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『日本永代蔵』巻六ノ二心理学考〜養子とトリックスター〜
安澤出海
 森山重雄は巻六ノ二「見立養子が利発」に関して、「とにかくこの小者は一種のトリックスター、あまんじゃく的に振舞っているのである。」(※1)と述べているが、小者の「トリックスター」的なるもの、「あまんじゃく」的なるものについての論証が充分になされていないようなので、私が氏に代わって論じてみたい。
 そもそも、トリックスター、あまんじゃくとは何だろうか。
 あまんじゃくとは、昔話「瓜子姫」に登場する悪鬼・アマノジャクのことで、瓜子姫を騙して家に入り、瓜子姫を食べ(もしくは木に縛り付け)、瓜子姫に成りすまして嫁入りしようとするが、鳥の声で事が露見して殺される。
 柳田國男『桃太郎の誕生』(※2)によると、アマノジャクは一般的に、「いつも人の言葉をもどき、人の意に逆らふのを職業のやうにして居ると、言はれて居」(※3)て、柳田自身の定義するところでは、「意地が悪くて常に神に逆らふとはいふものの、固より神に敵対する迄の力は無く、しかも常に負ける者の憎らしさと可笑味とを具へて居た」(※4)というものである。
 さて、小者はどうであろう。小者は夷講(えびすこう)の祝儀の膳を前にして金勘定をする。そして養子の話が持ち上がって、主人夫婦が「伊勢の親もとへ相談の人つかはしける時、」小者は話がまとまらない場合は費用の無駄であり、又、財政状態をよく見極めなければ養子にはならないと言って、「毎年の勘定帳」などを見せてもらうと、今度は主人を「商ひ下手」と批判する。
 ここには、主人(夫婦)の意向に一々逆らっている様が可笑味を帯びて述べられているといえる。従って、「人の意に逆らふ」「可笑味」は共通するだろう。
 又、夷講の鯛料理を批判する件は、えびす「神に逆ら」っていると言えるかもしれない。その上、「塩鯛・干鯛」でも良しととしている所から夷講そのものを否定しないのは、えびす「神に敵対する迄の力は無」いからだともとれる。
 しかしながら、他の諸点においては共通しないのではないか。
 人の言葉をもどく(真似する)、意地が悪い、常に負ける、などは、本文を読む限りでは見受けられないのだ。
 特に著しいのは、アマノジャクが騙して失敗したのに対し、小者は幾分狡猾ではあるが別段詐欺を働いたわけでもなく、しかも成功したことにある。
 従って、小者を「あまんじゃく的に振舞っている」との表現は、あまり相応しくないのではないか。

1.トリックスター
 次に、トリックスター性を検証してみよう。
 トリックスター(trickster)とは、一般的には「ペテン師」「詐欺師」(※5)といった意味であるが、神話学・人類学では、世界各地の神話・伝説・昔話に出てくるいたずら者を指す言葉である。
 ハンガリーの神話学者カール・ケレニィや、ユングが挙げたトリックスターの諸特徴を林道義がまとめたもの(※6)によると、トリックスターの特徴は、大体次の通りである。
1.反秩序
2.狡猾なトリック
3.愚鈍
4.セックスと飢え
 また、林道義はこの他にもトリックスターの効果的な特徴として、「一つの価値観にこり固まって、にっちもさっちもいかなくなっている状態を流動化するプラスの働き」(※7)を挙げている。
 さて、小者は今挙げたトリックスターの諸特性を有しているのだろうか。
 まず、1.反秩序というのは、トリックスターは決められたルールを破るという事を意味している。これに関していえば、小者は主人夫婦・店の秩序に反した行為を行なっているといってもよい。
 小者が秩序に反する事、即ち反対・批判したのは、
一.夷講で生の鯛を調理して振舞った事。この夷講は主人の店の慣習であり、鯛は主人が用意したものである。
二.主人夫婦が、小者の「伊勢の親もとへ相談の人」を派遣すること。尤も、このような事は主人夫婦の秩序のみならず、社会一般のルールである。
三.主人夫婦の金の使い方。特に「さてもさても商ひ下手なり。包み置たる金子は、壱両もおほくはなるまじ。」云々と、さながら「主客転倒」(※8)の物言いである。
 次に、2.狡猾なトリックというのは、トリックスターが「狡猾なトリックを使って騙し、それによって自分の欲するものを手に入れるという性質である。」(※9)では、小者はどうであろうか。
 小者は別に騙したわけではない(ちなみに、「四、五年のうちに江戸三番ぎりの両替になる事」という約束は実現したかどうかは不明)。しかし、狡猾なトリックは使っている。要約するなら、小者は主人夫婦、特に主人を説得する際に用いた心理トリックである。
 相手を「商ひ下手」と批判しながらも自分の意見を納得させて呑ませている。これは「十四になる小者」が、「大きなる顔つき」の「三千両の身躰」に対してなし得るわざであろうか。
 現代風に喩えるならば、中卒か高卒で入社した新入社員が、ちゃんと自分なりのポリシーを持っている東商一部上場のオーナー経営者を批判し、その上自分の主張を認めさせて、次期社長に収まってしまうようなものだろうか。
 普通に考えるならば、通常はありえない、もしくは大いなる至難の業だろう。しかし小者はそれに成功した。なぜか。
 思うに、小者は「道理」に叶った主張をしていたのではないか。「道理」に叶った正しい意見を述べていると思ったからこそ(主人は小者を「いまだ若年にして物の道理をしる」と評している。)、主人はそれを受け容れたのではないか。
 尚、「道理」と括弧をつけたのは、それが商人・主人にとっての道理、即ち金儲け・蓄財を善しとする価値観である。
 夷講で「塩鯛・干鯛」をすすめたのは、経費節減につながり、「し末第一の人」である主人にとっては「道理」に叶った、よろこばしいことである。
 また、養子の相談に、人を伊勢に派遣することにも、話がまとまらない時は費用の無駄だと、ここでも経費節減を持ち出している。しかもここではそれだけではなく、その直後に自分が店の内情を確かめなければ、「養子のけいやく成がたし」と言っている。「けいやく」をする際には、その相手をよく見極めておかなければならない、というのも、商売の道理の一つである。相手が「けいやく」を遂行できるかどうか、またはする意志があるかどうかを見極めもせずに契約を結べば、契約が履行されずにこちらが損をしてしまうという危険性があるからだ。
 経費節減も、契約相手の見極めも、商人の主人にとっては「道理」に叶った正しい事である。正しい事は称揚され、時には励行される。主人にとっても、それによって別の害悪(※10)が発生するのでなければ、受け容れるにしくはない。
 小者はこのようなトリックを使って自分の意見を主人に認めさせ、その上高い評価(「利發もの」「物の道理をしる」)を獲得したのである。
 しかもそれだけではない。小者は主人夫婦に「毎年の勘定帳」などを持って来させている。本来、養子縁組の主導権は、立場が上である主人夫婦が持っているはずであるにも関わらず、その主導権をここでは小者が、店の内情を見極めなければ自分は養子にはならないと言って、ちゃっかり握っているのである。このあたりが実に狡猾と言えよう。
 更に、小者は主人夫婦にこんな提案をする。
 まづ夫婦衆は、けふより毎日、談義ある寺参りし給ひ、其下向に、納所坊主にちかより、散銭有程買給へ。世帯仏法、ふたつのとくあり。供のてつちは、道の間の外聞なれは、浮世山枡を受て小袋に入行、法談はしまらぬさきに、諸人のねふりさましに是を賣べし。さてまた、供つれぬ参り衆の笠・杖・ざうりを、談義はつるまで壱銭づゝにて預かれ
 つまり、これから毎日、お寺参りしてお金儲けせよと言うのである。商人にとって金儲けは「道理」に叶った事である。しかも信仰の面からは、「談義ある寺参り」も「道理」に叶った事である。「世帯仏法、ふたつのとくあり」なのだ。
 尚、寺参りの話はここで初めて出たのではなく、その前段階の、小者が店の内情をチェックする際に、主人が保有している財産として、「此外金子百両、女はう後々寺参り金に、此五年前からのけて置ける」と言ったところにある。つまり五年前から、夫人がお寺にお参りする為に金子百両を別にしてとってあるということであり、このことは二つの事実を物語っている。即ち、金子百両を確保させる程、夫人が寺参りをしたいということであり(※11)、もう一つは五年もの間、それが何らかの事情で叶わなかったということだ(※12)。
 小者の出した提案は、このような機微を巧みに捉えていたのではないだろうか。寺参りで金儲けをすれば、長年の寺参りをしたいという願望が充足されるし、しかも金儲けをするのだから商人の道理にも叶っている。実に巧妙と言う他はない。
 これらの事を勘案すれば、小者が「狡猾」で「トリック」を用いたということは言えるであろう。
 次に、3.愚鈍についてはどうだろうか。
 「見立て養子が利發」という表題の一事を以ってしても、「愚鈍」を否定できるが、念のために検証してみよう。
 トリックスターは「本能的・生物的次元に生きてい」(※13)て、その「本能的次元の優越は道徳的・意識的低さと対応している」(※14)という。
 夷講の鯛を批判したり、寺参りで金儲けをしようと提案した点から見て、宗教面での道徳的低さ(商人の「道徳」とは相容れないかもしれない)は指摘出来るかもしれないが、他の部分については当てはまらないと言わざるを得ない。
続く

※1.森山重雄 『西鶴の研究』 新読書社 1981.1.20 P177
※2.柳田國男『桃太郎の誕生』三省堂 S17.7.15
※3.※2に同じ。P148
※4.※2に同じ。P146
※5.山岸勝榮ら編『スーパー・アンカー英和辞典』 学研 1996.12.10 P1654
※6.著・C.G.ユング 訳・林道義 『元型論』 「訳者解説」紀伊国屋書店 1999.5.22 P491
※7.※6に同じ。P494
※8.野間光辰編『西鶴論叢』中央公論社 S59.9.30 村田穆「『日本永代蔵』二つの断章」
※9.※6に同じ。P491
※10.例えば、経費節減によって店員の士気が低下して能率が悪化する、と言ったような事。
※11.寺参りする気がなかったら、百両もの大金を特別に取って置くだろうか。
※12.本文中に「包みながら封じ目に、年号月日書付」とある。これは書付の日から金子を封じている事を示す。ちなみに、五年間寺参りが叶わなかった理由として、店の経営に忙しく働いていた事が考えられる。もしそうであったなら、養子を迎えて経営を任せれば、それをするだけの時間的余裕ができるのはいうまでもない。
※13.※6に同じ。P491
※14.※6に同じ。P492

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