巡りゆくもの・その1に戻る
いつも家に帰ってくるのはもちろん生徒であるぼくが一番である場合が多い。
だけど、化学部や美術部は毎日部活があるわけではないので下校途中に寄り道してたりすると、
今日のように委員長にこってり絞られたりしてたりすると、きさらぎママやうづきママが先に帰ってきている場合もある。
園芸部と図書委員会の顧問を務めるむつきママもそこそこには早く帰ってくる。
いつも帰宅が遅れるのは水泳部と陸上部をかけもちでみているさつきママと、保健室の先生を務めているやよいママだ。
まあ、それでもこよみ学園の部活動は夏でも7時までと決められているので、遅くとも全員8時には家に着いている。
我が家の家訓には『朝食と夕食は必ず家族全員で食べること!』というのがあって、
教員会議とかでよっぽど遅れない限りは六人全員がダイニングに居合わせることになる。
8時だよ!全員集合!!ということらしい。
「いただきま〜す!」×6
6人分の食事ともなると、広いテーブルも住宅事情にゆとりがない。ずらりと並んだ茶碗とお皿で空き地の一つもなくなってしまう。
「もう〜、おなかペッコペコでさあ〜」
箸の進みが一番早いのはやっぱり肉体労働者であるさつきママだ。水餃子を素早く片付けシーフードサラダを攻略にかかっている。
「コラッ、ツクモ!誰が肉体労働者だあっ!」
「なんで心の声がわかるんですか!?」
「なんとなくだっ!」
そ、そんなむちゃくちゃな…。
「んふふ〜♪んふう〜♪ふふぅふう、んふう〜、はっふ〜ん♪」
タルタルソースのかかったエビフライを嬉しそうな顔で頬張りハムハムかじっているのはうづきママだ。
そのあどけない表情は幸せいっぱいで見ていて微笑ましくなるくらいなんだけど、どこか目の離せない子供みたいでちょっと危なっかしい。
「きゃあん!?」
おっと、そう思っていたら案の定湯飲みを倒してお茶をこぼしてしまった。慌てて隣りにいたやよいママが布巾でテーブルの上を拭く。
「ほら、うづきさんもさつきさんもお行儀が悪いわよ。楽しんでお食事するのもいいんだけど、テーブルマナーはしっかりね」
そういうやよいママはさすがに箸使いも優雅だ。長い髪をわずかに揺らしながら、
しずしずと口元に箸を運ぶ様はまるで古典の授業で出てくる平安の姫君を連想させる。
「ツクモさん、おかわりいります?ご飯、まだたくさんあるからどんどん食べてくださいね」
みんなで決めたわけでもないのに、いつの間にかおさんどんはむつきママ、お茶汲み役はやよいママが受け持つようになっていた。
むつきママはさっそく茶碗を空にしたさつきママに新しくよそったご飯を手渡している。
「……肉……嫌いだから……」
一人だけキャラを間違っているような気がするがこれはこれで問題ないような気がする。
ママ達5人の中で、家に帰ってきて学校での印象と一番変わるのはやっぱりむつきママだと思う。
メガネ!三つ編み!そしてメイド服!
クラスの連中が見たらどんな顔をするだろう。
よくテレビの特集なんかでは大家族の食卓を“戦争”と表現することがあるけど、我が家の食卓は例えるなら“お祭り”である。
一見すれば女性ばかりできらびやかで華やかな印象を受けるが、和んだ空気の中には確実に熱い闘争心と食欲が隠されている。
だって考えても見るがいい。
あれほど料理のたくさんあったテーブルだって、気がつけば不景気の煽りを喰らって居住者のいなくなった住宅地区のごとく
空になった皿ばかりになっているのだ。げに凄まじきは女の食欲か。
夕食が終わったら、一番にお風呂に入ってその後は居間のテーブルで学校の授業の予習・復習。
やよいママが煎れてくれたお茶を片手に教科書の例題との格闘を終えると、なんとなく夜風に当たりたい気分になった。
カラカラとアルミサッシの窓を開け、庭に出てみる。
師走町の夜は静かだ。やんわりとした星の光に照らされ世界はひっそり静まりかえっている。
縁側に腰を下ろして持ってきたままのお茶を飲み干し一息ついた。
熱いお茶の代わりに肺腑に流れ込む冷たい空気が勉強疲れした身体に心地よい清涼感をもたらす。
やよいママがぼくのために買ってきてくれたお気に入りの湯飲みをおいてなんとなしに夜空を見上げる。
ママ達がやってきて、毎日がドタバタで、でもなんだかとても心地よい気分でくつろげる。そんな生活が当たり前になってしまった今。
幸せ、だと思う。
―――だけど、何故だろう。
ときどき発作的に強い不安に襲われることがある。
あのときのように。
父さんと母さんのように。
いきなり、不意に、まったくの突然に、ママ達がぼくの前からいなくなってしまうのではないかと。
一抹の冷たい風が吹き付けぼくの前髪を揺らす。身を切るような寒さに服の胸元を強く握りしめた。
家族の温かさを知らずに生きてきた。みなしごであることの陰口に耐え、孤独を背負いながら生きてきた。
そのことが当然だと思っていたし、別段つらい事とも感じていなかった。
だが、今は違う。
あの人達は……ママ達はぼくに人の優しさを教えてしまった。擦り切れた心に暖かな感情を吹き込んでしまった。
一緒に暮らす家族がいる。そのことがどれほど安らいだ気持ちになれるのか、ぼくは知ってしまったのだ。
ママ達はぼくが大人になるまで側にいると言ってくれた。では、大人になるとはいつまでのことなのだろう?
一ヶ月先か、一年先か。それともぼくが高校を卒業するまでだろうか。
にぎやかな食卓、笑い声の絶えない家。柔らかい温もりに触れているうちに、いつしかぼくはそれを失うことに怯えるようになっていた。
ママ達が去った後、一人きりで過ごす夜にぼくは耐えることができるのか?帰らない温もりを振り切ることができるのか?
―――わからない。
そのことを考えるといつだって心臓が締め付けられる。
いつかは必ずママ達と別れなければいけない。それは決して変えることのできない未来なのだと思う。
けど、今は。まだママ達がこの家にいる今は――その日ができるだけ遠いことを願う。心から。
「あ、ツクモさん。お星様を見ていたんですか?」
「わうっ!?」
心臓が飛び上がるかと思った。
振り向くと、パジャマに着替えたむつきママが微笑んでいた。
まずい。今ぼくは心配そうな顔をしていなかっただろうか。慌てて笑顔を作ってむつきママに向き直る。
「うん、明日も晴れそうだなって」
「天気予報だと明日一日は絶好の行楽日和ですって」
むつきママはにっこり笑って嬉しそうに夜空を仰いだ。よかった、どうやら気付かれなかったようだ。
お風呂上がりなのか、むつきママの長い髪にはしっとりしたつやが残っている。
「知ってますか?この季節は夏と秋と冬の星座が一緒に見られるんですよ」
そういってむつきママは細い腕を伸ばして北東の空を指差した。
「あれはペルセウス座。ギリシャ神話では勇者ペルセウスは視線のあった者を石にしてしまうという怪物ゴルゴンを退治して
美しいアンドロメダ姫を助け、死んだ後に天界に登って星座になったと伝えています。あっちの星座は……」
むつきママは次々と星座の名前とそれにまつわるおとぎ話を教えてくれる。
ぼくはできるだけさっきまで自分が抱いていた不安に気付かれないようむつきママの話に相づちを入れた。
不思議だ。むつきママの話を聞いているうちに胸の締め付けが少しずつ和らいでいくのを感じる。
そばにいてくれるだけで、こんなにも暖かい気持ちになれる。
ぼくは知らず知らずのうちにむつきママの顔を、彼女の瞳にきらめく星空を覗き込んでいた。
「ツクモさん。ツクモさん?」
「――え?」
「どうしたんですか?なんだかぼんやりして」
「あっ、いや…なんでもないよ。ははっ……」
なんかもう死ぬほど照れくさくなって視線を夜空に戻した。
その瞬間、視界に一筋の光芒が流れ落ちる。
「あっ」と言う間に消えてしまった。
流れ星だった。
「見ました?」
「ちょっとだけ。願い事している暇なんてなかったけど」
ぼくがそう言うと、むつきママははにかんで両手を胸元で組み合わせる。
「むつき、子供の頃から流れ星を見たら願い事を3回言えるように早口言葉を練習していたんです。
むつきは口下手だからあんまり上手にはなれなかったんですけど。
でも、そのうちにどんなに早く言えるようになっても3回もお願いするなんて無理だって気付いたんです。
きっと世界一早口言葉が早い人でも難しいくらいなんじゃないか、テープに録音して早送りしても間に合わないくらいなんじゃないかって。
だから今は流れ星を見たらお星様が見えなくなってからでもいいから願い事を言うことにしてるんですよ。
もしかしたら、お星様がオマケしてくれて願いが叶うかもしれないから」
そしてまるでこれから何かとてつもなく楽しいことが、胸をドキドキさせるような嬉しいことが始まるかのような
そんな気にさせてしまう明るい声で言った。
「だから、せっかくですからお願いしちゃいましょう。ね?」
「う、うんっ」
ぼくたちは二人並んで遠い夜空の星に向かい、手を組んで目を閉じた。
願い事を心の中で唱えている最中、薄く瞼を開いて横目でむつきママを見つめてみる。
淡い光に彩られたその横顔はどこか儚くて、まるで祈りを捧げる聖女のようだった。
「……むつきママは何をお願いしたの?」
願い事が終わったあと、ぼくがそう尋ねるとむつきママは囁くような声で、「……国家機密です」なんて答えた。
「きさらぎさんのマネ。似てました?」
「―――ぷっ、あははっ」
思わず吹き出してしまう。全然似てなかった。
笑っているぼくにちょっとだけむっとした顔でむつきママが唇をとがらせた。でも、怒った顔まで可愛いなんて反則だと思う。
「もう、ツクモさんはなんてお願いしたんですか?」
「それじゃ、ぼくも国家機密にしようかな。そんなにたいしたことじゃないけどね」
「あん、教えてくれたっていいじゃないですか」
おどけるようにして誤魔化して見せたけど、ぼくの願いなんて決まっている。
ママ達と、ずっといっしょにいられますように――――
目に溜まった涙をぬぐうとき、むつきママの手にチケットのような紙切れが握られていることに気付いた。気になったので聞いてみる。
「むつきママ、それは?」
「あ、いけない。すっかり忘れちゃうところでした」
むつきママはその紙を広げてぼくに手渡した。たくさんの風船が飛んでいる遊園地のイラストに『自由遊覧入場券・大人』と書かれてある。
「今日お買い物に行ったら八百屋さんの福引きで当たったんです。遊園地の乗り物が全部一日フリーパスになるんですって。
それで…もしよかったら明日はあなたと一緒に遊園地に遊びに行きたいと思って」
「みんなで遊園地か……いいなあ」
家族で遊園地。残念ながらぼくが子供の頃にはついに叶えられなかった願いだ。
もし子供の時に星に祈りを捧げていれば父さんと母さんに会えなくなる前に遊園地に連れて行ってもらえただろうか。
むつきママはちょっと困ったような顔をしていた。
「あの、違うんです。このチケットペアでしか使えなくて6人では行けないんです。
だから、あなたにむつきと二人で行ってほしくて……ダメですか?」
むつきママと二人っきり。それってデートっていうんじゃないのか?
少し迷ったけどせっかくむつきママが誘ってくれたんだ。ぼくは二つ返事で受けることにした。
「うん、構わないよ。明日は特に用事もなかったし、たまには二人で遊びに行くのもいいよね」
それを聞いてむつきママは眩いばかりの満面の笑みを見せた。
「よかったぁ〜。むつき、明日は早起きしてお弁当いっぱい作っちゃいますからね」
その笑顔を見たときには、もう不安なんかどこかに吹き飛んでいた。
かわりに心がじんわりと暖かい温もりで満たされていくのを感じていた。
それから一緒に家の中に入るとむつきママはすぐに自分の部屋に戻っていった。
明日のために早寝しておきたいそうだ。
「それじゃ、おやすみなさい」
弾む声を残してむつきママの姿が廊下へと消える。三つ編みの髪が背中で小さく揺れているのが印象的だった。
残されたぼくはなんとなしに部屋の中に立ち尽くす。
明日はむつきママとデート、か……。
もう一度、窓の方に歩み寄って星空を見上げてみる。
夏と秋と冬の星座は遥か遠い神話の頃と変わらない光でぼくを見下ろしていた。
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