『はじめの一歩』 
  
  
  
「美佐枝さん...、どうか泣きやんで...。...はずっと美佐枝さんのそばにいるから...」 
  
  
志麻くんが現れなくなって泣き続けていたあたしの耳に、そんな声が聞こえてきた。 
その声は、子供のような声でもあり大人の声のようでもあった。 
でも、それはとてもあたしを安心させる声だった。 
あたしは顔を上げ、そいつの顔を見ようする。 
すると、不意に頬に生温かい舌の感触を感じた。 
  
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーッ」 
  
あたしは、自分の叫び声によって目を覚ました。 
事態が飲み込めず、辺りをきょろきょろとと見回すと、 
ベッドの陰からこちらの様子を伺っている猫が目に入った。 
  
「はぁ〜。あんたの仕業だったのね」 
犯人が分かって一気に脱力したあたしは、そう呟いた。 
  
猫は、そんなあたしの表情を読み取って安心したのか、 
とことことあたしの目の前まで歩いてきて、まるまって眠ってしまった。 
こいつとの付き合いはもう何年にもなるけれど、 
頬を舐められて起こされたことなんて初めてのことだった。 
  
「あんた、もしかしてあたしの夢の中に出てきて、あたしを慰めてくれようとしたの?」 
  
オカルトなんてまるで信じていないくせに、そんなことを言ってみる。 
  
「でも、確かにあんたはずっとあたしのそばにいるわよね」 
  
こいつがあたしの目の前に現れたのは、志麻くんがあたしの前に顔を出さなくなってからだった。 
それからは度々、学校にいるあたしに会いにきたし、 
こうしてこの町に再び帰ってきたあたしの前に現れ、今でもあたしのそばにいる。 
そして今は、何故かあたしのことを好きだという岡崎が、あたしに付きまとっている。 
そのことを考えると、夢に出てきたのは岡崎だったのかもしれない。 
  
「岡崎か...」 
  
怒ったり笑ったりすることなら、何度もあったけど、 
あんなにも泣いたのは、本当に久しぶりのことだった。 
それは、志麻くんがいない以上に悲しいことなんてなかったからなのかもしれない。 
でも...とあたしは思う。 
昨日は、志麻くんのことを思い出して、さんざん泣いたし、 
その影響か、夢でも志麻くんと会えなくなって泣いていたはずなのに、 
今は、憑き物が落ちたかのように、寂しい気持ちではなくなっていた。 
  
  
  
コンコン。 
仕事が一段落して部屋でくつろいでいると、ノックの音が聞こえてきた。 
時計を見ると、いつも岡崎がこの部屋に来る時間だった。 
あんなに大泣きした後だったし、それを岡崎がどう解釈したかよく分からなかったから、 
もう来ないのかもしれないと思っていたけれど、それは思い過ごしだったようだ。 
  
「岡崎、今日も来たのね」 
  
いつもの邪険に扱うような声じゃないことに自分でも驚きながら、 
ドアを開けると、そこには、にやにやした顔の春原が立っていた。 
  
「今日の朝から怪しいとは思ってたけど、岡崎と美佐枝さんって、やっぱりデキてたんだね」 
  
春原は、勝ち誇ったような顔で、あたしの顔をじろじろと見る。 
  
「えっ? 何のことか分からないわね」 
別に春原の想像が完全に正しいわけじゃなかったけれど、 
さっきのセリフを嬉しそうに言ってしまったことは誤魔化しようのないことだったから、 
白々しいと思いつつも、あたしにはそう惚けるしか術がなかった。 
  
「惚けたってダメだって。今朝、美佐枝さんの着替えを覗こうとして、 
部屋に来たら既に岡崎が中にいたんだから」 
  
「...何しにあたしの部屋に来たって?」 
  
押し殺した声であたしは言った。 
  
「えっ? ああっ、着替えの手伝いをするために、って言ったんだ、僕。 
ブラのホックを止めるのに苦労してないかなぁ〜なんて思ったから」 
「そうなんだ〜。それじゃあ、御礼をしてあげないといけないわね」 
「えっ? 何かくれるの? 何くれるの?」 
「それはね...」 
  
腰を落とし、右ひじを後ろに下げる。そして…、 
  
「てんっばーーーつっ!」 
  
春原の顔面に、岡崎直伝の掌底をお見舞いしてやった。 
  
  
  
コンコン。 
夕食の後片付けが終わった頃、再びノックの音が聞こえた。 
あんな目に会ったのにまた来るなんて、春原の辞書には懲りるという文字はないのだろうか。 
  
「あんた、また来たの?」 
  
うんざりだという感情を隠すことなくドアを開ける。 
すると、そこにいたのは春原ではなく岡崎だった。 
  
「わりぃ。これで最後にするから、今日だけは大目に見てくれると助かる」 
  
岡崎は、あたしの言葉を真に受けたのか、いつもの岡崎からは想像つかないセリフを吐いていた。 
  
「ああ、ごめん。岡崎だったのね。さっきのは、春原だと思って言っただけだから、岡崎は気にしなくていいわよ」 
  
勘違いしてくれた方が、岡崎の訪問を鬱陶しく思っていたあたしには好都合なはずなのに、 
わざわざ訂正してしまう辺り、今日のあたしはやっぱり変なのかもしれない。 
  
「そうなのか? でもやっぱり、今日で最後にしておくよ」 
「そう? そりゃ残念ね」 
  
冗談めかして言ったものの、それが社交辞令だったのか、 
本音が含まれた言葉だったのか、自分でもよく分からなかった。 
  
  
  
「昨日は、大泣きして迷惑かけちゃったわね」 
  
岡崎に今日ここに来た用件を伝えられるのが何故か怖くなったあたしは、 
岡崎が口を開く前に、そう切り出していた。 
  
「泣かれたことについては驚いたけど、俺の胸で泣いてくれたのは嬉しかったから構わないよ。 
でも、泣いた理由が分かったときはショックだったけどな」 
  
「...岡崎は、なんであたしが泣いたと思っているわけ?」 
「俺が、『今の美佐枝さんが好きだ』って言ったら美佐枝さん、泣き出しただろ? 
あれは、美佐枝さんが、昔、美佐枝さんが好きだった男に言われた言葉と同じだったから、 
泣いたってことだよな?」 
  
「確かにそれもあるけど、それだけじゃないわよ...。 
あの人のことしか見えてないあたしのことなんて、誰も好きにならないって決め付けてたのに、 
そんなあたしに、あんなこと...言うから...、泣いちゃったんじゃない...」 
  
最後の方は涙声になって上手く発音できなくなってしまった。 
でも、こうして言葉にしてみて初めて、あのときの自分の気持ちを理解できたのも事実だった。 
  
「そっか...。でも、その人は、美佐枝さんの大切な人は、 
今もずっと美佐枝さんのすぐそばにいるから、もう泣かなくても良いんだ」 
  
「何よ...。こんな気持ちが不安定なときに、そんなこと言うなんて反則じゃない...」 
「そういう意味で言ったんじゃない。今すぐは信じられないかもしれないけど、 
この猫こそが美佐枝さんが好きだった人なんだ」 
  
「そっか...。岡崎はあたしをからかって楽しんでるんだ...。 
今のあたしが好きだとか言ったのも、きっと...」 
「嘘なんかじゃねぇよ!」 
  
岡崎の怒鳴り声に驚き、体が固まってしまった。 
  
「俺は、美佐枝さんが...、好きな女が苦しむような嘘を言ってからかったりなんかしない...。 
別に、俺のことを信じてもらいたいから、こんなことを言うんじゃないんだ。 
ただ、こいつが賀津紀だと知った以上、話さずにはいられなかった...」 
  
「賀津紀って、どうして岡崎はそんなことまで知ってるのよ...」 
  
そう言い終わった後、ようやく今日の岡崎の用件はこのことだったんだと悟った。 
  
  
  
  
あの岡崎の告白から、数週間が経っていた。 
始めは半信半疑で岡崎の話を聞いていたあたしも、 
真剣な目で話す岡崎を見ているうちに、作り話とは思えなくなっていた。 
でも、あたしは猫を決して本当の名前で呼ぶことはしなかった。 
それが何故なのか、ずっと分からなかったけれど、 
岡崎がこの部屋に来なくなって何日も経って、ようやくその理由が分かった気がした。 
だから、もう逃げてはいられない。 
あたしは意を決して猫を名前で呼ぶことにした。 
  
「志麻くん」 
  
あたしがそう呼びかけると、そいつは、猛スピードであたしに駆け寄って、 
まるで遠距離恋愛で数年ぶりに恋人と再会したような顔で、あたしを見つめてきた。 
でも、あたしはもう、その思いに答えることはできなくなっていた。 
  
「志麻くん...、ごめんなさい...。ずっとあたしのこと好きでいてくれって、言ったのに、 
あたし、新しく好きな人ができちゃったみたいなんだ...。 
ずっと、今まで一緒にいてくれたのに、本当にごめんなさい...」 
  
顔を伏せて泣きながら謝るあたしの頭の中に、いつか夢で聞いた声が聴こえてきた。 
  
「美佐枝さん...、どうか泣きやんで...。これからは朋也がずっと美佐枝さんのそばにいてくれるから...」 
  
あたしは、顔を上げ、志麻くんの顔を見ようとした。 
けれど、そこには誰もおらず、ただ、開いた窓から吹く風があるのみだった。 
  
  
  
キーンコーンカーンコーン。 
いつもは学生寮の中で聞いている放課後のチャイムの音を今日は、校門前で聞いている。 
あたしが高校生だった頃、ここで志麻くんがあたしを待っていたように、 
今のあたしも、ある人を待っていた。 
そいつは、自分勝手で強引で...、でもあたしの心の隙間に入り込んでくる、そんな人だった。 
そしてあたしは今日、そいつに告白しようと思っていた。 
今のあたしを好きだと言ってくれたそいつに、今のあたしの胸の中にあるそいつへの想いの全てをぶつける為に。 
  
志麻くん、今まで本当にありがとう。 
そして、岡崎、これからよろしくね。 
  
  
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<永空さんからのコメント> 
  
美佐枝さんシナリオエピローグ時の、朋也と美佐枝さんの気持ちを私なりに解釈して書きました。 
美佐枝さんはなんで泣いたんだろうかとか、志麻くんの正体を猫と知った朋也は 
どういう行動をとるんだろうかとか。 
  
書くときに気をつけていたのは、猫である志麻くんの存在を軽んじないようにしようということでした。 
朋也は志麻くんを対等なライバル(もしくはそれ以上の存在)として認識しているように 
書くように心がけましたし、美佐枝さんも志麻くんの正体が猫と分かって心変わりをしたという風に、 
捉えられることがないように心がけました。 
  
結果、自分で納得の出来る内容になったのは良いのですが、 
1ヶ月半ぐらいの間、ずっと美佐枝さんのことばかり考え続けていたので、 
しばらくは、美佐枝さんのSSは書きたくないです(^^; 
  
それはともかく、最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました。 
次回は別のキャラのSSのあとがきで会いましょうw 
では。 
  
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りきおです。 
永空さんから、美佐枝さんAfter的SSをいただきました! 
美佐枝さんの弱さみたいなものや、朋也の決意みたいなものが感じられて良かったですね! 
この後は当然、ラブラブな話が待っているんでしょうか?? そういう話も期待したいですねw 
永空さん、ありがとうございました!! 
  
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