『CLOCK』 
  
 年月の経つのは早いものだ。そう考えるようになったのはいつの頃からだろう? 
 秋子は、自分と変わらないくらいに背丈の伸びた、愛娘を見ながらそう思っていた。 
 『自分ひとりで育てあげた』というほど、偉くなんかは無いと思っていた。 
 やはり、『父親』という存在が欠けたまま育った娘は、 
 表面上は何も問題なくすくすくと育っていったようにも思えるのだが、 
 そこの所が彼女の悩みであり、我が子に対する『負い目』に近いものもあった。 
  
「さあ、仕事に行こうかしら」 
今はもぬけの殻となった我が家に、誰に言うでもなくそう言って、秋子は出勤していった。 
  
  
当然秋子にも、愛すべき夫がいた。過去形で言うのは、あまりにも今の水瀬家には、その男性の色と言うのが皆無だからである。そして、久々に水瀬家で生活する男性と言うのが、相沢祐一だったのである。年端も行かない少年だったとは言え、もう7年もの間、女2人だけと言う生活だったわけで、端から見ると、何とも無用心な家だった事になるだろう。 
ただ、その『主人』だった人がこの家からいなくなって久しい事は確かである。もう帰らないとは知りながらも、心の中では、まだ密かにその『主人』を想う事もあった。 
夫婦仲は良かった。 
結婚してまもなく子を授かり、『主人』はエリート社員だったこともあったが、順調すぎるほどに出世して、この地にマイホームを建てるまでになった。 
ただ一方で多忙を極めたため、彼は自宅どころか日本国内にいることすら少なく、生まれて間もなかった愛娘の顔すらまともに見ることもなかったのであった。 
そしてそんなある日、「それ」は起こった。 
  
「こんにちは、水瀬さん」 
近所の気さくな主婦が秋子に声をかけた。 
「はい、今日もいい天気ですね」 
こんな感じで、転居してすぐに打ち解けていた。 
「ご主人今度はいつ戻られるの?」 
こういう質問はもはや定番となっていた。『主人』の出張は1週間くらいのときもあれば、1ヶ月を越えるようなときもあった。 
「ええ。今回は長くなると思います」 
「そう…。じゃあまた忙しいときは言ってね」 
「ご丁寧に有難うございます」 
こうやって近所の人には色々と助けてもらったりしていた。それも、『主人』が不在のことが日常的だったことを示しており、その状況に、本人を含めた周囲の人間が「慣れて」しまっていた。 
  
「しかし大変よねえ、水瀬さんところの奥さんも」 
「まだ若いのに…。寂しくないのかしら」 
こんな会話も近所の主婦たちにとっては日常的だった。 
  
「ニュースをお伝えします」 
とある日の夕刻。いつものように、秋子は2人分の夕食の準備をしていた。 
「――で、日本時間の今日正午ごろ、乗員乗客120人の乗った、旅客機が墜落しました」 
秋子は片方で聞きながら、娘に与える離乳食を器に盛り付けていた。 
「その旅客機には、日本人男性と見られる名前が、乗客名簿に記載されていました。 
 その名前とは、次の通りです。―――という、男性と思われる方…」 
そこまで聞いていて、少しだけ嫌な予感がした。と言うのも、『主人』の出張先の国と同じであった事や、日本人が乗客に含まれていたことが引っかかっていたのである。 
ただ、そういった類の事故の報道を聞くたびに思いつめていたら、不安で押しつぶされてしまいそうだった。だから、あまり深く考えないように努めようとした。しかし――― 
「ミナセ……さんという、男性と思われる方」 
刹那、背筋が震えた。手に持っていた鍋が、重力に逆らえずに床に叩きつけられた。 
「以上の3名の方々が、搭乗者リストに記載されていました。詳しい事についてはまだわかっていませんが、墜落現場が山中と言う事もあり、救出活動などが難航する恐れがあります」 
鍋の中身が床にぶちまけられていた。しかしそれ以上に、さっきのキャスターの発した言葉が、頭の中を駆け巡っていた。 
「この事故につきましては、詳しい情報が入り次第、再びお伝えする事とします。では、次のニュースです」 
その後、キャスターの声は、言葉としては耳には届かなくなった。彼女は、まだ固まったまま動かなかった。 
――主人と同姓同名―― 
 そんな人間は、日本国内を探せば1人や2人いるかもしれないが、そこは遠く離れた異国の地である。別人である可能性は極めて薄い。それでも、そんな事を信じられるはずが無い。 
――プルルルル プルルルル―― 
 どのくらいその状態のまま凍りついていたのだろう。次に気がついた時に耳に飛び込んできたのは、その機械音だった。 
 それが、いつから鳴っていたのかすらわからなかったが、その音が電話の着信音である事すら、しばらく気づかないくらいに、彼女は動転していた。 
 「あ、電話」 
 ようやく現実に帰ったが、こぼした鍋の中身にも気づかないまま受話器を取った。 
 「はい、水瀬です」 
 「あ、秋子さん。どうしたの? 出掛けてたの?」 
 その声の主は、よく知った人のものであった。ただいつもとは、明らかに声のトーンが違っていた。 
 「お義母さんですか」 
 ようやくそれだけ答えたが、答えにはなってはいなかった。 
 「…ニュースを見たんだけど…」 
 理解したくない、認めたくない現実を再び刻み込まれた。 
 「…あ、でもまだ、そうとは決まったわけじゃないし……」 
 向こうもやはり、気が動転しているようだ。しかし秋子の方は、そんな声すらほとんど耳には入ってはいなかった。 
 「―――もう少し、落ち着いてから電話するわね」 
 「………すみません」 
 それだけ言って電話は切れた。その直後、不意に第3の声が耳に届いた。 
 「うわ〜ん。まんま、まんまぁ〜」 
 それは娘の泣き声だった。いつからそうやって泣いていたのだろう? ふと時計を見ると、すでにあの瞬間から30分以上が過ぎていた。その時になってようやく、娘の夕食が無残な状態になっていることに気がついた。 
 「あ、いけない…」 
 買い置きのレトルト食品を鍋にかけ、床の掃除に取り掛かった。 
  
 その後もチャンネルを変えながら、ニュース番組ばかりを食い入るように見ていた。しかし、その報道の内容は、もはや絶望的なものだった。 
――乗客乗員全員絶望―― 
――救出活動打ち切り―― 
 ただ、何分海外でのことでもあったため、それほど大きくは取りあげられてはいなかった。ただ、大使館からだろうか? そこからの「生存絶望」の報告に、ただ肩を落としていた。だが、まだ実感はわからなかった。 
  
 名雪が生まれたとき、『主人』は秋子に向かってこんなことを言っていたのをふと思い出した。 
――今は一番忙しいときだけど、名雪が幼稚園に通う頃には一段落するから、そうなれば、ものみの丘にでも3人でピクニックに行こうな。それまでは、寂しい思いをさせるけど―― 
 ほとんど家にいない『主人』。正直言って寂しかったし、甥の相沢祐一の一家をたびたび招待していた。それだけにあと2〜3年。それを明日の糧にして生きてきた。しかし、今音も立てずに崩れ去った。 
――3人でピクニックに行こうな―― 
 その言葉が頭の中を反芻して、そして涙があふれてきた。 
 「う、ううっ」 
 娘を寝かしつけた後の『主人』の寝室で、彼女は静かに静かに嗚咽を繰り返しながら泣いた。 
  
  
 その日を境に、彼女は魂が抜けたような、器だけが生きている、そんな人間になってしまった。 
 「水瀬さん、大丈夫かしら…」 
 「逢えば笑顔は見えるんだけど…。でもねえ」 
 「そうそう。生気が感じられないって感じかしら。抜け殻みたいで…」 
 「ご主人とこんな別れ方なんてねえ。気の毒でならないわ」 
 「うちの主人は海外になんか行かせてくれないから、そういう意味じゃあ大丈夫だけどねえ」 
 こんな主婦同士の会話も、そろそろ日常的になりつつあった。 
 ただ起きて、名雪に食事させて、買い物にもあまり行かずに寝るだけ…。そんな生活。 
 人と言うのは、未来への希望や、夢を糧に、日々生活しているものではないか。しかし、今の彼女には、それらがすべて奪われてしまっていた。 
 『自殺』 
 その2文字が頭に浮かんできていた。 
――いつか―― 
いつか毎朝、朝食にお弁当にと作るのに忙しく、そんな時、寝坊がちの彼を、「手間をかけさせるわね」と思いつつ、揺り起こしに行く。休日は、天気のいい日にはお弁当を持ってお出かけする。 
正月は、3人揃って除夜の鐘を聴きながら年越しそばをすする。 
―――そんな、そんなささやかな『夢』が、崩れ去った。 
  
 キラリと光るものを手に取った。それは、毎日欠かさずに研ぎ澄ましている、愛用の包丁だった。 
 「これなら、骨まで貫通できる」 
 そんなことを、変に冷静に考えながら自分の腹部にあてがった。 
――この世にあの人がいないのなら、あの世まで着いていく…。 
 しかしその時だった。 
  
 「うわ〜ん、うわ〜ん」 
 トスッ 
 その声が耳に届いたその瞬間、持っていた凶器が手から離れた。 
 そしてその表情を見て、初めて自分のしようとしていた、取り返しのつかない過ちに気づいた。 
――この子を置いて、私だけ逃げようとしていたの? 
 「うわ〜ん、うわ〜ん」 
――私までいなくなったら、一体この子はどうなるの? 
――あの人が残してくれた、私との大切な子どもじゃないの? 
 自問自答していた彼女の瞳に、泣いていたはずの娘の瞳に映る、自分が見えた。 
 「ごめんなさいっっ!!!」 
 そう言うが早いか、秋子は愛娘を抱きしめた。 
 希望も何も無い――そんな人間なんているはずが無い。ただ、それを探す事が出来るか出来ないかではないだろうか? 
 「きゃっきゃっ♪」 
 名雪は笑っていた。その無邪気な笑顔を見ていると、ついさっき死を選ぼうとしていた自分が恥ずかしくなっていた。 
 「そうよね…。あなたは希望そのものよね」 
 抱きしめながら、その頬から伝う涙は止まらなかった。 
  
  
  
 それから数年が経った。結局あの事故の乗員乗客の遺体は、その一部が発見されないままであった。そして、行方不明の乗客の中には、近くの原住民とともに生存している――そんな噂までされることがあった。 
 あの後、秋子は仕事に復帰した。それも、子どもとの時間がたくさん取れるような仕事であった。新生活も順調に軌道に乗り、また親戚や近所の協力も、彼女たちの大きな支えとなった。 
 そして、そんなある日。 
  
 ピーンポーン。 
 「はぁ〜い」 
 「お届けものでーす」 
 それは唐突に届いた。 
  
 「何かしら?」 
 「なになにぃ〜?」 
 それは、あまり大きくない小包だった。 
 開封してみた。 
 「なにぃ?」 
 それは…、1つの時計だった。 
 中に手紙が入っていた。秋子はそれを読んでみる事にした。その中には…、 
 「水瀬秋子様へ。ご家族の所有物が新たに見つかりましたので、お届けいたします」 
 という旨の文章が書かれていた。そして、 
 「あら?」 
 それは、時計だった。しかも…、 
 「おかあさん。なにぃ?」 
 「…目覚まし時計ね」 
 それは、寝覚めが悪かった『主人』の愛用の目覚まし時計だった。 
 多くのものがすでに出張先から、実家やこの家に届けられていた。だが、これは常に『主人』が出張先に持っていくものであったが、そういえば今の今まで届けられていなかった。 
 「これはね。お父さんの時計なのよ」 
 「おとうさん?」 
 「そう、お父さんの」 
 そう言いながら、その時計を感慨深そうに見つめていた。 
  
 その夜、秋子は夢を見た。 
 「名雪をよろしくな」 
 その声の主は『主人』のものだった。 
 「ええ。わかりました」 
 短い会話ではあったが、彼女には十分だった。それだけで心が安らいだ。 
  
 次の日の朝。 
 「おかあさん」 
 「どうしたの? 名雪」 
 ニコニコしながら話しかけてきた。 
 「おとうさんがねえ、きのうきてくれたよ」 
 「そうなの?」 
 「うんっ! かおはわからなかったけど…でもうれしかった!」 
 娘の嬉しそうな表情を見て、秋子もつられて表情を崩した。 
 「お父さんはね。いつもどこかで名雪のことを見てくれているのよ」 
 「うんっ! おかあさんもみてるとおもうよ!」 
 「そうね……」 
  
 今でも力不足だとは思っていた。だが、『主人』に代わるものを、愛娘には注ぎつづけてられた、そうも思う。 
 だが一方で、まだ行方のわからぬ『主人』の帰りを待つ、妻としての気持ちも残っていた。 
  
 おしまい。 
  
  
---------------------------- 
  
  
 いかがでしたか? 
 キノさんとこに贈ったSS(元々はイベント用に描いたもの)なんですが、もう良いだろうと思い、全文掲載しました。 
 描いたのはたぶん…2000年ごろです。 
  
 今では珍しく、三人称で描かれていて、うちの作風からもちょっと毛色が異なる作品になっています。 
 まあでも、読むと読みづらさが先に出てしまいますね…。 
  
 感想などあればどうぞ。 
  |