another SUMMER(10)
突然の夕立に、私達は雨宿りできる場所を探して木々の間を駆け抜けていた。
そういえば、雨が降ったのは社殿を抜け出してきたあの晩以来のことになる。
すっかり雨を吸ってしまった服は少し重たくて、それが肌に張り付く感触は決して気持ちの良い物ではなかった。
「うーん、服がびしょびしょしてて気持ち悪い」
「文句を言ってる暇があったら速く走れ」
「往人どのの足が早すぎるのっ」
雨粒が地面を激しく打ちつける音と、私達が泥を跳ね上げながら駆ける音だけが、雨に包まれたこの空間の中に響いていた。
こんな時に雨が降ってくれて、私はちょっと嬉しい気もした。
でも、空が私の代わりに泣いているのかもしれないと思うのは、きっと考え過ぎなのだろう。
そんな風に思い込んでいると、また気分が重くなってしまうかもしれない。
だからそんな考えは止めてしまおう。
「よっ」
先頭を走る往人さまが目の前にあった大きなぬかるみを勢いよく飛び越そうとした。
でもそのはずみで、往人さまの懐から何かが落ちた。
ばしゃんっ
「あっ、何か落ちた」
それに気付いた観鈴さまはためらうことなくぬかるみに入って行くと、往人さまが落とした“それ”を拾って差し出した。
「はい」
「悪いな、観鈴」
観鈴さまのどろどろになった足を見て、往人さまはすまなさそうにそう言った。
「どういたしまして」
往人さまが“それ”を懐に仕舞い直そうとしたとき、観鈴さまはふと我に返ったかように「あっ」と呟いた。
「ところで、それ何?」
往人さまの手のひらに収まっている人形みたいなものを指し、観鈴さまは興味津々の様子だった。
その問いに、往人さまはばつの悪そうな表情を浮かべたまま、少しの間固まった。
「…速く走らないと濡れるぞ」
そう言い残すと、話をはぐらかすかのように走り出した。
「もう濡れてるって〜」
その背中を追いかけて観鈴さまが走り出すと、私も2人の背中を追って走り出した。
やがて私達は大きな木下に潜り込むと、そこで雨宿りをすることに決めた。
木の葉に当たる雨の音が、湿った空間の中で小気味よい音を立てていた。
少し早くなった心臓を落ち着かせようと息を深く吸う度に、水に包まれた森の匂いを肺の奥底まで感じる。
私はどんよりと暗くなっている空を見上げた。
「…しばらくの間は降り続きそうですね」
今となっては昼に観鈴さまと一緒にお手玉をしていたときの空模様がまるで嘘のことのように感じられた。
「もしかしたら今日はここで野宿になるかもな」
同じように空を見上げながら、往人どのがそう言った。
「もう少し雨に濡れずに済むところがあれば良かったのにね。それに、服はびしょびしょのままだし」
「贅沢を言うな」
そう言って往人さまは隣にいた観鈴さまの頭を軽く小突いた。
「イタイ…どうして頭、叩くかな…」
不満そうに呟いた後に、観鈴さまはふと何かを思い出したような表情を見せた。
「ところで、さっき往人どのが落とした人形みたいなのは何だったの?」
「…何のことだ?」
往人さまの表情は傍目から見ても引きつっているのが分かるような状態で、それは往人さまが明らかに動揺していることを物語っていた。
「見せて欲しいな、さっきの人形」
観鈴さまは往人さまに向かって無邪気な笑顔を見せた。
「…嫌だ」
期待のまなざしを拒むかのようにそっぽを向き、あくまでも白を切ろうとする様子の往人さま。
「見せて欲しいな」
「嫌だ」
このままだといつまで経っても押問答が続きそうだったので、往人さまの人形に興味を持った私は一つ行動を起こしてみることにした。
気配を気付かれぬよう、往人さまの背後にさっと回り込む。
「?!」
私の行動に往人さまが気付いたようだったが、残念ながらもう遅い。
「…こちょこちょこちょ」
「うわっ、や、やめろっ、み、美凪っ!」
さすがの往人さまも脇をくすぐられては堪らないのか、声を出しながら暴れ始めた。
その動きに、往人さまの懐から先程の人形がまた落っこちてきた。
「わーい。美凪、取ったよ」
その人形を拾い上げ、高らかに宣言する観鈴さま。
「こらっ、返せっ!」
はしゃぐ観鈴さまに向かって往人さまは飛びつこうとしたが、すんでの所でそれを私が後ろから引き止めた。
「…って、邪魔をするな、美凪!」
まるで大事なおもちゃを取られた子供のように騒ぐ往人さまの様子が面白くて、私は往人さまの腰に手を回したまま、一生懸命引き止め続けた。
その間に、観鈴さまは手にした人形を隈無く眺め始めた。
「うーん、なんかぼろぼろ…」
そして一通り観察し終えると、観鈴さまはその人形が期待外れだったかのように少し眉をひそめた。
「うおりゃぁぁーっ!」
「わっ!」
往人さまは気合いの入った一声と共に私を振り退けると、電光石火の如く観鈴さまの手から人形を奪い返した。
「ふうっ、まったくお前らは…」
冷や汗を拭うような仕草をしながら、往人さまは私達に向かって怒っているような呆れているような視線を送ってきた。
「もう少しゆっくり見せてくれても良いのに」
「別にゆっくり見るほどのものでもないだろ」
残念がる観鈴さまをよそに、往人さまはそそくさと人形を懐に仕舞い直した。
往人さまを捕まえているのに一生懸命だった私にはその人形は少しか見えなかったけど、その人形の生地や作りは、まるで幼い頃に村の祭りで何度か見た流し雛のように思えた。
「…愛玩用の人形と言うよりは…むしろ、流し雛のように見えたのですが?」
私達の代わりに病や災いを背負って海へと旅立っていく流し雛。
それは私達の幸せを願う行事だったけど、私達の災いを背負わされた人形達の幸せは一体どこにあるのだろう?
災いを引き受けるために生まれてきた彼らには、幸せというものは叶えられることのない願いでしかないのだろうか?
川を流れていく雛を見ながら、私は幼心にもそんな複雑な思いをしたものだった。
「さあな。これが元々何のための人形だったのかは知らないな」
きっぱりと言いきるその様子からして、往人さまもその人形の由来を本当に知らないようだった。
「ふーん。じゃあ、往人どのはどうしてそれを持ってるの?」
「…そんなのどうだっていいだろ」
少しためらったその言葉から、私は往人さまがこの人形を持つようになった経緯には何か面白そうなことが潜んでいるのではないかと感じ取った。
「教えて欲しいな」
「嫌だ」
「…じーっ」
「……」
なかなか口を開こうとしない往人さまに向かって、私と観鈴さまは期待を込めた視線を送り続けた。
そうやってしばらくの間沈黙が続いたが、その沈黙についに耐えかねたのか、往人さまは小さな溜息をついた。
「…はぁ…話すしかないのかよ」
「…はい…話すしかないですね」
前髪を軽くかきむしっている往人さまに向けて、私は笑顔でそう言った。
「うん。わたしたち、友達だからね」
それに乗じて観鈴さまも笑顔で催促。
「そんなことを理由に人に脅迫する奴は友達なんて言わないんだよ」
「そうかな?」
「そうなんだよ」
「…でも、ちゃんと話してもらいますよ…その人形のこと」
このままだとまた二人の押し問答が始まりそうだったので、私は先に往人さまに釘を刺しておいた。
「嫌だと言ったら?」
その時は力づくでも取り返すぞと言わんばかりに、往人さまは挑発的な視線を送ってきた。
もちろん力では私に勝ち目はないので、私は背に隠し持っていた切り札を往人さまの前に突き出した。
「…これをもらっちゃいます」
私が突き出したのは立派な作りの太刀。
そう、往人さまがいつも腰に差している刀だ。
先程往人さまを引き止めていたときにこっそりと抜いておいたのだ。
「何っ?! いつの間に取ってたんだ!」
「…えっへん」
焦る往人さまに見せつけるように、私は控えめに胸を張った。
「きっと美凪は立派な泥棒さんになれるね」
「それは褒め言葉になってないと思うぞ…」
素直に感心する観鈴さまに、往人さまは呆れながら突っ込みを入れた。
「…はぁ。分かったから、取り敢えずそれを返せ」
「…往人さまがちゃんと話をしてからです」
私の意地悪な提案に不満げな表情を見せたものの、往人さまはいくつかぶつぶつと不満を漏らした後にが仕方ないと言わんばかりの様子で口を開いた。
「俺の母親はもういないことは前に話したよな」
そう言いつつ、一度は仕舞った人形を再び懐から取り出した。
「この人形はその母親の形見だ。…まぁ、形見と言っても俺の母親がこんなものを持っていた記憶なんて全然無いんだけどな」
往人さまが懐かしそうに話す様子から、この人形が往人さまにとって大切な思い出の品であることぐらいは直ぐに察しが付いた。
「ふーん、そうなんだ。でも、形見なら大切にしないとね」
「…はい、ぼろぼろです」
「…うるさい。俺が手にしたときにはもうこんな感じだったんだよ」
確かに初めからぼろぼろだったのかもしれないけど、往人さまだってさっき人形をぬかるみに落としていたぐらいなので、その人形が今のようになった原因のうちのいくつかには荷担しているのだろう。
「俺だって形見として持つんだったらもっとマシな物の方がよかったさ。まったく、大の男が人形をお守りのように持ち歩いているなんて自分でも笑えるけどな」
そんな自嘲気味の語りに、私の心が少し疼いた。
不格好な形見を今も大切に持ち続けている往人さま。
それは不幸な思い出を背負い続けている私の姿とどこか重なるものがあった。
「…それでもその人形を今まで持っていたのは…その人形に何か特別な思い入れがあるからですか?」
本当に往人さまに必要のない物だったら、今まで手元に残っているはずなど無いのだから。
「別に大した思い入れなんて無いが…まぁ、全くないわけでもないか」
往人さまは遠い昔の記憶を辿るかのように、手に持った人形を見つめた。
「幼かった時の俺は、母親と一緒に過ごした日々の証を何らかの形として残していたくて、この人形を持ち続けていたのかもな。母親と過ごしていた記憶なんてほとんど覚えちゃいないが、あの頃の温かさだけは今でもぼんやりと覚えてる気がするしな」
その言葉を聞いて、私は社殿を抜け出したときの往人さまの言葉を思い出した。
往人さまは私達と過ごしているうちに、一度は忘れてしまっていた“誰かと過ごすことの温かさ”を思い出したのだと言った。
往人さまにとってこの人形は母親と一緒にいた頃の思い出の欠片であり、私や観鈴さまとこうして一緒に過ごすことは、そんな幸せだった頃を思い出させることなのかもしれない。
誰だって幸せだった頃の思い出に帰りたいと願う心を持っているはずだから、そうやって今の生活に過去を重ねずにはいられないのかもしれない。
往人さまは私のそんな思考を読みとったのか、真面目な表情で私を見つめ直した。
「だからと言ってあの頃に戻りたいとか、そんなことを思ったりはしないからな。どうせ願ったって昔に戻ることなんてできないし、俺には未練を感じるほどの思いでも残ってないからな」
その言葉はまるで私を叱るっているようで、私は視線を落として答えることしかできなかった。
「まぁ、俺にとってこの人形は記念品みたいなものなんだろうな」
そんな予想もしなかった言葉に、私は顔を上げた。
「…記念品、ですか?」
「ああ。どうしてこれを持ち続けてるなんかなんてことに特に理由なんてないんだよ。ただ持っておきたいと思うから、こうやって持ってるだけだ」
往人さまの手元に残ったのは、母親と過ごした思い出の証。
でも私に残された思い出の証は、何一つ形として残っていなかった。
「…私には記念品と呼べるような物は…みちるを殺してしまった罪ぐらいしか残っていません…」
「美凪…」
心配そうに見つめる観鈴さまとは対照的に、往人さまの表情は少し険しくなった。
「俺や観鈴にはお前が持っているような家族との大切な思い出なんて無いから、お前の気持ちを理解できるなんて思ってないけどな…でも、やっぱりお前は考え過ぎなんじゃないのか?」
往人さまの遠慮のない言葉が、私の胸に刺さる。
「…私も…そう思います」
「だったら、落ち込んでないで前を見ろ。お前だって気付いてるだろ? 過去の思い出に執着したって仕方ないことぐらい。お前がどれくらい悩もうと、過去は何一つ変わらないってな」
そう。過去はどれくらい後悔しても、どれくらい努力しても何一つ変えることはできない。
だからといって、家族の死を、みちるの死を、私は黙って受け入れることができなかった。
できないと思っていた。
「…でも、私は自分の罪を償わないわけにはいかないんです。…そう考えていないと、私はいつか家族が死んでしまったことを悲しく思わなくなるんじゃないかって、そう思うんです…」
人は思い出を忘れずにはいられない。
それが幸せな思い出であっても、不幸な思い出であっても。
思い出が薄れていくことを悲しいと思うこともあるけど、もしかしたらそれは人にとって今を生きるためには必要なことなのかもしれない。
いつまでも思い出の中に生きていたのでは、今を生きようとする気力が湧いてくることもないのかもしれないから。
でも私にとっての思い出は家族と過ごした日々の証であり、妹を犠牲にして生き延びた私への戒めでもあった。
だからこそ、思い出が薄れていくことが怖かった。
薄れさせないために、家族が死んだという悲しみの中にいつまでも身を投じていなければならないと考えていた。
でも…結局はどうだったのだろう。
それが思い出を大切にすることに本当に繋がっていたのだろうか?
「わたしは、悲しい思い出をいつも悲しむ必要はないと思う。昨日も言ったけど、それはきっと美凪の家族も願ってないんじゃないかな。それに、わたしたちだって美凪が悲しそうにしているのを見るのは嫌」
観鈴さまの優しい表情に、私の心は少し救われたような気がした。
「観鈴の言う通りだな。それに、お前は俺達と一緒に過ごしたくて社殿から抜け出そうと思ったんだろ? だったら、今ある幸せをもっと大切にするべきなんじゃないのか?」
「…はい…往人さまの言う通りなんでしょうね。…私がいくら罪の償いをしようと思っても、それはただの自己満足にしかならなくて…本当にしなくてはいけないのは、往人さまや観鈴さまといる今を一生懸命過ごすことだって分かってるつもりなのに…」
「だったら大丈夫。美凪がちゃんと分かってるなら、後は時間が解決してくれる。だから、焦らなくてもいい」
「ああ。美凪、こいつを見てみろ」
往人さまは観鈴さまの顔をびしっと指差した。
「なんにも考えてないから、いつも幸せそうな顔をしてるだろ?」
「往人どの、ひどい。わたしだってちゃんと悩んだりする」
「そういうわけだから、お前も深く考えなくていいんだよ」
「が、がお…無視された」
二人のちぐはぐなやり取りがおかしくて、私は思わず微笑んだ。
「思い出は思い出として胸の中に取っておけばいいんだよ。無理にこだわる必要もないし、完全に忘れる去る必要もない。思い出したいときに思い出せばいい、ただそれだけのものなんだよ。…まあ、大して思い出なんて覚えてない俺が言っても説得力はないけどな…」
「…いえ、そんなことはありません。…それに、覚えていても辛いだけのこともありますから」
思い出には辛いこともある。でも…
「でも、覚えていて良かったと思うこともあるんだよね?」
「…はい…たくさんあります。…だから、私は家族と過ごした思い出を忘れたくありませんでした。…でも、思い出を忘れないようにすることは、思い出の中に生きることとは違ってたんです。…そんなことはずっと前から気付いていたはずなんです。…でも私は観鈴さまにみちるの面影を重ねてしまうことに焦ってしまって…笑顔を忘れて、大切な今を見失っていました。…私の幸せは、今も側にあるということを」
「うん、だから美凪は笑ってて。きっと美凪が幸せになることがみんなの幸せになるから」
「…はい」
思い出はとても大切だけど、そこに帰ることは出来ない。
私達は今を生きていて、目の前の現実の中を羽ばたくことしかできない。
でも、思い出は私が過ごしてきた軌跡としていつも心の中にある。
かつて羽ばたいたあの空を今はもう飛ぶことは出来ないけど、私の翼は今でもその時受けた風をしっかりと覚えている。
そして今、私は新しい空を見上げていた。
その先には私を空へと導く2羽の鳥。
飛べない翼に必要だったものは、明日を目指す勇気だった。
翼に残された思い出は足かせなんかじゃなくて、高みを目指すために背中を押してくれるお守りだった。
それに、疲れたときには翼を休めればいい。
翼があるからといって、羽ばたき続ける必要はないのだから。
飛ぶことを覚えた翼を広げれば、いつだって大空に舞い上がることが出来るはずだから。
「あっ、雨が止んだよ」
観鈴さまの声の先にあった空はまだ厚い雨雲に覆われていたけど、その隙間からは夕焼けに染まり始めた空が顔を覗かせていた。
私の心を覆う重い雲もまだしばらくの間は晴れそうにはなかったけど、その隙間からは一筋の光が差し始めているような気がした。
雨はいつか止むものだ。
そしてまた降り始めることもあるのだろう。
でも、晴れ間には笑顔を絶やさずにいたい。
私が観鈴さまや往人さまの笑顔を見ていたいと願うように、私の笑顔が、幸せが、二人の幸せでもあると分かったから。
だから私は幸せになろう。
幸せになって、もっともっと二人を幸せにしていけるように努力していこう。
それが私の、今はもういなくなってしまった家族に対して出来る、ただ一つのことのはずだから。
**************
何度も繰り返される夢。
終わりのない夢。
でも、夢の中で別の道を選べたとしたら…その先には何が待っているのだろう?
「…おねえちゃん…笑って…くれるかな?」
「そんな、笑える訳ないよ」
「…おねえちゃんは…ずっと…笑ってて。…じゃないと…みちる…悲しいよ…」
「そんなこと言われても、私…」
笑えないよ、と言いたかった。
でもここで笑ってあげないと、みちるの最後の光景が悲しいもので終わってしまう。
私に出来ることは…みちるのお姉ちゃんとして最後にしてあげられることは…。
目を瞑り、強く涙を拭った。
もう泣かないように、強く、しっかりと。
そして私は…笑った。
とても変な笑顔だったかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。
「…私、笑えてるかな?」
目を開けると、いつもお手玉をしていた時と変わらない、どこも怪我なんかしていないみちるが私の前に立っていた。
「うん、ちゃんと笑えてるよ」
「…ごめんね、みちる。…私、こんなにもみちるを待たせちゃって」
「いいんだよ。おねえちゃんが気付いてくれたなら、みちるはそれで嬉しいよ」
「…うん」
私は穏やかな表情で返事をした。
本当はもっと言いたいことがあるのに、みちるの元気な笑顔を見ているせいか、たったそれだけしか言えなかった。
「おねえちゃんが幸せでいることは、みちるやおとうさんやおかあさんの願いだから。そして、おねえちゃんの周りにいる人達の願いだから。それだけは忘れないで」
「…うん」
私の返事を聞いた後、みちるは不意に元気なく俯いた。
「本当はおねえちゃんに罪の意識なんか持ってもらいたくないけど、でもおねえちゃんはみちるのお願いは聞いてくれないよね?」
みちるの辛そうな表情が私の心を打った。
その言葉に甘えたいと思った。
でも私には、けっして強くなんか無い私には、その言葉に甘えるだけの自信がなかった。
「…ごめんね、みちる。…これだけは私のけじめだから、絶対にやり遂げたいんだ」
心のどこかに罪の意識があるからこそ、誰かのために頑張りたいと願うことだってある。
辛い思いをしたことがあるからこそ、優しくなれることだってある。
私はそれをこれからも大切にしていきたいと思っていた。
「んに…ちょっと残念だけど、おねえちゃんが決めたことだから仕方ないよね」
こんな時はみちるの頭を優しく撫でてあげたかった。
でも私とみちるの間にまたがる空間が、既に止まってしまった時間にいる者と、今もまだ進み続けている時間にいる者の、超えてはならない一線を物語っていた。
「…心配しないで、みちる。…私、幸せになるから」
だから私は精一杯の笑顔で、優しく穏やかにそう呼びかけた。
「…そして、周りの人達も幸せにしてみせるから」
その言葉を聞いてみちるは静かに顔を上げた。
「うん。おねえちゃんなら、きっとできるよ。みちるが保証してあげる」
「…ありがとう。…私、頑張るね」
気を抜けば今にも涙が溢れてきそうだった。
だって、これが本当の意味でのみちるとの最後の別れになることが分かっていたから。
「…だから…」
込み上げてくるものを必死に抑えながら、私は静かに微笑んだ。
「…さよなら、みちる。…私、これからも大切な思い出を作っていくけど、みちるやお父さんやお母さんとの思い出は絶対に忘れないよ」
本当に長い間かかったけど、私はやっとこの言葉を言えた。
「うん。みちるたちもおねえちゃんのこと絶対に忘れないよ」
きっとみちるもずっとこの言葉と笑顔を待ち続けていたのだろう。
満足そうなみちるの笑顔が、それを物語っていた。
「だから…」
ずっと笑顔のままでいてくれたみちる。
でも別れは誰にとっても辛いことに変わりはなくて、みちるの目の端には光るものがあった。
それでもみちるは、そして私は、お互いに笑顔を絶やさずにいた。
だって、別れを悲しいもので終わらせたくなかったから。
思い出はいつだって温かなものであり続けて欲しいから。
「…ばいばい、おねえちゃん」
精一杯の笑顔と共に、みちるの頬に一筋の涙が流れた。
**************
気が付けば私は泣いていた。
何か大切な夢を見ていた気がするのに、目が覚めてしまった今ではそれを思い出すことができなくて…でも、なんとなく前よりも軽く感じられる私の心が、その夢がとても大切なものだったということを私に教えていた。
私は半身を起こし、涙をぬぐった。
曇りが晴れた私の視界に、いくつもの小さな輝きが映った。
夕方に見たあの厚い雲はもうどこかへ行ってしまったようで、そこには自分たちの空を取り戻した星達が淡い光を放っていた。
東の空はそろそろ闇を拭い捨て始めたところで、じきに星達の輝きも見えなくなってしまうだろう。
でも、一昨日の夜には私を冷ややかに見つめているだけのように感じられた星達は、まるで夜明け前に残った最後の力を振り絞って私に声援を送ってくれているかのように感じられた。
そして私はふと、幼いころに聞いた父の言葉を思い出した。
『星はね、私達が強く願えばその願いを叶えてくれるんだ。だから美凪、星に願いをしてごらん。美凪が強く想えばきっと叶えてくれるから』
私の両脇には穏やかに眠る二人の寝顔。
その安らかな表情に私は静かに微笑むと、星空に向かって手を合わせた。
そこにはもう迷いはなかった。
願いは、いつも幸せなものであって欲しいから。
だから私は祈った。
私達がいつまでも幸せに笑っていられますように、と。
−11話に続く−
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りきおです。久々にいただきました。
ようやく美凪が吹っ切れたみたい(まだ完全では無いでしょうけど)ですね。個人的には、ラストのみちるが出てきたところがツボでした。
Dream編の要素を生かしつつ、Summer編を展開させているのが上手いなあ、と思って読んでました。
次あたりからは、追っ手が追いついたりとか、緊迫した展開になるんでしょうか? まだまだ続きそうですが、個人的にも面白くなってきましたw
感想などあれば、
「Weba拍手」「SS投票ページ」
などへ! ひでやんさんにお伝えしますので。
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