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室井佑月についての一考察
 これは「働く価値って何ですか?」レポートの続篇に当たる作品である。レポートを事前に読んでいなくても多分理解できるが、やはり読んでおいた方がよいだろう。

 トークセッションから暫くして、近所のブックオフで室井佑月の小説『Piss ピス』(講談社)を買った。
 こう言っては何だが、私は室井佑月の作品を読んだことがなかった。そのくせ偉そうに室井佑月を語っているのだから、室井本人から「オマエ読んでこいよ(怒)」と言われそうな気がしてならない。
 そこで遅まきながら、買って読むことにした。全然読まないよりはマシだと思ったからである。(でも、ブックオフで買ったから作者にはビタ一文入りゃしないんだよなあ)

 家に帰ってから、ギャオで映画「眠狂四郎」を観て脳みそと眼を適度に疲れさせた後、デスクに座って、買って来た文庫本にカバーをつけてやる。既にカバーが付いているのに、その上にカバーをつけるのである。合理的に考えてみれば妙なもんだが、長年の習慣なんだから仕方がない。
 さて、とりあえず解説から読んでみることにする。解説は本の最後の方にあって、本来は収録されている本編を読了した後に読むべきものなのだが、解説を先に読むことにも効用はある。それは、作者の横顔や作品の背景が記されているので、予めそれを知った上で作品を堪能できるということだ。

解説
 解説を書いているのは、小説家の花村萬月。生憎、この人の小説はまだ味わった記憶がない。ただ、満月のようなスキンヘッドをしていたことは憶えている。
 で、この人はこの解説でいきなり「さる女の子」とのプレイを描写する。
 私は彼女のその鼻筋がとりわけ好きで、指先を這わせていると、なんだか口の中に唾液が充ちてきて、唇まで潤ってくるような気分になれた。また私は閉じられた彼女の瞼を舌先でこじあけて、そっと眼球に舌を這わせるのが好きだった。(P225)
 この本に収録されている諸作品が官能小説だからこそ、こんなことが書けたのだろう。文部省推薦図書ならこうはゆくまい。
 さて。
 花村萬月は室井佑月をどう語っているか?
 少々長くはなるが、次の一説を引用する。
 室井とその周辺の男たちは、主人公になりたくてしかたがないが主人公になれないか、主人公になったとたんに自信をなくしてしまうような脆弱さを感じさせる(実人生の話です)。
 室井も男たちも、小説のような人生を実際に生きてしまおうとして、転んでしまう愚か者たちである。
 こういう輩を現実から遊離している阿呆と決めつけるのは簡単であり、また実際に間抜けで阿呆なのだが、この愚かさこそが小説の核となるものであるので、まったく表現の世界は手に負えない。
 おそらく室井はこういう愚か者から養分を吸い取っているのだろう。
 そして、おなじ阿呆でも女は巫女として在ることができるので、男のほうがつまらない論理と現象のきれはしをちまちまと弄(もてあそ)んで迷走停滞しているその前を情のおもむくままに彼方にまで飛翔してしまっている。
 女の小説化のなかでも室井はとりわけ巫女としての才が抽(ぬき)んでている。巫女としての才なるものがあるのかどうかは、これを書いている私にもよくわからないのだが、言い方を変えてしまえば、それはある天才のようなものである。
 「小説のような人生を実際に生きてしまおうとして、転んでしまう愚か者」、「情のおもむくままに彼方にまで飛翔してしまっている」というのは、室井のトークに触れてきた私にしてみれば「言われてみればその通り。よくぞ言ってくれた!」なのである。表現力が必ずしも豊かでない私にとっては、実に有難い。
 ところで、引用文の中に「巫女」という単語が出てきたことに注目したい。
 巫女は神霊を自らの体に憑依させて(神下ろし、神がかりともいう)、神の意(神託)を述べる。その時、巫女は神の言葉を述べる。神の世界と人間の世界は大きく異なり、従って言葉も違う。そのため、巫女が述べる御託は人間の論理が通用しないことが多く、一般人には理解しがたい(そのため、多くの場合、神託を一般人が理解できるようにする審神者(さにわ)がいる)。
 そういった点からすると、あのトークセッションで魅せてくれた室井発言の数々は巫女的である。対談の相手(工藤啓)との話がかみ合わなかったり、脈絡のない話題の展開をもたらしたり、論理的におかしいんじゃないかと思える発言は、普通の人間ならすべきではないとされているようなものだが、室井佑月はそんなことお構いなしである。これはやはり、どこぞの神様が憑いているからであろうか。
 ちなみに、芸術家が神霊の働きによって偉大な創作活動を成し遂げることはよくあることだ。いや、神の存在を否定する者たちや神々の働きを認めないか矮小化しようとする者たちのために言い換えるならば、古来よりそのように信ぜられてきた。古代ギリシアでは音楽神アポロンとその配下の女神たちムーサイが詩人らに霊感を与え、インドではサラスヴァティー、北欧ではブラギがその役割を担ったのだ。
 そういえば本編の中で小説家が、
「最近は自信がないな。神さまが降りて来ないんだよ。もう三年になる」(P189)
 と言っており、このセリフの背景も同様である。

収録作品のあらすじ
Piss
 みゆきは恋人の伸ちゃんと小料理屋を開くために、見知らぬ男たちに体を売り、客に尿を飲ませたりもする。しかし、伸ちゃんに捨てられ、錯乱したみゆきは街の中でレンガで窓ガラスを割り、警察に連行される。そして、みゆきは売春宿に自分の居場所を見出す。

ぎんの雨
 ホステスの萌は男に捨てられてから「紙の上を這うような女の声」が聞こえるようになる。そして、同僚のホステスと店で大喧嘩してクビになり、出会い系で売春するようになる。と同時に、ホームレスの英次を拾って自分の部屋に住まわせる。
 売春で心を病んだ萌は、ふとしたことで錯乱し、庖丁を振り回して自らの体を傷付ける。

鼈のスープ
 売れない女優のカナコは、ヤクの売人・バラチンと同棲している。ある日、オーディションで知り合った、代理店のトウドウに誘われて高級レストランへ。そこで役を手に入れるため、スポンサー会社のハセガワに体を売ることになったが、高級ホテルでカナコはハセガワの男根を強く噛んで殺してしまう。カナコはバラチンを呼び出してそこで享楽にふけり、更にはハセガワの財布から金を盗んで銀座の吉兆へ行き、鼈(すっぽん)のスープを飲んだ。

『竜神家の女』
 売れない女優の龍神蘭子は二十歳の誕生日に死ぬ運命にあった。そこで蘭子は、自分が忘れ去られないように友人たちとパーティーを開いて思い出作りをし、恋人の祐介には自分の絵を与える。
 蘭子の死後、祐介は実家の寺に帰って父母のSMプレイを目撃する。そして自宅の倉庫で彼女を思い自慰にふける。
 という話を、作者は友人のKから聞いたという。

もう二度と会わないだろうが、いつまでもおれはおまえの味方だよ、木村
 ヒモの木村秀二はひょんなことから自分と同じ名前の小説家・木村修次を知る。
 愛人の瑞穂の家から追い出され、妻の家に転がり込んだ木村は、小説を書こうと一念発起。小説の書き方を教わろうと木村修次のボロアパートへ行く。そこで二人のキムラシュウジは珍妙な問答をして別れた。

退屈な話
 売れっ子アイドルのキョウタは、なじみのバーでマスターから店員の若い女を引き取り、ポチと名付けて自宅のマンションに住まわせる。二人は享楽にふけるが、そこへマネージャーのミサキがやってくる。ポチはミサキを殺し、キョウタと再びセックスする。
 数日後、キョウタは留置場にいた。ポチは幻だったのだ。

主人公たちの共通項
 これら収録作品の主人公たちに共通するものは何であろうか。私は3つ挙げたい。

(1)感情が過剰である
 解説の花村萬月の言葉を借りて言えば、「感情の過剰さ」(P226)、「情の過剰とでもいうべきもの」(P227)である。
 みゆきは恋人の伸ちゃんに捨てられ、友人の美佐に裏切られ、小料理屋を持つという夢が破れた。そのショックで、錯乱してレストランの大きなウィンドウを割ってしまう。
 萌は自分のことを「情に厚い」(P52)と言っているが、それは感情が過剰であることを肯定的に捉えた場合の表現であり、それが裏目に出れば「文庫本や灰皿を手当たり次第に投げつけた」(P53)り、一晩中「玄関にぺったりとしゃがみ込んで泣いた」(P52)り、客の「小指を力任せに反対に折り曲げ」(P57)たり、「となりのおねえさん」が作ってくれたクリームシチューを流しに捨てたり(P75)、「自分のブローチを外して、すれ違いざま、男の脇腹に突き刺してやった」(P80)り、そしてクライマックスでは包丁で自分の体を傷付けるのである。
 カナコは「殺してやる」(P93)、「ちきしょう」(P94)というセリフを吐くし、クライマックスでは情夫のバラチンにすがりついてオーラルセックスをする(しかも死体の目の前で!)。
 龍神蘭子は怒りに駆られて、6歳の姪の「頬をぶち」、「張り倒し、その顔を足で踏みつけ」、「姪の顔の上に座」って「二回ジャンプ」した(P132)。更には、自分の指輪を盗んで実家に帰った姪に、酔った勢いも手伝って、19回もイタズラ電話する。近親憎悪なのかもしれないが、それにしても執拗である。
 木村秀二は、「頭を殴って床に叩きつけてやろうか」(P165)と思ったバイトの沙夜香と強引にセックスし、暴力を振るう。
 キョウタの場合、「憎んでいた」(P199)マネージャーのミサキに対して「従順なペットのふりをして」(P199)いたが、ついにはミサキを殺してしまう。
 最後に、花村萬月の指摘を引用したい。
「情の過剰とでもいうべきもの、それは作者である室井にも共通している」(P227)

(2)破滅
 主人公たちは物語の中で破滅する。
 みゆきは恋人も友人も夢も一挙に失って借金だけが残り、更には警察沙汰まで起こす。
 萌はホステスから売春婦へと転落し、更には客に輪姦される。又、包丁で自らの体を傷付ける。
 カナコの場合、作品の中で描かれていないが、その後の展開を予測すると「破滅」しかないように思われる。おそらく、事件のあった翌朝には、ホテルの従業員によってハセガワの変死体が発見され、警察が捜査に乗り出す。となると、ハセガワと一緒にホテルに入ったカナコが容疑者として浮かび上がる。一方、カナコは事件現場でバラチンと享楽にふけったり、スッポンのスープを飲みに行ったりと、まるで逃げ隠れしようとしていないので、すぐに捕まる。
 故意に殺したわけでないから、殺人罪ではなく過失致死罪に問われるだろう。又、ハセガワの死体を何度も蹴飛ばしたり、ビールをかけたりしている(P127)から死体損壊、更には死体を放ったらかしにして銀座の吉兆へ行っている(P128)から死体遺棄の罪に問われるだろう。そして、ハセガワの札入れから一万円札「二十枚を盗んだ」(P128)。これは立派な窃盗罪である。
 『龍神家の女』の場合、見方によってどんな破滅なのかが変わるかもしれない。
 1つは、主人公の死をもって破滅とみなすことである。例えばドストエフスキーの「悪魔」などがその典型例だ。あるいは、TVゲームで主人公のキャラが死んだらゲームオーバーというのもそうだろう。
 もう一つは、物語の途中で主人公が蘭子から祐介に交代し(P147)、その祐介が破滅を迎えたのだという解釈である。
「彼女の死のショックから立ち直れず、彼はまた留年してしまいました。彼の両親は彼に勉強しろ、というのをやめました。彼は修行して、寺をつぐことになりました。」(P147)
 大学生生活の破滅である。
 そして最後に、「彼の一族の男は、龍神家の女に代々祟られている」(P149)ことが明らかとなり(つまり祐介は蘭子に祟られているのだ!)、祐介は蘭子を思って自慰をし、32回抜いたところで倒れた。このような異常な性行動を取るのは、精神に破滅を来たしたのだと見ることもできるのである。(それにしても、32回もよく続けられるものだと呆れてしまうのだが、これも祟りのなせるわざかもしれない。)
 木村秀二は、新聞勧誘員というカタギの仕事を持つ既婚者から、水商売の女(瑞穂)のヒモになっており、既に家庭生活・社会生活の破滅を迎えている。その上、瑞穂の家を追い出されてしまい、ヒモ生活も破滅を迎える。また、小説の書き方を教わろうと思って小説家の元へ行くが、結局何も得られないまま(つまり破滅したまま)終わるのである。
 キョウタの場合、「自分を邪魔する者を殺した」(P224)結果、「一夜にしてスターの座から転落した」(P223-224)。尚、彼の精神も破滅を来たしていたことも指摘しておかねばなるまい。

(3)娼婦
 彼らの多くは娼婦、もしくは娼婦的である。ここで娼婦的というのは、意に沿わない相手と性行為をし、その対価として金銭もしくはそれ以外の何らかの利益を得ることを意味する。
 みゆきは物語の最初から最後までプロの売春婦である。
 萌はホステスをクビになった後、売春をして稼ぐようになる。
 カナコは「裸専門の三文女優」(P99)なのだが、役を手に入れるためにスポンサー会社のハセガワと性行為に及ぶ。その点では娼婦的なのだ。
 龍神蘭子の場合は娼婦でもなければ、性行為によって役をもらうわけでもない。しかしながら、蘭子は傾城(けいせい)である。傾城とは遊女(娼婦)の異名で、遊女に入れあげると城が傾く(身代が左前になる、財産を食いつぶす)ことからこう呼ばれる。蘭子は、祐介に対して傾城の効果をもたらしているのである。すなわち、祐介は蘭子にのめりこむことによって、2度にわたる留年、そして大学中退、失意の帰郷をせざるをえなくなる。
 木村秀二はヒモであって娼婦ではない。しかし、女房にキスの嵐を見舞って一万円札を手に入れており(P184)、性行為によって金銭を得ている点では娼婦的であるといえるかもしれない。尚、ヒモの木村秀二にとっては、こういうことはお手の物だったのだろう。
 キョウタは娼婦である。正確に言えば男娼だ。かつて彼は「新宿のバーで女装して男に身を売っていた」(P223)し、芸能界入りした後も、マネージャーのミサキとの間に男娼と客の関係があった。「とりあえず彼女のいうとおりにしていれば、金は手に入る。仕事もスムースにいく。ミサキと寝たのも、それが命令だったからだ。」(P199)つまり、キョウタはミサキとセックスすることで仕事の便宜を図ってもらっていたのである。

『龍神家の女』の特異点
 『Piss ピス』に収録されている諸作品の中で、「『龍神家の女』」はひときわ異彩を放っ ている。どこがどう違うのか、特徴を5つ挙げる。
(1)タイトルが『』(2重カギカッコ)で括られている。
(2)敬語の表現。
(3)作者が伝聞を語るという形式。
(4)主人公の転換。
(5)祟りや呪いが存在する世界観。

 それでは、各項目についてそれぞれ論じてみることにしよう。
(1)タイトルが『』で括られているのはなぜか
 その理由は(3)作者が伝聞を語るという形式を取っているからではないだろうか。これは自分が生み出した物語ではない(性交のシーンなどは「官能小説を書け」という出版社の要請によって作者の創作の手が入っているのであろうが)、だから他の創作物と区別するために括弧を付けておく。ただし、普通の一重括弧「」では、文章の中で普通の作品を表記する場合と変わらないから、敢えて『』としたのではないかと私は勝手に推測している。

(2)敬語の文章
 これも(1)と同様、(3)作者が伝聞を語るという形式を取っているからだと思われる。

(3)伝聞
 この話は、作者が「友人のK」から聞いたという形式を取っている。
 尚、私はこれに関して、最後の部分に注目した。
「Kは話をしたあとにいいました。この話を盛り上げるため、ひとつだけ嘘をついたと。」
 読者はこの文章に接して、「それじゃあどこが嘘なんだろう」と思い、それを探そうとするかもしれない。心憎い、室井の仕掛けである。
 「ひとつだけ嘘をついた」ということを鵜呑みにするのであれば、それ以外はすべて本当だということになる(そう思わせる効果があるということだ)。しかしながら、そんな保証はどこにもない。
 そもそもこれは小説というフィクションであり、都市伝説的であり、何よりも作者の室井自身、ウソをつくのが得意なのである(室井本人が語ったところによると、英検1級と偽って就職したとか)。

(4)主人公の転換
 この作品では主人公が、147頁6行目において、蘭子から祐介に変更している。というのは、その間に蘭子が死んでしまったからである。

(5)祟りや呪いが存在する世界観
「青森県三沢市に龍神という名の一族がいるそうです。そこの女は二十歳の誕生日に死ぬのです。」(P131)
「彼(引用者註:祐介のこと)の一族の男は、竜神家の女に代々祟られているのでした。」(P149)  なぜそうなっているのかは作品中では一切説明がない。説明がないから、読者は想像するしかないのだ。だが、肯定的に捉えるならば、読み手は想像を膨らませる楽しみができたということである。

(とりあえずおしまい)

著・泉獺(H18.7/28)
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