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巡りゆくもの〜前編〜




「―――筆を執れば物書かれ、楽器を採れば音をたてんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ。
 心は必ず事に触れて来たる。かりにも不善の戯れをなすべからず。あからさまにも聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。
 卒爾にして多年の非を改むる事もあり。かりに今、この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。
 これすなはち触るる所の益なり。心さらに起こらずとも、仏前にありて数珠を取り経を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ
散乱の心ながらも、縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。事・理もとより二つならず。
 外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし―――」



 透明な声が淀みのない流れで古文のテキストを読み上げている。
 時計の針はノンビリ歩きで一歩一歩マイペースに進んでいて、
外はくっきりと茜色の陰影が焼き付き窓自体が巨大な一枚の絵画のように鮮やかな色彩を放っていた。金曜日の6限目。

 教室には私語のひとつもなく、クラスの連中も皆その声に聞き惚れている……というわけではなく、
大半が一週間の間に積もった疲労と耳元で囁きかける睡魔にうつらうつらと梶を漕いでいる。

「ここで言われている『攤』とは『撒き散らす』という意味で、
中国では攤銭という銭を撒き散らしてその表裏をあてる賭け事があって、賽はサイコロのことを表します。
つまり、筆を持つと何か書きたくなるし、楽器を持つと音を出したくなるし、盃があったらお酒を飲みたくなるし、
サイコロを持つとギャンブルをしたくなってしまうということです」

 それにしてもこの柔らかな声の耳に心地よいこと。疲れた身体ではどんな授業も眠くなるだろうけど、
彼女の声は全身を任せられる穏やかな安らぎに満ちている。まるで子守歌だ。

 古典の題材は子供の頃寝る前に母親が語ってくれた昔話にも似ている。
 似ているだけではなく昔話の原型となったものだってある。
 今よりも人が少なく、自然の多かった時代。情緒豊かで親しみやすい人々の暮らしに織りなされた愛情や憎しみ、自然の美しさへの驚嘆、
戦での勇猛と悲惨、それと日々の生活で思いついたちょっとした面白いこと。
 それらが脳の中に潜む、枕元で聞かされた物語の記憶を喚起しないはずがあるまい。
 黒板の文字も眠りの世界へ手招きしているよう。部屋の中はすでにまとわりつく眠気の粒子で飽和状態だ。

「ですから十四世紀に私たちの国の隠者の説いたこの考え方は、
二十世紀に提唱され一時期世界の哲学界を席巻したプラグマティズムや、
十七〜十八世紀のイギリスで生まれた経験論の考え方と非常によく似ており、人間の気持ちは物事に触れておこるものであり
現象とその本体たる心理とは元来別々による物ではないから、心を収めるためには……」

 そして、いつもと同じようにチャイムは鳴り響き、いつもと同じように放課後はやってくる。

「はい。これで今日の授業はおしまいです。次の範囲は273ページからですので、
みなさん予習を忘れないでやってきてくださいね」

 その一声でゾンビ状態だった生徒達がゆっくりと息を吹き返す。
 教科書を閉じて、その国語教師一文字むつき―――この学校で評判の美人先生―――は疲れを感じさせない朗らかな笑顔で微笑んだ。





「むつき先生、授業お疲れさまっ」

 教室の掃除が終わった後、ぼくは生活指導室で書類の整理をしているむつき先生に声をかけた。

「はい、白露クンもお疲れさま」

 一人パイプ椅子に腰掛け長机で書類分けをしていたむつき先生はぼくに優しい瞳を向ける。
 綺麗、というよりは可愛いと言われる顔立ち。どことなくおっとりした印象を受ける目元といつもほころんでいるような唇。丸みを帯びた小さな顎。
 腰まで伸びた長い栗色の髪は真ん中の辺りで二房にまとめられ丸い髪留めで留められていて、
ブラウスの胸元を黒いリボンで結び、皮のロングブーツ、紫紺のロングスカートを黒いサッシュベルトで締めている。

「今日の授業、どうだったかしら?わかりにくいところなかったですか?」

 窓から入ってくる斜陽が彼女の栗色の髪を染めてよりいっそう明るく輝かせていた。

 むつき先生はまだ教師になって1年目の新任教師だ。年齢だってぼくとそんなに離れていない。
 初めて担任を受け持つクラスがいきなり3年生なのは彼女の優秀さに学園長が惚れ込んだから、という噂もある。
 事実、才色兼備を体現したかのような彼女の授業は懇切丁寧な教え方で―――ときどき教材である小説に
のめり込んで感極まって泣き出してしまうのは問題だが―――わかりやすいと生徒達からもすこぶる評判である。

 だけど、今年の春まで彼女は学生だったのだ。今まで学ぶ側だったのが教える立場にまわって、しかも相手は受験に進路に悩み多き年頃だ。
 まだ初心者マークの抜けきらない彼女がプレッシャーを感じてなんかいないはずがあるまい。

「大丈夫だよ。日本の古典に書かれている考え方がずっと後になって西洋で生まれた思想とカブっているって
ところの説明なんてとても分かりやすかったと思うし」

 だからときおりぼくはこうして彼女の質問に答えて自信を付けてもらう。少しでも彼女にかかる重圧を取り除いてやる。そのことをささやかな楽しみとしていた。
 ぼくは少しばつの悪い笑みを浮かべて言った。

「ほとんどみんな半分睡眠状態だったけどね。委員長はちゃんと最後まで聞いてたみたいだけど」

 実のところ、ぼくも少し寝ていたのだ。

「6時間目は仕方ないですよ。先週、文化祭も終わったばかりですから」

  むつき先生は目を細めてちょっぴり悪戯っぽく笑った。

「本当のところを言うと、むつきもアクビがでちゃいそうなのを頑張ってこらえてました」

 そうしてドアへ目をやると、戸の側に人がいないことを確認して声を潜める。

「たまにはツクモさんと一緒に帰りたいですね……ふふっ、今日はお夕飯、何が食べたいですか?」
「そうだなぁ。お腹空いたからとにかくいろんなものをたくさん食べたい。むつきママのお任せで」

 学校のみんなには絶対に話せないぼくたちだけの秘密。
 そう、むつき先生こと一文字むつきはひょんな事からぼくのママ(!)になってしまったのだ。
 ぼくとむつき先生は同じ家で暮らしていて、寝食を共にしている。
 ママと言っても本当の親子というわけではない。法律上生じた義理の母子関係でもない。
 彼女が『ぼくのママになりたい』と願った。ただそれだけのために生まれた生徒と教師、息子と母親の奇妙な二重生活。

 しかも、ぼくの『ママ』になった先生は彼女だけではなく―――

「……あら」

 突然むつき先生はきょとんとした表情でぼくの顔を凝視した。

「ん、なに?」

 ぼくの問いに答えずに、むつき先生は立ち上がると固いリノリウムの床に触れたブーツの踵をコツ、コツと鳴らしながらぼくに歩み寄ってくる。

 ―――え、えっ?
 なんだ、どうしたんだ。

 わけのわからないうちにむつき先生は無防備なくらいぼくに顔を近づけた。手を伸ばせば届く距離、
彼女の身体からほんのりと香るミルクのような甘い匂いがはっきり感じ取れるくらいの距離。

 清楚を絵に描いたようなむつき先生だけど、ブラウスの胸元から覗く肌の白さ、
そして学校だからという理由もあるけどもともと化粧気の少ない彼女の唇に薄く塗られたリップクリームの艶やかさに思わずドキリとしてしまう。

「制服に糸くずが―――」

 ぼくに手を伸ばして、そのままずるっとむつき先生は足を滑らせた。

「きゃあっ!?」

 可愛い悲鳴を上げながら倒れ込むむつき先生。
 とっさにぼくは後に倒れながら先生の身体を手で押さえていた。

「…うっ…、だ、大丈夫?」

 むつき先生に押し倒されたような体勢のままぼくは尋ねる。倒れるときに強く打ってしまったお尻が痛い。
 鼻先にはふんわりいい香りのするむつき先生の栗色の髪。

「は、はい。大丈夫です……ううっ、また、やっちゃいましたぁ…………ぐすっ」

 綺麗でおしとやかで、非の打ち所がないように見えるむつき先生だけど、少しばかり、いや、か〜なりおっちょこちょいなのが玉にキズだ。
 全身に心地よい重みを感じながら、ぼんやりぼくは考え込んでしまう。

 どうして何もないところで転べるんだ?

 涙目になっていたむつき先生はムズムズと体を動かして恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「あ、あのツクモさん、その……手が胸に……」


 ぐにゅ。


 言われて初めて気がついた。ぼくはむつき先生が倒れ込んだ瞬間、とっさに体の重心を支えようとして彼女の身体でもっとも柔らかいところ、
すなわち乳房を握りしめてしまっていたのだ。
 ブラウス越しに小さいけどふにふにした弾力が手のひらに感触として伝わってくる。

「あっ、ご、ゴメン!」

 慌てて手を離し起きあがろうとして。


 ―――視線が合ってしまった。


 その瞬間、ぼくたちはお互いの瞳に引き込まれたように動けなくなっていた。
 絡み合う脚、もつれた身体。
 ここが学校の中だとは思えないほどの危ういタイミングで。お互いの吐息が顔にかかる。
 とくん、とくんと。密着した柔らかい身体から緊張が伝わってくる。
 一瞬が永遠にも感じられる長い時間、ぼくたちは見つめ合った。
 むつき先生の瞳に映る自分はどうしようもないくらい赤い顔をしていた。

「…………」

 不意に、むつき先生は目を閉じた。

 ―――ちょっ、ちょっと待ってくれ!?ぼくは叫びだしたい衝動に駆られた。

 なんでいきなりどうしてこんな。
 女の子が―――と言ってもぼくより年上なんだけどとにかく女の子が―――無防備に目を閉じた時のサインの意味は一つしかないわけで。
 今はほんのすこし首を動かしただけで彼女の顔に触れてしまうことができてしまう状況で。

 やっぱりこれはそうなんだって考えるしかないんだけど―――いやちょっと待て。
 もしかしたらむつき先生はぼくをからかっているだけでその気になって少しでも動いたらとたんに目を開けて
「ふふっ、ビックリしましたか?」なんて笑い出すんじゃないだろうか。でも、ぼくは彼女がこの手のからかいをするような人ではないことを知っている。
 お風呂に入ってきて背中を流してくれるくらい無防備で、汚れを知らない清純な少女がそのまま大人になったような人なのだ。彼女は。
 それじゃあ、やっぱり―――

 悩ましいまでに瑞々しく、曲線を描いた唇。頬を赤らめ、閉じた瞼を震わせながら、むつき先生はぼくを待っている。
 ああ、可愛いな……、と思った。
 ママとか、先生とか、お互いの立場だとか、どこかに溶けていくようだった。
 どこかもうろうとした意識の中で、ゆっくりとむつき先生の顔に唇を近づける。少しずつ、少しずつ、彼女の顔が視界いっぱいに広がっていき―――


 バタン!


「オースッ!むつきいるかー?」「むつきさん、いるかしら〜?」「むつきちゃ〜ん、あそぼーっ!」


 
20年前のドラマかよ―――!?


 ドアを開けて入ってきたのは体育のさつき先生、保健室のやよい先生、美術のうづき先生だ。
 3人は部屋にいるぼくたちの姿を見て目を丸くした。

「おっ、おまえらなにやってんだ!?」
「あらあら、お邪魔だったかしら」
「うわぁっ、むつきちゃんダイタ〜ン!」

 口々にはやし立てる3人に、ぼくたちは慌てて体を離して正座した。
 いや、正座する必要はなかったような気はするけれども、なんとなくしてしまった。

「ち、違うんですっ!むつきが転んじゃってツクモさんが受け止めてくれて……」「これは不可抗力ってヤツで――!」

 一緒になって弁明するぼくたちを遮るように、

「……とってもスキャンダル……です……」

 きさらぎ先生――は化学教師――がいきなり掃除用具入れの中から顔を出した。(いつの間に入ってたんだ?)

 実は彼女たちこそむつき先生とともにぼくの『ママ』となった先生達だ。
 『ママ先生』、密かにぼくは彼女たちのことをそう呼んでいる。
 彼女たちとの生活はいつも笑いとドタバタに満ちていて……最初は疎ましく感じていたはずなのに、
いつの間にかぼくは彼女たちに癒されているようになっていたんだ。

 って、今はそんなことを考えている場合じゃないよな。先生達の誤解を解かないと。

「なんか怪しいなぁ。おまえら二人だけなのをいいことに……あ、あんなこととかこんなこととか………ごにょごにょ」
「どうしたのぉ?さつきちゃんもむつきちゃんもツクモちゃんもお顔真っ赤っかだよぉ?」

 言いかけてさつき先生は顔を赤らめ視線を心持ち上向きにそらした。自分で考えた想像にテレているのだ。
 うづき先生は二つの髪の束を揺らすようにきょろきょろしている。

「だから、転びそうになったむつき先生をぼくが受け止めただけで、何にもヘンな事なんてしてないんだ!」

 ぼくが主張すると、腕を組んだやよい先生がピンと立てた人差し指を顎に当てて、

「むつきさんがツクモクンを巻き込みながら転んでしまったのは本当みたいね。でもそのまま勢いで――」

 ぼくとむつき先生の顔に交互に見比べると秀麗な顔にクスリと見透かすかのような笑みを漏らした。

「――キス、しようとしてたんじゃないの?」

 ぼくたち二人は何かを言い返そうとして――何にも言葉が思い浮かばずそろってゆでダコになった。
 と、そこへ、

「きすぅ!?白露クンと一文字先生がキスですってぇ――!?」

 3人の後ろから素っ頓狂な声が聞こえた。

(あっちゃあ…っ)

 一番来てほしくない人が来てしまった。黒いウェーブのかかった髪、白いヘアバンド。
 七転ふみつき、ぼくたちのクラスの委員長は先生たちを押し分けると正座しているぼくの目の前に仁王立ちした。
 握りしめた拳を震わせうつむき加減にぼくを睨み付ける。

「ふっ、ふっ、ふっ………」

 笑っているわけではない。力を溜めているのだ。
 やばい、アレが来る―――!
 慌てて逃げ出そうとしても遅かった。

「不潔よ―――――――――――!!」



 周囲の窓ガラスを震わせるほどの大音量が委員長から発せられた。





 それから1時間、委員長をなだめるため状況の説明を何度も繰り返したあと、
結局帰りに喫茶店のケーキ&ティーセット(580円)をおごらされる羽目になった。





 
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