『キスから始まる物語』 
  
  
  
 「…んっ……」 
  
  
  
 夢でも恥ずかしくって赤面してしまうような行為。 
 くちびるとくちびるを合わせて…。 
 限りなく近い距離で。 
 お互いを、粘膜越しに感じあって。 
 多少、歯がぶつかるアクシデントはあったけれど、 
その瞬間は、他のどんなことも思考することを忘れていた。 
  
 肩に、首に頭に回された両腕。 
 あたしは、抱きしめられていた。 
 そうわかった瞬間から、抵抗することを止めていた。 
 予定では、お互いのくちびるが触れる寸前で止めるつもりだった。 
 けれど、抱きしめられることでそんな理性は崩壊していた。 
  
 冗談のつもりだったのに。 
 少し魔が差しただけだったのに。 
 予定なら、寸前で止めて笑って済ませるつもりだった。 
けれど、見つめられているうちに、そんなあたしの予定はどこかへ葬り去られていた。 
  
 …もう1ヶ月早くこうなるのが早かったら良かったのに…。 
  
 だって、あいつはもう、妹の彼氏なんだから…。 
 あたしがキスした何時間か後に、妹にもキスするんだから…。 
 そのはずなんだから…。 
  
  
  
 あたしは、自分の部屋のベッドに寝転んでいた。 
 今日あったことを何度も何度も思い出しながら。 
 あいつの温もりや感触を思い出しながら。 
  
 引き出しを開けた。 
 もうずっと仕舞いこんだままになっている一枚の写真を取り出す。 
 あいつの写真。 
 強引に、どさくさ紛れに撮った、あいつとの唯一のツーショットの写真。 
 写真たてなんかに飾ってたら、椋に見られてしまうかもしれないから、 
 ずっと透明の袋に入れて仕舞っていた物。 
 その写真のあいつの顔を眺めた。 
 意識し始めた頃は、毎日のようにこうやって眺めてたっけ。 
 写真の表情はすごくおかしかったけど、 
 目線はしっかり取ってあったから、 
 眺めてると、まるであたしだけを見てくれているようだった。 
  
  
 あたしは、思わずその写真にキスをした。 
 …冷たくて、つるつるしているだけだった。 
  
 その後、唇の跡がついたことに慌てて、その跡を拭った。 
  
 思い出しかけていた、自分の気持ちをかき消すように。 
 あいつは単なる友達なんだ…って。 
 そう思い直して。 
  
  
  
 その夜。 
 夕食時になった。 
 2階にある自分の部屋から、階下のダイニングへと降りた。 
 いつもは食事の準備などを手伝うのだけど、この日はその気も起きなかった。 
 そればかりか、食事をするのも憂鬱だった。 
 それは…。 
  
 「お姉ちゃん、今日の晩ご飯は何?」 
  
 妹と顔を合わせないといけないから。 
  
 でも、あたしはどんな顔して合わせないといけないのだろう? 
  
 やましい気持ちは…最初は無かったんだから。 
 それに、あいつはただの友達なんだから。 
  
 だからあたしは、 
  
 「今日はとんかつみたいよ」 
  
 あくまで平静を装って応えた。 
  
 その時の表情はどんなだっただろう? 
 自然だっただろうか。 
 仮面を被ったみたいだったろうか? 
  
  
 だけど妹は、そんな私に気付かずに、 
  
 「とんかつ? お姉ちゃんのとんかつ、美味しいから楽しみ〜」 
  
 と、喜んでいた。 
 ただ今日のとんかつは、あたしが作ったものじゃ無かったから、 
 妹の喜びはぬか喜びなんだけど。 
  
  
 その日は、何事も無かったかのように過ごした。 
 何事も無かったかのように振る舞って。 
  
  
  
  
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 「…して…みる?」 
 「………あ?」 
 「キス…してみる…?」 
  
  
 最初は練習だと言っていた。 
 予行演習…。 
 もちろん、そのつもりだった。 
 でも俺は、拒むことが出来なかった。 
  
 杏の瞳を見つめているうちに、俺にとっての正常な思考がわからなくなっていた。 
 ただの友達だと思っていたが、その表情は異性を意識させるに十分だった。 
  
 単なる冗談のつもりだと思っていた。 
 けれど、限りなく近い距離で見つめ合っているうちに、唇を重ねていた。 
 意思が無かったと言えば、ウソになるだろう。 
 幾らでも拒否することも、止めることだって出来たわけだから。 
  
 それでも俺は、吸い寄せられるように杏とキスをしていた。 
 肩に、首に頭に回した両腕。 
 経験不足からぶつかる歯と歯の感触。 
 そして、合わさった唇の粘膜。 
 味わったことの無い、柔らかで温かい感触を感じて。 
 まるで、磁石のS極とN極が出会ったかのように、自然に…。 
  
  
 今でも、その柔らかな感触は色々な部分で記憶していた。 
 唇はもちろん、抱いた腕で、手で…。 
  
 「……はい。おしまい」 
  
 永遠とも感じられる瞬間から、柔らかな感触が離れたのと、杏の声で強引に引き戻された。 
 そして2人を繋ぐ唾液の糸も、名残惜しそうにその痕跡を残していた。 
 その顔を見ると、頬が上気しているのがわかった。 
 しかし杏は、 
  
 「…これで明日はバッチリよね?」 
  
 思いもかけない言葉で、俺を現実へと引っ張り出した。 
 …そうだ。俺は明日……。 
  
 「椋に恥かかせないでよね」 
  
 それだけ言うと、くるりと後ろを向いて、 
  
 「じゃあ、しっかりやりなさいよ〜!」 
  
 顔をこちらに向けることなく、手だけで合図して足早に立ち去ってしまった。 
  
 しかし俺の身体には、杏の感触が確かに刻まれていた。 
 俺は明日、どんな顔をして藤林に会わなければならないのだろう? 
  
 こんな甘美な感触を残しているのに。 
  
  
 その夜は…ロクに眠れなかった。 
 今日のこと、杏のこと。そして藤林のこと。 
 …明日が来ることを恐れていたのかもしれなかった。 
  
 でも、それは無駄な感情だった。 
 望まなくても、時間は止まってくれないのだから。 
 眠れなくとも、朝は確実にやってくるのだから。 
  
  
  
  
 次の日。 
 俺は狭い場所で、藤林をキスをしていた。 
 至近距離で見詰め合うと、薄暗さからか髪の長さがわからなくなり、 
髪飾りをつけている場所もわからなくなる。 
 キスをしているときなんか、なおさらだった。 
 藤林の唇の感触だけを感じていた。 
 …その感触を、杏の感触と比べていた。 
  
 最低なことをしている、と思った。 
 でも、止められなかった。 
  
「岡崎くん…」 
  
 瞳を潤ませたままの藤林に呼びかけられ、ようやく我に返った。 
 どのくらいキスをしていたのかはわからなかったが、唇が離れて、ようやく現実へと戻ってこられた。 
  
「あの…、すごく良かったです…」 
  
 そこで、俺は思いもよらない言葉を受けた。 
 藤林の顔は…上気しているのか、白い肌が全体的に赤みを帯びていた。 
それは、今までの赤面とは違う赤みだった。 
 …目が合うと、どちらも瞬時に視線を逸らしていた。 
 彼女は…恥ずかしさからの行動だろう。 
 でも俺はどうだろうか? 
 …単に後ろめたかっただけなのだろう。 
  
「…岡崎くんって、キス上手なんですね」 
  
 追い討ちをかけるように、思いも寄らないことを言われた。 
 …まさか、杏とキスの練習をしていたことを知っているのだろうか? 
 疑心暗鬼になってしまった。 
 返答に困っている俺と、藤林の目が合った。 
…途端、ボンっ、と顔が真っ赤になり、 
  
「あっ、わ…わわ……わたし、その…、キ、キス、はじめてだったんですっ…」 
「あ…ああ」 
  
 そうしどろもどろになりながら、弁解?をしてきた。 
  
「そっ、それなのにっ。上手とか…って」 
「あ…いや」 
  
 正直なところ、俺も上手に出来たかなんてのはわからなかった。 
正解なんてわからなかった。だから、答える言葉を俺は持っていなかった。 
  
「…でも。でも…良かったです…」 
「そ、そうか…」 
「…はい」 
  
 良かったのなら、良かったと思った。 
 練習の甲斐があった、と言うものだ。 
だが、その「練習」を思い出して、今度はもう一方に対しての罪悪感が湧いてきた。 
  本当に良かったのだろうか、と。 
   
「あ…その、また…お願いします……」 
「ああ…」 
「では、失礼しますっ」 
  
 俺の返答を待たずして、彼女は逃げるように去っていった。 
 唇には、藤林の唇の感触が残ったままだった。やけに柔らかで甘美な感触が。 
  
 …そして、無意識のうちにまた比べていた。 
  
  
  
  
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「ただいま」 
  
 あいつとデートに行っていただろう妹が帰ってきた。 
  
「おかえりー」 
  
 あたしはいつもと変わらないような出迎え方をした。 
 ただ、妹の表情はしっかりとチェックしていた。 
…その表情は…、 
  
「お姉ちゃんっ、ありがとう」 
  
 その言葉を聞くまでも無く、あたしの作戦が成功したことを表していた。 
少し頬は赤いままだったけど、喜びで満ちあふれていた。 
 それを見てあたしは…複雑だった。 
  
 後ろめたい気持ちはもちろんあった。 
 けれど、妹が喜んでくれたことにガッツポーズをしてる自分もいた。 
  
「…で、どうだったの? あいつのキスは」 
「えっ?! あ、うん。すごく上手だったよ…」 
  
 妹は突然のあたしの質問に、一瞬は驚いたけれど、すぐにあたしの質問に答えてくれた。 
嬉しそうに。凄く嬉しそうに。 
 そして、こう言った。 
  
「岡崎くんは初めてじゃなかったのかな?」 
  
  
  
  
  
「ああ。あいつなら、昨日『キス失敗したらどうしよ〜』とか言ってたから、初めてよ。 
 必死こいて練習したんじゃないの?」 
  
 あたしは嘘をついた。 
 アイツにキスの経験が無いのは本当だった。 
 でも、その「初めて」を奪ったのは、誰でもないあたしだ。 
「練習」とか言って。 
 部分的には、間違ったことを言っていない。 
  
「へぇ〜っ。あ、やっぱりお姉ちゃんが?」 
「えっ? 何が?」 
「ほら…。岡崎くんと上手くキスできるように…って。してくれたの?」 
「あ…。うんっ、もちろんそうよ」 
  
 焦った。 
 バレたのかと思って。 
 でもそれは杞憂だったみたいだった。 
  
  
  
  
  
 けれど、あたしは次の瞬間、背筋が凍る思いがした。 
  
「じゃあ…、お姉ちゃんが岡崎くんの練習に付き合ってくれたんだ」 
  
  
<第1話終わり→第2話に続く> 
  
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 りきおです。「岡崎家After」が終わらぬうちに、また新たな連載を始めてしまいました(汗) ただこの話はかなり前から温めていたもので、忙しいこともあってなかなか第1話がまとまらなかった作品だったりします。 
  
 この後ですが…3人の微妙な関係が、「キスしたこと」によって、本編から変わっていく…。と、そんな話にして行こうと考えています。 
 もし興味がおありでしたら、次回更新をお待ちください。 
  
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