『岡崎家<第18話(最終話)>』
「…ママ? ううん。ママじゃない」
俺には、汐が何を言ったのか理解できなかった。
…ママじゃない?
杏を見ると、俺以上に困惑しているようで、焦った表情をしていた。
「汐…。ママじゃない…って、どういう意味だ?」
おおよそ、5つや6つの子どもにするような質問では無かったが、
訊ねずにはいられなかった。
しかしそんな俺の質問に、汐は俺の目を見てはっきりと答えていた。
「…ママはママ。ひとりだけ」
汐の言う"ママ"とは、やはり渚のことなのだろうか?
しかし汐は、直接渚を"ママ"として認識したことは無かった。
俺か、あるいは早苗さんたちが、後からそう言い聞かせたものだからだ。
ママはひとり、と言う汐が、俺には理解し難かった。
それ以上に杏は、困惑を通り越して泣き出しそうになっていた。
ただ俺は、あることを思い出していた。
それは、汐が渚のお腹の中にいた時のことだ。
あの時俺たちは、互いに自分のことを「パパ」「ママ」と、お腹にいる汐に言っていたのだ。
「胎教」という言葉もあるし、汐が俺と渚のことを、
生まれる前から「パパ」「ママ」として認識していたのかもしれない。
かなり無理がある考え方だが、汐は俺と旅行に行ったときから俺のことを「パパ」と呼び、
怖がりながらも慕ってくれていたことを思い出すと、
あながち間違いじゃないと思えた。
それに、汐は杏のことを拒んでいるわけでは無かった。
むしろ懐いてすらいた。
だから汐は、杏のことを"ママ"と呼ぶことに対して、何かしらの抵抗があるのだと感じた。
「じゃあ…"おかあさん"だ。杏は、これからはおかあさんだから」
「…おかあさん?」
「そうだ」
そこまで言うと、俺はじっと汐を見やった。
杏も汐に注目していた。
当の本人は、しばらく黙りこくった後、
ぱっと花が開いたかのように笑顔になり、
「うん。おかあさん。せんせいがおかあさんっ」
そう言うと、固まっていた杏の胸へと飛び込んでいた。
杏も、懐に入ってきた汐をしっかりと抱きしめ、
「汐ちゃん。頑張るから、よろしくねっ…」
そう言っていた。
その目尻からは、止めることの出来ないような涙が溢れ出ていた。
「…おかあさん……」
汐は自身の言葉を確かめるようにして抱かれていた。
俺の目からも、止めようも無い涙が零れだしていた。
「…と言うわけで、結婚することにしたんだ」
「よろしくお願いします」
俺と杏は、古河家にあいさつに来ていた。
もちろん俺たちの、結婚についての。
全く血の繋がりの無い相手だったが、報告をするにはこれ以上無い相手でもあった。
まだまだ俺は、この夫妻に依存しているのかもしれない。
「やっと決めやがったかっ! この野郎っ」
オッサンは言葉とは裏腹に、ニヤニヤしながら言った。
「おめでとうございますっ」
早苗さんも、ニコニコしながら言ってくれた。
「「ありがとうございます」」
俺たちは同時に返答したが、
思わず答えた言葉がユニゾンしてしまっていた。
するとさらにオッサンと早苗さんは表情を崩して、
「お似合いだな、やっぱりなっ」
「うふふ。息ピッタリですねっ」
と言われてしまった。
言われて悪い気はしなかったので、俺たちは照れ笑いをするしかなかった。
照れ笑いまでも息がピッタリだったが。
しかしながら、一番先に報告するのが、お互いに存命な実の親でなかったのは、
俺たちらしいといえばらしいものだった。
程なくして、俺は仕事に復帰した。
芳野さんや親方に報告すると、こちらが恐縮するくらいに喜んでくれた。
「ふっ。それがお前の生きる道だ…」
相変わらずクサいセリフを残してくれた。
結局、俺は杏と再婚するものだと、周りからは思われていたということなのだろう。
まあ年頃の女が、子持ちとは言え男の家で暮らしているのだから、
遅かったのは俺の決断だけ。そんな雰囲気だった。
毎日が慌しく過ぎていき、式の当日になった。
もちろん、俺と杏の結婚式だ。
汐や風子も一緒。
場所は…いつかと同じ、学校だった。
杏には一度確かめた。
「本当に学校で良いのか?」
しかし杏は、笑って答えた。
「だって、あたしたちの最初の出会いの場所でしょ?
最高の場所じゃない」
俺には断る理由は無かった。
昔は嫌いな場所だったが、今では想い出の残る良い場所だったからだ。
式を挙げることを公子さんに伝えると、喜んでくれて、学校の手配もしてくれた。
「おめでたいですねっ。ぜひ私に任せてくださいっ」
学校側も前例があるためか、あっさりと承諾してくれたらしい。
それにしても俺は、周りの人に助けられてばかりだった。
汐と2人きりの生活を始めようとしたときには、誰の助けも借りず、
自分ひとりの力でやっていこうと決意したはずだったのに。
娘の風邪のときにも、自分ひとりでは対処も満足には出来なかった。
だけど、気付かされたこともあった。
人間、ひとりでなんて生きていけないと言うこと。
色んな人の力を借りないと、1つの家庭すら成り立たないんだ、と。
それに、助けを借りるだけじゃなく、借りた分を返していって、初めて関係が成り立つのだとも。
人と人との繋がりが、こんなにも凄いことなんだと、改めて気付かされていた。
今はその繋がりに感謝していた。
俺も、新たな生活をスタートさせたら、たくさんの人に恩返しをしなければいけないのだ。
式が始まった。
俺は…似合わないタキシード姿。
そして杏は…。
「じゃーん」
そんな声と共に登場したその姿は…。
「おお…」
思わず見とれてしまうような、純白のウェディングドレス姿だった。
「…どう?」
不安そうな表情で俺を見つめる杏。
だが俺は…。
「キレイだ…」
そうとしか答えられなかった。
それを聞いた杏は、表情がすぐに綻んで、
「ほんと? ありがと。じゃあ行きましょ?」
そう言って、俺の腕を取って歩き始めた。
腕には、ウェディングドレスの生地の感触越しに、杏の温もりが感じられた。
ヴァージンロード代わりの、校門へと続く道を歩く。
周りには、たくさんの人たちが俺たちを見届けてくれている。
見知った顔、そしてあまり見覚えの無い顔。
色々な顔が俺たちを迎えてくれていた。
「ともやぁ」
杏は甘ったるい声を出したかと思うと、俺の肩のあたりに身体を預けてきた。
そんな杏をいとおしく思う自分がいた。
「…夢みたい」
「何が?」
「こうやってさ。バージンロードを、朋也と歩いてるなんて」
「そうか?」
「そうよ。こんなの、夢でも思っちゃいけないことだと思ってたのに…」
杏の言ってる意味は、俺にはすべては理解できなかった。
たぶん、まだ渚に後ろめたいものを感じているのだろう。
でも俺は、そんな気を遣いすぎる杏のことも好きになっていた。
式自体は、ブーケを投げたりだとか、神父だか誰かがありがたい言葉を言ったりだとか、
そういう形式的なことはほとんど無かった。
まだ元気だったジィさんが、マイペースで式を進めていた。
ジィさんを呼んだのは公子さんらしかった。
確かに世話になったのは事実だったし、懐かしい顔を見れて嬉しい気持ちも多少はあった。
「ジィさん、元気だったみたいだな」
「ふぉっふぉっふぉっ。まだくたばらんよ」
そういうジィさんは、渚の卒業式以来だったが、多少小さく見えた。
それでも、細い糸のような目は、穏やかに笑っているようにも感じられた。
「わざわざありがとうな」
「ふむ…。珍しいことを言うでは無いか」
「まあ…たまにはな」
ジィさんはしばらく考え事をしていたようだったが、
暫くして俺に向かって言った。
「よう頑張ったのう」
…。
ジィさんも知っていたのだろうか?
俺の歩んできた道を。
決して平坦では無かった道を。
ただ、ジィさんの歩いてきた道は、もっと険しいものだったかもしれなかった。
まだ俺が体験していないような過酷な道も。
それだけに、その言葉は俺の身に沁みた。
「幸村先生、ありがとうございます」
「いやいや。礼を言わなければならないのは、こっちのほうじゃよ」
杏の言葉に、そう対応する元教師。
「…いつまでも幸せにな」
「「はいっ」」
ジィさん…いや、幸村先生。
長い間お世話になりました。
俺は深々と礼をした。
隣を見ると、杏も頭を下げていた。
会場となった学校には、他にも俺たちの見知った顔があった。
「「お久しぶりです」」
仁科と杉坂だった。
2人とも、俺とはそれほど関わりは無かったが、わざわざ来てくれたこと自体に感謝したいくらいだった。
渚が妊娠中だった正月に来てくれて以来だったから…かなり久しぶりだった。
「かなり久しぶりだな…。わざわざありがとな」
さっきジィさんに使った言葉をまた使ってお礼を言った。
「…そんな、恐縮しないで良いですよ。私たちも、岡崎さんたちを観たくて来たんですから」
「そうだな…」
相変わらず、この2人も仲良くやっているようだ。
親友と言うものは、いつまでも変わらない関係のことを言うのだろう。
だとすれば、俺と杏の関係は、親友では必ずしも無かったのかもしれない。
「…このお2人は?」
置いてけぼりを食らった杏が俺に尋ねていた。
杏とは、校内で出会ったことくらいあるだろうが、俺や渚に比べたら全くの他人に近い。
「渚の親友…ってことで良いよな? 仁科、杉坂」
「うふふ。そうですね」
「色々ありましたけどね」
「そうなんだ…」
渚を介して交わる仲。
まだあいつは生きているんだ、と改めて思い知らされた。
「岡崎さん。ところであの子はどこにいるんでしょうか?」
「…あの子?」
「はい。古河さんとのお子さんです」
「ああ…」
汐のことだ。
この2人は、おそらく知っているんだろう。
あの時、渚のお腹の中にいた子が無事生まれたことを。
渚の葬式に来たのか、あるいは古河パンに寄ったときに知ったのかはわからなかったが。
俺から紹介したことは無かったのだ。
俺は、娘の姿を探した。
その姿はすぐに見つかった。
だが、声を掛けようとして…やめた。
その小さな姿は、少し大きく見える風子の後ろにいた。
寂しそうに。まるで隠れるように。
疎外感を感じているのだろうか?
俺と杏の姿を見て。
それを思うと、俺は逆に声を出していた。
今度は躊躇いも無く。
「汐〜っ」
ブンブンと手を振ってやると、それに気付いたのか、娘は表情を一変させて、
嬉しそうにこっちに駆け寄ってきた。
そして、間髪入れずに俺の足元に抱きついた。
「えへへ…」
俺は、愛娘の頭を撫でた。
お気に入りの帽子は外れてしまっていて、直に俺の手には、娘の頭の感触が直に伝わっていた。
俺はその頭を撫でながら、小さなその身体を抱いていた。
ふと娘の走ってきた方向を観た。
すると今度は、残された風子が小さく見えた。
それまでは汐を連れていたのだろう。
汐の手を握っていたであろうその手のひらが、汐の手が離れたそのままの状態になっていた。
それを見た時に、あることが頭を過ぎった。
そう。
これは、誰の結婚式なのだろうか? と。
俺の?
俺と杏の?
そうじゃなかった。
それだけじゃなかった。
これは、俺たち家族の結婚式なのだ。
正式に、杏が「岡崎家」の一員となる儀式なのだと。
だとしたら風子は?
風子は、俺たちと家族になることを望んでいた。
最初はただ汐と一緒にいたいだけだったが、いつしかあいつが望んで、ここにいるようになったのだ。
だから、「岡崎家」の一員に間違いなかった。
そう思った瞬間、俺は1人ぼっちのあいつに声を掛けていた。
「風子っ」
俺の声が聞こえたのか、風子は驚いたようにこちらを向いた。
俺は続けて言った。
「こっちへ来いよ。俺たち家族の結婚式なんだからなっ」
風子は少し躊躇っていたが、杏と汐も風子を望むように見つめていた。
その視線に後押しされたのか、風子もこっちへ駆けて来た。
俺たちの前で立ち止まると、遠慮がちに上目遣いでこちらを見て来た。
「…風子は、ここにいても良いのでしょうか?」
不安やら、遠慮が入り混じった表情をしていた。
しかし、俺の答えは決まっていた。
「いても良いも何も、ここがお前の居場所だろ?」
そう言うと俺は、風子の身体を強引に抱き寄せた。
「あっ」
隣を見ると、杏が汐の手を引いていた。
2人とも、俺たちを見てニコニコしていた。
「そうよ。風子ちゃんが言ってくれたから、私たちはここにいるんじゃない」
「うんっ。ふうこおねえちゃんもいっしょがいい」
風子は、その2人の言葉を聞いてようやく、
「わかりました」
と納得してくれた。
「じゃあさ。これは汐ちゃんにあげる」
そう言って杏は、汐に自分の被っているヴェールを載せた。
「これ…うしおにくれるの? おかあさん」
「そうよ。ちょっと良いでしょ?」
「うんっ」
杏が何を意図したのかはわからなかったが、
ヴェールを貰った汐は嬉しそうだった。
「じゃあ、これは風子ちゃんにあげる」
「わっ。良いんですか?」
今度は、風子にブーケを渡した。
色とりどりの花で飾られたブーケを。
そして、汐と杏、杏と俺、俺と風子。
それぞれがお互いの手を取った。
そして4人で歩き始めた。
「何かさ。渚の卒業式もこんな感じだったじゃない?」
「ん? 何がだ?」
4人で歩く道すがら、杏は遠い目をして言った。
「ここがゴールなのに、スタートでもあるじゃない。そういうとこが」
「…確かにそうだな」
あの時も、渚は学校生活というもののゴールを迎えていた。
が、俺と家族としての生活のスタートでもあった。
今回は…俺たち家族にとって、「家族ごっこ」を卒業し、
真の家族としての生活が始まる儀式みたいなものだ。
会場である学校には、驚くほどの人が集まっていた。
学校での知り合いなんてのは、交友関係の広くない俺はそれほど多くなかった。
ただ、俺が社会に出てからの知り合いや、杏の知り合い、
そして、古河パンつながりの町の人などが大勢集まったようで、
凄く賑やかな沿道だった。
その中で、やけに懐かしい姿を見かけた。
アタマはキンキンの。
「よぅ、春原」
「来てくれてたの。陽平」
「あっ。アタマのヘンな人ですっ」
「やっぱり、僕だってわかってくれたんだ」
そう声を掛けると、その人物は酷く嬉しそうに答えた。
「そりゃそうじゃない。今時そんなアタマするやつなんて、他にいないじゃない」
「まるで化石だ。天然記念物だぞ!」
「生涯忘れられない衝撃的なアタマでしたっ!!」
「ぜんっぜん誉めてないっすねえ!!」
次には何故か逆ギレしていたが…。
「でも…ようやくって感じだね」
春原は、俺たちを見ながらニヤけて言った。
そういえば前に来たときも、こうなることを勧めてくれていたことを思い出した。
こいつの思い通りになったことには何故かムカついたが。
「幸せになりなよ、2人ともっ」
「ああ」
「アンタに言われなくてもわかってるわよっ」
俺は、もしかしたら初めて春原の言葉に素直に応じた。
俺にとって、親友と呼べる人間はコイツしかいないのではないだろうか?
今回だけは、言葉を額面通りに受け取った。
髪の色まで変えてくれて来たのだから。
杏も口ではああ言っているが、内心は満更でもなさそうだ。
傍らには芽衣ちゃんもいた。
"お幸せにー"って言ってくれているようだった。
俺は軽く手を振って応えた。
沿道の最後、校門前には、オッサンと早苗さんがいた。
「フン。幸せになれや、この野郎!!」
「ああ。言われなくてもなっ!」
相変わらずの、俺とオッサンの素直じゃないやり取り。
それを、杏と早苗さん、そして風子と汐も笑って見ていた。
最高の結婚式だった。
生きていく。
これからは、杏と。そして汐と風子と。
本当の家族として生きていくんだ。
「さあて。そんなふたりに俺からプレゼントだ」
妙にニヤニヤしながら、オッサンは俺たちに語りかけた。
「ほれっ。受け取れ」
俺は、オッサンから手渡された紙切れを受け取った。
その紙切れを見ると…『○×温泉宿泊券…』を書かれてあった。
「留守中は、風子と汐は俺たちで見てやるから。
ふたりでゆっくり仕込んで来いやっ」
仕込む? …何を?
隣にいる杏に聞こうと見ると、顔を思いっきり真っ赤にしていた。
…ああ、そう言うことか、とオッサンの言葉を理解するや否や、俺も顔が火照ってしまった。
「頑張って下さいねっ」
早苗さんの、わかっているのかいないのか、わからない励ましにも、
ふたりして更に顔を赤くしていた。
「祐くん。私たちも頑張ろうね!」
「…っ!?」
何時の間にか近くにいた、芳野さんと公子さんも、新たな決断をしたようだった。
芳野さんの顔は、俺たちと同じくらい赤くなっていた。
<第18話(最終話)・完>
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いかがでしたでしょうか?
最終回は非常に難産でしたが、何とか形にして出すことができました。
この「岡崎家」は、10ヶ月にも及ぶ連載ではありましたが、非常に多くの人に読んで頂いていたようで、嬉しく思っています。
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