」
「杏さんとは仲直りしたんですか?」
「…」
風子は、俺と杏が夫婦ゲンカをしているから、杏が帰って来ないと思っているらしかった。
握っている手を、ぎゅっ、と少し強く握ってきた。
「…ゴメンな。心配かけて」
「いえ…」
汐だけではなく、風子にも色々と心配はかけているようだった。
ただ、杏とは別にケンカしたわけでは無かったので、
「別にな。夫婦ゲンカって訳じゃなくて、ちょっとお互い考える時間が必要ってわけだ」
と弁解しておいた。
しかし、それだけでは風子の追及は収まらなかった。
「…倦怠期ってことですか?」
ぶーっ。
「わっ。岡崎さん、また汚いですっ」
…倦怠期。
そこまでの関係にもなっていないのに、倦怠期も何もあるわけは無かった。
ただ、家族ごっこが行き詰まりを見せていたのは事実だった。
「パパっ」
俺の姿を認めると、娘は俺目掛けて駆けて、飛び込んできた。
「汐。いい子にしてたか?」
「うんっ」
幼稚園を出てきた娘を抱きしめながら言った。
「ふうこおねぇちゃんっ」
「汐ちゃん。お迎えにきましたよ」
そう言うと、今度は風子の胸の中に飛び込んでいた。
「じゃあ風子、汐をよろしくな」
「はい」
「汐も、風子お姉ちゃんと一緒にいるんだぞ?」
「うんっ」
俺は、汐を風子に任せることにしていた。
「じゃあ、今晩は古河パンに行ってくれ」
「了解ですっ」
以前なら、風子に汐のことを任せることが不安で仕方無かったように思うが、
今では信頼しきっていた。
俺は、汐と風子を見送った後、幼稚園の門で、待つことにした。
日も暮れかけた頃、ようやく見知った人物を認めた。
「あっ。朋也、ゴメン。遅くなっちゃった」
杏は、努めて以前のように振る舞っていた。
「努めて」と言ったのは、今朝の反応を考えてもそれが、明らかに無理がある言動だったからだ。
「朋也は仕事、早く抜けてきたんでしょ?」
「…まあな。でも杏は、俺より早くから働いてて、遅くまで頑張ってるんだもんなあ。
ご苦労さんだな」
俺も、以前のような自然に振る舞う杏に合わせるかのように返答した。
しかし杏は、俺のその言葉に少し驚いた様子で、
「あ…。ううん。そんなこと無いから…」
と、最初の振る舞いのような元気がなくなってしまっていた。
「どこがいい?」
俺は、うつむいたまま黙ってしまった杏に聞いた。
まだ幼稚園を見ると明かりが点いていたし、同僚に話を聞かれるのも良くは思わないだろう、
そう思った俺なりの配慮だった。
しかしそう促しても、杏は何も言おうとはしなかった。
埒が明かないので、俺は自分から言うことにした。
「公園に行くか?」
こくり。
杏の同意も取れたので、俺たちはそれから黙ったまま、公園へと歩いた。
公園に着いた。
辺りには夜の帳が降りていた。
冬のこの時間、既に公園には人の気配は無かった。
冷え込みもキツくなってきていた。
それほど厚着をしていない杏には、少し堪えるかもしれない。
「で、話があるんだろ?」
自分からはなかなか話し出そうとはしないので、こちらから促すように聞いた。
「…あ、うん。…あのね」
ようやく重い口を開いた。
「朋也とね、一緒に暮らしたでしょ」
「ああ」
「あたしね。すごく幸せだった」
「…」
俺は記憶の引き出しにある、あのことを思い出していた。
大晦日に杏と酒盛りしていたときにも、そんなことを言っていたことを。
あの時は、酔った勢いで言っているだけだとも思ったが、
一緒に暮らした日々を振り返ると、杏の言葉は全く否定できなかった。
「あんまり幸せ過ぎてさ…忘れてたの」
「何を?」
「あたしと…朋也の関係」
「あ…」
「あたしたちって、どういう関係なのかなあ?ってさ」
俺と杏の関係…。
本当にどういう関係なのだろうか?
くされ縁だと思ってた。
ある時点までは、自分の娘が通っている幼稚園の先生が杏だったことに、
そう思った時期があった。
でも逆に、それが必然の再会だったようにも思えた。
で、そんな杏と同じ部屋で暮らした時期があったのだ。
その時の杏は、すごく生き生きとしていた。
俺も家に杏がいて、帰るのが楽しみになったし、1日1日がすごく充実していた。
もう、くされ縁なんかじゃあなかった。
じゃあ、どんな関係なのだろう。
「…あたしね。朋也の家にいて、朋也や汐ちゃん、風子ちゃんのために、
料理したり洗濯したり掃除したり…。
それがすごく楽しかった」
杏は学生時代から、他人のために何かをしていることが多かった。
もちろん俺も例外ではなく、3on3の助っ人として助けてもらったことがあった。
「確かに、みんなと一緒に暮らしたことも楽しかった。
…けど、やっぱり朋也と一緒にいられたってことが、一番楽しかったの」
どうして俺と?
そう言いかけて俺は止めた。
ここで口を挟むべきで無いと思ったから。
「だって…。あたしの作った料理、朋也が美味しい美味しいって言って食べてくれるんだもん。
それが嬉しくって…」
「そりゃあな。美味しかったからな」
真意のほどはわからなかったが、杏の料理が美味しかった、と言うところに賛同した。
「朋也ってさ…。ウソつけないもんね。お世辞も言わないし」
「まあな」
何もかもお見通しだった。
「だからさ。余計に頑張って料理してきたの。
朋也の喜ぶ顔が見たくって」
意外だった。
俺のために料理を作っていてくれたようなものだと言うことが。
「でもさ…。陽平に言われて思ったの。
どうして朋也たちと一緒に暮らしてたのかって」
「それは…」
確か風子の提案だったはずだった。
とは言え、好きでもない男と同じ空間で過ごすなんてことは耐えられないはずだ。
それに、俺もそれを拒まなかった。
俺だって、杏と暮らすことに対しては、何の嫌悪感も感じなかった。
むしろ、仕事が終わって家に帰る楽しみが増えたのだから。
娘たちはもちろん、杏が暖かな料理を作って待っていてくれるのだ。
「あたしさ…。ずっと前から、朋也のこと、好きだった…」
杏の告白。
春原の言葉や、今までの杏の言葉から感じた想いがあったから、
俺は驚くほど冷静に受け止めていた。
「高校の、同じクラスになったときに、朋也のこと好きだって思ったの」
ただ、それほど前から想われていたことは意外だった。
少なくともあの頃、そんな素振りは見せていなかったはずだ。
それに、俺たちはどちらかと言うと、完全に「友達」と言う感じだった。
「でもさ…。せっかく仲良くなれたのに、告白して関係が壊れたらって思ったら怖くって…。
結局高校卒業まで、友達のままでいよう、って決めたの。
それに、3年に上がってから、渚と付き合い始めたでしょ?
あれで諦めがついたって思ってたの」
つまり杏は、俺が渚と付き合いだすまで、俺のことを好きでいてくれたってことなのだろう。
それを考えると、3on3に協力してもらったのは、すごく残酷なことをしてしまったのかもしれなかった。
「高校卒業して、朋也と離れて、色んな人と付き合ってみたの。
でも、いなかったの…」
「何が?」
「朋也以上の人が。ううん、朋也くらいの人すら…。
だから、イイ感じになるまでにみんな別れちゃった……」
学生時代から、その容姿は抜群なものがあった。
男を見る目は厳しかったが、モテないわけは無かったのだ。
ただ卒業以後も、俺を基準に他の男と付き合っていたのは、少し優越感に浸れた。
「それで就職して、しばらくして『岡崎汐』って子が入園するって聞いたときは、
懐かしさとか嬉しさとか、戸惑いとか色々あったわ…。
でも、汐ちゃんが入園するときに、肝心の朋也の姿は無かった…。
あたし取り乱しちゃって…。
早苗さんに聞いたの。朋也はどうしたんですか?って。
そしたら…」
俺が、渚を失って自暴自棄になっていた頃のことだ。
そのいきさつはよく知らないが、杏にまで迷惑をかけていたことは申し訳なかった。
「朋也って一途なタイプでしょ?
だから…渚を失ったことがずっと、ずうっと心の中に残っているんだなあ、って。
そう納得したの」
「…」
あの時期は、単なる現実逃避を続けていたに過ぎなかった。
渚を失った事実を受け入れられず、半ば失った原因を、娘にまで押し付けるかのようにして。
「それがさ。朋也が立ち直って、汐ちゃんと一緒に来てくれたときは、凄く嬉しかったの。
…別に、これで渚のことを吹っ切れたんだ、とは思わなかったけど、乗り越えたんだなって」
「まあな…」
確かに俺は、あの旅行をした一件以後、渚を失った悲しみを乗り越えて、
汐とともに生きていく決意をしていた。
娘を幸せに出来るのは、世界で自分だけだと。そう思いながら。
「それなのに、どういう流れか、この家で朋也たちと暮らすことになったりして…。
いきなりで、最初は戸惑うことすら無かった…。
でも、落ち着くにつれて、本当に朋也の奥さんになった気でいて。
…あたしってバカよね」
そう自嘲気味に笑う杏。
俺は…何も言えなかった。
一緒に過ごすことの心地よさに、杏の気持ちまで頭が回っていなかった。
「朋也にとって…あたしって何?」
「…」
それは、考えても考えても、答えの出る問題ではなかった。
友達、と言うにはあまりにも親しく深い関係だったが、
かと言って俺には、杏に対する恋愛感情は無いと思った。
「…親友なんだと思う」
その言葉にウソ偽りは無かった。
けれど、杏の独白を聞いてきてこの答えは、自分に対する「逃げ」でしか無いとも思った。
「…そう…。そうよ…ね。
あはは。友達よりランクが上で…良かった…」
うつむいたままの顔から、零れる何かが見えた。
刹那、杏はくるりと後ろを向き、
「…今までありがと。ばいばい」
その言葉を残して立ち去った。
俺は、後を追うことさえ出来なかった。
胸に強烈な痛みが残った。
<第13話・完→第14話に続く>
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いかがでしたか?
ついに杏が思いのたけをぶつけてくれました。
が、肝心の朋也はこんな調子で…(^-^;
「親友」って…。
まあ、杏の想いは積もり積もったものがあるのですが、朋也は「彼女=渚」な状態なので、致し方ないと感じてくださいm(_ _)m
前回の更新から日が開いてしまいましたが、大事な場面なので慎重に行かせて頂きました。
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では次回更新をお楽しみに〜。
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