another SUMMER(5) 
  
  
 べちゃっ 
「が、がお…」 
「…大丈夫ですか、観鈴さま?」 
「う、うん。大丈夫」 
 頷きながら立ち上がる観鈴の装束は泥だらけだった。 
 俺や美凪に遅れないように付いてくるだけでもやっとの観鈴は、さっきから何度も木の根やぬかるんだ地面に足を取られて転んでいた。 
 月が厚い雨雲に覆われて真っ暗なこの状況では松明の1つも欲しいところだが、あいにく社殿から逃げる身の俺達にとってはその行為は自分たちの位置を追っ手に教えてしまうも同然だった。 
 そんな苦労をしながらも、社殿を抜けてから半刻ほど経った頃には、俺たちは谷を一つ越えて小高い山に辿り着いていた。 
 ここまで来る間に追っ手の気配を感じなかったということは、社殿の者達はまだ俺たちの脱走に気付いていないのだろうか。 
 だが、油断は出来ない。 
 俺に遅れないように斜面を登ってきたせいで大分疲れている様子の二人には悪いが、ここは休まず先を急ぐことにした。 
「ねえ、あれ見て」 
 観鈴は息を切らしながらそう言い、俺たちが走ってきた方向を指差した。 
「…あれは…社殿の辺りですね?」 
 俺たちが先程までいた社殿にはいくつもの明かりが灯っていた。 
「わたしたちの脱走に気付いたのかな?」 
 不安そうに呟く観鈴。 
 だが、俺はその明かりが俺たちの脱走とは無関係なものであることを直感的に感じた。 
「いや…あの明かりは、社殿が燃えている明かりだ」 
 今、俺たちが目にしている明りの規模は、衛士達が松明に火を付けた程度の代物ではない。 
 俺が何度か戦場で見てきた、建物を焼き払うときの炎の明るさだ。 
「えっ、えっ? どうして社殿が燃えてるの?」 
 観鈴は事態が飲み込めず慌てた様子だった。 
 もちろん俺にだって社殿が焼き討ちに遭う理由なんて分からない。 
 だが、もしここが戦場だったとしたら敵の目的は一つ。 
 社殿を襲った奴等が誰なのかは知らないが、そいつらが俺たちを含めた社殿の者達を皆殺しにしようとしているのだけは間違いない。 
こんな真夜中を狙って襲ってきた奴等だ。社殿から逃げた者を掃討するために山狩りの兵を送ってくる手はずぐらいは整えているだろう。 
 社殿を抜けてきた時とは違う緊張感が俺の背筋をゆっくりと伝わってくるのが分かる。 
「ここにいるとまずい。とにかく逃げるぞ」 
  
  
  
「往人どのっ」 
 そう言って観鈴は俺の袖を引っ張って引き留めた。 
 観鈴が指差す先には木々の間からちらつく松明の明かり。 
 それも、その距離はかなり近い。 
 社殿に火が放たれたときには既に俺たちは社殿からだいぶ離れたところにいたから、社殿を襲った奴らに追いつかれるのはもっと後だと俺は予想していた。 
 しかし俺の読みは外れていたようで、こんな短時間で追っ手が俺たちに接触したことを考えると、敵は社殿から逃げ出した者を掃討するために初めから部隊を二分して挟み撃ちにする計画を立てていたに違いない。 
 だとすれば、俺たちはもう既に敵に囲まれていることになる。 
 もし俺一人ならこの状況下で荒事を起こしてもこの場を切り抜けることが出来るだろうが、この二人を連れている今の状況では、目の前の敵を相手にしている間に増援を呼ばれて後続の兵達に追いつかれたら逃げ切ることは出来ないだろう。 
「お前ら、ここに隠れろ」 
 俺は近くにあった岩陰の窪みに二人を押し込み、自分もそこに隠れた。 
 『隠れる』という言葉はいかにも安心できそうな響きを持っているが、実際にはそんなことはない。 
 恐怖に対してでたらめに足掻いているよりも、それが過ぎ去っていくまで静かに待っていることの方が遙かに怖く、勇気のいることだ。 
 自分の心臓の鼓動がやけにうるさく聞こえる中、次第に近づいてくる敵の足音。 
 その音がますます恐怖を掻き立てる。 
 それは観鈴や美凪も同じようで、二人が感じている恐怖感は暗闇の中でもはっきりと俺に伝わってきた。 
 足音から察するに敵は2人。 
 俺たちが隠れていることに気付かずそのまま通り過ぎていくことを願いつつも、その足音をしっかり聞き取ろうと俺は神経を研ぎ澄ました。 
 …後ろからもか!? 
 さっきから聞こえていた正面からの足音に加え、俺たちが逃げてきた方向からもさらに2つの足音が聞こえてきた。 
 その新しい足音に、戦わずに隠れるという先程の判断が正しかったことを実感するが、だからといって安堵のため息を漏らすにはまだ早い。 
「見つかったか!?」 
「いや、社殿の方にも見当たらなかったそうだ」 
「大将の指示は?」 
「予定通り、社殿から逃げだした者は翼人を除いて皆殺しにせよとのことだ。なお、翼人を見つけた場合はそちらの捕獲を優先しろ」 
 合流した兵達はお互いに情報を交換した後、再び散っていった。 
 そして何事もなかったかのように、再び強い雨音だけが聞こえてくる。 
「ふうっ…た、助かった」 
 緊張の糸が切れたのか、観鈴が情けない声を上げた。 
「…どうやら敵のねらいは観鈴さまのようですね」 
「ああ、そうみたいだな。奴等のねらいが観鈴である以上、俺が囮になっている間にお前らが逃げ回ったとしても俺が敵を引きつけることは出来ないし、それじゃあかえって俺のいなくなった間にお前らが敵に捕まる可能性の方が高くなるだけだな」 
「このまま3人で逃げ続けられないかな?」 
「無理だな。この様子だと多分もう俺たちは敵に囲まれてる。残念だが、お前らの足じゃあ逃げ切れないだろうな」 
 その言葉に悔しそうに唇を噛む二人。 
「…わたしが捕まれば、美凪と往人どのは殺されずに済むのかな?」 
 観鈴は俯きながら、そう呟いた。 
「馬鹿、お前が捕まっていいわけないだろ。それじゃあ俺たちは何のために社殿から逃げ出してきたんだ? それに、俺と美凪は初めから命を捨てるぐらいの覚悟はしている」 
「でも、こんな状況の中を無事に逃げ切るなんて…」 
 そう言って観鈴は再び俯いた。 
 俺たちは大きな決意と共に社殿を抜け出してきたばかりだというのに、こんなにも早く、しかもこんな形で、俺たちの夢は潰されてしまうっていうのか? 
 悔しさだけはいくらでも湧いて来るというのに、そんな俺たちを嘲笑うかのように、この窮地を脱するための妙案が浮かんでくる気配は全くなかった。 
「…往人さま、私に考えがあります」 
「何だ? 言ってみろ」 
「…この雨なら今頃、この辺りにある沢は増水しているはずです。…もし、観鈴さまが増水した沢に落ちたと敵に思い込ませられれば、敵がそれに気を取られている間にここから逃げ出すだけの時間が稼げると思うのですが?」 
「!? まさかお前、敵に自分を観鈴と思い込ませて沢に飛び込む気か?」 
 俺の質問に何も答えないところを見ると、どうやら図星のようだった。 
「だめ、美凪! そんなことしちゃ!」 
「…でも、それ以外に方法は残っていません」 
「そんな…美凪がいなくなっちゃうなんて嫌だよ…」 
 観鈴はそう言いながら目の端に涙を浮かべていた。 
 くそうっ、本当にそれしか方法は残っていないっていうのか? 
 確かに、もし敵に観鈴が増水した沢に落ちたと思い込ませることが出来れば、その間に逃げ切ることが出来るかもしれない。 
 でも、そんなことで美凪を失うわけにはいかない。 
 何かいい方法は残ってないのか? 少しの間、敵の目を欺ければいいってだけなのに。 
 …欺く? そうかっ! 
「俺が観鈴のふりをして敵の目を欺く」 
「…でも、それではいざという時に観鈴さまを護る人が…」 
「誰が死ぬって言った?」 
 美凪の言葉を遮り、俺は強く言った。 
「俺は武だ。こんなことで死んだりしない」 
  
  
  
 俺は観鈴の表着をかぶって斜面を駆け下りていた。 
 人の顔を判断するのも難しいこの暗闇の中なら、敵は翼人のためにあつらえたこの高貴な装束を見て俺の姿を観鈴だと勘違いするはずだ。 
「いたぞ、翼人だ!」 
 ねらい通り、敵の一人が俺に気付いた。 
 その声を聞いて近くにいた兵達が俺を包囲しようと集まってくる気配を背後から感じた。 
 敵に俺の姿をはっきりと見せないように距離を開けながら木々の間を走りつつも、そいつらを引きつけるように気を配りながら、俺は暴れ狂う沢へと向かった。 
 濁流の激しい音がはっきりと聞こえてくる場所に辿り着いたときには、俺の正面からも松明の群れが見え始めていた。 
 俺は自分が完全に包囲されたことを確認すると、近くにあった一抱え程もある岩を荒れ狂う沢に投げ込んだ。 
 ばさぁぁん! 
 人が一人落ちたのではないかと思うには十分過ぎるぐらいの音が沢沿いに響き渡った。 
 そして仕上げの仕事として、俺はさっき岩を投げ込んだ辺りに観鈴の表着を投げ込んだ。 
 濁流に呑まれながらも、表着はその一部をちらつかせながら押し流されていった。 
 それを確認すると、俺は素早く近くの木の上に登って息を潜めた。 
「翼人が川に落ちたぞ!」 
 俺を正面から迎え撃とうとしてきた兵達は、先程の岩を落とした大きな音と、激しい流れの中に見え隠れする表着にまんまと騙され、観鈴が沢に落ちたと思い込んでいる様子だった。 
「こっちには装束の切れ端だ!下流に姿は見えないのか!?」 
 俺の後ろから追ってきた兵の一人が、いつの間にか俺が藪に引っかけて破ってしまった装束の切れ端を見つけたようだ。 
 だか、その情報は翼人が本当に沢に落ちてしまったのではないかという敵の思い込みを強めてくれるだろう。 
 もしこいつらが追っている相手が大の男だったら、こいつらはここで俺の演技に気付いていたのかもしれない。 
 だが、こいつらは自分たちがさっきまで追っていた獲物は観鈴だと信じ切っていた。 
 だから女が人の重さほどもある岩を沢に投げ込んだという考えに至るはずがない。 
「お前達は下流をくまなく探せ! 死体であっても必ず見つけ出すんだ! 残りの者は引き続き社殿から逃げ出した者の確認と始末を!」 
 俺のこの演技で追っ手を完全に撒けたわけではなかったが、それでも先程と比べれば明らかに俺たちに割かれる追っ手の数は少なくなったはずだ。 
 これなら逃げ切れる。 
 俺は目の前で起こっている敵の一連の様子を眺めながらそう思った。 
  
  
  
「よう、無事だったか?」 
「往人どのっ!」 
 観鈴は俺の姿を見た途端に飛びついてきた。 
「無事なんだよね? 怪我はしてないよね?」 
「ああ、見ての通り傷一つ受けてないぞ」 
 どうやら観鈴と美凪は俺の言いつけを守り、今まで大人しく岩陰に隠れていたようだ。 
 こんなにも分が悪い状況の中、ここで静かに恐怖を耐え抜いた二人はなかなかの度胸の持ち主だと素直に思った。 
「…追っ手の方は?」 
「完全には撒けなかったが、観鈴が沢に落ちたと思い込んでいるうちは手薄になるのは間違いない。今なら逃げ切れるさ」 
 その言葉に二人は安堵のため息を漏らした。 
 だか、まだ追っ手から逃げ切れたと決まったわけではない。 
 俺たちは互いに目を合わせ頷くと、この緊張した空気に再び身を委ねた。 
 とにかく今は気を抜くことなく逃げ続けなければ。 
「あっ!」 
 目を見開きそう叫ぶ美凪の視線の先には、松明に照らされた兵の姿が。 
 くそっ、もう周りに兵はいないと思って油断していた! 
 さっきのように身を隠してやり過ごすにはもう間に合わない。 
 だが、幸いにも敵は一人だ。周りには他の兵の気配はない。 
 そのことを確認すると、俺はとっさに腰に帯びた刀に手をやりながら、敵に向かって駆けだした。 
「貴様!?」 
 敵が俺の姿に気付いて声を上げた時には、既に俺の刀が銀色の光を鞘から覗かせていた。 
 きぃぃん! 
 鋭い金属同士が高速でぶつかり合う音が響く。 
 俺の方が剣技で勝っていることはこうして剣を交えてみれば明らかだったが、それでもやはり俺の先制攻撃が大きな効果をもたらしたようだった。 
 敵は俺の最初の攻撃を何とか受け止めたものの、この時点で俺に打ち崩されるのは時間の問題だった。 
 それを確信し、俺は躊躇無く刀を一旋した。 
 敵はその一撃で姿勢を崩し、地面に倒れた。 
 追い込まれたやつの最後の足掻きは油断ならないが、目の前の兵はさっきの一撃で刀を手から滑らせていた。 
 丸腰の相手に今更何が出来る? 
 恐怖に顔を引きつらせた敵が叫び声を上げる前に真っ二つにしてやろうと、俺は刀を上段に大きく構えると素早く振り下ろした。 
 ひっ、と虫の音のようなかすかな声を上げる敵のその表情が俺の脳裏に焼き付く! 
「だめっ!」 
 突然背後からした観鈴の声に、俺の手元が狂った。 
 鈍い音を上げて地面にその切っ先を埋める刃。 
 状況が分からぬまま、それでも何とかこの場から逃れようと、敵は足をもつらせながらも立ち上がり逃げようとした。 
「っせい!」 
 観鈴がさっきの一言で何を伝えようとしたのかは、冴えきった今の俺には直感で分かった。 
 だからといって、俺が敵に絶好の機会を与えるはずがない。 
 そして素早く切り返した峰は正確に敵の首筋を打ち、声を上げる暇すら与えずに敵を気絶させた。 
「何故止めた!」 
 俺はさっきまで敵に向けていた勢いそのままに振り向き、観鈴を睨んだ。 
「状況が良かったから無事に済んだものの、こんなことをされたら命がいくつあっても足りないぞ!」 
 観鈴が叫んだ理由、それは『敵を殺すな』という意味だ。 
 だが、戦場では目の前の敵を殺さなければ次に誰がやられるかは明白だ。 
 一度刀を抜いたが最後、手加減や同情というものは存在することを許されないのが戦いというものなのだ。 
「だって…往人どのには人殺しをして欲しくないから…」 
 俺の気迫に押されながらも、観鈴は全く引こうとはしなかった。 
「往人どのは、わたしたちを殺そうとしていた人達とは違うよね?」 
 その意味を理解しかねた俺は、頭を冷やすために深呼吸をした。 
 そうすることで、さっきまで敵を殺すこと以外に余計な思考が入ってくる余地の無かった俺の頭の中に、観鈴の想いがゆっくりと流れ込んできた。 
「…往人さま。…往人さまが立派な武であるのは認めますが、私達の前でもそうである必要はないと思います」 
 俺の側に寄って来て静かにそう告げた美凪の声にも、明らかに俺を非難している気配があった。 
 そう、こいつらは俺が人を殺そうとしたのを咎めているのだ。 
 もちろん、俺たちの身に迫り来る危機は何としてでも回避しなければならない。 
 だが、そのために人を殺すという手段を取っていいはずがないとこいつらは言っているのだ。 
「こんなんじゃあ、これからどこまで無事でいられるか分からないぞ?」 
「…大丈夫です、往人さまは立派な武ですから」 
 美凪は少し笑みを浮かべてそう言った。 
「ああ、せいぜい期待してくれ」 
 俺は皮肉を込めてそう答えておいた。 
 だが、ここまで責められればいくら鈍感な俺にだってこいつらの気持ちが少しは分かる。 
 俺に会ってからずっと、俺の血生臭い一面を知らずに一緒に過ごしてきたこいつらにとって、何の躊躇いもなく人を殺そうとする俺の姿は決して認めたくないものなのだろう。 
 俺だって観鈴や美凪が何の躊躇いもなく人を殺そうとするところをもし見てしまったなら、これまでと変わりなく接することができるかどうかわからない。 
 そう考えると、俺が頭を冷やしさえすれば先程の事を許してくれると言っているこいつらはよっぽど人が良かった。 
「悪かったな、観鈴」 
「ううん、分かってくれたならもういいの」 
「…まだ油断できません…早くこの場から離れましょう」 
「ああ、そうだな」 
 美凪の声に頷くと、俺たちは再び暗闇の中を駆けだした。 
  
  
  
  
                   −6話に続く− 
  
------------------ 
  
 りきおです。今回はほぼ本編に沿った回ということで、ひでやんさん自身も面白くなかったようで…。 
 次回以降は美凪編とのことなので期待しましょう。 
  
 感想などあれば、 
  
「掲示板」「Web拍手」「SS投票ページ」 
  
などへ! 
 |