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第536話:No Mercy 1:Dead's Calling

作:◆l8jfhXC/BA

 蛇口から流れて指を滑る水は、やけに冷たく感じられた。
 すくい上げて口に含むと、胃液の味と粘りけが少しは薄らぐ。
 何回か口をすすいだ後に蛇口を閉めると、千絵は大きく息をついた。
「……何をやっているのかしら、私」
 落ち着いて考えられるようになったとは言っても、気を抜けばすぐにこれだ。
 リナと保胤の会話中に頻出する“殺す”という単語に耐えきれなくなったのは、口論が始まって間もなくだった。
(全力で逃げろ、か……今の私には、難しすぎるみたい)
 数時間前に欺こうとした人間から、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
 絶対に足を止めてはいけないことはわかっていた。
 しかし理解したところでどうこうできるほど、人殺しの罪は軽くない。
 少しでも償おうと手伝っている刻印研究も、知識がない自分が役に立っているのかは疑問だった。
「……だめ」
 沈む思考を必死に否定する。
 負けてはいけない。挫けてはいけない。諦めることなど許されるものか。
 進むことで過去の自分が傷つけたものが少しでも救われるのならば、その過去を投げ捨ててでも動かなければならない。
 もう一度、千絵は大きく息をする。
 胸中で精一杯自分を叱咤した後、正面は向かずに頬を緩めて笑みを作ってみる。
 多少はいびつでも、暗いまま戻るよりはましだ。
「行きましょう」
 はっきりと声が出せたことに安堵を覚えながら、千絵は個室のドアノブに手を掛ける。
 悲鳴が響いたのは、その直後だった。


                            ○


「ぃっ──ああああああああああっ!!」
 腿に刃が突き刺さり、志摩子の絶叫が響き渡った。
 刃の合間から鮮血がはね、床と肌と制服に赤黒い染みを作っていく。
 しかしそれを気にも留めず、茉衣子はすぐに刃を抜くと、今度はそれを左腿に突き刺した。
「あぁあぁぁ、ぃぎっ、あぁぁあああ!」
「何してんのよあんたっ!!」
 リナが叫び駆け、その隣で保胤が符を取り出して足を踏み出し──そのさらに先を、セルティの影が滑った。
 ライダースーツから溢れた黒が、包み込むように茉衣子へと迫る。
「動かないでください」
 それを阻んだのは、蛍火のような無数の光球だった。
 茉衣子の指から放たれると、一直線に影へと走り──直後、大爆発を起こした。
「──っ!」
 激しい衝撃が室内を包み、黒がはぜ飛ぶ。
 よろめくセルティに、さらに爆風を越えて走る一つが迫り、その腕を掠めた。
「セルティさん!」
 保胤の叫びは爆音に遮られた。
 バランスを崩したセルティが床に倒れ込む。
 光球を受けた部分の影は消え、白い肌が覗いていた。
「こちらの用件は、エンブリオの速やかな返却です」
 暴れる志摩子の両腕を、茉衣子はさらに穿つ。
「ああああ、ぁあああぁあぁぁあああ!」
 悲鳴を無視して刃を左腕に放置すると、踏みとどまる面々を見回して、
「それ以外の行動は、すべて彼女を傷つけるものと理解してください」
「あああ、ぐ、ぁやめ、やめて、ぁあああああああ」
「特殊能力の使用と疑わしき行為をした場合、即座に殺します」
「いたい、いたい痛い痛い、んですやめやめて痛いぁああああ」
「少しお黙りなさい。これでは聞こえにくいでしょう」
「いたいからっぁああああ…………っぁ」
 腕から刃が無造作に抜かれ、とす、と志摩子の喉元の床に短剣が刺さると、悲鳴は唐突に終わった。
 途端に、重い沈黙が部屋を満たす。
 誰も意識する暇がなかった血の臭いが、今更鼻につき始めた。
(なんてことに……!)
 倒れたセルティを抱き起こしながら、保胤は胸中で己の過失を呪った。
 志摩子への疑念に捕われすぎていなければ、茉衣子の亀裂の大きさを見逃すことも、短剣を部屋に放置することもなかっただろう。
「あんた、自分が何やってるのかわかってんの!?」
「あなたの仲間を人質に取っていますが何か?」
 声を荒げるリナとは対照的に、茉衣子はあくまで平然としていた。
 まるでこれが、当然の帰結だと言わんばかりに。
「無理な要求ではありません。少なくとも、五人分の首よりは安いでしょう」
「五人分の……首? それって千鳥かなめの……」
「ええ、そうです。
知っていると言うことは、やはりあなた方もあの騎士と同じなのですね」
 言って、茉衣子はわずかに眼光を鋭くする。
 かなめにあの騎士、と言われて思い当たるのは、志摩子がこの島で最初に出会った男だ。
 彼は美姫に心を支配され、彼女に従えられてしまったが、数時間前に志摩子と再会して正気に戻ったと聞いた。
 しかし、その間に彼は人を──
「あなたは、操られたアシュラムさんが殺した、宮野さんという方の……!?」
「ええ。千鳥かなめを助けるために助けを求めたあの子の助けに応じて班長は死にました」
 判明したのは、最悪の偶然の一致だった。
「……でも、それでなんであたし達が、あいつの下僕になるのよ!」
「その下僕のことを親しそうに話すのは、下僕の証ではありませんか?」
「だからあいつは操られて──」
「操られて親しくなった? わざわざ認めるなんて殊勝ですこと」
「ちが、そっちじゃ──」
「あからさまな失言を取り消すのは見苦しいですわ。
あの女は下僕の人選を間違えたようですね。わたくしにとっては幸運なことです」
 温度のない挑発めいた言葉に、リナは口を噤む。
 何を言っても、彼女の思い違いを悪化させるだけだ。誤解を解くのは至難の業だった。

「……ちが、うんです、私は、ただ……」
 と。
 考えあぐねていると、茉衣子の側から、嗚咽混じりの否定の声が響いた。
「ほんとに、アシュラム、さんは……悪くないんです……あやつられた、のもあるけど、彼は、苦しかっただけで……」
 四肢を穿たれ動けない志摩子は、それでも視線だけを茉衣子に向けていた。
 叫びすぎで枯れた喉から、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「あのひと、も、かわいそうな、だけなんです、そう、私は……思ったんです。
私が自然に、感じた……感情なんです。誰かに押し付けられ、たものじゃない……」
「志摩子さん……」
 彼女の瞳からは涙が溢れていた。身体は小刻みに震え、四肢からは流れる血は止まらない。
 どんなに傷つけられても、彼女は他者への思いを捨てなかった。
(……彼女は、恨んでなんかいない)
 その瞬間、保胤の疑念が自身への恥に変わった。
 志摩子は確かに、死者の言葉を聞けるのかもしれない。それで保胤の嘘を見抜いたかもしれない。
 しかし、彼女は保胤を恨んでなどいない。そんな感情を持てる人間ではない。
 あの彼女の言葉は、やはり完全に美姫に向けられたものだった。
 そしてその彼女にすら、志摩子は慈悲を与えようとしている。
「彼らを……にく、むななんて、いえません、でも、……でも理解してあげて、ください……」
 そう言って、志摩子は右の手首をゆっくりと持ち上げた。
 何かを掴むように、茉衣子へと手を伸ばす。
 その指が、短剣を持つ彼女の手に触れ、
「黙れと言っているでしょう」
 刃を振われ吹き飛んだ。
「ぃぎいいいいいいいっ!?」
「血が出すぎても困るので指にしましたが、次は手首ごと切りますよ?」
 一拍おいて切断された五指が血を吹き、志摩子の喉がふたたび震えた。
「彼らが哀れまれるような人格だったとして、それが何になるのですか?
班長を殺したことには変わりありません。感情論で行為を正当化しないでください」
 反論する彼女の声には、何の感情も宿っていない。
 単に志摩子が無駄に喋ったから切った──本当に、ただそれだけらしい。

「話がかなり逸れましたね。
もう一度言います。こちらの要求は班長のエンブリオを引き渡すこと。
それと、わたくしを無事にこの巣から返すことも加えねばなりませんね。
対してこちらが支払うものはこの子の命。
制限時間はこの子が出血多量で亡くなるまでの間です。
残り……どれくらいでしょう? 残念ながらわたくしにその手の知識はありません」
 悲鳴を漏らし続ける志摩子に一瞬視線が向けられるが、すぐに戻された。
「“時間切れ”の場合、わたくしは全力でエンブリオの強奪を試みます。
先程の光球の威力をゆめゆめお忘れ無きよう。
こんな島の中ですから、平穏に終われるならその方がいいでしょう?」
 平穏とは程遠い状態の志摩子の喉元に、茉衣子はふたたび刃を突きつける。
 今度は皮膚にぎりぎり触れない程度の位置で、短剣を握った手を止めている。
 こちらが少しでも不審な行動を取れば、即座に志摩子は死ぬ。
(どうすれば……!)
 エンブリオを返せば、彼女はおそらく素直に志摩子を引き渡すだろう。
 多少手遅れでも彼女の怪我を治す方法はあったし、それが一番無難だ。
 しかしここで茉衣子を見逃せば、さらなる被害者が出ることは確実だ。
 疑心は疑心しか生まない。彼女がすべての善意を“操られている”と解釈すれば、悲劇が繰り返されるだけだ。
 何か方法はないかと、保胤は周囲を見回す。
 歯噛みするリナには茉衣子への怒りと、自分への悔恨があった。彼女のエンブリオに対する拘泥も、引き金の一つになっていた。
 臨也の表情は硬かったが、保胤自身よりは冷静に見えた。この状況をどう打開するか考えているのだろう。
 セルティに顔はない。だが身体を包む影が小刻みに揺らめいていることから、強い感情を抱いているのはわかった。
 と、気づく。
(……千絵さんは、どこに?)
 部屋のどこにも、彼女の姿がない。
 顔を洗いに行くと言って席をはずしてから、ずっと見ていなかった。
 もう一度視線を巡らせた後、ふと開いたままの扉の奥に視線を向け──思わず息を呑んだ。
 茉衣子の背後、薄暗い廊下の奥に、小さな人影が立ちすくんでいるのが見えた。





(何よこれっ!?)
 元いた部屋の惨状の衝撃に、千絵は震える身体を壁に押し付けることで耐えていた。
 せり上がる吐き気と悲鳴を、両手で蓋をして必死に抑える。
(だめ、思い出させないで……)
 正確には眼前の惨劇ではなく、脳裏によぎる過去の情景に、千絵は追いつめられていた。
 遠目にもはっきりと見える鮮やかな赤と、濃厚な臭い。
 それが奥底に押し込めた記憶を、まざまざと蘇らせようとしている。
「ぁ……」
 と、ちょうど扉の正面に立っていた保胤と目が合い、小さく声が漏れてしまった。
 しかし茉衣子が気づく様子はなく、思わず胸をなで下ろす。
 彼は一瞬驚きの色を見せたが、すぐに表情を消して目を逸らした。
 仲間が背後にいることがわかれば、その瞬間に志摩子の命は絶たれるだろう。
 今はまだ注意が前方にあり気づかれてないが、もし何かの拍子に後ろを向かれれば──
(……それなら、気づかれていない今なら、助けられる?)
 今更思い至り、心臓が大きく跳ねた。
 そう、まだ彼女は気づいていない。背後に注意を向ける仕草もまったくない。
 部屋の奥にいる保胤は、茉衣子に注意を向けながらも、こちらにそれとなく視線を送っていた。
 視線の意味は明白だった。ゆえに、ふたたび目があった瞬間大きく首を縦に振る。
 すると、彼はわずかに微笑した。
 千絵を頼り、かつ何かを頼らせる笑みだった。
 それに同じく笑みを返し、決意する。
(……行かないと)
 呼び起こされた過去は、未だに千絵を恐怖と罪悪感に縛り付けていた。
 だがそれに足を取られたままでは、過去ではない今このときに一人の少女の命が失われる。
(私が、やらないと……!)
 志摩子を助けるために、過去から逃げるために、千絵は最初の一歩を踏み締めた。



 千絵の決意を確認すると、保胤も覚悟を決めて口を開いた。
「茉衣子さん。一つ、お話ししたいことがあります」
「あら、時間稼ぎなどこの子の命を削るだけですよ? 隠語めいた言葉を発しても殺しますが」
「宮野さんの残した言葉についてです」
「……え?」
 初めて茉衣子の表情に、感情──驚きらしきものが浮かんだ。
 それは、セルティ以外の他の仲間も同じだった。
「僕には死者の言葉を聞ける力があります。
少し前に、僕はあなたが作った墓を訪れ、彼の遺言を聞いてきました」
 死者の言葉を聞く力は、本当にある。
 しかし新たに緑地に作られた、宮野の墓はまだ見ていない。
 志摩子の疑念への対策や放送の計画などに没頭して、そもそも外に出るという考えさえ思いつかなかった。
 だからこれは、大嘘だ。
 メフィストづてに聞いたアシュラムの顛末と、途中で中断されたエンブリオの話。
 それに、脅迫が始まってから茉衣子が漏らしたいくつかの言葉。
 それらから推測して、会話を繋げ、千絵の援護を待つ。
 ただそれだけの、綱渡りの作戦だ。
(ごめんなさい……あなたの大切な方を止めるために、僕はひどい嘘をつきます)
 外の緑地で眠る、彼女の仲間に胸中で謝罪する。
 死者の遺言の捏造など、その遺志の侮辱に等しい。
 先程シズの遺言の一部を隠したときも、情報を言わなかっただけで、嘘はつかなかった。
 もちろん今では、その行為もとても後悔している。
 悔いた矢先からこんなはったりをすることにも、強い罪悪感があった。
 それでも。
(僕は、これ以上誰も失いたくありません!)



(何だと……!?)
 保胤の唐突な発言に、セルティは感情を外に出せぬまま驚愕した。
 彼は茉衣子がここに運ばれてから、一度も外には出ていない。
 少なくとも臨也がマンションを訪れるまでは──静雄の死を知るまでは、ずっと同じ部屋にいたと確信出来る。
 その後も“計画”の議論などがあったため、彼が宮野という少年の声を聞くことは出来ないはずだ。
 茉衣子を説得するためだとしても、少ない情報から彼女の望む遺言を捏造するのは不可能だ。
(彼女の言うように時間稼ぎなのか? こんな状況で何のために?)
 志摩子の状態は、一刻を争う。
 瀕死の状態から助ける方法はあったが、その前に出血多量で死んでしまえば終わりだ。
(それに……何だったんだ、あの表情は?)
 嘘をつく前に彼が一瞬笑みを浮かべたのを、セルティは見ていた。
 いつも通りの柔和な笑顔だった。この状況ではまったく異質の。

『彼を通して伝えられた遺言の内容は、彼以外には証明出来ない。
その中に不都合な情報があれば、彼はそれを揉み消したり捏造することが出来る』
『その行動の中にある悪意を見逃していることはないかい?』

(まさか……)
 臨也の言葉を思い出し、湧いた疑問が疑念へと変わろうとする。
 保胤とは開始当初からの付き合いだ。その人柄はよく理解している、つもりだ。
 しかし一瞬浮かんだ推測が、頭にこびりついて離れない。
 ──無意味な時間稼ぎをすれば志摩子は死ぬ。つまり、
(保胤は志摩子を……見殺しに、するつもりなのか──?)



 保胤の発言に茉衣子はしばし沈黙した後、溜め息をついた。
「そんなその場しのぎの嘘をついて、何をしたいんですか?
あなたは先程わたくしとあの騎士の繋がりを知って、驚いていたではありませんか。
それこそ、今までわたくしの素性を知らなかった証拠でしょう」
「ええ。あなたとアシュラムさんとの関係は、あの時まで知りませんでした。
残念ながら、具体的に何があったかは聞けませんでしたので」
 出来るだけゆっくりと、保胤は言葉を紡ぐ。
 実際のところ、会話を出来るだけ引き延ばし、遺言を語る前にすべてが終わるのが一番いい。
 結局、千絵に期待するしかない。
「僕はここでは、あまり長い間魄と話せません。あ、魄と言うのは……」
「どうでもいいですわそんなこと。
ようするにあなたは、わたくしを説得したいのですね?
“こんなことをすれば班長が悲しむ”、と。──馬鹿馬鹿しい。
死者は何も感じません。わたくしは、わたくしが望んだことを行うのみです。
そこに班長の感情や意志は介在出来ませんもの」
「しかし、生前に伝えられた言葉は確かな遺言──遺志として、その伝えられた方に残るものです。
亡くなった方がより大切であるほど、そして言い残した時間がより死に近いほど、それは顕著なものとなるでしょう」
「…………、確かにそうですわね。
班長が最後に叫んでいたのは、あの騎士が操られていることでしたもの。
だからあなたがたの言葉も、まったく信じられないのでしょう」
 何を言っても、茉衣子は冷ややかな態度を崩さない。
 しかし彼女は、先程の志摩子のときのような過激な行動には出ていない。
 保胤が無駄口を叩くことを黙認している。“時間切れ”は、彼女にとっても不利な状況であるにもかかわらず。
 茉衣子は、保胤の嘘に食いついている。
 やはり彼女は知りたいのだ。彼が最後に伝えたかった言葉を。



 一歩一歩、ゆっくりと確実に茉衣子に近づきながら、千絵は保胤の言葉を聞いていた。
(物部くんは、誰かに何かを残せたのかしら……)
 ここで確実に信頼できる唯一の仲間は、再会できないままに死んでしまった。
 彼が最期に思うのは、恋人である姫木梓のことだろう。
 彼の遺言を聞いた人間はいるのだろうか。いたとしたら会いたい。会って、それを聞かなければならない。
(そして、必ず無事に帰って梓さんに伝える……!)
 確固たる目的が前方にある。振り向く暇など微塵もない。
 強く先をまっすぐに見つめ、千絵は邁進する。



(私の疑念が真実だとでも言いたいのか……!?)
 保胤の言葉に、セルティはさらなる驚愕を覚えた。
 静雄が最期に残した言葉こそ、保胤への疑念の原因だった。
 もちろん、そんな示唆を彼が出来るわけがない。
 静雄の死は、自分とダナティアとベルガーしか知らない、はずだ。
(もし、何か知る方法があったとしたら……いや、それこそ言いがかりだ。くそ、落ち着け……!)
 膨れあがった疑心を押し込めるように、さらに強く拳を握る。
 保胤は未だに茉衣子と会話を続けている。
 その所作はやはり穏やかで、仲間を人質に取っている脅迫者相手に話しているとは思えない。
(本当に志摩子のことを、何とも思っていないのか?)
 このマンションに来てから、保胤の志摩子に対する態度が少し変わったことは感じていた。
 どことなくよそよそしく、何か後ろめたいことでも隠しているような印象があった。
 もし二人の間に軋轢が生じていて、保胤が志摩子を目障りな人間だと考えていたとしたら。
 そこまでいかなくとも、隙をつくためならば志摩子の命などどうでもいいと感じているとしたら。
(……声が出せれば、この会話を止めることも出来るというのに!)
 自分に首がないことを、これほどまでに呪ったことはなかった。




「ところであなたは、何のためにエンブリオさんを守ろうとするのですか?」
「それは……あなたには関係ないでしょう」
「宮野さんの言葉の意味を理解するために、知りたいのです」
「そうやって情報を引き出して、班長の遺志をでっち上げるつもりですの?」
「そんなつもりはありません。ですが、どうしても信用できないのならば、聞き流してくださって結構です」
 図星を指されるが、動揺は内心だけにとどめて冷静に対応する。
 茉衣子の背後では、千絵が一歩ずつ着実に彼女へと近づいている。
 彼女が茉衣子を止められるまで、注意をこちらにひきつけておかなければならない。
 途中でリナと臨也も彼女に気づいたようで、先程こちらに一瞬視線を向けた後、静かに黙り込んでいた。
 ただ、内開きの扉で死角になっているセルティのみ気づけない状態にあり、臨也もそれを気にしているようだった。
 しかし彼女ならば、こちらの意を汲んで冷静に対処出来ると踏んでいた。
 茉衣子はこちらの言葉に沈黙を挟んだ後、
「……随分自信がありますのね。ならば今すぐ仰ってみてください」
「え?」
「あなたを一時的に信じると言っているのです。何か不満がありますか?」
 詰問するような口調で、結論を要求した。
 一方的に会話が打ち切られ、すぐに“答え”が出てこない。
 そもそも、千絵がまだ茉衣子を抑えられる位置に達していない。
 十分な隙を得られる遺言を、この場で捏造しなければならなかった。
(とにかく今までの話の中から、宮野さんのことを推測して……)
 赤の他人を救い出すために、強大な力の持ち主に交渉を持ちかけようとする人間。
 おそらくダナティアのような自信家で、それを裏打ちする実力が十分にある人物だ。
 加えて正義感が強く、仲間思いなのだろう。
 さらに彼は、茉衣子のことを“弟子”と言っていたらしい。
(茉衣子さんの師匠に当たる方、なのでしょうか)
 茉衣子も宮野のことを、“班長”という役職らしき名前で呼んでいる。
 彼が最初茉衣子にエンブリオを使わせようとしていたことから、彼女を大切に思っていることもわかる。
 そして茉衣子は、こんな手段を取ってしまうほど、エンブリオを大切にしている。
(単なる形見としてではなく、師から託されたものとして考えているのならば……)
 一つの“答え”を作り出し、保胤は覚悟を決めた。
 胸中でふたたび宮野と、そして茉衣子に対して謝罪すると、
「……彼は、茉衣子さんの現在の状態をいくつか質問すると、一言、こう言い残しました」
 ゆっくりと、出来る限り千絵のために時間を稼ぎながら、思いついた嘘を口に出す。
「無理に継ぐ必要はない、と」


「え……?」
 瞬間、彼女の表情が一変した。
 無感情だったそこに、驚きと戸惑いと、そしてはっきりとした恐怖が浮かんでいた。
「班長が、そんな、ことを……?」
 ぽつりと漏れた呟きは、ひどく弱々しかった。
「そんな、そんなの嘘です……そんなこと言われたら、それじゃあわたくしは他に何をすればいいのですか……!?」
 泣きそうな声と共に、刃が床に落ちる音が部屋に響いた。
 それが合図だった。
 怯える茉衣子に、千絵──ではなく、セルティが飛びかかっていた。




 茉衣子に決定的な隙が出来た瞬間、セルティは床を蹴って走り出していた。
 溢れた影をそのまま放つのではなく、手で掴むと小さな鎌をつくり出す。
 諸刃を共に“峰”にした、いわばただの長い鈍器だ。まだ殺す気はない。
(あの光は確かに痛いが……それだけだ!)
 普段セルティは、肉体や臓器を傷つけられても鈍痛しか感じない。
 だがあの光球が影に当たったときには、痛覚が明確な悲鳴を上げた。
 しかし、それだけだ。かき消されたライダースーツの一部分も、会話中に復活させられた。
(保胤の思惑がどうであれ、早く志摩子を助けなければ……!)
 鎌の間合いに入ったところで、茉衣子の注意が初めてこちらに向いた。
 彼女は咄嗟に指を差し向けて光を灯らせるが、遅い。
 横たわる志摩子の真上、彼女の肩を狙って横に振ろうとして、
(千絵!?)
 その背後に、見知った少女が立ち尽くしているのが見えた。ひどく驚いた顔でこちらを見ている。
 その位置は茉衣子にかなり近く、鎌の軌道に踏み込んでしまっている。
 仕方なく寸前で鎌を消すと、無理矢理慣性を殺して立ち止まる。
 しかし体勢を立て直す前に、漆黒のヘルメットへと光球が吸い込まれ、
「──!」
 激痛と爆発がセルティを襲い、その身体を壁へと叩きつけた。




「──いやあああああああああああっ!」
 光球を受け、白い肌の肩と、何もない頭部を露出させたセルティを見て、茉衣子が絶叫を上げた。
 錯乱する彼女を今度こそ千絵が止めにかかるのを見て、保胤も駆け出す。
(本当に、ごめんなさい……)
 彼女にとっては首がないというのは、純粋な異常に対する恐怖に加えて、“仲間の死体の再現”という意味も持っていた。
 先程の保胤の遺言も、確実に彼女の心に傷を付けただろう。
(それでも今は、志摩子さんを……!)
 彼女を抱えると、すぐにその場を離れる。
 その意識は既に無い。か細い息とかすかに動く胸だけが、彼女の生を証明している。
「臨也さん! 僕のデイパックから不死の酒を出してください!」
「不死の……!?」
「瓶にそう書いてあります!」
 彼の近くには、四人分のデイパックがまとめてあった。
 “不死の酒”は保胤の支給品だ。“未完成”と注釈があったが、保胤自身の重傷を一瞬で治療させた実績がある。
 首肯する彼を確認すると、すぐに志摩子に視線を戻す。
 肌からは血の気が失せ、ぐったりとしている。焼け石に水だろうが、止血の符を取り出して術を展開させた。

「保胤!」
 永劫とも思える時間の後、声と同時に酒瓶が床を転がってきた。
 すぐにそれを手を伸ばして受け取ると、素早く栓を抜いて志摩子の口に付ける。
(あなたは、こんなところで死んでいい人間ではありません……!)
 その優しさは、失われてはいけないものだ。
 何より保胤には、志摩子に伝えなければならないことが山ほどある。
「……っ!」
「志摩子さん!」
 わずかに反応した志摩子を見て、保胤に喜色が満ちる。
 セルティの話では半分ほどで効果が出たらしいので、瓶の口をなだらかに傾け続ける。
 状態は、確かに一変した。
「ぁぐ、……げ、がぁっ!?」
「……志摩子さん!?」
 突然彼女は目を見開くと、酒を戻し始めた。
 慌てて瓶を離した後も、嘔吐するように必死に酒を吐き出そうとしている。
 怪我が治癒する兆候はまったくない。
 それどころか、咳き込んで肩が大きく動くうちに、傷口が大きく開き始めた。
「そんな、僕の時はちゃんと……」
「これ、かなりまずいよ? 逆効果にしかなってない」
 強張った臨也の声に、背筋が凍るのを感じた。
 彼は保胤の手にあった酒を取ると、
「他に、方法は?」
「リナさんの治癒術か、メフィストさんを呼べば……」
「ぐ、かはっ……」
「志摩子さんっ!」
 絶望的な志摩子の声に、思わず叫んだ。その表情には、もはや苦痛しか見られない。
 焦点の合わない瞳で保胤を見て大きく息を吐き出すと、その全身から力が抜け落ちた。
 開いた傷口からこぼれた血が手に落ちて、どろりと指を撫でた。

「そんな、なぜ……」
 疑問だけが頭をめぐり、そんな言葉しか漏れなかった。
 ただ臨也の手に移っていた酒に、ゆっくりと視線を送る。
 彼の手にあったのは、確かに“不死の酒”と書かれた瓶だった。




「このっ──!」
 光球が放たれた直後、千絵は茉衣子へと踏み込んでいた。
 セルティが突然飛び出してきたときには立ち止まってしまったが、今はもう躊躇う必要はない。
 床に突き倒し、暴れる彼女の手首を押さえて身を乗り出す。
 見るからに非力な少女を抑えるのは、ジャンキー相手に立ち回ってきた千絵には容易い。
 はずだった。
「離しなさい!」
「……っ!」
 目に付いた黒衣を濡らす赤に腕の力が緩み、平手を喰らう。
 最大の問題は、茉衣子ではなく彼女が纏う色と臭いだった。
 その身体に染みついた志摩子の血が、否が応にも過去の凶行を思い出させる。
(少なくとも今だけは、全力で逃げるんだから……!)
 強く心に言い聞かせ、彼女の手首を床に倒す。
 鼻が思い切り血の臭いを吸い込んで一瞬目眩を覚えるが、歯を食いしばって耐える。
 脚を膝で強く押さえつけ、覆い被さる形になってそのまま全体重を掛け、
「え……!?」
 突然押さえていたはずの右脚ですねを蹴られ、うめく隙に思い切り突き飛ばされた。
 床を転がり、視界が天井を向く。
 簡単に拘束を解かれたことに、痛みよりも先に疑問が湧いた。
 拘束に向かった直後から感じていたが、身体が重くなっている気がした。動きが鈍くなっている。
 なにより、以前はもっと力があったはず──
(……最悪!)
 気づくと同時に湧き上がった“過去”を、無理矢理振り切って起きあがる。
 そう、以前は──吸血鬼だった頃は、もっと身が軽く膂力があった。
 精神が忘れようとしても、身体はしっかりと覚えていたのだ。
 それに極大の嫌悪感を感じつつも、茉衣子を止めようと床を蹴る。
「いい加減にしなさいっ!」
 と、横から伸びた別の人間の足が、彼女の腹部に吸い込まれた。
 見事な蹴りを決めたリナは、転がる茉衣子に駆け寄ると俯せに押し倒し、さらに腕の関節を固めて彼女を拘束する。
「千絵、怪我は?」
「大丈夫。……ありがとう」
「あんたもよくやったわよ」
 向けられた言葉と穏やかな笑みに、思わず涙腺が緩みそうになった。
 過去が消えたわけではない。
 それでも、千絵は何かから解放された安堵を感じた。
「ちょ、何よそんな顔して。あたしはなんもしてないわよ」
 拘束をはずさぬまま、リナは気恥ずかしそうに視線を逸らす。さらに照れを隠すように、
「あ、それ、一応回収しといて」
 扉辺りの床に転がったままになっている、茉衣子が使っていた短剣を指さした。
 その態度に頬が緩むのを感じながら、一応取りに行こうと歩き出す。
 近づき手に取ろうとして、その柄と刃の不思議な紋様に、一瞬目を奪われた。
 こびりついた血すら、過去を連想させるよりも強く、その美しさを際立たせていた。
 部屋の照明を受けて銀色に輝き、その表面にまるで鏡のように千絵を映し出し、
(……鏡?)
 思いついた単語に既視感を覚えた。
 どこかで見た、妙に印象深かった文字。刃から目が離せないまま記憶が引き出される。
 リナに告白する直前、刻印解読のレポートを整理していた時に見つけた、ひどく薄汚れた島の地図。
 その裏側に書かれた、怪談のような内容の──

“鏡は水の中とつながっていて、そこには死者の国が在る”

「あ……」
 思い出した瞬間、確かに“鏡”は繋がった。
 刃の奥に、一人の男が現れた。
 胸部を血で濡らし、両脚が折れ曲がり、右腕をなくし、首に裂傷があり、全身が血塗れだった。
 千絵が浅ましく血を啜った、死んだはずの男の姿がそこにあった。
 逃げ切ったはずの過去が、いきなり眼前に回り込んでその姿を見せていた。
「そ、んな……」
 肘で切断された右腕がするすると伸び、赤黒い断面が鏡を塗り潰す。
 さらに中心からはみ出した白い骨が壁を突き破るように迫り、

「────いやああああああああああああああああああっ!!」
 千絵は、逃げられなかった。




「千絵!? ──っ」
 突然の絶叫にリナの注意がそれた瞬間、その腕に強い痛みが走った。
 思い切り噛みつかれたと気づいたときには、さらに肘打ちで胸を打たれる。
「待ちなさいっ!」
 よろよろと抜け出た茉衣子は、さらに無数の光球をこちらに飛ばしてくる。
 咄嗟に伏せるが、うち数個は避けきれず眼前を白く染め──
「……!?」
 それだけだった。爆発など起きない。
(効くのはセルティだけで、今までのははったりだったってこと!?
……ああもうむかつくけど今は後回し!)
 光球に気を取られていた間に、茉衣子は短剣を掴んで駆けていた。
 机の上のエンブリオも回収すると、カーテンで閉ざされた窓へと向かう。
 茉衣子の足はそれほど早くなく、走れば十分捕まえられる距離だ。
 しかし視線をずらせば、短剣の刃を目で追いながら絶叫する千絵の姿がある。
 なぜこうなってしまったかはわからないが、彼女を放っておけるわけがない。
 保胤達も未だ隅で志摩子を介抱しているように見えた。
(なら……後は任せたわよ!)
 一瞬思考を働かせた後、リナは部屋の扉付近へと視線を向ける。
 ゆっくりと立ち上がりつつある黒一色の身体を見定めると、すぐに目をつむり、
「ライティング!」
 持続時間ゼロ、光量最大の明かりを天井に展開させた。




 茉衣子のものとは比べものにならない程の強い光が、セルティの視界を閉ざした。
 光量に耐えきれなかった者達が呻き、千絵の絶叫も止まる。
 すぐに光は収まったが、目を灼かれた痛みに彼らは目を閉じたままだ。
 リナは瞬きながらもすぐに動いていたが、千絵の介抱に回っていた。
(さっきは先走ってしまったが……今度は止めてみせる!)
 唯一“目”を持たないセルティだけが明瞭な視界の中、茉衣子へと駆ける。
 保胤のあの嘘が、この場にいなかった千絵のためだと気づかなかったのは、疑念に塗れた自分のミスだ。
 今こそ挽回しなければならない。
 茉衣子もやはり目を閉じたままだったが、短剣を振り回し、光球を自分にまとわりつかせている。
(それなら──!)
 身体よりも先に染み出した影を、茉衣子を包むようにぶつける。
 当然光球は反応し、直後爆音が響いた。
 悲鳴と共に衝撃に飛ばされた茉衣子へと、痛みに耐えながら肉薄する。
 すぐに彼女の意識を奪わなければ、また光球にやられる可能性がある。
 しかし今の一撃で、当分まともに影は出せそうにない。
「そんな姿まで再現できるなんて──退きなさい化け物!」
 わずかに目を開けて、茉衣子は両手に握った短剣を向けてくる。
 近距離で光球を撃てば、先程のように彼女も巻き込まれる。
 それを彼女が躊躇っているうちに、何とかその動きを止めなければいけない。
 チャンスは両手が完全に塞がっている今だけだ。
(確かに私は化け物だ──だからこそお前を止められる!)
 茉衣子は身体を縮め、駆けるこちらの脇に潜るように突進してくる。
 刃の先が狙うのは心臓だ。
 確かにセルティにも心臓はあった。しかし、あるだけだ。
 動いていない心臓など、急所にはならない。
「──!?」
 避ける動作をせず、それどころか突っ込んでくる相手に対し、茉衣子はわずかに躊躇う。
 かまわずセルティは両手を伸ばし、短剣ごと彼女を受け止めるように抱きしめた。
 短剣が影と肉と肋骨を破り、臓器を貫く。
「……っ、離しなさい!」
「セルティ!?」
 焦燥に満ちた茉衣子と、そしてなぜか臨也の声が聞こえた。
 視線を後方に移すと、他の全員が目を開けて、こちらを見ていた。
 大丈夫だと首を振ろうとして、今は頭に何も乗っていないことを思い出す。
 胸中で苦笑しつつ、せめて早く仲間のところに戻ろうして、
(……あれ?)
 身体が動かなかった。
 いや、正確には動いていた。茉衣子を抱いている腕と、身体を支える脚が震えている。
 影が一切出せなかった。
 それどころか、はがれ落ちていくように全身から消えていく感覚がある。
 そして、何より。
(なんで、こんなに痛いんだ……?)
 刃が刺さる心臓を中心に、身体中が激痛に見舞われていた。
 光球など比較にならない、今まで感じたどんなものよりも激しい、致命と呼べる痛み。
「あの場であたしが注意したの、聞いてなかったの……!? とにかく、早くその剣を抜いて!」
 よくわからないことをリナが言った。
 注意、というのはこの短剣のことか。あの場とはいつのことか。
 そもそもこの短剣は、どこから出てきた物だった──?
(あ……)
 ようやく、気づいた。
 これは臨也の武装解除時に、彼のデイパックから出てきた物だった。
 その時確かにリナが何かを言っていた気がするが、内容はまったく覚えていない。
(自分のことで、静雄が死んだことで頭がいっぱいだったから……?)
 理解した瞬間、力が抜けた。
 咄嗟に茉衣子が腕を振りほどき、刃を勢いよく引き抜いた。
 その刃は銀色に輝いていた。よく物語で、異形の者を倒すのに使われる物質だ。
(つまり、私は化け物だから……死ぬのか?)
 思いついた単語に戦慄を覚え、即座に拒絶する。
 ここで終わっていいはずがない。シャナのことも静雄のことも、まだなにも解決していないのに。

 しかしそんな未練を挽き潰すように、痛みはセルティの意識を飲み込んで、ぷつりと消えた。




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