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牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八五六(安政三)年に福岡県
八女郡山田村(※注1)に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家 だった。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。
一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来
どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもって いなかった首里城を接取し、武力を背景に琉球処分をやった年である。
琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にでて中国を訪問した際、李鴻
章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼まれ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧 野清氏は、古賀氏は生来進取の気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四 月に沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で燕尾服を着たのも、ドイ ツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾 探検をしたのは一八九七年であったが、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密 糖製造を始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。またいちはやく大東島 の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまった。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九 年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目 であった。
牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その
有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同 島にも目標の事業を始めた、となっている。これはどうも手際がよすぎる。
上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十七(一八八四)年人を派遣し
て列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。
一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る由もないが、八重山歴史と島
の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島 を探検している時に初めて開発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。
ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置県後に那覇に渡った古賀
は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検した、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の 直前である」と書いている。
『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にこころみたのは熊本県下益城郡河江村字住
吉出身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した 「尖閣列島―歴史と政治のあいだ」に伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書 いている。「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ごろから古賀辰四 郎が魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を始めるようになる。こうした事 態の推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲 丸による実地踏査を届けでた」、「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に沖縄漁 民ととともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まることなく石垣島にもどり、次いで翌々 二十六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が 尽きて失敗する。同年にはさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州に 漂着している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場島に伝馬船で向かうが、かれ らも風浪のため失敗している」。
尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争
古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこ
う語っている。
「当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者
が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんです ね。そこで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のこと ですがね。
この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、
父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、 まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日 本領とするようしきりに上申しまた。
明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探
検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切 らせた理由と思います」
そこで「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」自身はどうなっているのかを、彼が一八九五年六
月十日付で野村靖内務大臣にだした「官有地拝借御願」によって見てみよう。
古賀辰四郎氏はさらに、この「御願」のなかで、バカ鳥が多いといっても無限のものではなく、競争、乱獲ということ
になると繁殖保護も難しく採算も取れなくなるから、官有財産管理規則第七条二項の規定によって、全島を自分に貸 してほしいと述べている。 この「御願」は古賀氏自身が書いたものではあるまい。このような文書が書けるならば、古 賀氏の手になる探検記録があるはずである。ところが古賀善次氏のいっているように詳細な探検の記録は残ってい ない。おそらく、この「御願」は役人の手を借りたものであろう。
古賀辰四郎氏と尖閣列島とのかかわりあいについては、何人かの人たちは一八八四(明治十七)年といい、古賀
氏自身は一八八五年といい、『沖縄の百年』第一巻では、日清戦争の直前というから一八九三年か一八九四年から であったであろう。古賀氏が本籍を福岡から沖縄に移したのは一八九五年であり、彼は腰を据えて事業にとりくむこ とになった。古賀氏は寄留商人ではなくなる。
とにかく、古賀辰四郎氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、捨ててある夜光貝などの貝殻をボタンの材料とし
て、神戸に売って(年間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだし、ユクン・クバ島のバカ鳥という資 源に目を付けて、政府に開拓させてくれと何度も願いでたが、政府は「我邦ノ所属タル事判明無之」と許可しなかっ た。ところが、日本が日清戦争に勝って、一八九四年十二月二十日には中国から、張蔭桓、邵友濂氏を講和全権と して任命した旨アメリカ公使を通じて日本に連絡してきた。十二月二十五日に中国は、朝鮮の自主独立を認めると宣 言したのだから、朝鮮を支配するために、朝鮮から中国の勢力を一掃しようとした日本の戦争目的は、完全に果され たことになる。そして時を移さずそれから二日後の十二月二十七日に内務大臣は外務大臣にバカ鳥の島を閣議にか けることを協議した。野村靖内務大臣が陸奥宗光外務大臣にだした協議文書には「其当時(筆者注 明治十八年)ト 今日トハ事情モ相異候ニ付」とあり、外務大臣には異議はなかった。事情がどう異なったのか。それは日清戦争で勝 ったということ以外にはない。そして尖閣列島は、この日から「劃然日本の所属ト確定」した、というところに重大な問 題があるのであって、古賀辰四郎氏がいつ尖閣列島に行ったかということはさして問題ではない。翌一八九五年一 月十四日、伊藤博文内閣は、このバカ鳥の島を閣議にかけて、「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣 島ト称スル無人島」に標杭を建設することを認めた。日清戦争に勝ったとたんに待ってましたとばかりに、日清戦争の 処理で忙しい政府がバカ鳥の島を閣議にかけたことについてはどんな事情があったのか。これはどうにも理解に苦し むところである。
一九一〇(明治四十三)年一月一日から九日まで、『沖縄毎日新聞』は藍綬褒章を受けた古賀辰四郎氏の業績を
たたえる「琉球群島における古賀氏の功績」を連載した。筆者はこれを見ていないが、井上清教授によればつぎのと おりである。
明治二十七(一八九四)年(古賀氏は)同島(釣魚島)の開拓の許可を本県(沖縄県)知事に請願したけれども、当
時同島の所属が帝国のもなるや否や不明確なりし為に、却下せられしより、更に内務・農商務大臣に宛て請願書を 出すと同時に、氏は上京して親しく同島の実況を具陳して開拓を懇願したるも、尚ほ許可せられざりしが、時々に 偶々二十七、八年戦没(日清戦争)は終局を告げ、台湾は帝国の版図に帰し、二十九(一八九六)年勅令第十三号を 以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより、直ちにその開拓に就き、本県知事に請願し、同年九月初め て許可を与えられ、茲に同氏の同島に対する多年の宿望を達せり(『歴史学研究』一九七二年第二号)。
ここに「勅令第十三号を以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより」とあるが、勅令第十三号には、そ
んなことは何も書いていない。おそらく沖縄県知事は勅令のでるのを待っていたのであろう。ところが勅令第十三号 は半年経っても一年たってもでない。沖縄県知事は内務省に、どうなっているのか照会したものと思う。ところが中央 では、台湾までわが国の版図にはいったのだから魚釣島、久場島などについて面倒な手続きなどはまったく必要な いといわれたものであろう。
『沖縄毎日新聞』の記事でもわかることは、古賀辰四郎が親しく中央に働きかけたということである。室伏哲郎著
『汚職のすすめ』によると、バカ鳥を閣議にかけた野村靖内務大臣は、東京市の水道用鉄管の国産会社「日本鋳鉄 合資会社」の不正を一八九五年十一月に、東京市参事会が告発したとき、東京市会の解散を命じた人物である。日 本鋳鉄合資会社の創立者雨宮敬次郎は獄中から森検事を二、○○○円で買収し、証拠不十分で免訴となり出獄し たという当時の情況があった。古賀辰四郎氏が親しく働きかけた内容は何であったのか、これはあきらかではない。 一八九一年七月二十七日の官報に載った大臣の年俸は内閣総理大臣九、六○○円、各省大臣六、○○○円、次 官四、○○○円であった。これに対して一八九六年三月現在の職業別の平均賃金は、機織女工は上等で月に四円 五○銭であり、下等で二円二○銭だった。農作の日雇労働者は上等で男は一日二○銭、女は一八銭であった。だ から二、○○○円も積めば検事だって買収できたわけである。
それにしても、伊藤内閣のこの素早い反応は、古賀氏の働きかけのみによったのであろうか。当時の沖縄の政治、
経済、社会をもみなければなるまい(本書Zの(8)を参照)。
奥原敏雄教授はこの点に関して、雑誌『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島の領有権の根拠」でこの
ように述べている。
わが国が尖閣列島を領土編入した明治二十八年一月十四日(閣議決定)という時期は、すでに日清戦争において
日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉がまさに始まろうとしていた時期である。台湾を日本に割譲することにつ いて、列国の承認も取り付けていた時期である。政府がそうした時期に尖閣列島の沖縄編入を認めるに至った背景 に、台湾をも失うことをみとめた清国が、無主地のごく取るに足らない尖閣列島の帰属をめぐって、まず争うことはない であろう政治的判断があったことは想像にかたくない。
しかしながらそうした微妙な時期における領土編入が、ともすればわが国が尖閣列島の領土編入を見送ってきた
背景、あるいはそれを編入するに至った時期に、とかくの疑惑を生じさせ、日本は尖閣列島が中国領土であると思っ ていて、ひそかに時期を狙い、日清戦争の結果として、日本が勝利を確定的なものとするに至った時期に、これを処 理したのではないかと疑問を持たせる余地を残すことになる。そしてこれは一般的にもっともな疑念だと思う。
奥原教授はこの論文で、「天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営
が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった」とする井上清教授の見解(井上清著『尖 閣列島』)、「日清戦争での勝利を機会にし背景にして、日本がさらに戦争を拡大している情況のもとでなされた至極 あいまいな『先占』というものの実質は中国から奪った台湾省の一部を先取りしたことにならないか」(高橋庄五郎論 文「いわゆる尖閣列島は日本のものか」『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号)という疑問に対して、一般的にも っともな疑念としているが、奥原教授はあくまでも、尖閣列島は国際上の無主地であったと主張する。
バカ鳥と古賀辰四郎氏
尖閣列島には、どんな海鳥が、どのくらいいたのであろうか。
古賀辰四郎氏がバカ鳥と呼んだ鳥は、アホウ鳥ともトウクロウとも呼ばれ、またの名を信天翁ともいわれていた。尖
閣列島にはこのほか、クロアジサシ、セグロアジサシ、カツオドリ、オオミズナギドリなどがいた。
そして北小島にはセグロアジサシ(背黒鰺刺)、クロアジサシ(黒鰺刺)が、南小島にはカツオドリがいた。二○○メ
ートルしか離れていないのに海鳥が異なっていた。南小島と北小島の情況について黒岩恒氏はこう書いている。
余が着島の節は(五月)産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て算すべし、これ英語に所謂
Ternなるものとして、尖閣の諸嶼にかぎり、釣魚黄尾等の諸嶼に見ず、其空中を飛翔するや、天日為めに光を滅する の観あり、カンエイ水路誌(明治十九年刊行の海軍水路局の水路誌)記して、其鳴声殆んと人をして 聾せしむと云へるは、誠に吾人を歎かさるなり、若し夫れ閑を偸みて北小島の南角に上らんか、幾万のTernは驚起 して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して頭上を?翔すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸 次下り来たりて吾か周辺に群集し、同類以外復怪物あるをしらさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なるかを 疑はしむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさるなり(筆者注 ふりがなは筆者)。
古賀辰四郎氏」は、年間一五万羽も海鳥を捕獲した。
バカ鳥と古賀辰四郎氏がいなかったら明治時代に尖閣列島は問題にならなかった。
日清戦争のあとさき
一八九三(明治二十六)年十一月、過酷な税の負担に耐えかねて、宮古島の農民四人が上京し、宮古の悲惨な現
状を議会と政府に訴えた。中央の新聞は「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。政府はただちに内務書記官を沖縄に 派遣し調査させた。
一八九四(明治二十七)年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」がだされた。
一月十七日、宮古島福里村の農民一六○人が署名した「宮古島島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程され、
衆議院はこれを可決した。この年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○二年まで存続された。
三月、大蔵省は祝辰巳氏を沖縄県収税長に任命し税法調査をさせた。
八月一日、日本は中国(清)に対して宣戦布告。
九月十五日、平壌大会戦、十六日未明平壌を占領。
九月十七日、黄海大戦、中国軍艦五隻を撃沈。この陸海の大戦ですでに勝負はついた。
十月八日、イギリスは日本の戦勝に驚き講和を勧告。
十月二十六日、第一軍(山県有朋)は鴨緑江を渡って九連城を占領。引続き第二軍(大山巌)は花園江に上陸開
始。
十一月十二日、中国(清)はアメリカ公使を通じて講和条件の基礎を提案、日本側は講和全権の任命が先決だとし
てこれを拒否。
十一月十三日、第一軍海城を占領。
十一月二十一日、第二軍旅順占領。
十二月二十日、中国(清)はアメリカ公使を通じて張蔭桓、圏F濂氏を講和全権に任命したと日本に通知。
十二月二十五日、中国(清)は朝鮮の独立自主を認めると宣言。これによって明治軍国主義の日清戦争の目的は達
せられたことになる。
十二月二十七日、内務大臣は外務大臣と釣魚島と久場島をたてたいという沖縄県知事の上申ついて協議。外務大
臣に異議なし。
一八九五(明治二十八)年一月十四日、標杭建設を閣議決定。
一月二十一日,沖縄県知事に通知(しかし、標杭建設は日本の主権下では実行されず、七四年後にアメリカの施政
権下の石垣市長命令で初めて建設)。
一月三十一日、中国講和全権広島に到着。全権委任状が不備だとして日本側は談判を拒否。
三月二十日、下関で、伊藤博文内閣総理大臣と李鴻章全権とのあいだで講和談判開始。
四月十七日、日清講和条約調印。
四月二十三日、三国干渉(独・仏・露)。
五月五日、三国の勧告を日本は受諾。
五月八日、日清講和条約批准書交換。
五月十日、樺山資紀海軍大将を台湾総督に任命
五月二十五日、台湾省民蜂起。
五月二十九日、日本軍台湾に上陸。
六月二日、中国(清)李経方全権と樺山台湾総督との間に、講和条約第二条第二項および第三項の台湾全島及び
その付属諸島嶼と澎湖列島の受渡しがおこなわれた。
六月十日、古賀辰四郎氏は「官有地拝借御願」を政府に提出。
一八九六(明治二十九)年九月、古賀氏は三○年間無償で魚釣島、久場島、北小島、南小島の借用に成功。
(1)伊沢弥喜太氏は、福州に漂着し救助され、中国の高官から陶器の花瓶をもらって帰った。
(7)尖閣列島の開発
a.どの島か
古賀辰四郎氏が尖閣列島が尖閣列島のどの島で開拓事業をおこなったかについては資料が乏しい。だから人に
よっていっていることが違う。たとえばこうである。
古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無償借
地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むこと に成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り込んだ。この年の 久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がいつごろまでいたかは明ら かでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。
古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年五十
人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さら に明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。
大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ・・・・・・
事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、×製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八 人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。
明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十一年に
は更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野 清論文「尖閣列島小史」)。
石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当たら
せ・・・・・・翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡 った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。・・・・・・明治三十六(一九○三)年には内 地から×製職人一○数人が移住し・・・・・・明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人に達し、九九戸を 数えた。・・・・・・南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列島と竹 島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている人がいるが、 それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。
尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏によれば魚
釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとどうなるのか。こ の島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一九四〇(昭和十五)年 になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四郎氏が一八九五(明治二十 八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツオブシ製造と海鳥の剥製作りをし たのは魚釣島と南小島であった。
また一九六八(昭和四十三)年に台湾の業者が起重機を二台ももちこんで一万トンの貨物船の解体作業をやって
いたのは南小島であった。また一九七〇年に、やはり台湾の業者が久場島で沈没船解体作業をやっていたが、これ は台風で座礁して久場島海岸に打ちあげられた台湾の貨物船の処理のためであった。古賀辰四郎氏が事業を開始 されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、 地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタールと思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同 行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。
また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだといって
いる。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。
だが、よく考えてみなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕ま
えて、これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわ せたのは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦地 は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。
b.どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。
国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島の開拓
に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、 排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功績によって政府は一九 〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究会論文)。 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖閣列島 研究会論文)。
大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、とくに魚
釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。
古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツオブシ製造をおこ
なったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本 人』一九七〇年新年号)。 古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰製 造がある。・・・・・・ ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグアノの採掘と積出しは、第 一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料 が配給制となり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。 尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手されたわけです。その古賀さん が労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節 工場を現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、その後現在にいたるま でも無人島になっている(桜井×氏) 古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その後、古 賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から 魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカツオドリ、アジサシな どの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続いたかについては明確な記 録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海 域の学術調査に参加して」参照)。 大正(一九一九)年の冬・・・・・・当時古賀支店は魚釣島でカツオ漁業を経営していたので・・・・・・(牧野清氏)。 古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖の加工 工場も建設された。 そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。 黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任 論文「尖閣列島を探る(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。 古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み・・・・・・(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」)。 黄色嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもやさとうき びは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばか り平地があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採取のため男女五三名と いう大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。 正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人たちであろう。クバの葉脈で ロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸品などもつくっ たといわれている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が不足してくると、クバの繊 維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。 多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明にある古 賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から四島を買いとった ときには、四島はふたたび無人島になっていた。
c.一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという「証拠
の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は筆者が一九七 一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾島で生まれたとい う伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ一枚の写真を古賀花子さ んは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のものだという。この写真には事務所の責任 者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目のところに白い着物を着て帽子をかぶり、 ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが本当なのか。辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っ ているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したもので あろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せているのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書い たものを門柱に貼り付けてある。これは写真をとるために書いたものであろう。なかなかよい字である。 ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願いを出して借り受けたのに、ど うして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。しかし、黒岩恒氏 が書いていているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考えていたとしたらどうなので あろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がないので妻帯者は弥喜太氏一人であったといっている。写真にある 婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたものであり、子供労働者は土佐や沖縄から 買われてきたものであったという。 黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生までいて、一九一〇(明治四 十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,その後、父弥喜太 氏とともに台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』によれば、久米島の住人 は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあったようだという。 古賀花子さんは夫の古賀喜次からきたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父弥喜太氏から昔きいたことを 話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾嶼(久場島)には飲 み水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニで魚釣島まで水取りに出 掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブシ工場は魚釣島にあったのか。そ れとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両方にあったのかどうもはっきりしない。しか し伊沢真伎さんは黄尾地馬でカツオブシ工場をつくり、土佐から職人を入れて経営していたというし、また黄尾島で は貝殻の採取とアホウ取の毛の採取をやっていたといっている。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠 を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に健常するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたとい う。真水がなくともカツオブシがつくれるのかどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれると いう。
d.辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのような話があったのかもわから ない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったということであ る。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航した。このとき弥喜 太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の服装をした二つの遺体をほら 穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなかで、同行の人夫が山中に白骨ありと いったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかったといっているが、それは釣魚島のことである。弥喜太氏 は一八九三年再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。弥 喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。 一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶應大学 医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏(一八九二年に 沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。 宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有害動物の有無や飲料水の 適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水がないことがわか った。 宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月十二日午後四時、古賀辰 四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒 岩氏の釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役 のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。「午後尾滝谷に着 す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いているが、ここは「秋来たりて 春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみなクバの葉でつくられていた。 尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の開発はクバの葉でつくった小舎から どんな発見をしたのだろうか。 辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸できる ようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹 島」教育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、婦人労働者の住まい、 子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。 バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き一九一四 年に花蓮港で死んだ。 この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。この二人 が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣 列島の「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。 どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツオ、マグ ロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があっ たことは、まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○○余円というから、これ は当時としてはたいへんな金額である。この年の四月に三越百貨店があ食堂を開いたが、料理一食五○銭、洋菓 子一○銭、紅茶、コーヒーがそれぞれ一杯五銭であった。 これら開発事業は、すべて日清戦争で尖閣列島を日本領としたことであり、無主地を先占し有効支配していたとい う裏づけにはならない。
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−前略−
古賀辰四郎氏の開拓事業も絶海の無人島のことであり、困難を極めた。しかし堅忍不抜、九十戸の従業員による
古賀村を形成し、その生産物資は遠く海外にも輸出された。一九〇九年(明治四十二年)古賀氏はその功により藍
綬襃賞を国から授与された(年表37)。
しかし古賀辰四郎氏は大正七年死去。 事業は子息の善次が継承した(年表41)。
一九一九年(大正八年) 中国福建省民三十一名が尖閣諸島に漂着したので、古賀善次氏は、これを救助して石
垣島に曳航、石垣村は医療、食料を与え、船を修理して帰国せしめた。
翌中華民国九年中華民国註長崎領事馮冕氏から関係者石垣村長豊川善佐氏 石垣村雇玉代勢孫伴、救助者古
賀善次、通訳プナスト(与那国の人)四氏に感謝状が贈題呈された。玉代勢孫伴はその後『富田』と改姓、左掲感謝 状は長男冨田孫秀氏が保存していたが、一九九六年(平成八年) 一月貴重な外交文書として石垣市に寄贈され、 現在は石垣市の保管となっている(年表42)。
一九三二年(昭和七年)南島、北小島、魚釣島、久場島四島は、日本政府から有償で古賀善次氏に払い下げら
れ、私有地となった(年表46)。大正島は国有地のままである。
古賀氏の開拓事業は、一九四〇年(昭和十五年)頃まで継続されていた。 さる大戦後はアメリカの統治下に入り、
群島組織方により尖閣諸島は八重山郡島に包括あれ(年表53)、また琉球政府章典(年表55)dも尖閣諸島は琉球 政府の管轄となる。
一九五五年、久場島は米軍の演習地としえ使用(年表57)。翌一九五六年には国有地大正島も米軍の演習地と
なる(年表58)。
石垣市は土地借賃安定法に従い、土地等級設定の為係員十一名を派遣調査せしめた(年表60)。一九六八年、
米軍は南小島に不法上陸の上陸四十五名に対し退去命令(年表61)また不法入域者(台湾漁船)がいるので米軍 は航空機によるパトロール、琉球政府には巡視艇による巡視実施する。
一九六九年、石垣市は尖閣諸島の行政管轄を明示するため、各島にコンクリート製の標識を建立(年表63)。
一九七〇年、琉球政府は久場島にたいする巡検を実施。 不法入域者十四人に対し退去命令(年表64)。 同年
米民政府は不法入域者に対し処罰する警告板を魚釣・久場・大正・南北小島の五島に設置(年表65)。 一九七〇 年以降、中国、台湾から『尖閣列島は中国領土である』との度々の抗議に対し、日本政府は『日本固有の領土であ る』と繰り返し反論した(年表参照)。
日本間の沖縄返還協定により尖閣諸島も南西諸島の一部として、他の島々とともに日本に返還された(一九七二
年五月十五日)。アメリカの沖縄統治は二十七年間も続いた(年表106)。
一九七二年、古賀善次氏は南小島・北小島を埼玉県の実業家栗原国起氏に譲渡(年表112)。
一九七八年、古賀善次氏死去。妻花子さんが資産を継承(年表113)。同年花子さんは魚釣島も栗原氏に譲
渡 。
一九七八年、中国の抗議船団約200隻が尖閣諸島海域に侵入、十数日も居すわって尖閣諸島は中国の領土で
あると抗議した。但し台風接近のため雲散霧消した(年表115)。
一九七八年十月、中国の再高実力者 ケ小平氏来日、尖閣領有の棚上げ論をのべて日本国民を唖然とせしめた。
但し合意したわけではない(年表116)
一九七九年、古賀花子さんは石垣市に対し小学資金として金一千万円を寄贈した(年表117)。
一九八八年、古賀花子さん死去。古賀家の資産は遺言により栗原国起氏に贈られることとなった(年表118)
栗原氏は古賀家の遺産をもって財団法人古賀協会を那覇市に設立。
その果実を沖縄県のスポーツ振興に寄与している。古賀善次氏がテニスの愛好家であったことが因縁のようであ
る 。
一九九六年一月、古賀協会(会長栗原佐代子氏)は、石垣市八島町の小公園で父子二代、生涯を絶海の無人島
開拓に捧げた稀なる業績を讃えるため『古賀辰四郎尖閣諸島開拓記念碑』を設立した(年表121)。
現在(一九九六年)尖閣諸島の固定資産税などは、一切栗原国起氏が石垣市に納めている。
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燕尾服と安全カミソリとピストルと無人島と藍綬褒章と−いかにも妙なとりあわせであるが、
古賀辰四郎の象徴となるものをすなおにならべてみたのである。
一八五六(安政三)年福岡県八女郡に生まれ、沖縄に来て、無人島探検を多くし、尖閣列島に渡ったのをきっかけ
に同地に水産業をおこし、はじめて分密糖を作り、真珠養殖をはじめるなど、殖産興業に功あり、明治42(1909)年藍 綬褒章をおくられ、大正7(1918)年病没。63歳。嗣子善次。
福岡県から那覇へきたのが明治12(1879)年4月。寄留商人としては早いはうである。生家が茶を栽培、製造して
いる中農で、茶を売りにきたというのであるが「琉球」に目星をつけたいわれは何であったろうか。それはともかく、こ の4月4日に廃藩置県で「琉球」は大動乱のまっただなかであったのに、そこに住みつく気になったところに古賀辰四 郎の真骨頂があるようである。このとき24歳。のちに明治30(1897)年ごろ、台湾へ単身旅行をしており、日清戦争 のあとのこととて用心のためにピストルを携行したが、一発も撃たなかったと、ひとに自慢した。この旅行の目的が何 であったか、わからない。やはり探検がおもだったのであろう。琉球行きも、商売というより最初の探検のつもりだっ たとおもわれる。とにかく、ひとのやらないことを試みる志が高かった。
沖縄に来た当時、夜光貝の殻がたくさん捨ててあるのをみて、その見本を神戸に送ったところ、貝ボタンの原料に
なるということがわかり、その輸出業をはじめる。茶の商売がおそらく邪魔っ気だったのではないか。ただ、しばらくは 食うために仕方がなかった。それでも夜光貝は年々18〜24万キロ(30〜40万斤)を移出し三年後には八重山に支店 をおいた。「那覇の寄留商人」というのは、そろそろふえてくる時期であったが、「八重山の寄留商人」というのは、め ずらしい。置県後、いわゆる頑固党の清国への嘆願使節が、八重山あたりで秘密裏ににぎわっていた時期である。
さらに2年後には、尖閣列島、仲の神島を探検し、明治三五(1902)年ごろまでに、県下の無人島を探険した。大東
島、ラサ島、赤尾礁(宮古の西北、一名大正島ともいう)、鳥島など。イキマ島というのが、宮古の南三〇海里にある ということで、一八八六(明治一九)年発行の海軍水路部の海図には明記されていたが、古賀はその地点を中心とし て周囲一〇海里にわたって調査した結果、島影を発見しえず、イキマ島は存在せずと、海軍省に報告した。
尖閣列島を発見したのは日清戦争直前である。借地請願を政府へ出したが、政府では同島の所属不明なりとの
理由で却下した。戦勝の翌年、三〇年間無償借地の許可をうけた。その前年、本籍を沖縄に移した。腰をおちつける に足ると考えたらしい。一九〇〇(明治三三)年に、理学士宮島幹之助(北里研究所技師をへて、のち慶大医学部教 授)と沖縄県師範学校教諭黒岩恒とに委嘱して、尖閣列島の風土病、伝染病、ハブ、イノシシ、その他の有害動物 の有無や飲料水の適否などを調べさせ、その結果マラリア、伝染病はなく、ハブ、イノシシなどは生息せず、四島の うち魚釣島にのみ湧水のあることが発見された。尖閣列島とは、このとき黒岩の命名による。翌年、県技師熊倉工学 士の援けをえて、苦心のすえ防波堤を築き、家屋や水タンクをつくり、人の居住環境を整備した。定住移民五〇人を ひきつれてはじめた産業経営は、烏毛の採集、水禽の剥製、フカヒレ、海参、貝殻、べっ甲の採集、鱶漁、鰹節の製 造、植林(樺、松、杉)、みかん類の栽培、開墾及び穀菜の栽培、珊瑚採集、牧畜、養蚕、燐鉱、鳥糞の採集など多 方面にわたった。移住労働者の募集には、はじめほど苦労したが、事業の発展で一九一〇(明治四三)年頃には、 出稼ぎがふえた。
一九〇五(明治三八)年に自宅の倉庫に二馬力石油発動機一台に遠心分離機二台、砂糖煮釜一個をすえつけ
て、白下糖を原料として分密糖を製造した。技師には香川県から水谷某、発動機の運転には福岡県から鶴某を招い た。農商務省では、その翌年に沖縄県庁内に臨時糖業改良事務局をおき、さらに三年後はじめて一〇〇トンの機械 をすえて政策的に分密糖製造をはじめた。先覚者の古賀は、ひきあわなくなってやめた。
天然真殊を採取して、内国博覧会やパリの万国博覧会、ロンドン、セントルイスなどの博覧会に出品して受賞した
が、大正初期から石垣島名蔵湾に御木本幸吉と共同出資で其殊養殖をはじめ、のち川平湾に移した。一九〇九(明 治四二)年殖産興業の功で藍綬褒章を下賜された。沖縄での第二号である(第二号は松田和三郎)。古賀が第一号 をかちえたものに燕尾服(第二号は当問重惧)、安全カミソリ、ピストルなどがあるが、これらよりさきに、やはりあれ だけの探検と産業とをあげるべきであろう。だが、古賀のために惜しむらくは、尖間列島の産業が時代にとりのこさ れ、のちに隆盛をみた大東島をせっかく占有権をにざっゃいたのに荷が重いとして玉置半右衛門に譲ってしまい、真 殊養殖も御木本に譲ってしまうなど、すべてが偉大な習作におわってしまった。それでも彼はパイオニアとして満足 であったのかもしれない。意気さかんな酒落者古賀辰四郎の手形を、失われたロマンのために、せめてはこの記録 にとめておかねばなるまい。◎ →黒岸恒 (管理人:黒岩恒の間違い??)
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