巡りゆくもの・その3へ戻る
それから、お昼ご飯にむつきママが作ってくれたサンドイッチを食べて、
お化け屋敷に行ったあと、(ちなみにむつきママが僕に抱きついたのは左右の壁から一斉に無数の手が飛び出すというもの。これはぼくも怖かった)
売店を眺めて他のママ達のお土産を買って、(うづきママは「この遊園地のマスコットのぬいぐるみがほしーい!ツクモちゃん、お願いね♪」とぼくに頼んでいた)
残りのアトラクションを幾つか回った頃にはもう西の空が茜色に染まり始めていた。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎていく。閉園にはまだ時間があったけど電車の時間も考えてそろそろ帰らないといけないので、
最後にぼくたちは観覧車に乗ることにした。
密室になった狭いゴンドラの中に二人っきり。ぼくたちはゆっくり下がっていく地平を眺め、静かにたたずんでいた。
それは決して変に気まずい沈黙ではなくお互い言葉がなくても自然と落ち着ける。そんな時間だ。
規模にもよるけど観覧車が一周する時間は思った以上に長い。天候さえよければ十数分間穏やかな空中散歩を楽しめる。
やがてゴンドラが上方まで登ると、西日が射し込みぼくたちをゴンドラごと暁の世界へと招き入れる。
眼下に広がる美しい景色を眺め、むつきママは穏やかな顔をしている。できるだけ長い時間こうやって過ごしていたいと思う。
だが、止まることなくゆっくりと、しかし確実に観覧車は終焉に近づいていく。
そう、まるでぼくたちの『ママ』と『息子』の関係のように。
観覧車には不思議な力があると思う。
「あのさ。むつきママはどうしてぼくの“ママ”になろうと思ったの―――?」
ぼくは普段なら絶対に聞かないような事を聞いていた。
むつきママは一瞬戸惑ったような顔をして、それから口を開いた。
「それは、ツクモさんが寂しそうだったから…あなたが大人になるまで一緒にいてあげたいって思ったから……」
確かにその話は聞いた。でも―――
「…本当にそれだけなの?」
「えっ……?」
「確かにさ、ぼくの生いたちが人並みよりちょっと特殊なのはわかるよ。でも今どき天涯孤独ってのも珍しいことじゃない。
それだけの理由でむつき先生が家に来てまで『ママ』になる必要なんてあるのかなって思って」
ダメだ、と思うのにコップの底の泡が浮上するように自然と言葉が口をついて出てしまう。
「本当にそれだけの理由でぼくのママになろうと思ったの?」
むつきママは視線を逸らすようにうつむいた。
「それは――――」
夕日を背にむつきママの表情がシルエットに隠れてわかりにくくなる。
目を凝らしてみると、むつきママは眉を落としつらそうに唇を振るわせていた。
「それは――――」
久しぶりに見るむつきママの悲しそうな顔―――何をやっているんだ、ぼくは!?
ぼくは慌てて取り繕った。
「ご、ゴメン。変なこと聞いちゃって。別にむつきママを困らせるつもりはなかったんだ。何でもないから気にしないで!」
そこで言葉が途切れてしまう。ゴンドラが下降を始めると夕日が二人に暗い影を落とし、気まずい空気が流れる。
そのまま観覧車は一周を終えた。
「…………」
「…………」
観覧車から降りたあとも、ぼくたちは無言だった。
先を歩くむつきママの背中を見ながら、ぼくは激しい自己嫌悪に捕らわれていた。
せっかくの楽しいデートだったはずなのに。
どうしてぼくはあんなことを聞いてしまったんだろう。
むつきママがどうしてぼくの家にいるのか。今の生活を築くことになった根本的原因。
それを深く問い詰めることは、ともすればママ5人、息子1人の疑似家庭の崩壊を招きかねないというのに。
むつきママは沈んだ表情でとぼとぼ前を歩いている。細い肩がいつもより小さく見えた。
ダメだ、このままじゃ。
ぼくはむつきママに何か言葉をかけて気まずい空気を振り払おうとした。
その瞬間だった。
ぎり、と。
心臓が透明な手で鼓動を止めるため鷲掴み(わしづかみ)にされる。そんな錯覚に捕らわれた。
水の中で何十秒ともがいたかのように自分の心音が凄まじい音量で鼓膜を振るわせ、全ての光景がスローモーションに移り変わる。
妙な寒気を覚えて上を向くと時計台の側で一瞬きらりと輝く光が見えた。
身体中の表面に電流が走る。
父さんと母さんが帰らぬ人となったあの時のような感触が、痛みが蘇り、凄まじい勢いで全身の細胞を浸食するみたいにぼくを突き動かす。
脳を灼く焦燥に駆られてむつきママに駆け寄った。二人の間に粘着質の液体が充満し、ぼくを阻むかのように一歩一歩が遠いものに感じられる。
「―――母さんっ!」
無意識のうちにぼくは叫んでいた。
まだ完全に振り向ききらないむつきママの身体を、ほとんど殴るような勢いで突き飛ばす。
それと同時に肉が裂け潰れる音がした。
時計塔の機構の一部から抜け落ちたのだろうか。
人差し指と親指で輪を作ったくらいの鉄パイプ。それがぼくの身体を地面に縫い止めるように胸を貫通していた。
口からかふっ、と息が漏れた。
激痛なんて言葉もなまやさしかった。冷たい鉄の異物が体内を突き抜ける感触は内臓が底冷えするようで、しかし全身は燃えるように熱い。
脂汗が全身から吹き出す。膝から力が抜ける。
終焉はあっけなく訪れた。
みるみる服を赤く染め、アスファルトの上に広がった染みが水溜まりを作り、抜け出す命の色鮮やかな赤を見てぼくは意識を手放した。
どこか遠い場所からむつきママの叫び声が聞こえる。それもすぐに耳鳴りにかき消され、やがて暗黒に飲み込まれていった。
『転入してきたキミを初めて見たとき、寂しそうな人だな……って、思ったの』
『だから私はあなたを支えてあげたいって心の底からそう思ったから……』
『今日から私、あなたが一人前になるまで、あなたのママになってあげます』
『むつきのこと、これからはママって呼んでくれなくちゃダメですよ』
最後に何故かぼくは、一番最初にむつきママと出会った日のことを思い出していた――――
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