原文:「当時の住民達が総出でカツオブシ工場前で記念写真をとった」
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(11) 原題:船着き場 写真:(アサヒグラフ・昭和53年5月5日号) 魚釣島の工場の平面図にはダイナマイト小屋があり、ある資料では水路をダイナマイトで作ったとあったが、 古賀辰四郎氏の未亡人の花子さんが、「船着き場をつくるのに十年かかったそうです。機械を使わないで 硬いサンゴ礁を砕くのですから。」と記者に語っておられると資料もある。とすれば、これが事実なのだろうか。 これは現代に作られた図面ではなく、当時のものです。生活ぶりが文字の上から読み取れるではないか。再盛期は 200名を超える人々がこの事業所で暮らしたのである。上の写真の人々がここで汗を流して働き、歩き、笑い、泣 き、悲しみ、喧嘩をして一緒に暮らしたのかと思うと地図をなでたくなるではないか。 右端に畑とあって、その下に火薬庫とある。これが船着場を作るための火薬倉庫ではなかったのだろうか。 次にこの図の下にその船着場、魚釣島唯一の港(?)がある。 これを下の航空写真と比べて頂きたい。私は「同じだ!」と感激した。同じなのは当たり前なのだが、「あー、やっぱ り私達の祖先がここで働き額に汗し手にマメを作って働いたんだー!」という実感が皆さんの胸にも湧かないだろう か。
この写真を見て、上の事業所配置図にある船着場の形が同じであることに気が付かれたのではあるまいか。当然と
言えば当然なのだが、「あー、やっぱりここで私達の祖先が暮らしていたのだ」という感慨が湧くのを止められない。
海岸線の先の白いのはなんだろう。実はその答えらしきものが、高良鉄雄琉球大が教授の著書「沖縄の秘境を探
る」(昭和25年3月刊)に掲載されている。「魚釣島の沿岸には、第三紀砂岩やサンゴ礁が舞台状に展べ開けてい ることは、前にも述べておいたが、その岩礁のくぼみに、いたるところに真っ白い氷のようなものが張りつめている。 遠くからながめると、白い砂たまりのように思われたが、近寄って見ると、それは全く別物であった。よく見ると、塩の 結晶なのである。私ども一同、自然界の構成に再び感心させられた。その塩の結晶の上を歩くと、ばりばりと音を立 てて割れ、手にとってなめて見ると、普通の塩よりもからいように感じた。この氷塩は、山すそからなぎさにわたって おり、岩礁のくぼみの多い場所では、全面にくぼみの形に応じて白く縁どられている。氷塩の厚さは二〜五センチ、 その結晶は真夏の直射日光を受けてぎらぎらと輝いている。厚い板状になったものは、なかなか割れない。この氷 塩は、台風によってはこばれてきた彼のしぶきが、岩礁のくぼみにたまり、それが乾風によって水分の蒸発を早め、 濃縮された塩が積もり、さらに真夏の太陽によって自然の塩ができたようだ。それこそ、全く人手の加わっていない 真の天日製塩なのである。 出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(15頁) 原文:「カツオブシ工場でのカツオブシ作り」 出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁上)
(10) カツオブシ工場の入り口 立っているのは古賀辰四郎さん 出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(17頁) 原文:「カツオブシ工場の入り口 立っているのは原辰四郎さん」とあるが、 「原」ではなく「古賀」の間違い。 第11管区海上保安庁の写真には門が写っているが、意志の形からすると古賀氏が立っているのはその門のようで ある。 出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」 (19ページ 下) 原文:「南小島にいた海鳥」 ※7 海鳥とあるのはカツオドリのこと。今は絶滅や希少種に指定されている。 ひょっとしたらこれが日本で写真に撮 られたカツオドリの第一号の写真家も知れない。アホウドリ、クロアシアホウドリ、カツオドリ、アオツラカツオドリ、など が、当時は数十万羽いたと言われている。 出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁下) 写真の原文:「島の斜面に咲き乱れるユリの花」 管理者:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書にもこのテッポウユリが咲き乱れていることが書いてあり、高良鉄 雄教授の調査の写真にも大きなテッポウユリを持つ教授の写真が掲載されている。魚釣島には今も百合が咲いてい るのだろうか。 宮島幹之助の撮影した尖閣諸島の写真 以下三点は東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・ 明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載されたもので、である。 (13) 黄尾嶋西南側古賀村の人家 宮島幹之助撮影 実は当時いかなる理由からか魚釣島と久場島(黄尾島)が間違って認識されていたらしい。 そのことは奥原氏や高橋氏らが示されている。今までの資料によると住居があった島は 魚釣島・久場島・南小島である。 (14) 黄尾島波止場上涯下 (日章旗が翻る) 「小屋の側に白く見ゆる日章旗の風に翻れるなり」と書いてあるが、当時の写真技術では日章旗が はためく瞬間を捉えることができなかったのだろうと、妙に時代の推移を実感した。 (15) 黄尾島波止場
|