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474:クラヤミ

作:◆7Xmruv2jXQ

 小屋の中には暗闇が立ち込めている。
 死体の冷めたさ――空虚と痛みを孕んだ暗闇だ。
 まるで霊廟のようなそこには二つの影。
 白と黒、対極の色をまとった少女が二人。
 白い少女は闇に押しつぶされ、黒い少女は闇に溶け込んでいた。
 しずくと茉衣子だ。
 茉衣子はデイパックを枕代わりに床に横たわり、眠りに沈んでいる。
 一方、しずくはその枕元に座り込み、じっと茉衣子の顔を見つめていた。 
「……茉衣子さん」
 か細い囁きとともに、しずくの指先がそっと茉衣子の前髪に分け入った。湿り気を帯びた前髪を剥がし、彼女の表情を露わにする。
 茉衣子の寝顔は穏やかだった。
 体からは力が抜けていて、規則正しく寝息を立てている。
 彼女の容態を見て、しずくは弱々しい笑みをつくった。
 選んでいる余裕などなかったとは言え、小屋の環境はお世辞にも快適とは言えない。
 腐敗した床と壁。室内にはが錆びたまま捨て置かれた工具らしきものの群れ。備え付けられた棚には埃がぶ厚い層を形成している。
 まともに使えそうなのは、中央に放置されたロッキングチェアぐらいのものだろう。
 廃屋も同然、辛うじて雨風を凌げるという程度のものでしかない。
 そんな場所では暖房施設など望むべくもない。
 仕方なく自分の服の袖を破り、水を絞ってタオル代わりにしたのだが、少しは意味があったようだ。
 心配していた体温の低下は、この分ならなんとかなるかもしれない。
 安堵とともにしずくは茉衣子から視線を外した。
 しずくの視覚センサーは闇を見通せる。
 なのに、世界が暗い。この小屋に充満している闇の濃さに胸の奥がカタく冷えた。
 一秒が一分に。
 一分が一時間に。
 小屋の片隅で膝を抱えていると、時間の流れさえも闇に堰きとめられて停止しているような錯覚を覚える。
 聞こえるのは目の前にいる少女の呼吸音と、遠くの雨音。
 二つのリズムに体を預けながら、しずくは無為な時間に耐えた。
 持て余した時間は自分を傷つける。止めることのできないない、緩慢な自傷行為だ。

 焼きついた映像が再生される。
 叫ぶ宮野。振り下ろされる刃。
 赤い軌道。溢れ出す血液。
 ボールのように転がった――
 宮野の最後が、茉衣子の絶叫が、生々しく繰り返される。
 自分が助けを求めなければこんなことにはならなかっただろう。
 安易な希望に縋りついた弱さこそが罪。
 そう断ずることは容易い。
 しかし、例え罪であろうとも、どうしても誰かの助けが必要だった。
「かなめさん、どうなっただろ」
 ぽつりと、言葉が吐き出された。
 彼女は、殺されてしまったのだろうか。
 雨が降ったせいで日没がいつかはわからなかったが、もう過ぎている頃だろう。
 もっとも、教会の主にとっては全ては退屈凌ぎだったのだ。日没というリミットも考えるだけ無駄なのかもしれない。
 結局、教会では助けるどころか、姿を見ることすら叶わなかった。  
 宗介も未だ殺戮に身を委ねているのだろうか。
 別れたときの強い決意を固めた横顔を思い出す。
 己を切り捨て、かなめのために殺戮者になることを受け入れた横顔。
 冷たい雨の中、血に濡れたナイフを持って佇む宗介を想像して、しずくは身を震わせた。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 どこで間違えてしまったのだろう。
 いくら考えても、答えは出ない。
 殺戮が肯定されるこの島で、出会った時、かなめは自分の手を握ってくれた。
 そんなことは簡単だと言わんばかりに。
 ただ、その強さを救いたかっただけだったのに……。
「BBと、火乃香に会いたい……」
 呟いて、しずくが深く顔を伏せた。
 弱い本音が顔を覗かせる。一人で耐えるには、この闇は無慈悲に過ぎる。

『あー、ちょっといいか?』
 そんなしずくの心情を察したわけではないだろうが、声はすぐ傍から聞こえてきた。
 しずくの隣に並べられた自分の分のデイパックとラジオ、そしてエジプト十字架。
 声を発したのはエジプト十字架――エンブリオだった。
 慌てて顔を上げて十字架を手に取る。
 教会から飛び出した後、混乱するしずくに、ここに逃げ込むよう言ったのはエンブリオだった。
 茉衣子を抱えたまま、雨の中長距離を移動するのは不可能だったし、彼の提案は的確だったと言えるだろう。
 小屋に逃げ込んでからは沈黙を保っていたのだが――……
『おいおい、死にそうな面してるけど大丈夫なのか? ブルー入ってる場合じゃねーだろ』
「あっ、はい……大丈夫です。なんですか?」
『これからどーすんのかと思ってな。ずっとココにいるつもりなのか?』
「それは……」
 しずくはちらりと茉衣子を見た。
 周囲を満たす漆黒に、白い貌が霞んで見える。
 茉衣子はいつ頃目を覚ますだろうか。いや、例え目を覚ましたとしても大丈夫だろうか。
 あの教会で彼女が受けた衝撃がどれほどのものだったか、想像することすらできない。
 片翼をもがれる痛みなど、想像できるはずがない。
『あの黒い騎士、その内追って来るかもしれねーぜ』 
 エンブリオは正論を唱えた。
 この小屋は教会からほとんど離れていない。追っ手がかかる可能性は捨てきれない。
 追っ手の可能性を抜きにしても、茉衣子はきちんと暖がとれる場所に移したほうがいいだろう。
 タイミングは難しいが、移動は必要になる。
 しずくの思考を遮るように、エンブリオは言葉を続ける。
『だが、今まで来ないとこを見ると大丈夫なのかもしれねーな。その辺は五分だろう。
 逆に外に出て危ないヤツに見つかる可能性もある。
 今誰かに見つかるのはヤバイだろ? 隣のラジオはだんまりだし、お前さんも直ってない』
 しずくの右腕はまだ自己修復中だ。加えてその他機能の低下も激しい。
 エスカリボルグは置いてきてしまったし、戦闘手段は皆無だった。
 兵長も衝撃波の打ちすぎで気絶したきりだ。
 本人の言では数時間で目が覚めるそうだから、心配はいらないだろうが、それでも不安ではある。

「そうですね……」
 一息分、闇を吸う。
 エンブリオの言うことは一から十までもっともだ。
 動いても動かなくてもさほど危険度は変わらない。なら、どうするべきか。
 しずくの逡巡を読み取ったかのように、手の中のエジプト十字架はにやついた声音で言葉を繋げる。
『オレとしては、ここでオレを殺して欲しいんだけどな』
「それは駄目です!」
 間髪入れずにしずくは叫んでいた。
 その反応は予想していたようで、エンブリオがおどけて答える。
『けけ、そうかい。まあ、そうだろうな。
 ……しっかし、なんでオレの声が聞こえる連中は、どいつもこいつもオレを殺してくれねーのか』
 愚痴っぽく言うエンブリオを見て、しずくは軽く眉を寄せた。
 エンブリオの殺してくれ発言は今更のものなので気に病んでも仕方がない。
 聞いていて手気分がいいものでないのは確かだが。
 形容しがたい不快感を追い払って、この後のことに思考を向ける。
 元の世界では行動方針を決めることなどなかったためか、しずくにとってこの作業はなかなかに難しい。
「茉衣子さんが起きて、雨が止んだら、どこか別の場所に移動するつもりです。
 体を暖めたほうがいいでしょうし。学校とか、あとは……」
『……商店街とかな。しかし茉衣子はいつ起きるんだ? 精神的にはかなりヤバイ状態――』
 エンブリオが言葉を止め。
 しずくが目を見開いた。
 
 *   *   *

 目の前の空気が動いた。
 靴の裏側が弱く床板を噛み、膝が曲がる。
 腕を地面に押し当てて、肘から順に滑らかに剥がしていく。
 背中が浮いた。
 重力に逆らう動き。
 ゆっくりと、闇を掻き混ぜるように、細い体が起き上がる。
 湿った髪がパラパラと音をたてて解けた。
 黒い服、黒い髪が混ざることで、闇がいっそう密度を増す。
 ほおー……と長い息が靡き。
 放置されたロッキングチェアが、暗闇の重さにキィィと軋んだ。
 光明寺茉衣子は、起き上がった態勢のまま停止した。
 半身を起こしたまま、俯いて顔を隠している。
 その様子は、なにかを反芻しているようでもあった。
「茉衣子さん!」
 思わずしずくが喜びの声を上げた。
 茉衣子の正面に回りこんで高さを合わせ、出来るだけ声を落ち着けようとして、それでも大きくなった声で語りかける。
「体、大丈夫ですか? 痛いとか寒いとかありませんか? 
 ここには暖房設備がないので、移動しないとどうしようもないんですけど、大丈夫ですか?
 一応体は拭かせてもらったんですけど……あっ、すいません!
 起きたばっかりなのに、いろいろ言っちゃって。まだ落ち着いてませんよね」
 次々と繰り出されたしずくの言葉に、茉衣子は緩慢にだが反応を示した。
 白い繊手が、しずくの手に握られたエンブリオに伸びて、それを抜き取る。
「あっ、すいません。返しますね、エンブリオさん」
『よお、気分はどうだ?』
 茉衣子は言葉を返さなかった。
 エンブリオは握ったまま、茉衣子が顔を上げて、 

「アナタ、ガ、コナ、ケレバ」
 
 がつりと。
 鈍い音が、した。
 しずくはえっ、と音を漏らした。
 それは反射的な動作に過ぎない。意識は白く弾け飛んでいる。
 顔面に衝撃。
 びくんとしずくの体が痙攣する。
 指先が細かく振るえ、中腰だった膝が折れた。座り込みながらもその視線は茉衣子から外れない。いや、外せない。
 エジプト十字架が、しずくの右目に突き刺さっていた。
 レンズを貫き、視神経ネットワークへとその先端をめり込ませている。
 茉衣子が両手で握った十字架を一直線に突き出していた。
 避けることは出来なかった。
 避けるという発想さえ浮かばなかった。
 あまりに迅速な破壊に理解がまったく追いついていない。
『うおっ……おい、なんだ!?』
 焦ったようなエンブリオの声。
 しかし、茉衣子はまるで聞こえていないかのように、
「…………っ」
 その腕に、力を加えた。
 止まっていた十字架が、わずかに、ゆっくりと、確実に前進する。
 より致命的な部分へ先端が埋もれる。
 十字架が眼窩にこすれて嫌な音を立てた。
 しずくの左目が大きく見開かれた。眼球をこじ開けられる衝撃に、全身が一瞬で粟立つ。
「あっ、つ……あ、あ、あ……」
 力ない咆哮。
 少しずつ、少しずつ、十字架が押し込まれていく。

 しずくはなんとか後退しようとして、失敗した。
 後ろに下がれない。
 それで自分が壁と茉衣子に挟まれていると気づいた。
『おいおい、どうなってるんだ?』 
 混乱したエンブリオのぼやきはどちらに向けられたものだったのか。
 どちらにしろ、それは聞き入れるもののないまま闇に呑まれた。
 掠れた悲鳴は止まらない。
 まずい。
 しずくは背筋を這い登る悪寒を感じ、認めた。
 しずくの体は十分すぎる強度を持っているが、眼球部位まではそうはいかない。
 このままでは、十字架は取り返しのつかない位置にまで到達する。
 震える両手で、なんとか茉衣子の手首を掴んだ。
 掴み、抵抗しようとして――問いかけが、しずくの脳裏をよぎる。
 温度の感じられない疑問。
 心に刺さったわずかな棘。
 つまり、彼女の行為は、正当なものではないのか?
 直接の殺害者はあの騎士だが、宮野を死地へと導いたのは間違いなく自分なのだ。
 宮野が死んだ責任の一部は、自分にある。
 ならば、ここで茉衣子に殺されるのが正しくはないだろうか?
「そ、れは……」

 ……それは、違う。
 しずくは即答した。
 それは逃げだ。諦めて死んでしまうわけにはいかない。
 自分にはまだやるべきことが残ってる。
 倒れた人たちの分も、やらなければいけないことが、残っている。
 それに。
 もしここで殺されたら、目の前の少女に入った亀裂が決定的なものにしてしまう。
 そんな予感がある。
「だか、ら、私は、まだっ……!」 
 両の腕に力を込める。修復中の右腕が心配だ。純粋な押し合いに、軋むような均衡が築かれる。
 だが、負けない。しずくが決意を込めて、無事な左目を大きく開いた。
 その時。
 ぴたりと。
 しずくは。
 茉衣子の瞳を捕らえ。
 思わず、息を呑んだ。
「…………ぁ」
 そこには暗闇があった。
 この小屋に充満するものと同じ――空虚と痛みを孕んだ暗闇だ。
 あらゆる光を飲み込んで、逃がさない。
 出てくるものなど何もない漆黒。
 感情が干からびた後に残る真性の虚無。
 しずくが声にならない声を上げた。
 茉衣子の瞳にしずくは釘付けにされた。目を逸らせない。
 見てはいけないものを見てしまい、わけもわからず泣き出しそうだった。

「あなたが来なければ、班長は教会に行く必要などなかったのです」
 手首を強く掴まれたにも関わらず、茉衣子は顔を歪めもしなかった。
 ただただ、深く突き刺そうと全力を込めている。
 修復中の右腕が頼りない。今にも砕けてしまいそうな不安を覚える。
 しかし、地力の差か、十字架の先端が徐々に引き抜かれ始めた。ミリ単位で後退していく。
 先端が動くたびに、眼窩を擦る衝撃がしずくを苛んだ。
「あなたが来なければ班長が交渉をする必要などなかったのです」
「茉衣子、さん……」
 茉衣子の瞳には一切の感情が見えない。
 固く、脆く、薄く、厚い殻に覆われていて、その奥に渦巻くものは見えない。
 しずくは歯を食いしばって力の限り抗った。負けるわけにはいかない。
 右腕が不安定な音を立てた。限界が近い。
 だがそれは茉衣子も同じはずだ。あまりに強く掴まれたために、茉衣子の手は蒼白になっていた。
『最悪だぜ。殺してくれとは言ったが、こりゃああんあまりじゃねーか?』
 状況を把握したらしいエンブリオの声が体の内から聞こえる。
 その感覚に、ぞっとした。
「あなたが来なければ班長が力を試される必要などなかったのです」
 茉衣子を少しずつだが押し戻す。
 片方だけの視界は、茉衣子の瞳に吸いつけられていて、その表情まではわからない。
 茉衣子は闇と同化している。
 しずくが全霊を込めて茉衣子の腕を握った。
 圧迫に耐え切れず、茉衣子の指がエンブリオから離れる。十の指が花開くように宙を泳ぐ。
 十字架は三分の一ほど眼窩に埋まった状態。
 短い均衡が崩れた。

「あなたが来なければ、班長があの騎士と戦う必要などなかったのです」
 機を逃すまいとしずくが動いた。
 茉衣子を一度無力化する。まずは話せる状態に持っていく。そこがスタートラインだ。
 どんな罵倒を浴びせられても構わない。どんな詰り誹りも当然のこと。
 茉衣子の片翼が失われたのは、自分のせいでもある。
 ただ、精一杯の言葉で自分の気持ちを伝えるだけだ。
 しずくは逸った。気持ちが先走ってしまった。
 茉衣子を振り払おうとして――ようやく、茉衣子の罠に気づいた。
 細い指先に灯った蛍火。
 茉衣子のEMP能力。想念体以外には無力な力。それは螺旋を描き、至近距離から撃ち込まれた。
 狙いは――エンブリオが突き刺さる、しずくの右目。
 指を離したのはフェイク。視界を潰すための布石。
 超近距離からの不意打ちをしずくがかわせるはずもない。
 十字架が突き刺さるその場所で淡い蛍火が輝きを増して、弾けた。
 茉衣子を振り払いながらも、眩い光にしずくの視界が真っ白に染まる。
「茉衣子さん!?」
 茉衣子の姿を見失う。
 視覚センサーが光量をカット。即座に復帰する。
 だが、遅い。
『やめろ!』
 今まで一番大きなエンブリオの声。
 回復した視界に映ったのは、古びたラジオを振りかぶる、黒衣の少女。
 消えない後悔や、固めた決意や、蒼い片翼への思いを打ち砕くように。
「あなたが来なければ、班長が死ぬ必要などなかったのです!」
 ラジオが十字架を強打し、十字架がしずくの内部を蹂躙する。
 あっ……、と小さな音を零し。
 右目に致命的な打撃を受けて、しずくは昏い世界へと落ちていった。

 *   *   *

 小屋の中には暗闇が立ち込めている。
 死者の冷たさすら失った――真空を思わせる暗闇だ。
 まるで霊廟のようなそこには二つの影。
 白と黒、対極の色をまとった少女が二人。
 白い少女は闇に押しつぶされ、黒い少女は闇に溶け込んでいた。
 黒い少女は床に座り込んだまま動かなかった。
 その視線は闇を鏡にし、ただ己へと向けられている。
 彼女の視界を満たす闇はあまりに暗く――彼女の理性を圧殺していた。
 黒い少女の傍らには白い少女の亡骸がある。
 仰向けに倒れた細い体。力なく広げられた四肢。
 右目には、深く、十字架が突き刺さっている。
 十字架は多少形を歪にしながらも、砕けることなく、しっかりと自身を保っていた。
 深く埋没したその姿は、死者を弔う墓標のようでもあり、吸血鬼を滅ぼす杭のようでもある。
『……何があった?』
 声は闇の底、放り出されたラジオから聞こえた。 
 眼球に突き立ったままの十字架が答えた。
『――見ての通りだ』
 吐き捨てるような言葉を最後に、闇は閉じた。


【024 しずく 死亡】
【残り 58人】    

【E-5/小屋内部/1日目・17:30頃】

【光明寺茉衣子】
[状態]:呆然自失。腹部に打撲(行動に支障はきたさない程度)。疲労。やや体温低下。生乾き。
    精神的に相当なダメージ。両手と服の一部に血が付着。
[装備]:なし
[道具]:デイパック(支給品一式・パン6食分・水2000ml)
[思考]:不明

※兵長のラジオ、デイパック(支給品一式・パン6食分・水2000ml)二つが茉衣子の足元に放置。
※エンブリオはしずくに突き立ったままです。おまけにちょっと歪む。

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