another SUMMER(4)
俺はひとり、廊下を歩いていた。
「もう明後日になるのか」
慌しく動き回っている社殿の者達の様子を眺めていると、ついそんな言葉が口に出た。
俺が観鈴や美凪と会わないようにしてからもう数日が経った。
あいつらに会わなくなったのは、別にあいつらのことが嫌いになったからではない。
ただ、一人で考える時間が欲しかったからだ。
この社殿に務めるほとんどの者達は、観鈴が北の社に移るのを最後にこの社殿での役目が終わることに喜びを隠せずにいる。
なのに、俺は彼らのように喜べないでいた。
それはどうしてなのか?
それをこの数日間、俺はずっと一人で考えていた。
でも、頭の中で整理できたことなど何もない。
そんな俺を日に日に強くなってきた夏の日差しが責めるように照らしていた。
ああ、暑いな…。
そう思って胸元の襟を掴んでぱたぱたと動かして少しでも涼しい空気を装束の中に送り込んでいると、ふいに懐に違和感を覚えた。
それは人形の感触だった。
自分でもおかしな話だと思うが、俺はこの人形をお守りのように持ち歩いている。
無論、馬鹿にされるのが落ちだから、恥ずかしくて他のやつに見せることなど滅多にない。
この人形は俺の母親の唯一の形見だった。
ちなみに俺の父親は俺が物心ついたときにはもういなかった。
そして母親は父親について何も語らなかったから、俺は父親のことなど何も知らない。
そんな唯一の家族であった母親との記憶も今ではほとんど覚えていない。
はっきりと思えているのは、この人形を母親との最後の別れのときにもらったということだけ。
ただそれだけの思い出しかない薄汚れた人形を俺はいつも持っていた。
そのことに疑問を覚えることもなく、ただずっと持ち続けてきた。
俺は懐に入れてある人形をしっくりくるように入れなおし、私室へと足を向けた。
本当はもっとぶらぶらしていたいのだが、社殿の警護に関する報告書を書く仕事がまだまだ残っている。
大志としての最後の仕事と分かってはいるものの、やはり面倒なことには変わりない。
少し憂鬱な気分で廊下を歩いていると、向かいの廊下をこちらに歩いてくる数人の女官達の中に美凪の姿を見つけた。
そういえばこうして距離を置いて美凪を見たのはこれが初めてかもしれない。
なぜなら、俺が美凪に気付くより先に、いつも美凪は俺の直ぐ側に気配無く佇んでいるからだ。
そしてそんな無防備な俺に声を掛けては、いつも俺を驚かして楽しんでいる。
ぼんやりと美凪の姿を見ていると、ここ数日行われていないそんなやりとりが懐かしく感じられた。
またあいつらと無駄な遊びに時間を費やすのも悪くないかもしれないと、素直にそう思う自分が少し不思議だった。
そんな事を考えていると俺の視線に気づいたのか、美凪がこちらを向いた。
俺と美凪の視線が合う。
「よう」
距離が離れていて声は届かないだろが、俺は手を上げて挨拶をした。
『…よう』
声は聞こえなかったが、美凪が俺と同じように唇と手を動かしたので、その挨拶が聞き取れた。
女官らしく会釈を返すのではなく俺の挨拶をまねして返すところが、本当に変わっているというか美凪らしいというか。
そんな美凪の口元が再び動いた。
『…珍しいですね…往人さまの方から声を掛けてきたのは』
「…ああ、そうだな」
聞こえないはずの美凪の質問に俺はそう答えた。
改めて思うと、このとき俺は初めて自分からこいつらに関わろうとしたのかもしれない。
それはこの数日の間に起こった俺の変化だった。
ずっと一人で生きていけると思っていた俺が、他人に関わることの心地よさに知らず知らずのうちに気付いていたんだと思う。
やがて美凪の側にいた女官の一人が、美凪が誰にでもなく挨拶を交わしているのを不思議に思ったのか、美凪に何かを尋ね始めた様子だった。
そんなやりとりを横目に見ながら、俺は少し軽くなったような気がする足取りで私室へと戻った。
**************
男の子が泣いていた。
その子は片方の手で止まらない涙を拭い続けている。
俺は何でこんな光景を見てるんだ?
面倒なことに巻き込まれたくないので、俺は男の子に背を向けこの場を離れようとした。
なのに、体は少しも言うことを聞かない。
そうか、俺は夢を見ているのか。
感覚がはっきりとしてくるにつれて、この独特の感覚が夢に特有なものであることに気付いた。
ということは、俺は夢が覚めるまでこの状況に置かれたままになるわけだ。
そう考えるとこの状況がより鬱陶しくなり、男の子に対して早く泣き止めよとか思ったりした。
声を出せるのなら目の前の男の子に向かって何か言ってやるだろうが、あいにく俺はこの夢の中では目の前の光景をただ見ていることしかできないようだ。
なら、俺に出来ることといえば、この夢が一刻も早く終わってくれるように願うだけだった。
「どこに行ったの、母さん!?」
男の子の声が聞こえた。
こいつは母親とはぐれて泣いていたのか。
男の子は涙を拭うのを止め、母親の姿を捜そうと顔をきょろきょろとさせていた。
顔を上げたその男の子の横顔に俺は見覚えがあった。
そして、涙を拭っていたのと反対の手に持っていた薄汚れた人形にも。
ああ、俺は幼い頃の自分の夢を見ているのか。
俺にこんな頃があったことなどずっと忘れていた。
俺の母親は俺が幼かった時にこの薄汚れた人形を俺に託してどこかへ行ってしまった。
死んでしまったのか、失踪したのか、そのことは覚えていない。
覚えているのは俺を一人にしてどこかへ行ってしまったということだけ。
そして、ひとりぼっちになった俺は母を捜して歩き続けた。
幼心にも母親とはもう二度と会えないと分かっていたはずなのに、ずっと探し続けた。
そんなふうに身寄りのない子供がひとりさまよっていれば、当然食い扶持などあるはずも無く、同じく当然の事ながら腹も減ってくる。
だから俺は農家の作物を盗んだり、時には山賊まがいのようなことをして空腹を凌いだ。
生きるためだったから、その時の俺の行動は今でも悪いことだとは思っていない。
母親を捜し続けるためには仕方なかったんだ。
そのうちどういうわけか俺は戦に出ることになった。
もちろん食い扶持を手に入れるためだ。
そのために命を賭けることはさすがに危険な賭ではあったが、盗みをしながらこそこそと生きているよりは俺の性に合っていた。
それに、雇われ兵として色々なところを巡っているうちに、もしかしたら母親の行方について何らかの情報が得られるかもしれないと思っていたところもあったのだろう。
最初はそんな思いもあって戦を続けてきたのだろうが、こうして時が経ってゆくにつれて母親を捜すという目的意識も薄れ、気が付けばただ生き延びていくためだけに戦に身を置くようになっていた。
そして、そんなふうに母親のことを忘れていくのなら、それで構わないと思っていた。
大体今になって思えば、あの頃俺は何故あんなにも母親を捜すために必死になっていたのだろうか?
母親とはもう二度と会えないと分かっていたはずなのに。
「母さん、戻ってきてよ!」
幼い頃の俺はまだ泣いていた。
思えば、俺が最後に『寂しい』と感じたのは何時のことだっただろうか?
もうずいぶん長い間、そんな感情を抱いたことがないような気がした。
たとえ目の前で戦友が力尽きても、俺はそんなことでいちいち寂しいとかなんて思ったりしなかった。
そんな感情なんて戦場においては自分が生きていく上で足かせになるだけだ。
今の俺はそんな考え方をしているのだから、幼い頃の俺は何て純粋だったのだろうかと素直に思う。
母親に一人残され、そのことが寂しくて、そして母親がいた頃のような温かさを恋しみ、そんな温かい生活の中に戻るために見つかるはずのない母親を捜し続けて…。
…温かさ?
そうか、幼いときの俺は『温かさ』をずっと探していたのか。
誰かといることで感じる温かさ。そしてその中に身をおくことで得られる安堵感。
そんな感情を幼い頃の俺はちゃんと持っていたのだ。
でも、そんなものは今の俺にとっては縁のない感情だ。
そう思う俺の心の中でもう一人の俺が否定する。
俺は本当に誰かと過ごす温かさを忘れていたのか?
じゃあ、観鈴や美凪と過ごしていたときに感じていたものは何だったのか?
あのときずっと感じていたのに、その正体を言葉に表現できなかったものは一体何なんだ?
幼い頃の自分を思い出した今、もし俺の頭の中にある言葉でその時の感情を言い表すなら、それは『温かさ』だ。
俺は観鈴や美凪と過ごしていて楽しかった。
面倒だと感じながらも、あいつらと一緒にいる温かさに包まれていると心が和んだ。
それは戦をしていたときにはずっと感じることができなかったもの。
幼い頃の俺が無くし、ずっと探していたはずのものだ。
俺の頭の中でそんな結論が浮かんだ瞬間、目の前にいた幼い頃の俺の姿がぼやけ始めた。
ああ、もうすぐ夢が終わる…
*************
視界いっぱいに天井が広がっていた。
天井を見たのは久しぶりのような気もするが、それを否定する俺もいる。
それは夢が覚めたとき特有の感覚。
自分という存在が確かにあるのに、自分がどこにいるのかはっきりとしない感覚。
でもそんな感覚も次第に覚めてき、夢と現の境が頭の中ではっきりと整理されていく。
泣いている幼い頃の俺。
求めていた『温かさ』。
そうだ、俺は夢の中で大切な事を思い出したんだ。
次第に意識がはっきりとしてきたので、俺は布団から身を起こした。
残された今日一日で俺は何をしないといけないのかが脳裏に浮かんでくる。
分かってるさ。
今度こそ、俺は掴んでみせる。
昼前になって俺は美凪の部屋を訪れた。
俺が今日これから行おうとしていることを美凪に伝えるためだ。
部屋を覗いてみると、美凪は俺の到来に気付く様子もなく部屋の中で何かがさごそと作業していたので、俺は美凪に声を掛けた。
「よう、何をしてるんだ?」
いつもとは逆に、美凪は俺の呼びかけに驚いて振り返った。
「…何だ、往人さまですか」
美凪は声の正体が俺であると分かると、胸に手を当て安心したように息をついた。
「何だとはえらい挨拶だな。で、何をしてたんだ?」
予想もしなかった美凪の慌て振りが不思議に思えたので、俺はそう尋ねてみた。
「…夜逃げの支度です」
「そうか、夜逃げか…って、何っ!?」
思わず大声を上げてしまった俺に向かって、美凪は自分の口の前に人差し指を立てて見せた。
「…すまん、取り乱して悪かった。で、夜逃げって一体何なんだ?」
「…今日は何の日かご存じですか?」
「観鈴がこの社殿にいる最後の日だ」
「…正解」
当たってもちっとも嬉しくない事実。
そう、今日が最後の機会だから俺は自分の意志で美凪の元を訪れた。
誰かに与えられるのを待っているんじゃなくて、自分から掴むために。
「…だから、観鈴さまとここから脱走するための支度をしていました」
「それはあいつの命令か?」
「…いえ、私の意志です。…観鈴さまにはまだ何も伝えていません」
事もなげにそう言ってみせる美凪。
観鈴を連れてここを脱走するということがいかに重罪であるかを美凪が知らないはずがない。
もしこんな事を謀っているのが他の者にばれただけでも、ただでは済まされないだろう。
それを知っていてなお涼しげな顔をしている様子から、今の俺には美凪のその決意がよく分かる。
「奇遇だな。実は俺もお前が考えているのと同じことをしようと考えていたところだ」
美凪はその言葉に少しきょとんとした。
「お前と観鈴だけじゃ不安だ。俺がここからの脱走を手伝ってやる」
「…そんなことをすれば往人さまも無事では済みませんよ」
「馬鹿、俺がしくじるわけないだろ。だから平気だ」
「…私もへっちゃらです。…へっちゃらへー、です」
お互いに強がってみせる俺たち。
正直、こんな無謀なことをするのが怖くないはずがない。
だが、それを越えてでも掴みたいものがある。
俺がかつて生きている実感を得るために命のやりとりを厭わなかったように、今回も掴みたいことの方が恐怖よりも勝っている、ただそれだけのことだ。
「ここから脱走するための作戦は俺が立てる。だからお前は他の者に悟られないように静かに準備していろ」
こういう事は俺の方がよっぽど慣れていることを悟っているのか、美凪は俺の指示に素直に頷いた。
「…このことは観鈴さまに伝えておくのですか?」
「いや、あいつには直前まで秘密にしておこうと思う。敵を欺くには味方からって言うからな。それに、あいつは隠し事が下手そうだからな」
「…同感です」
こうして家臣に見くびられる観鈴が少し可哀想な気がしないでもない。
だか、今回の事は今まで俺たち3人がしていた札遊びとかとは訳が違う。
一度始めたが最後、決して失敗など許されないのだ。
「じゃあ、子の刻になったら迎えに来る。それまで他の者に感づかれないように頑張れよ」
そう言って俺は美凪に背を向け、この部屋を立ち去ろうとした。
でも一つ引っかかることがあり、俺は足を止めて再び美凪の方に振り向いた。
「聞かなくて良いのか? どうして俺が観鈴を連れて脱走しようなんて考えたかを」
美凪は俺に以前、観鈴と一緒にいたいということを語ったことがある。
だから、美凪が観鈴を連れて一緒に脱走しようとする理由を俺はもう知っている。
でも、俺はまだ美凪に観鈴と一緒にいたい理由を言っていなかった。
「…それを聞くのは野暮というものです」
言わなくても分かっています、というふうな笑みを浮かべ、美凪はそう言った。
「それもそうだな」
「…はい…やぼやぼです」
自分で言い出したものの、実際美凪に今回の行動に至った理由を聞かれていたら俺はその答えに困っていただろう。
それに、この機に及んで必要なものは動機ではなく決意なのだから。
「じゃあな、上手くやれよ」
「…往人さまの方も」
そんな挨拶を交わし、俺は美凪の部屋を後にした。
美凪に会いに行った後、俺は仕事に追われた。
残された仕事を片づけながら、時間を見つけて一度は観鈴の所に顔を出してみようと思ったものの、その観鈴の移動のおかげで仕事がひっきりなしに俺の所に運ばれて来たため、その考えは実行されることはなかった。
そして、俺に舞い込んでくる仕事の中には翼人に関する資料をまとめておけという指示もあった。
以前から翼人に関して少し知りたいこともあったので、どうせここから脱走するついでだと思い、それらの中から手頃なものを少しちょろまかすことにした。
ここからの脱走に成功してから余裕が出来たときに、例の翼人の災いについてでも調べてみるか。
そう思いながら書物をめくって吟味していると、湿った空気が肌にまとわりつき始めたのを感じた。
この様子だと今夜は雨になる。
そうなればここからの脱走がより有利になるはずだ。
俺は神様なんて信じちゃいないが、この様子だと神様は俺たちに味方してくれるつもりのようだ。
そんな神様の気持ちが変わらないことでも今のうちにしっかりと願っておくか…。
夜になると予想通り雨が降り始めた。
最初は湿気しか感じさせなかったような雨も、今では音を立てしぶきを上げるほど強く降っている。
見張りの者に気付かれずに脱走する上では、視界が悪く音も聞き取り辛いこの状況は俺たちにとって好都合だった。
同時に、追っ手から逃げるときに観鈴と美凪がぬかるんだ地面に足を取られないかという心配も少しある。
今、俺はここから脱走するための支度を終え私室の中にひとり座っていた。
こうしていると戦に出る直前の感覚を久しぶりに思い出す。
いや、成功するかどうかでは命がかかっているという点では今回の脱走も今までの戦と何ら変わりない。
そんな懐かしい感覚に思わず微笑んでしまう。
ここに着任したときには何て退屈な場所に来てしまったのだろうかと思った。
でもここで観鈴と美凪に会い、下らない遊びに付き合わされ、時にはからかわれもした。
その中で俺は誰かと過ごす温かさというものを思い出した。
そして気が付けば俺は今、それを守るために命を賭ける羽目になっている。
そう、ここに来て退屈なことなんて無かったんだ。
俺は静かに刀を抜き、それを目の前にかざした。
刀身に映る光が燭台の炎の揺らめきに合わせて揺れている。
だが、俺の決意は微塵も揺れていない。
後悔なんてしていない。
そんな俺の覚悟を映したかのように、刀身に揺らぎのない銀色の輝きが灯った。
「よし、行くか」
刀が鞘に収まり高い音を上げたのと同時に、俺は立ち上がった。
周りに見張りの者がいないか細心の注意を払い、廊下に踊り出る。
そして物音を立てないように進みながら、真っ直ぐ観鈴の部屋に向かった。
いくら雨音で俺の気配が掻き消されているとはいえ、ここで見張りの者に見つかれば全てが水の泡だ。
しかし、皮肉な事に俺は大志だ。
それゆえこの社殿の警備については全て把握している。
俺は問題なく観鈴の部屋に辿り着くとその中を伺った。
燭台の淡い光に照らされ、観鈴が床に就いている姿が見えた。
俺は観鈴の部屋に入る前にもう一度周囲を確認してからその部屋の敷居をまたいだ。
「おい、起きろ」
俺は観鈴の頬を叩いて呼びかけた。
少し間を空けてから、観鈴は眠たそうに目を開いた。
そしてその瞳が徐々に俺の姿を映し出していく。
「…往人…どの?」
観鈴は少し寝ぼけた様子のまま上体を起こした。
「大きな声を出さずに取り敢えず俺の話を聞け。いいな?」
観鈴は俺に何か尋ねたいことがあった様子だったが、俺のただならぬ様子を察したのか、俺の言葉に無言で頷いた。
「お前は以前、俺に友達になって欲しいと言ったな? だから俺はお前の友達になってやる」
俺の突然の告白に、観鈴は声を殺しながらも驚いている様子だった。
「で、お前の友達として確認したいことが一つある。お前は明日、俺や美凪と別れて北の社に移りたいか? それともそんな命令なんか破ってこれからも俺や美凪と一緒にいたいか? もしお前がこれからも俺や美凪と一緒にいたいと思うなら、俺はお前と美凪を連れて今すぐここから脱走してやる。そうすれば俺たちはずっと一緒だ」
「そんなの危険だよ! もしそんなの見つかったら、わたしはともかく、往人どのや美凪は大変なことになるよ?」
今まで黙って俺の話を聞いていた観鈴も、さすがにその突飛な提案に反対の声を上げた。
「もちろんそんなことは承知の上だ。でもな、俺はお前達と過ごしているうちに今までずっと忘れていた誰かと過ごす温かさというものを思い出したんだ。それを守るためなら俺はどんなことだって切り抜けてみせる。それは美凪だって同じだ。俺たちは、お前と一緒にいたいんだ」
そこまで言って、俺は一度息を吸った。
「だからもう一度尋ねる。お前は俺や美凪と一緒にいたいか?」
俺の、そして美凪の思いは全て伝えた。
だからあとは観鈴の返事を待つだけだった。
そしてその観鈴は俯いてじっと考えていた。
上からの命令に従って明日次の社に移ってしまえば、もう友達と呼べる存在と二度と巡り会うことが出来ないかもしれないことを観鈴は痛いほど分かっているはずだ。
それと同時に、ここから脱走することがどれほど危険な事かということも観鈴は知っている。
この社殿を離れたが最後、その先にどんな試練が待っているのかを、観鈴に想像しきれるはずもない。
そんな葛藤をしているのだろう。観鈴の沈黙はしばらく続いた。
でも、観鈴は気付くはずだ。
危険を冒してでも掴み取りたいことがあることに。
やがて観鈴はゆっくりと顔を上げ、俺を真っ直ぐ見つめて言った。
「わたし、往人どのや美凪と一緒にいたい。だから、3人でここから出よ」
「よし、お前の願いはこの往人が確かに引き受けた」
今までで初めて見る観鈴の強い決意を秘めた表情に、俺はつい改まった受け答えをしてしまった。
そんな俺の珍しい様子に観鈴が表情を緩めた。
「往人どの、わたしたちもう友達だよ。そんなに畏まる必要はないと思うな」
今まで見てきた中で一番嬉しそうな笑顔で観鈴はそう言った。
「それもそうだな」
今までずっと呼ばれることなど無いと思っていた『友達』という言葉に、俺は少し違和感を覚えると同時に、くすぐったい気持ちも感じずにはいられなかった。
だが、そんな呑気な気分に浸ってて良いのはここからの脱走が成功してからだ。
そう気を引き締め直すと共に、俺は観鈴に背を向け部屋の入り口の方を向いた。
「隠れていないで出てきたらどうだ、美凪」
普段よりも神経を研ぎ澄ましていたせいか、今の俺には美凪の微かな気配も感じ取れていた。
「…ばれちゃってましたか」
そう言いながら、衝立の後ろから影のように静かに姿を現す美凪。
「まったく。ちゃっかりと俺の話を盗み聞きしやがって」
嫌みを込めて美凪にそう言ってやった。
緊張した状況に置かれているにも関わらず、こうしていつものようなやりとりを出来ることが少し嬉しかった。
「よし、3人揃ったなら今すぐここから出るぞ」
「あっ、待って往人どの」
俺のそんな勢いを挫き、観鈴が少し情けない声を上げた。
「どうした?」
「この格好のままじゃ、ちょっと…」
そう言いながら袖を広げる観鈴は当然の事ながら寝間着姿のままだった。
「…観鈴さまの着付を手伝うので、その間少し待ってもらえますか?」
気を利かせた美凪が俺にそう言った。
「ああ、分かった」
俺はそう答えると再びその場に座り直し、観鈴の着替えが終わるのを待つことにした。
「…あの、往人どの。恥ずかしいから向こうに行っててもらえるかな?」
「…悪い」
これから大事を迎えるというのに、俺たちのやりとりは間抜けそのものだった…。
「じゃあ、行くぞ」
俺のその言葉に二人は小さく頷いた。
ここの警備は社殿の外から攻めてくる敵を想定して衛士を配置しているとは言え、それが社殿内部からの脱走者も完全に防ぐことが出来るかといえばそうではない。
大志の役である俺ならこの警備の虚を突いてみせることができる。
そしてこの土砂降りの雨という状況は、まさに鬼に金棒というやつだ。
俺たちは観鈴の部屋を出ると廊下沿いに走り、屋敷の裏手に向かった。
次にそこから、社殿を囲む塀を目指して土砂降りの雨の中に飛び込んだ。
打ち付けてくる雨粒の感覚が装束の生地の上から感じられ、そのことが屋根のない空間に俺たちが飛び出したということを強く感じさせる。
そう、俺たちはここでの平穏な生活から抜け出し、危険な世界へと自ら身を躍り出したんだ。
この脱走が成功しようが失敗しようが、もう元の生活には戻れない。
そのことを容赦なく打ち付けてくる雨粒が教えてくれる。
俺たちは素早く走り抜け、塀の近くにある茂みに身を隠した。
今俺たちが隠れている場所は近くにある見張り台から見えないこともないのだが、この雨では視界が悪く、見張りの者に気付かれにくいはずだ。
それにこの茂みは塀を越えて外から攻めて来た敵に奇襲をかけるための待機場所でもあったから、社殿の内側からの見通しについては深く考えられていない。
「どうやってこの塀を越えるの?」
衛士が常に待機している四方の門からの脱走は絶対に無理だということは観鈴にも想像がつくとして、目の前にそびえるこの高い塀をどうやって超えるのかという疑問を浮かべるのは当然のことだ。
梯子でもあればこのくらいの高さなら何と超えられるが、そんな大胆な方法を使えば流石にこの雨の中といえどもすぐに見張りの者に見つかってしまうだろう。
だが、俺はこの塀に仕掛けを施していた。
茂みに接している塀の一部を押すと、人が一人通り抜けられる程の幅で塀の一部の板が抜けた。
これは万が一のために備えて俺が以前細工しておいたものなのだが、その万が一がこうして思わぬ形で訪れてしまったことには少し笑える。
「お前達から先に行け」
そう言って俺は2人を促した。
美凪は俺の言葉に頷くと、軽い身のこなしで塀の隙間を抜けた。
「ここから先は下り坂だ。足下がぬかるんでいるはずだから気を付けろ」
俺は先頭を切って塀を抜けた美凪の後ろ姿にそう声を掛けた。
「次はお前だ」
「う、うん…」
でも観鈴は塀の向こうに見える暗闇を強張った表情で見つめたまま足を踏み出そうとはしなかった。
この塀を抜けることで今までの生活に二度と戻れなくなることに、今更ながら観鈴は戸惑っているのだろう。
今までずっと続いてきた社殿での生活が観鈴にとってどれくらい平穏と不幸に満たされたものだったかは知らないが、生まれて初めてその世界から抜け出すということは観鈴にとって躊躇させることなのだろう。
そんな様子の観鈴を見ていると、かつて観鈴が俺に話した夢の中の女性の事を思い出した。
独りぼっちで、掴みたいものが目の前にあるというのに、翼を羽ばたかせてそれを掴み取ることが出来ないという女性。
観鈴はその女性のことをもう一人の自分だと言った。
でも、観鈴は違う。
「…観鈴さま」
美凪が塀の向こう側で観鈴の名を呼んだ。
そう、観鈴は独りぼっちなんかじゃない。
観鈴には俺や美凪という友達がいる。
目の前にある目標に手が届かないのなら、俺たちが引っ張ってやる。
翼を羽ばたかせる勇気が足りないのなら、俺たちが背を押してやる。
だから、掴み取れ!
お前は夢の中の女性とは違うって事を、そいつに見せつけてやれ!
「わたし、今まで社殿での暮らしを嫌だと思ったことはあったけど、抜け出そうなんて事は考えたことはなかった。…それは、わたしに勇気が足りなかったからなのかな?」
俯いた観鈴の髪を伝って雨水が滴り、そして落ちていく。
「でも、わたしは美凪や往人どの一緒にいたい。だから…」
観鈴は決意を秘めた瞳で小さく頷いた。
「わたし、羽ばたくよ」
目の前にある夢を掴むために、観鈴は勇気という名の翼を羽ばたかせた。
それは夢の中の女性が出来なかったこと。
でも、観鈴はその女性ができなかったことを成し遂げ、その足を踏み出した。
その時、俺には観鈴の背中に翼が見えたような気がした。
その翼は観鈴の強い思いを映し出すかのように、白い輝きを放っていた。
でもやっぱり観鈴の背中には翼なんか生えてなくて、塀の向こうに見える観鈴の後ろ姿は俺の知っている観鈴のものだった。
俺はそんな錯覚を頭を振って消し去ると、観鈴に続いて塀を抜け、さっき外した塀の一部を元通りにはめ込んだ。
「往人どの、わたしたち無事に逃げ切れるよね?」
観鈴は確信に満ちた表情で俺にそう聞いた。
「ああ、逃げ切ってみせるさ。絶対にな」
−5話に続く−
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ひでやんさんから、another SUMMERの4話を頂きました。
美凪と往人のコンビが良いですな、とひでやんさんに言うと、美凪スキーだと言うことがわかりましたw 今後は観鈴をどう目立たせていくかが課題とも…。
これから、話が広がっていきそうですね。オリジナリティの部分にも期待です。
感想などあれば、
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などへ!
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