ふたつの家族(5) 〜もうひとつの卒業式〜 
  
「ねえ、名雪ったら」 
「えっ、何、香里?」 
「何、またぼ〜っとしてるの?」 
「そんなことないよ」 
 今日4度目の指摘。 
 自分では普段通りに振る舞っているつもりだけど、やっぱり香里には分かるのかな。 
「わたしと卒業式を過ごすのがそんなにも嫌?」 
「ううん、そんなことないよ!」 
 香里はからかうつもりでそう言ったのだろうけど、わたしの考えを見抜いたようなその言葉につい真剣に否定してしまった。 
 本当にそんなことはない。 
 親友である香里と一緒に卒業式を迎えられるのは幸せだ。 
 この学校で仲良くなった香里とこうして一緒に晴れ着姿で高校生活の最後を迎えられるのは本当に嬉しい。 
 そう思う一方で、わたしはやっぱり心の中に何か足りないものを感じてしまう。 
 それはもう一人の親友のことだ。 
 そんなに長くはないけど、大切な時間を一緒に過ごした人。 
 彼女とは今は違う学校に通っているので一緒に卒業式を過ごすことは出来ない。 
 それはどうしようもないことだと分かっている。 
 それに、もしわたしがこの学校に戻ってきていなかったら、今日みたいに香里と一緒に卒業式を過ごすことはなかったのだから。 
 でも、もし叶うなら。 
 もし叶うのなら、彼女とも一緒に卒業式を迎えたかった。 
「渚ちゃんだっけ?彼女も仕方ないって思ってるわよ」 
「…うん」 
 香里は励ましてくれるけど、わたしの胸の中はすっきりしない。 
 だって、渚ちゃんが失ったものはわたしとの卒業式だけじゃないから。 
 岡崎君たちと一緒に過ごす卒業式も失ってしまったのだから。 
 渚ちゃん自身の卒業式を過ごすことが出来なかったのだから…。 
「ほら名雪、元気出して。後で相沢君との写真を撮ってあげるから」 
 香里がわたしの肩をぽんと叩いた。 
「祐一、恥ずかしがって絶対嫌がるよ。それに祐一との写真は後でお母さんに撮ってもらうよ」 
「はぁ、やることはちゃんとやるのよね、名雪は」 
 香里はため息を吐いてやれやれといった仕草をした。 
「えっ、意味がよく分からないんだけど?」 
「いいのよ分からなくても。じゃあ、わたしたちも記念写真を撮りに行きましょ」 
「う〜、誤魔化してるよ」 
 香里に手を引かれ、わたしたちは人混みの中に向かった。 
 今わたしたちは最後のホームルームを終え、校門前の広場に出てきていた。 
 そこにはわたしたちと同じように晴れ着姿をした卒業生や、彼らを祝っている在校生などが、記念撮影をしたり卒業アルバムにお互いメッセージを書きあっていたりしていた。 
 ある人は新しい門出に笑顔を見せながら、ある人は親しい人との別れに目を潤ませながら、この場にいる全員が卒業式という特別な雰囲気の中にいた。 
 そんな雰囲気に乗り遅れまいとするかのように、広場はこの学校の生徒や先生たちでごった返していて、要領が悪いわたしは知り合いを見つけるのに苦労した。 
「名雪、あそこよ」 
「えっ、どこ?」 
 ぱたぱた 
「こっちよ、名雪」 
「う〜、見えないよ」 
 ぱたぱたぱたぱた 
 …こんな感じで本当に大変だった。 
 昼休みの食堂でさえわたしはいつも苦労しているのに、今日はその何倍もの人が集まっている。 
 賑やかなのは好きだけど、混雑しているのはやっぱり苦手だ。 
 う〜ん、どうしてみんなはこんなに要領よく行動できるのだろう? 
 そう思いながら、わたしは人混みに押し流されそうになりながらも懸命に香里に付いて歩き、みんなと最後の挨拶を交わしていった。 
  
  
「名雪、まだなの?」 
「う〜、ズームのボタンがどこにあるのか分からないよ〜」 
 呆れ顔の香里に見つめられる中、みんなの集合写真を撮ろうとわたしはカメラと奮闘していた。 
 使い捨てカメラや自分の家のカメラなら使い方が分かるけど、他人の物はよく分からない。 
 …ここはシャッターボタンで、ここは電源で、ここは…ええっと、何だったっけ? 
「カメラとじゃれてるなんてさすが名雪だな」 
「じゃれてなんかないよ」 
 晴れ着姿の祐一はいつもよりちょっと格好良かったけど、口の方は相変わらずだった。 
 見てるぐらいなら手伝ってくれてもいいのに。 
 そう思っていたら祐一がわたしの正面にやって来て、わたしが持っていたカメラを覗き込んだ。 
 祐一の顔があまりに近くにあったので、思わずドキッとした。 
「ズームのボタンはここだろ」 
「じゃあ、ついでに撮影もお願い」 
「嫌だ」 
「祐一の意地悪」 
 流れに任せて頼んでみたものの、きっぱりと断られてしまった。 
「そこ、いちゃついてないで早くしろ」 
 みんなと一緒に並んで待っていた北川君に怒られた。 
「ほら、祐一のせいで怒られた」 
「お前がとろいからだろ」 
 そうこうしているうちに、通りかかった他の生徒がわたしたちの集合写真の撮影を申し出てくれた。 
 そのおかげで、とりあえず無事に集合写真が撮れた。 
「わたしの苦労は何だったんだろう?」 
 写真を撮ってもらった後、さっきまでのわたしの苦労が無駄骨だったように感じられ、そう呟いた。 
「深く考えるな」 
 祐一はわたしの方を見ることなく、さりげなくそう言ってくれた。 
 …そう、もやもやしたことは深く考えないでいよう。 
 渚ちゃんのことはわたしが考え込んだってどうにかなる事じゃないから、今はみんなとこの大切な時間を過ごすことに専念しないと。 
「相沢君、ちょっとそこに立って」 
 気が付くと、香里がわたしの横を指さしながら祐一に指示を出していた。 
 その手にはちゃっかりとカメラが握られている。 
「…断る」 
 香里の意図を察した祐一はそう言い残してその場を去ろうとしたが、その腕を北川君に捕まえられた。 
「放せ、北川!」 
「照れてないで、大人しく二人並んで撮ってもらうんだな」 
 ニヤニヤしながら祐一を引っ張ってくる北川君。 
「じゃあ後で北川君と香里のツーショットも撮ってあげるね」 
「えっ!?」 
 北川君が何故かわたしの言葉に怯んだ隙に、祐一はその手をふりほどいて逃走した。 
 慌てて逃げ出したため前をよく見ていなかったのか、祐一はすぐに人とぶつかった。 
「…あら、祐一さん?」 
 祐一がぶつかった相手はお母さんだった。 
「まあ、名雪もいたのね」 
 卒業式なので、今日はお母さんも正装している。 
 普段見慣れないスーツ姿のためか、わたしが見ても今日のお母さんはとても綺麗に見える。 
「おい、お前の親戚か?」 
 不思議そうな顔をしながら北川君がわたしに聞いてきた。 
「名雪のおばさんよ」 
 香里が北川君の耳元でささやいた。 
「何だって!? どう見たって年の離れた姉ぐらいだろ?」 
 香里の言葉に北川君は相当驚いている様子だった。 
 そういえば、北川君はお母さんと会うのはこれが初めてだったかな。 
「おばさん、名雪と相沢君の記念写真を撮ってあげてくれませんか?」 
 わたしがさっき口にしたことを思い出したのか、香里は何か企んでいるような笑みでお母さんにそう提案した。 
「言うな、香里!」「ええ、そうね」 
 祐一が止めるよりも先に、お母さんは香里の提案に頷いた。 
 その返事を聞き、頭に手をやり俯く祐一。 
「いいじゃない。一緒に撮ろうよ、祐一」 
「名雪は恥ずかしいとは思わないのか?」 
「さっきだってみんなと一緒に撮ってたよ?」 
「それとこれとは別だ」 
 わたしと二人で撮るのがそんなにも恥ずかしいのかな? 
 まあ、恥ずかしがり屋の祐一にしてみれば香里や北川君の前でわたしと二人っきりの写真を撮ることは十分恥ずかしいことなのかもしれないけど… 
「ほら、二人とももっと寄って」 
「そんなにモジモジしてるなんて男らしくないぞ、相沢」 
 写真を撮ろうとしているお母さんの後ろで香里と北川君がわたしたちをちゃかしている。 
 そんな二人の言葉を聞いていると、やっぱり少し恥ずかしかったかな、という気持ちが湧いてきた。 
 でも、折角晴れ着姿で祐一と一緒に写真を撮ることが出来るんだから、多少恥ずかしくても仕方ないよね。 
「えいっ」 
 そう思い、恥ずかしついでに祐一の腕にしがみついてみた。 
「うおっ!」 
 照れ隠しをする余裕もなかったのか、祐一は顔を赤くして驚いた。 
「はい、チーズ」 
 直後、お母さんの笑顔と共にシャッターが切られた。 
 その写真に映ったわたしたちはきっと幸せそうな顔をしているのだろう。 
 二人でこの瞬間を一緒に過ごせたことを、恥ずかしくもいとおしく感じながら。 
 そんな瞬間を、本当に、渚ちゃんたちとも送ってみたかったんだよ。 
  
  
  
  
「名雪」 
「何、お母さん?」 
 今ではあの事故が嘘のように、わたしとお母さんは以前のように一緒に昼食を作っていた。 
 思い返せば、本当にあの事故から時間が経ったものだと思う。 
 お母さんが事故に遭ってすぐの時は、あんなにも1日が長いものだと思えたものなのに。 
 夜はずっと明けないのではないかとさえ感じられたのに、今ではベッドに入ってから次に目を開けたときには太陽が空の頂上を目指して昇っているのが目に映る。 
 沢山の目覚まし時計が鳴る中、呆れながらもわたしを起こしに来てくれる祐一。 
 寝ぼけ眼のわたしに朝食を出しながら、笑顔で朝の挨拶をしてくれるお母さん。 
 一度は失ってしまった日常は、今でもちゃんとここにある。 
 そんな今となってはお母さんがまだ入院していたときに祐一が作ってくれた焼きそばやチャーハン、インスタントラーメンなどの味を懐かしく感じる時がある。 
 その祐一もお母さんが家に戻ってきてからは以前のように食器並べの係に戻っていた。 
 もう少し手の込んだ料理を作れるようにと思って何度か祐一に料理を教えてあげようとしたんだけど、毎度の事ながら断られている。 
 最近は家事の出来る男の子が女の子に好まれているというのになぁ。 
「今度、渚ちゃんたちの所へ遊びに行く?」 
「うん、そうだね」 
 わたしはお母さんの問いに簡単にそう答え、再び手を動かし始めた。 
 わたしも祐一も家から通える大学を選んだとはいえ、進学の準備などであっという間に日が過ぎていった。 
 気が付けばあと少しで新たらしい大学生としての生活が始まる。 
 渚ちゃんたちも忙しかったのか、わたしたちが引っ越してからはお互いにまだ一度も会っていない。 
「…そう言う割には元気がないのね」 
 さらりと、お母さんにそう言われた。 
 慌ててお母さんの顔色をうかがってみるものの、その表情はいつもの穏やかなものだった。 
「やっぱりお土産がないとダメかしら?」 
「お土産?」 
「名雪も渚ちゃんも元気になるお土産」 
 ああ、そういうことか。 
 電話で話す渚ちゃんは熱も治り、今では普段通りの元気さを取り戻していた。 
 でも、わたしたちには分かる。 
 今でも渚ちゃんは卒業式に出られなかったことを後悔している。 
 そして、そんな渚ちゃんを元気づける手だてを持っていないわたしは、何となく渚ちゃんに会いに行くのをためらっていたのだ。 
 お母さんはさっきの話題を続けることなく、再び昼食の準備に戻った。 
 まな板を叩く包丁の音や鍋の中のスープが煮える音だけがしばらく続いていたが、トゥルルルという電話の鳴る音がそんな単調なリズムに割り込んできた。 
「俺が出ますよ」 
 わたしが電話に出ようとキッチンから離れようとしたとき、祐一が階段からちょうど降りてきた。 
「はい、水瀬です。…岡崎か!? お前こそ電話をよこすなんて珍しいな」 
 どうやら電話をしてきたのは岡崎君のようだ。 
 それにしても渚ちゃんからではなく岡崎君から電話が掛かってくるなんて本当に珍しい。 
「…ああ、いるよ。今代わる」 
 受話器に向かってしばらく何かを話した後、祐一はそう言ってわたしの方を向いた。 
「名雪、岡崎のご指名だ」 
 わたしに用って何だろう? 
 不思議に思いながらも、とにかくわたしは祐一から受話器を受け取った。 
「もしもし」 
『名雪、頼みがあるんだ。渚の卒業式に出てやってくれ』 
「卒業式って言っても…もう終わってるよ?」 
 今はもう4月。なにか式があるとすれば入学式の方が自然な時期だという頃。 
 卒業式はもう終わってしまっている。 
 わたしにとっても、そして渚ちゃんにとっても…。 
『だから、俺たちの手でやるんだ。渚のために卒業式を。あいつの叶えられなかった卒業式を、俺たちが叶えてやるんだ』 
 その言葉を聞き、胸の中に何か熱いものが込み上げてきた。 
 岡崎君の言うように、卒業式をみんなと過ごしたいという渚ちゃんの夢は確かに叶えられなかった。 
 だからわたしたちもそれを自分の事のように残念に思った。 
 でも、わたしたちには渚ちゃんの夢を叶えることが出来たんだ。 
 だって、渚ちゃんの夢を叶える為に必要なものは全部わたしたちが持っていたのだから。 
 卒業式の形なんかは関係なく、みんなで一緒に過ごすことさえ出来れば良かったのだから。 
 たとえ不格好でも、その中にある本当に大事な部分をしっかりと掴むこと。 
 それが、渚ちゃんにとって一番大切なことだったのだから。 
 わたしはどうして今までそれに気付かなかったのだろう? 
 でも、あのときは届かずに終わってしまった願いは今なら手の届く場所にある。 
 そして、そのチャンスは今しかないんだ。 
『おい名雪、聞いてるのか?』 
 しばらくわたしが黙っていたからだろうか、岡崎君がそう聞いてきた。 
「うん、やろう」 
 そう自然に、わたしは力強く答えていた。 
「わたしたちで渚ちゃんの卒業式をやろう」 
 それは渚ちゃんの夢を叶えるだけでなく、わたしたちの夢を叶えることでもあったから。 
 大切な時間を大切な人と過ごしたいという、ささやかな夢。 
 ささやかだけど、一番幸せな夢。 
 そんな夢を叶えたい。 
 そして今なら、今のわたしになら、手を伸ばせば何にだって届く気がする。 
 不安から発する願いではなく、希望から発する願いなら、きっとそれを掴むことが出来るはずだから。 
 お母さんの事故を通じて、そのことを祐一から教えられたのだから。 
  
  
 その後、岡崎君が後日詳しい日程などを連絡する事を伝えてきた。 
 用件が終わり受話器を置いた後も、わたしはしばらくその場に佇んでいた。 
「名雪」 
 その声に振り向くと笑顔のお母さんが目に入った。 
「お土産、用意できたみたいね」 
「うん、最高のお土産だよ」 
「よかったわね」 
 お母さんの笑顔につられて、わたしも笑顔になる。 
「お母さんと祐一も、渚ちゃんの卒業式に来るよね?」 
「もちろん、そうさせてもらうわ」 
 いつものように、お母さんは1秒もかからずに了承してくれた。 
「話がよく分からないが、もし断ったら名雪はイチゴサンデーを奢るぐらいじゃ許してくれないよな?」 
「もちろん」 
「なら、俺も了承」 
 自分から行くとは答えないところが祐一らしいと思った。 
 目を閉じると、胸の奥でずっと動きを止めていた何かが再び動き始めるような感覚が確かにあった。 
 わたしたちは今、願いが叶う場所に向かって再び進み始めたんだ。 
  
  
  
  
 朋也君と卒業式をすることを約束してからは、あっという間に時間が過ぎた。 
 渚ちゃんの、そしてわたしたちにとってもうひとつの卒業式の日。 
 もう二度と着ることがないと思っていた渚ちゃんの学校の制服を着た時には、渚ちゃんたちと過ごしたあの日々の感覚がふと心の奥から蘇ってきた。 
 一緒に笑い合ったあの夕暮れ。 
 お互いに慰め合ったあの雨の日。 
 どんなに大切な思い出も記憶の中から薄れていかずにはいられない。 
 でも、大事な部分はちゃんと心に残っていて、何かのきっかけでそれが鮮やかに思い出されるものなのだと思った。 
 だから、わたしたちは過ぎ去っていくことを悲しんでいるだけじゃない。 
 素敵な思い出の結晶を探して、それを胸の奥に集めることを楽しみにしながら日々を過ごしているんだ。 
「で、なんでこんな格好をしなきゃならないんだ?」 
 わたしから制服を渡され、祐一は不服そうな顔をした。 
「卒業式には学生服で参加することになってるんだよ」 
「恥ずかしいとは思わないのか?」 
「全然思わないよ」 
 嫌がる祐一に何度か制服を着るように催促してみたものの、祐一は一向に着ようとしない。 
「岡崎君との約束を破るの?」 
「俺は学生服で参加するなんて約束をした覚えはない」 
「だって、わたしが祐一の代わりに約束したんだもん」 
「詐欺だ!代理契約だ!」 
 わたしの一言を聞いて突然わめき出す祐一。 
「これは後で罰ゲームだな、名雪」 
 祐一が勝ち誇ったような目でわたしを見つめてきた。 
 悔しいけど、祐一が学生服を着るのを嫌がることは予想が出来たから、祐一の許可なしで岡崎君に返事をしてしまったのは本当のことだ。 
「う〜、そんなこと言うんだったら今日のパーティーは祐一だけわさびのフルコース。わさびのサラダとわさびのスープから始まって、わさびのステーキや天ぷらをおかずに、お茶碗山盛りのわさびを食べて、わさびのジュースで乾杯するの」 
「…どこへでも制服を着てお供いたします」 
  
  
 後で遅れないように卒業式に来ると言うお母さんを残して、わたしと祐一はあの懐かしい学校へと向かっていた。 
 隣を歩く祐一は家を出てからずっとブツブツ言っている。 
 もうここまで来たんだから制服を着ていることについては諦めればいいのにと思う。 
 温かい日差しの下を歩いていると、学校に近づくにつれて見慣れた風景が目に入る。 
 たった2ヶ月程離れていただけというのに、流れていく景色全てがとても懐かしく感じられる。 
 でも、懐かしいという感情はその場にわたしがいなかったことの裏返しでもあるので少し憂鬱だ。 
 そんな気分も歩みを進めるたびに2ヶ月前の頃のような親密さを次第に取り戻していった。 
 わたしと祐一が再びこの町に溶け込んでいく感じ、とでも言い表せばいいのだろうか。 
 そして、わたしたちは校門前の坂道に着いた。 
 満開の桜並木が、その坂道を彩っている。 
 桃色のアーチをずっと目で追っていくと坂の上に校門が見えた。 
 さらにその先にはどこまでも行くことが出来そうなほど澄み渡った空が広がっていた。 
 その広がりに、わたしたちはあのすぐ近くに見える場所にさえ辿り着くことはできないのではないかと思えてくる、そんな澄み渡った空だった。 
 でも、わたしたちの願いは今日この空の下でちゃんと辿り着いたんだよ。 
 辛いことをずっと耐えてきて、この大切な時をやっと掴んだんだよ。 
「きれいだね」 
 花や雲や空が織りなすその光景を称えるように、わたしはそう呟いた。 
「名雪の場合、花より団子じゃないのか?」 
 そんなわたしの感動を邪魔するように、祐一がからかってきた。 
「そんなことないもん。ちゃんと花だって見るよ」 
「じゃあ、花とイチゴジャムのどちらかしか世界にないとしたら、名雪はどっちを選ぶんだ?」 
「…話が極端すぎるよ」 
 危ない、ついイチゴジャムと答えてしまうところだった。 
 祐一のおかげで折角の風情もどこかへ行ってしまったけど、それでもやっぱり桜は綺麗だった。 
 この坂道も今日はずいぶんと足取り軽く登れているような気がする。 
 そんな気分に、やっぱりわたしは今日という日を本当に楽しみにしていたんだと改めて実感させられる。 
 そして、そう思えることが本当に嬉しい。 
 坂を登りきったところで、校門の前に杏ちゃんを見つけた。 
「名雪ーっ」 
 杏ちゃんがわたしより先に手を振ってくれた。 
「久しぶりね、名雪。元気にしてた?」 
「うん、杏ちゃんも元気にしてた?」 
 久しぶりに会ったから、お互い同窓会気分だった。 
 校庭の方を見ると、他にも学生服姿の人が数人集まっている。 
「相変わらずラブラブみたいねぇ」 
 杏ちゃんがわたしをからかうように言ってきた。 
「いや、こう見えて毎日大げんかしてるんだ」 
「えっ、そうなの?」 
 横から口を挟んできた祐一がいかにも本当のことのように言ったので、つい聞いてしまった。 
「何でお前が驚くんだ?」 
「…やっぱり相変わらずじゃない」 
 そんなわたしたちのやりとりを見ながら、杏ちゃんはため息をまじりに呟いた。 
  
  
 杏ちゃんとしばらく話をした後、わたしは校門の前から坂を見下ろしていた。 
 こうしていると、わたしが初めてこの坂を見上げたときのことを思い出す。 
 この坂を初めて見上げたときには、この町にいる知り合いはお母さんと祐一しかいない状態だった。 
 しかも祐一とは違うクラスになって、本当は少し寂しかった。 
 でも、そこで渚ちゃんに出会った。 
 初めてあったとき、何となく彼女の帯びている空気がわたしと似ていると思った。 
 だから、自然と渚ちゃんに話しかけていた。 
 彼女は友達作りが苦手だったみたいだけど、わたしに対してはそんな風には感じさせなかった。 
 渚ちゃんとは姉妹のような感じとまでは言わないけど、一緒にいてしっくりくるという感じ。 
 わたしと同じで少し要領が悪くて。 
 わたしと同じでのんびりしてて。 
 とにかく、わたしと同じ空気を帯びていた。 
 それから古河家の人たちと家族ぐるみで親しくつきあうようになった。 
 わたしにはお父さんがいなかったけど、秋生さんを見ていてお父さんの存在というものが少し分かった。 
 普段は少しだらしないところもあるけど、ちゃんと家族を支えている存在だった。 
 わたしのお母さんもしっかりしているけど、それとはまた違った存在。 
 父親がいる賑やかさとはあんな感じなのだろうか? 
 そういえば秋生さんと岡崎君は似ているところがある。 
 もちろん、そんなことを言ったらお互いムキになって否定し始めるだろうけど。 
 子供は別性の親に憧れ、無意識のうちに親と似た人を好きになるという事を言っていた人がいたっけ? 
 ということは、わたしのお父さんは祐一に似ていたのだろうか? 
 う〜ん、あまり理想のお父さんって感じじゃないかな。 
 それに祐一のお母さんとわたしじゃあ全然性格が違うし。 
 ということは、大きくなったらわたしも祐一ももっと大人びるのだろうか? 
 変わっていくのだろうか? 
「遅いな、あいつら」 
 気が付くといつの間にか祐一がわたしの側に立っていた。 
「でも、まだ遅刻じゃないよ」 
「そう言えば、今日は名雪はちゃんと自分で起きてたな」 
 驚きと感心が混ざったような声で祐一が言った。 
「わたしだってやるときはやるもん」 
「出来ればそれを毎日続けてくれ」 
「うーん、そのためにはあの目覚まし時計を毎日使わないとね」 
 本当のことだけど、ちょっと祐一をからかうつもりで言ってみた。 
「…頼むからそれ以外の方法を探してくれ」 
 本気で嫌そうにしている祐一を見ていると、なんだか最近祐一の意地悪癖がわたしにも移ってきているのではないかと思った。 
「ねえ、祐一は岡崎君たちと一緒に卒業式を迎えることが出来て嬉しい?」 
 わたしは意地悪ついでにそう聞いてみた。 
「俺は男同士で肩を抱き合って涙を流すような趣味なんて無いぞ」 
「やっぱり嬉しいんだね」 
「嬉しくなんかない」 
 そう言いながら祐一は顔を背けた。 
 わたしは嬉しいよ、渚ちゃん達と卒業式を迎えられて。 
 どんなに楽しいことも、どんなに嬉しいことも、一緒にいたい人と過ごせないとつまらないから。 
 たとえありふれた日常だったとしても、大好きな人と過ごした日々はかけがえのない思い出になるから。 
 そしてずっと時が経ってからも、その思い出をお互いに語り合えたらどんなに素敵なことだろうか。 
 そんな素敵な思い出を今日この場にいるみんなでこれから一緒に作ることになるんだよ。 
 それも、人生の中でも特別な卒業式という形で。 
「祐一、わたし今とっても幸せだよ」 
「名雪はいつだって幸せそうにしてるぞ」 
「そうだけど、でも、今日は特別なんだよ。渚ちゃんの、そしてわたしたちを含めた渚ちゃんを大好きな人達の願いが叶う日なんだから。そして、そんな素敵な時間をみんなで一緒に過ごせるんだよ」 
「本当に良かったな、名雪」 
 そう言って祐一はわたしの頭にぽんと手を置いた。 
「う〜、子供扱いしないでよ」 
 そう抗議しながらも、本当はちょっと嬉しかったけど。 
「ほら名雪、ようやく今日の主役の登場だぞ」 
 その声に振り向いてみると、桜並木のアーチの中、坂道を上ってくる二人組が見えた。 
 誇らしげな様子の男の子と、桜の美しさに笑顔を見せている女の子。 
 この日が訪れるのを誰よりも待ちわびていた二人の登場だ。 
 そんな二人を見ていると、胸の奥から押さえきれない何かが湧き上がってきた。 
 ああ、この感覚だ。 
 この感覚をわたしはずっと待っていたんだ。 
 言葉では表せない、この心が躍るような瞬間を。 
 そして、わたしは駆けだした。 
「おーい。転ぶなよ、名雪」 
 そんな祐一の声が背後に遠ざかっていく。 
 テンポ良く前に踏み出されるわたしの足は驚くほど軽い。 
 自分が思っている以上に彼女たちに再会できることが嬉しいのだろうか。 
 風になびくわたしの髪までもが嬉しさを表現しているように感じられる。 
 坂を駆け下り彼女の顔がはっきりと見えたとき、わたしは手を振ってその名前を呼んだ。 
「渚ちゃ〜ん」 
 そして、あのときと何一つ変わらないわたしたちの時間が再び動き始めた。 
 大切な時間を大好きな人と過ごすための時間が。 
 これから生まれるであろう素敵な思い出の1ページを作るために… 
  
  
  
  
〜おまけ〜 
 卒業式を終え、晴れ晴れとした表情で手を繋いで坂道を降りていく朋也と渚。 
 名雪はそんな二人を眩しそうに、そしてうらやましそうに見送っていた。 
「祐一、わたしたちも手を繋いで帰ろうよ」 
「却下」 
「きっと幸せいっぱいになれるよ」 
「なりたくない」 
「あんたらまで幸せそうで何よりですねぇ…」 
 恨めしそうに祐一の後ろから現れた春原。 
「春原、今日は俺の代わりに名雪と手を繋いで帰ってもいいぞ」 
「えっ、マジで!?」 
 どぐしっ! 
 直後、ブリ○ニカ大百科が地面に落ちた。 
「陽平は地べたとでも仲良くしてなさい」 
 大地と抱き合うように倒れている春原に、杏が冷たい笑顔でそう言った。 
「あんたもこうなりたい?」 
 その笑顔が祐一にも向けられた。 
「…遠慮しときます」 
「じゃあ、早く名雪と手でも繋いでラブラブなところを見せつけながら帰りなさいよ」 
「今日は脅されてばかりいる気がするのは俺の気のせいか?」 
 ため息を吐きながら覚悟を決める祐一。 
「ありがとう、杏ちゃん」 
「いいのよ。それより、名雪もあたしを苛立たせたくなかったら早く行く」 
 はいはい、といった感じで名雪を催促する杏。 
「なら、さっさと行くぞ」 
 祐一が名雪の手を取って走り出した。 
「あっ、待ってよ〜」 
 澄み渡る空の下、幸せそうな声が響いている。 
 春はいつだって温かで優しい季節だから、誰もが幸せをその手に掴んでいく。 
 大切な人と過ごす時間を、かけがえのない思い出に変えながら 
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