3.2.4 日本一鑑 風水
日本一鑑は、尖閣諸島の中国帰属を認めている証拠としてよく上げられる史料である。そう解釈できるのかどうか
検証する。
☆小東島之小嶼 ――井上清批判
井上清は、「釣魚嶼の史的解明」のなかで中国人方豪の研究を紹介して次のように述べている。小東島の小嶼と
いう記述を確認し小躍りしている。
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一五 いくつかの補遺
釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊す
る。(中略)私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和 所記釣魚嶼」という論文である。
(中略)同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里
長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えてい る。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それ より釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とあ る。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたと はいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があ り、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記 しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史 地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。
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明の太祖洪武帝が子孫に対する遺言として残した皇明祖訓のなかにおいて、小琉球(=台湾)は「不征の国」とさ
れていた。「未不曾朝貢せず」、「往来もない」とされている国である。それなのにこれを全く無視して、「領有権からい えば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が 台湾をも管轄することになっていた。」と井上は書くのである。何を根拠としてこのようなことをいうのであろうか。
「釣魚嶼小東島之小嶼」とされているのだから、釣魚嶼は不征の国・小琉球の小嶼であると鄭舜功は理解している
はずである。日本一鑑はいわれているのとは逆に尖閣諸島が明領土ではない証拠となる。釣魚嶼が仮に小琉球の 一部だとしても、尖閣が明国の領土となるはずはないのである。鄭舜功は小東島を明領であるとは一言も書いてな い。明領だと思うはずがない。「小東島之釣魚嶼」は「明領の釣魚嶼」を意味していると解釈することはできない。
仮に澎湖巡検司が存在したとしたとしても、小さな島、つまり枝葉の付属島嶼の方を支配しているから、何百倍も
広い幹の部分までも領土にしていたという主張は常識からみてもおかしい。このようなことがいえるのならば先島諸 島の第一島は台湾島であるとした方がまだしも説得力がある。このような主張は、国際法からみても、認められな い。常識的にいっても無理である。
☆日本一鑑の滄海図鏡――澎湖島とかけ離れている小東島
そもそも澎湖巡検司は当時、存在していたのか? 隋書、『元史』、大明一統志には澎湖島は琉球の山川として明
確に記載されていた。琉球の山川に、なぜ明国の巡検司がおかれるのか。とくに大明一統志は明代に成立してい る。これは勅撰である。琉球国の山川として澎湖島があげられているのは決定的である。琉球国の山川に巡検司が おかれるはずがない。誰がいつ巡検司に任じられたのであろうか?
澎湖島が小東島の側にあれば隣接地域を管轄しているとも考えられる。しかし鄭舜功は、澎湖島と小東島をかけ
はなれたところにおいている。日本一鑑の滄海図鏡をみればこのことはよくわかる。これは大小琉球の図である。沖 縄本島北西の海上に、鄭舜功は二つの嶼、つまり華嶼(=高華嶼)と??を図示している。鄭若曽の琉球国図と同じで ある。だが澎湖島は省いている。澎湖島は華嶼の先に本来は描かれるはずである。なぜ脱落しているのであろう か。それは澎湖島は大小琉球の内に入らないと鄭舜功がみなしたことを意味している。
桴海図経巻之一をみると、「自澎湖次高華次??次大琉球亦使程也」と鄭舜功は記している。『隋書』の記載そのま
まである。高華嶼の先に澎湖島があると鄭舜功も考えていることがわかる。それでいて図から省いたのは、やはり琉 球の外にあるとみなしたためであろう。しかし「小東島」は、琉球内にある島であるから当然この図に描かれている。 小東島と澎湖島は遠く離れていると鄭舜功は理解している。
澎湖とはこのあたりの海をさしているのであろう。鄭舜功は「澎湖之小東」というのを澎湖の中にある小東島という
意味で使ったのである。それですっきりと解釈できる。沖合遠くに花綵列島に属する島々が散在しているから、間の 海が、澎海ではなくて澎湖となっているのである。
この図に澎湖島が書かれていないことからみても、「澎湖之小東」というのが澎湖巡検司が管轄する小東島の意味
でないことが確認できた。繰り返すが、「澎湖之小東」という詩句は、「澎湖島巡検司の管轄する台湾」ではない。
☆小東は小東洋であろう
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/マテオ・リッチは
「坤輿万国全図」(明、万暦三十年・1602年)などの地図をつくったが、その地図では、赤道よりやや北、こんにちの
ハワイ付近の海中に「大東洋」としるされ、赤道の南の大洋洲の海中に「寧海」と誌してあり、日本の東方海中に「小 東洋」、ポルトガルの西方海中に「大西洋」、インド西方海中に「小西洋」と誌してある。(-46)
マテオ・リッチによって命名された「大東洋」「小東洋」および「大西洋」「小西洋」という海洋の名称は、その後の
一連の地誌――、たとえば、王土斤『三才図絵』(明、万暦三十五年・1607年自序、万暦三十七年・1623年刊)、 「職方外紀」(明、天啓三年・1623年自序)、『海国見聞録』等――にも、多少の差はみられるが、ほぼ近い名称で踏 襲されている。(-47)
――明治のことば 東から西への架け橋 齋藤毅 昭和五十二年 講談社
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やはり小東は小東洋の意味であろう。この水域を指して小東とする表記を私は他にはまだみたことがない。台湾島
を小東島とする例も見たことがない。中国人の常用する対語表現からすると、小東島があれば、大東島もなければな らない。しかし大東島は聞いたことがない。
小東は小東洋の意味であろう。小東洋とは西洋人の伝えた概念で、明代から清代に至るまで使われた概念であ
る。
鄭舜功の小東の定義は、当時の一般的な定義とずれている。なぜであろうか。これは、小東洋の小嶼というのを船
の中で聞いて、誤った理解をして書いてしまったものと思われる。小東というのを、小琉球と同じ意味を表すものだと 誤解し、つまり台湾を指すのだと理解してしまったのである。しかし小東洋とは、日本近傍の海を指す言葉だった。そ の小嶼であると鄭舜功は聞いたのである。鄭舜功の見解が極めて特異なものであり、他に類例がないわけがわか る。単なる誤解の所産にしか過ぎなかったのである。
鄭舜功は小東島彼云大恵国とのみ記している。この彼とは誰であろうか。特定の人を指すのではなく、そういう噂
があるということであろうか。鄭にそう話して聞かせた人が「小東」を日本をさす言葉として用いたのだとしたら、大恵 国はジパング伝説を思い出させる。台湾島を指して未開の蕃国と明人がいうのはよくみかけるが、大恵国というの は、始めてである。意味がわからない。小東が日本の意味であったとするとすっきりと説明がつく。
☆無位無官職の鄭舜功
日本一鑑は、鄭舜功が日本の地理や歴史など、日本関連の情報を整理し、流刑地で書きあげたものである。
鄭舜功とはどういう人物であろうか。
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鄭舜功は新安郡の人である。彼は「布衣」つまり無官職の丙民で、平素から日本問題の研究に心をくばり、関心をよ
せていた。1555年、鄭は倭寇防備につき献策するためわざわざ北京に赴いた。その後、総督楊宜から日本へ派遣 された。
−−中国人の日本研究史 武安隆/熊達雲
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鄭舜功は1555年4月、広東を発し、大小琉球をへて豊後の大友氏のもとに至った。1557年12月、大琉球をへ
て広東に帰国した。出発直後に、揚宣は失脚した。後任が胡宗憲である。鄭舜功は用いられるどころか流刑に処さ れた。1565年、鄭舜功は日本一鑑を書上げて官に提出した。しかし反響はなかった。日本一鑑は公式の報告書と いえるものではない。
楊宜との個人的な関係で派遣されたのだから、帰国した鄭舜功はたちまちもとの「布衣」にもどったのである。当時
の中国において、ただの「布衣」だということはその社会的影響力がほとんど無いにひとしいことを物語るのである。 鄭舜功は挙人でさえない。進士と挙人ではその社会的評価には天と地ほどの差がある。挙人とは、省の試験に合 格した人を指す。進士とは、その挙人のなかから更に、三年に一度の国家試験に通ったエリートを指す。この試験に は挙人が二万人以上受験しに来ていたという。一回の試験で、うかる人は二百人から三百人しかいない。挙人どこ ろか、全くの庶民であるということになれば……。 鄭舜功の文章は洗練されておらず、かなり雑であるから、ますま す評価が低くなったであろう。内容もさることながら、名文であるかどうかが当時の中国においては大問題となる。値 打ちがほぼ決ってくるからである。日本一鑑が、一度も公刊もされなかったわけがわかる。
☆知られていない日本一鑑
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「日本一鑑」は殆んど世に知られていなかったが、大正2年(1913)富岡謙三氏が偶またま乾隆帝の寵臣彰文勤旧
蔵の著を入手し紹介した。
−−鎖国前に南蛮人のつくれる地図 中村拓
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日本一鑑は、写本の形でかろうじて伝わっていた。道理で史料に現れないわけである。歴代册封使は見たこともな
かったであろう。出発前に琉球関係の徹底的な調査をするのが慣例となっていた册封使が一度足りとも参考書目に あげなかったわけがわかるのである。一言も言及してない。鄭舜功の社会的影響力は皆無に近かった。そしてそれ が釣魚嶼を台湾島の付属島嶼とした唯一の古い中国史料である。解釈次第でそうとれるということではなく、明確に 「台湾の付属島嶼」と記しているという点では唯一の歴史史料なのである。それがこのようなものであることは大いに 問題である。井上清は日本一鑑が公刊もされなかった書物であるということには何等注意を払わない。
「こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない」と井上清は述べたが、何一つ
発見されないままである。一つとして見いだされないのである。
それにしてもたった詩一つ。それも公刊はされなかった書物のなかの詩の一節が決定的な意味をもつかのような
議論には困惑する。
☆ 鄭舜功のみた釣魚嶼は釣魚嶼ではない
鄭舜功は、本当に、尖閣諸島をみて釣魚嶼と認識したのであろうか?
彭佳山を鄭舜功は釣魚嶼と誤認したと思われる。
鄭舜功は台湾北端をみてからすぐに魚釣島に達している。風次第で、これは可能であるが、しかしわからないのは
彭佳山が消えていることである。彭佳山をはじめとする半架諸島のどれかの島にあたるはずである。鄭はなぜそれを 見ていないのであろうか。夜というわけでもないから、見逃したはずはない。
☆ 消える彭佳山、消える鶏籠嶼
鄭若曽の琉球国図をみると小琉球の上に二列の島がある。瓶架山――彭家山は外の列をつくっている。鶏籠嶼―
―釣魚嶼――古米山の並びは内側の列をつくっている。
小琉球のすぐ上(=北)に鶏籠嶼があり、その上(=北)に釣魚嶼がある。釣魚嶼の前にあるのは鶏籠嶼のみのは
ずであった。鄭舜功は彭家山を、釣魚嶼の手前にある島とは考えなかった。当初の鄭舜功の理解は、小琉球――鶏 籠嶼――釣魚嶼だったのである。
そして、この鶏籠嶼が実地にたった鄭舜功の認識から消えてしまうのである。それにはわけがある。
臺灣北部には、「鶏籠山」といわれた「山」が三つあり、二つは島であるが、一つは台湾島上の山である。当時、鶏
籠山といった場合は、普通、台湾島上の鶏籠山の方をさしていたはずである。台湾島上の高い鶏籠山は航海者にと ってよい目印となった。しかし小鶏籠嶼の方は基隆の港に入るのによい目標となるのであるが、琉球や日本にいく場 合に通常みることの出来ない島であった。従って知る必要のない島であった。明人も琉球に行くのは、他のところに 行くのは違い、途中寄港できる港がないとしていた。大鶏籠嶼は小鶏籠嶼よりも更に陸地に近く基隆港の入口にあ る。
鄭舜功は鶏籠山を台湾島上にある山とみた。他に鶏籠嶼があるとは思わなかったから、鄭舜功は図から鶏籠嶼を
消したのである。すると釣魚嶼が台湾島のすぐ近くにくることになる。鄭はそう認識したはずである。
日本一鑑の滄海図鏡の図では、鶏籠嶼が台湾島上にある鶏籠山となり、島としては消えていることがわかる。そし
て釣魚嶼が小東島のすぐ上に描かれている。鄭舜功は、台湾島上の鶏籠山を見て、次に見える島を釣魚嶼であると みたのである。
万里長歌には「鶏籠上開釣魚目」という一節がある。これは台湾島上にある鶏籠山から釣魚嶼を望むことができる
という意味であろう。
先述したように、滄海図鏡をみると鶏籠山(台湾島上の山)のすぐ上(=北)に釣魚嶼があるように作図されてい
る。鄭舜功は図を描きながら、詩を詠んでいる。
鄭舜功が、来日するために乗った船は広東からでているので広東船である可能性が高い。鄭は言葉は余り解らな
かったに違いない。帰り着いた後、鄭若曽の図や針路の条を参考にして見聞を整理しながら、鄭舜功は日本一鑑の 図を記したのであろう。
釣魚嶼と黄麻嶼は相望む関係にある。直ぐ隣りにある島々なのである。しかしこの二島は四更離れていると『籌海
図篇』に記されていた。二島が離れていると鄭舜功も誤認したのである。釣魚嶼からしばらく行き黄麻嶼があると考 えていた。このため彭佳山が消えても、数の上でつじつまがあってしまったのである。つまり彭佳山を釣魚嶼とみて、 尖閣諸島を黄麻嶼とみたのである。
小東島――釣魚嶼――黄尾嶼――赤坎嶼――姑米山という順番で島が並んでいると、鄭舜功は認識してしまっ
たのである。
☆ 鄭舜功のいう釣魚嶼は彭佳山である
鄭舜功が釣魚嶼とした島は、釣魚嶼ではなく、やはり彭佳山であろう。そして鄭舜功が黄麻嶼だと思ったのは尖閣
諸島だったのではないか。間違いなくそうである。
鄭舜功は彭佳山を釣魚嶼と誤認したのである。このため彼の認識のなかでは釣魚嶼は台湾島に異常に接近する
ことになった。鄭舜功は、図のなかにおいて釣魚嶼を臺灣のすぐ側にかきこんだ。しかしこれにより、尖閣諸島が小 琉球の属島であるということはいえない。
☆一つの界
日本一鑑でも、「七島者在日本南為琉球日本之界」とはっきりと(よくみていくと、これでも実は、「一応」ではある
が)日本と琉球の界を示されている。ところが琉球と明国(中国)の界は、またしても明示されていない。隣接してい ないからである。
☆ 小東島之釣魚嶼=大琉球之黄麻嶼
万里長歌の「小東島之釣魚嶼」の意味をもう一度考えてみよう。
先述したように日本図纂や籌海図編では、釣魚嶼の次にある黄麻嶼から「至る」という言葉が那覇まで使われてい
た。鄭舜功も黄麻嶼から至ると書く。鄭若曽の見解を追認したのである。鄭若曽が黄麻嶼に至ると書いていることを 鄭舜功は知っている。この至を、黄麻嶼から大琉球の島であると鄭舜功も理解した。だからこそなお釣魚嶼は小琉球 の小嶼であると認識しやすかったわけである。
二人の鄭は小琉球と大琉球の境界を釣魚嶼と黄麻嶼の間においていたのではないか? いや間違いなくそうであ
る。釣魚嶼は小東島の小嶼なりというのは、黄麻嶼からは大琉球島の小嶼なりということでもあった。いうまでもない ことだが、注意しなければならないのは、明と琉球の界をここに認めていたのではないということである。鄭舜功は、 勿論、隣接していない大琉球と明との界を示すことは出来なかった。
☆ 風水
☆?から日本へ通ずる地脈 ――風水家鄭舜功の特異な思想
当時、半架諸島や尖閣諸島は、どこに帰属すると考えられていたのか。当時の人にとってどう見えたのかということ
は、当時にかえって考えてみなければならない。現代の地理学ではなく、当時の風水でみてなければならない。風 水は当時は、「地理」ともいわれていたという。風水を知ると、半架諸島や尖閣諸島の帰属がどう考えられていたかを はっきりと判断できる。
☆ 鄭舜功の風水
鄭舜功は風水の影響を強く受けている。風水家というべきである。しかし特異な風水家である。
「日本一鑑」の窮河話海の巻一地脈をみると、鄭舜功は小東島から北にも南にも地脈が続いているという。「釣魚
黄尾赤坎姑米馬歯」を経て大琉球にも及んでいるという。日本列島にも琉球をへて?から気脈が通じているという。鄭 舜功のいうことは他に類例を見ない特異な考えである。中国と琉球の地脈が通じていると書かれた典籍を他に見た ことがない。ましてや中国と日本は地脈が通じているというのは、空前絶後であろう。ただ琉球と日本は隣接してい る(=地脈が通じている)と当時、理解されていたことは間違いない。このことは陳侃が報告したようである。とすれ ば、琉球まで中国から地脈が通じていると鄭舜功が考えれば、後は自ずからそうなるであろう。
鄭舜功は福州から小東島に地脈が通じ、そこから更に半架諸島から尖閣諸島をへて琉球島に至るというのであ
る。
☆ 風水とは何か。
風水は、当時の「地理学」であった。これをきちんと考察しなければならない。
風水論集−環中国海の民俗と文化4 (渡邊欣雄・三浦國雄編)から引用する。
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「風水思想の根幹を成している思想の一つに龍脈思想がある。龍脈とは、山の起伏の連なりをいう。この龍脈を生
気が流通していると考え、その源を崑崙山としている。崑崙山はおおよそ中国の西北に位置し、天帝の下都とされて いる山であるが、これを天下の山の祖とみなし、ここから世界に向け五条ないし四条の龍脈が発しているとするので ある。」 「中国は崑崙の東南に在り、天下の山は崑崙を祖とする。惟三幹脈が中国に分かれ出るのみである」、(中 略)中国内に延びている三条とは、北幹、中幹、南幹である。三幹脈の流れは黄河、長江の二大河川によって分け られ、北幹は黄河より北側の地域を通り、朝鮮半島にまでいたる。北京市、天津市などにはこの北幹が通じている。 朝鮮半島には、最北の白頭山に通じ、そこから半島全域に龍脈が通じているとしている。中幹は黄河と長江の間の 地域を通っている。(中略)南幹は長江より南側の地域を通っている。香港、広州、福州、南京、蘇州、杭州、上海な どの都市にはこの南幹が通じている。さらに福建省からは、台湾海峡を渡り台湾島にも龍脈が通じているとされ、福 州、五虎門から台湾島北端の鶏籠山(現基隆山)に至るとされている。
これら三幹脈のうち、南幹については、清代の地方志にその脈絡と風水との関係について割合多く記されてい
る」。
「三幹を主脈にそこからの支脈がさらに支脈を生じ、中国全土にわたって網目のように龍脈が張り巡らされており、…
…この龍脈に沿って流れる生気に浴することで、吉福が得られるというものである」。この龍脈は「あたかも母胎のへ その緒と胎児との関係のようなもので」ある。
☆ 龍脈も水に界されて止まる。
「龍脈が水に界されて止まるのなら、なぜ孤島となっている台湾島や香港島にまで、龍脈は通ずることができるので
あろうか。はるか崑崙山から紆余曲折しながら千万里もの道程を伝い来る龍脈が、真の脈であることの証明の一つ として、龍穴に結ぶ前に、集束した細長い形の部分を通過することを必要とする。「渡水峡」があり、「渡水峡は水中 に石梁の有るを要す、これを崩洪脈と謂う。水は石脈を界さず、土脈を界する」とあるように、水中に飛び石のようにな った石脈は、水によって界されることはなく」
「中国東南部の都市のほとんどは、この主山を持っており、地方志には、この主山までどのような経路で龍脈が到達
しているかが記されている」
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☆ 南幹
福建には「南幹」という龍脈が崑崙山からはるばる至っているという。
中国人の伝統的な地理認識にはすでに見てきたように大きな混乱がある。しかしやはり支配的なのは、中国と琉
球は大海を隔てているとする考えである。歴代皇帝の認識はそうであった。地脈は断たれていて通じてはいない。南 幹は明代には福建沿岸にとどまっている。その後も、一度として、琉球に向かっては延びているとはされなかった。
☆ 北幹
朝鮮にも、龍脈が至っている。北幹である。これは中国人だけではなく、朝鮮人も認めている。龍脈は中国から朝
鮮のすみずみにまで及んでいる。
地脈が通じているというのは国が隣接しているという意味になる。正確に言うと隣接しているという認識がみられる
という意味になる。韓国と日本は隣接しているが、地脈が相互に通じてるという認識がない。遠い国の関係である。
しかし韓国から日本に龍脈がいたるという見解を述べる韓国人はいない。日本人もいない。中国人もいない。
☆ 台湾に至る南幹
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「台湾の山の形勢、福州五虎門より蜿蜒と海を渡り、東に行き、大洋中の二山、関同、白犬に至る。これ台湾諸山
の脳龍処なり。波濤に隠れ伏し、海を穿ち大洋を渡り、台湾の鶏籠山に至る」
――台湾府志 高拱乾修 巻一 封域志 山川 台湾府山(清)・康煕三十五年刊本
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これは清代の風水である。
白犬島は官塘の南にある島であり、台湾島とはかなり離れている。しかし、龍脈は福州からここへ達しているとさ
れた。そして南幹は更にのびて台湾島北部に至っているのである。澎湖島へは南幹は福建から直にのびておらず、 回り道をして至っている。
この鶏籠山は鶏籠嶼のことではない。台湾島上にある鶏籠山である。
清代になり台湾が領域にはいるにつれて台湾島にも?から地脈が通じているとする説が起きた。しかしこういう考え
は明代にはみられない。鄭舜功は特異な例外である。明代の風水図には台湾島は勿論記されていない。それは 「東番諸島」であり、明の領域外にあるかかわりがない島である。小琉球は不征の国であった。
☆ 大琉球には至らない南幹
尖閣諸島が中国の一部であれば必ずここに南幹が通っているということになる。そのように言及する史料は皆無で
ある。とくに風水関係の史料にも全く記されていない。
隣接していれば界が生ずる。界があれば隣接しているわけである。
赤尾嶼と久米島の間に界があるのならば、つまり赤尾までが中国領であるということは、赤尾まで龍脈が来ている
ことを意味する。ここまで南幹の龍脈が達していることになる。そして脈は更にのびるはずである。順風半日で久米 島にまで達するのであるから。脈がとぎれるはずがないのである。更に那覇まで至るのが当たり前である。
風水は中国全土で流行っていた。特に東南部においては大流行していた。福建もその流行の中心地の一つであっ
た。著名な風水師の多くは東南部の出である。もし久米赤島までが明領であるという一般的認識があれば、風水の 書(とくに福建で刊行された)に一度も書かれないということはありえないのである。福建省の地方志にも必ず、その 地の主山が記されている。
やはり中国にはこれらの岩島を領土としているという一般認識はないのである。領土としているのであれば、必ずこ
こからさらに南幹が琉球島まで至っていると考えたはずである。
☆ 琉球の人々の見解
琉球にも、風水はかなり根づいている。にもかかわらず中国から琉球まで地脈が通じているというように琉球の
人々が記載した例は皆無である。唐営の人々もそのようにはいっていない。風水家としても知られた蔡温もいわな い。しかし日本と琉球は地脈が通じていると再三、琉球の人々は記している。蔡温もそういう。
☆ まとめ
?から琉球に地脈がいたるという記述は、明清のどの册封録にも全く見られない。
册封使は誰一人として風水には関心がなかったとみることができようか。しかし册封使だけが書いていないのでは
ない。
明代において、琉球に?から地脈が通じているとする説はみられない。
清代になっても龍脈が福州から大琉球へ通じているという発想はみられない。台湾から大琉球へ続いているという
発想もみられない。ただ臺灣に南幹の龍脈が至っているという記載がよくみられるようになる。
中国から琉球へ龍脈が達しているという日本人も中国人もいないのである。唯一人の例外が鄭舜功なのである。
福州や台湾から龍脈が尖閣諸島や半架諸島に至ると風水家が記載したことはない。勿論、領域にも入っていない
これらの島に、龍脈がいたるはずがない。やはり福建所属の島嶼ではないのである。台湾府の付属島嶼でもない。
風水からみても、半架諸島や尖閣諸島が中国領として考えられていなかったという認識が一般的であったという事
実が判明する。尖閣諸島が中国領であるということが周知の事実であるということはないのである。
3.2.5.3 汪楫
汪楫の界についての認識を検証しよう。汪楫が著した使琉球雑録には、かの有名な「中外の界」の記述がある。こ
れが尖閣諸島の中国帰属を示す有力な証拠としてあげられているのである。しかし、汪楫の著した正式な報告書で ある「册封疏鈔」のなかにはこの記述はない。なぜかここのところだけが省略されている。この意味するところは重要 である。雑録という題は、皇帝への復命書として差し出すものにつける名であるはずはない。これは報告書ではない のである。しかしそのことについての分析はは後回しにして、まずは「使琉球雑録」を詳細に検証してみなければなら ない。
☆ 遂至黄尾嶼 ――汪楫はどこを果てと認識していたのか
使琉球雑録巻五「神異」をみてみよう。航路を記す巻に「神異」と名づけるというのは、この航海が神秘的な力に助
けられたという汪楫の認識を示しているようである。この雑録には彊域の巻もあるが、そこには中外の界は記されて ない。これは後述する。
☆ 過――遂過――遂至
汪楫は次のように記している。
二十四日天明見山則彭佳也不如諸山何時飛越辰刻過彭佳山酉刻遂過釣魚嶼舩如凌空而行時復欹側守備請循
例掛免朝牌許之浪竟平二十五日見山應先黄尾後赤嶼無何遂至赤嶼未見黄尾嶼也
井上清は以下のように訳している。
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二十四日天明に及び、山をみれば則ち彭佳山也……、辰刻彭佳山を過ぎ、酉刻釣魚嶼を遂に過す。船空を凌ぐが
如くして行く……
二十五日山を見る、応さに先は黄尾後は赤尾なるべきに、いくばくも無く赤嶼に遂に至す、未だ黄尾嶼を見ざる也
――釣魚諸島の史的解明 井上清
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この直ぐ後に「中外の界」という有名な記述がある。まずは順序に従い、上記の「過――遂過――遂至」という部分
から分析する。汪楫がどこを琉球の果てと認識していたかをこれにより知ることができるからである。
何度もいっていることだが『籌海図篇』には至黄尾嶼となっていた。那覇まで続く至の連鎖がここから始まる。
汪楫は『籌海図篇』を非常に重視していた。汪楫は、琉球への旅に三つの航路図を持参した。そのなかでは、鄭図
(つまり鄭若曽の日本図纂から抜出した針路図)を頼りにしているのである。繰り返しいうが、鄭若曽の見解を汪楫 は最も重視していたのである。鄭若曽のように至黄尾嶼といいたかったのだと思われる。ここが琉球王国の果ての 島だとみていたのである。
「應先黄尾後赤嶼」「無何遂至赤嶼未見黄尾嶼也」として、汪楫が不審を感じたのは当然である。
汪楫が琉球領の果ての島であるとみたのは、実は黄尾嶼であった。上のところをよくみていただきたい。彭佳山を
過ぎる、釣魚嶼を遂に過ぎる、そして赤尾嶼に遂に至るとなっている。遂過釣魚嶼。遂至赤尾嶼。
釣魚嶼を「遂過」という表記がされていることの意味をよく考えねばならない。彭佳山は「過」とだけある。そして「遂
過」の次は「遂至」がつくわけである。だから本来は、黄尾嶼のところで遂に至ると書かれたはずであることはここを みてもわかる。遂過というのは、次に、遂至と使いたかったからである。
汪楫は釣魚嶼の次には黄尾嶼があり、それから赤尾嶼があるという認識をもっていた。
事後的に、釣魚嶼に「遂過」がついたと考えられるであろうか?赤尾嶼で遂に至ると書いたために、その手前で見
た釣魚嶼に遂過をつけたと。
☆ 釣魚嶼を遂に過ぎ、掲げられる免朝牌
汪楫は、船にのっていた武官の長=「守備」が、釣魚嶼を遂に過ぎたまさにそのときに、そこで例に従って免朝牌を
かかげたいといったと記している。
免朝牌とは何であろうか。張学礼の使琉球紀に初めてでてくる。思うに「免朝」とは対面しないという意味であろう。
船の頭のところにつけられる牌である。顔が記されている。魔除の意味があるものと思われる。何となくシーサーを思 わせるところがある。にらみをきかすつもりではあろうが、どちらも何となくユーモラスである。
気になるのは、「例に従って」といったということである。しかしそうした先例は、册封録のなかでは一度しか見たこと
はない。言葉を、吟味せずに受入れてはならない。
天候も怪しくなり海が荒れたときに、張学礼は免朝牌を掲げさせ、祈りを捧げている。しかしその場所ははっきりし
ない。張学礼は免朝牌と同じ図柄を紙にも書き、繰り返し、海に投入れた。そして魔を退散させることに成功した。こ れが唯一の先例のはずである。その免朝牌を、汪楫の伴った武官は釣魚嶼を過ぎたところでなぜか掲げたのであ る。まだ海が荒れたわけではないのにそうしたのである。武官が有名な海防書である『籌海図篇』を読んでいないは ずはない。黄尾嶼の手前で(=琉球領に入ろうとする直前で)、わざわざ掲げさせたことは間違いないはずである。次 は黄尾嶼である。「敵地」に入る直前に掲げたとみることができる。(こう書くのは、ここで行われた儀式が、空前絶後 の儀式だからである。それは後で分析する)
「遂過釣魚嶼」となっているのは、琉球界の黄尾嶼の一つ手前にある島だからという武官の認識を反映しているも
のでもあるととるべきである。
やはり(遂至)の赤尾嶼の一つ手前で釣魚嶼をみたから、事後的に「釣魚嶼を遂過す」とされたのではない。
だが武官の地理的認識は、極めて曖昧なものであり、大小琉球の区別さえはっきりとはついていなかったろうと思
われる。だが至黄尾嶼という記述から、彼等は琉球の領域を判断したのである。それと沖には、海の荒れるところが あり、そこを溝というと彼等は認識していたのである。この二つを急遽、重ね合わせて「中外の界」であると理解した のであろう。
☆ なぜ黄尾嶼は消えたのか――なぜ至赤嶼となっているのか?
汪楫や郭汝霖はなぜ黄尾嶼をみることが出来なかったのか。黄尾嶼を見なかったために彼等は、赤尾嶼において
至と書いた。通常のコースを通っていれば、釣魚嶼がみえれば、必ず黄尾嶼もみえるはずである。二つの島は相望 む関係にある。その上、黄尾嶼の方が北にあるのである。「北過」するのに、見えないのは不思議である。実は釣魚 嶼を南過したのではないかとも考えられるところである。しかしやはりそうではないであろう。
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1970年12月、魚釣島に滞在し最高峰に登る。黄尾嶼が見える。(-5)
――東支那海の谷間――尖閣列島
九州大学・長崎大学合同尖閣列島学術調査隊報告 1973年
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島の北岸近くには、平らな岩礁が広い範囲に渡って展開している……海岸林のふちには岩盤上にのべひろげられた
砂浜が点在……この平地から北小島南小島が間近にみられ、また北方にある黄尾島の姿もはっきりとみえる。
――東支那海の谷間――尖閣列島
九州大学・長崎大学合同尖閣列島学術調査隊報告 1973年
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李鼎元も釣魚台と赤尾嶼しかみていない。斉鯤の記録にも「十三日天明見釣魚臺従山南過乃辰卯針行船二更午
刻見赤尾嶼」とされる。やはりなぜか黄尾嶼が消えてしまうことがわかる。
それにはちゃんとした理由がある。黄尾嶼はほぼ一貫として中国の史料には釣魚台から四更離れているとされて
いる。『籌海圖編』の曖昧な書き方が、この誤解を招くもとになっている。しかし、久場島と魚釣島が隣接していて相 望む位置にあることは疑う余地がない。四更離れていると思いこんでいるから、黄尾嶼が消えるのである。黄尾嶼は 釣魚台から東に四更離れているはずだが、そのような位置には島は存在しないのである。当然、その島を見ることは できない。
次に見えるのは赤嶼である。
琉球人の夥長が一々、説明しなければ、久場島・魚釣島はまとめて釣魚嶼(釣魚台)と理解されてしまうはずであ
る。釣魚嶼と黄尾嶼は相望む関係にあるし、一々区別する必要はないからである。
汪楫や郭汝霖や李鼎元や斉鯤は黄尾嶼を見てはいるのだが見たと認識することは出来なかった。
他の册封使の使録のなかにも針路の条で釣魚嶼から黄尾嶼は四更離れていたと記されているものがある。先例
にならい見てもいない島を記すのである。李鼎元は一般論ではあるが、みてもいないことを書く役人を痛烈に皮肉っ ている。
汪楫や郭汝霖や李鼎元や斉鯤はみてもいない島は書かなかったのである。
☆ 中外の界を汪楫は認めたのか?
いよいよ「中外の界」の記述について分析してみよう。先に分析した「遂過」ー「遂至」という記述の後に、でてくるの
である。
井上清は、赤尾嶼と久米島の間に界がある決定的な証拠としている。
二十四日天明見山則彭佳也不如諸山何時飛越辰刻過彭佳山酉刻遂過釣魚嶼舩如凌空而行時復欹側守備請循
例掛免朝牌許之浪竟平二十五日見山應先黄尾後赤嶼無何遂至赤嶼未見黄尾嶼也薄暮過郊#或作溝#風濤大作 役 生猪羊各一溌五斗米粥焚紙舩鳴鉦撃鼓諸軍皆甲露刃俯舩作禦敵状久之始息問郊之義何取曰中外之界也界 於何辨曰懸揣耳然頃者袷當其處非臆度也食之復兵之恩威兵濟之義也過赤嶼後接圖應過赤坎嶼始至始米山
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二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄
暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ 鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷ニ伏シ、敵ヲ禦グノ情ヲナス。之ヲ久シウ シテ始メテヤム。
そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相
手が答えた。「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。汪楫は重ねて問うた。「界ハ何ニ於テ辯ズ ルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ 頃者ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」(-36)
――釣魚諸島の史的解明 井上清 第三書館
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赤尾嶼を過ぎて「中外の界」があると聞かされた汪楫は、述べた人に対して質問をおこなっている。尋ねた相手は
兵役を指揮していた武官であろう。この儀式をとりおこなった指揮官に、意味を問うのが当り前である。なぜか名前ど ころか役職もふせられている。当時、華夷の別をいうことは大きな問題であったからであろう。この武官は中外の界で はなく華夷の界といったのではないかとも思われる。清国皇帝は漢族がこの華夷をいうことには極めて神経質となっ ていた。満州族が夷とされていたからである。相次いで文字の獄を引き起こしている。処刑された者は多い。しかし、 当面の問題とは余り関係がないので、今は、これ以上の考察は省略することにする。
汪楫には中外の界がここにあるという認識が聞かされる前には全くなかった。だからこそ理由を聞いたのである。
赤尾嶼が中国領の果てであれば、その先には琉球領しかないはずである。琉球領の手前の島が中国領の果ての 島になるのであろうから。赤尾嶼の先の海が界の海であることは明らかである。いうまでもないことである。「界ハ何 ニ於テ辯ズルヤ。」と問うたりするはずもないであろう。遂至赤尾嶼が中国領の果てに至るという意味であるはずが ないのである。
しかし黄尾嶼を琉球領の果ての島であると汪楫が認識していたとすれば、「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」と驚き問う
のもわかるのである。なぜ赤尾の先に中外の界があるのか? 先にあるのが黄尾嶼で、それから赤尾のはずだと汪 楫が戸惑っているのがわかる。
しかも質問に対する武官の答えが極めて変である。推量するのみなどとされている。界をなぜ推量しなければなら
ないのだろうか。「でたらめではないが推量するのみ」といわれても困る。これでは判断の根拠が示されていない。来 歴を史書をあげて説明したりすることもない。だから汪楫は単に記載しておいただけである。
これを刑事事件だと考えてみよう。例えばどこのだれともわからない人間が、あいつが犯人だといった。なぜなのか
ときくと、推量するだけだが、間違いありませんとのみ答えた。どうしてこのようなものが証拠となるのか。
汪楫は推量するのみという答しか聞けなかった中外の界を使琉球雑録の「彊域」の条には記さなかった。汪楫の認
識が変化したならば、彊域のところで、必ず書かれるはずである。界に触れずに彊域について記すことはできない。 このことから見ても汪楫は単に書き留めただけである。「神異」という巻の中に。
日本一鑑においてみられた特異な思想(琉中は地脈が通じている)と汪楫の記載にある「中外の界」は、相通ずる
観念である。勿論、これらは違う次元のことをいっているわけである。しかし、ここに中外の界があるというのであれ ば、琉中は隣接しており、つまり地脈が通じていることになるではないか。論理的にみればそうなるのである。これま た特異な例外的史料ということになる。特異な少数史料の一つである。それも史料全体をよくよくみると、「矛盾」が みられるというのもまたいつもの通りである。
☆ 「册封疏鈔」には中外の界はない
汪楫の編纂した「册封疏鈔」をみると「中外の界」についての言及は先述した通り欠落している。これには驚かされ
る。
雑録よりも、疏鈔の方がより重要な典籍である。
「册封疏鈔」は康煕二十一年六月十一日に完成している。册封関連でやりとりされた公文書を汪楫がまとめたので
ある。使琉球雑録よりも二年も前に編纂されている。
疏は「一条ずつわけて意見をのべた上奏文」のことである。鈔とは「もとのものからうつしとって控えとする書物や書
類。ぬきがき。うつし。〈同義語〉・抄」である。疏鈔とは上奏文の写しということになる。
「册封疏鈔」には皇帝の印もおされている。皇帝の手元に差出されたものであろう。こちらの方が公式の報告書であ
る。
考えてみれば、雑録というのは皇帝への報告書につける題ではない。私的記録を意味するものであろう。
「册封疏鈔」のなかに「春秋二祭を乞う題本」というものがある。天妃の加護により、稀にみる奇跡的な平穏な旅と
なったと感謝する奏本である。大恩ある天妃を春秋二回祭って欲しいと奏上したのである。
これをみると琉球へ向う航路で起ったことが縷々示されている。使琉球雑録の神異に書かれたことと照らし合わせ
てみると、大体同じである。不思議にも、「中外の界」に関する部分だけが消えている。ここで異様な儀式をしたことも 消されている。根拠不明のことを皇帝への報告書に記すわけにはいかなかったのである。公式の報告書の方では、 省かれている「中外の界」にどれほどの意味があるであろうか。国境画定の場に持ち出すことができる史料ではな い。
それに「中外の界」(=赤尾嶼と姑米山の間)と書いたのは汪楫の使琉球雑録が唯一あるだけである。意外である
が、はっきりと界を書いたものとしては唯一の史料なのである。そこに界があると類推できるという史料は他に二、 三、提示されているが……。
☆ 赤嶼→赤坎嶼→姑米山
汪楫は鄭図をみて「赤嶼を過ぎるの後、図を按ずるに赤坎嶼を過ぎ、始めて姑米山に至るべし」として、赤坎嶼が
見えなかったと疑問を示している。
汪楫の基本的認識は、赤尾嶼――赤坎嶼――姑米山となっているはずである。
汪楫が赤嶼を明領の果ての島とみたのであれば、赤坎嶼を琉球領のもっとも東の島と考えたことになる。久米島が
果てではないのである。これでは明解な界を認識したとはいえない。界は赤尾嶼と赤坎嶼の間にあるのか。赤坎嶼 と姑米山の間にあるのか。中外の界があるとすれば、赤坎嶼は界のどちら側にあるのか。汪楫は答えられないであ ろう。やはり汪楫はただ「中外の界」と聞いたままに書いただけである。(久米島と大正島の間に)界を認めたわけで はない。汪楫の手元には現代の地図はないのである。彼が重視した鄭図には、赤尾嶼と久米島の間に赤坎嶼があ った。
井上清は、現代の地図をみながら、汪楫が久米島と赤尾嶼の間に明確な界を認定したかのようにいう。しかし汪楫
の手元には、現在の地図はないのである。中外の界を汪楫がここに認定したなどということはない。事実ではない。 ここまであげていた様々な根拠にもとづいて否定できる。
☆ 界外の台湾・琉球――溝でとりおこなわれる異様な儀式
外藩国はまがきだったのであり、中外一体のありさまが理想とされていたはずである。ところが汪楫の册封の際に
は、敵国に入るような物々しい儀式が行われた。生け贄をささげ、剣をふりかざした。恩威ともにあたうるの意なりと いうが、これが天妃にたいしてとられる態度であろうか。この儀式は威嚇も加えている。儀式は戦いを思わせるもの であった。天妃への篤実な祈りというものではない。
海神を祭ると思えない異様な儀式に汪楫はひどく驚いたのである。
陳侃をはじめとする歴代册封使も海神をこのように祭ったのであれぱ、必ず記したであろう。明代にこのような祭り
を册封の旅の途中でしたことはない。册封使はひたすら天妃に祈るだけである。助けをこい願うのである。
汪楫の見た儀式は似て非なるものである。この儀式は、異例なものであった。それは鄭氏に対して、つまり鄭氏の
支配する澎湖島や台湾に対して行われた儀式ではないか。汪楫来琉の年、清軍は台湾海峡の黒水溝を渡って鄭氏 を攻めたのである。そのときなされた儀式をこのときも、とりおこなったのではないか。
周煌の琉球国志略には次のようにある。
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第三 封貢
二十二年(一六八三年)、汪楫等は?に着いたが、まさに、一軍の兵が台湾を攻めようとしている時にあたり、遂に、
船を造る望みがないので、直ちに、戦艦を拾得して渡海した。(-134)
――琉球国志略 平田嗣全訳
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汪楫は鄭氏攻撃のための戦艦を徴発して琉球に向ったと周煌は述べている。これでは乗込んでいた武官が大小
琉球を混同していてもおかしくはない。汪楫自身も出発前に、大小琉球を混同していたことも明かである。実際、船 は、台湾の方に向かったのである。これは流されたのではなく、武官がそちらに向かわせたのではないか。汪楫は 自力でいけると自信満々であった。琉球の人々を待たずともよいとした。そう皇帝に願い出ている。だから琉球の 人々に針をとらせなかったと思われる。汪楫は神秘的な存在が、霊夢に現れ、船が域外の台湾に流されていること を告げたとしている。それに従い汪楫が進路を変えるように指示したと書いている。しかし実際は、琉球の人が告げ たのではないか。夥長や迎接使は何のために乗り込んでいたのであろうか。台湾の方に向かっていれば驚くのが当 たり前である。汪楫は単独で行けるから、琉球の人々を待つ必要はないとしていたのである。めんつがからむ問題と なる。琉球の人から助けを受けたことを省かねばならなかったのである。
しかもここでは域外台湾の方に流されているとされている。釣魚嶼や赤尾嶼が台湾の近傍に存在する付属島嶼と
みなされているのでであればなぜ域外などと書かれているのであろうか。つじつまがあわないのである。
それにしても様々なあり得ないような神秘的な出来事が使琉球雑録の中には、多々書かれている。怪力乱神を語
りすぎる汪楫のいうことを額面通りにとっていいのかどうか、疑問である。
☆ 溝の義
使琉球雑録には、郊とかかれていた。そして或いは溝ともいうとされている。この「郊」とされる例を他にみたことが
ない。郊と溝は漢音では同音となるが、呉音では違う音になる。福建の言い方ではないと思われる。郊とはまがきの 外をさしており、溝とは意味が違う。溝とはある幅をもった「溝」であると考えられるが、郊はそうではない。
溝は、いつ頃からいわれはじめたのか、わからない。明代には、落?といわれていたが、これは水が下に落ちている
ところである。溝はそれに無関係ではない。しかし同じものを指すものと断定することもできない。しかし澎湖の近くか ら落?に向かう流れがあることは明人も気付いており、諸書に記している。この流れを溝と捕らえるようにいつしかなっ たと思われる。広義にいえば澎湖の近くから始まる流れも落?の一部である。溝は延々と延びているものととらえられ ていた。この澎湖は現在の澎湖島を特定してさすのではなくて、このあたりの海に浮かぶすべての島をさしていたと 思われる。
奥原敏雄は、溝を異常潮流に過ぎないというが、それは溝が中外の界の意味であるということを否定するためであ
る。しかし溝は異常潮流ではない。
溝が中外の界であるという認識はどこから生じたのであろうか。
溝は、台湾海峡にあるものがよく知られていたようである。というのは台湾海峡はこの頃はかなりの中国船が航行
する海となっていた。しかし琉球航路はさびれていた。琉球の貧しさのために、中国船がやってこないのである。台 湾海峡も荒々しい海である。台湾海峡にある赤水溝や黒水溝は海の難所とされていたようである。海の荒れるところ が溝とされていた。武官は台湾海峡にある溝について知っていた。それは海の荒れるところであり、その向こうに は、大小琉球が存在していた。琉球=外である。溝がしきりのようなものとして、とらえられるようになるのも無理は ない。溝をこえればあちらに行ってしまう……と。
沖に出て海の難所に遭遇すると、そこを溝と呼び、その向こうを危険な「外」、手前を安全な「内」としたのであろう。
極めて漠然としたものである。
澎湖島について中外の関といわれるのも同じことであろう。これは小琉球を外とみなしていることになる。古くは中
外の関ではなくて、中外の界といわれていたはずである。
汪楫来琉の際に、海が荒れたところで、始めてきた武官は溝を認定したのであろう。そのあれたあたりで、『籌海図
篇』においては「至黄尾嶼」となっている。つまり琉球国に至とされているのだから、その手前は内であり、その向こう が外であるとこのとき認識してもおかしくはない。
そもそも中外の界が広くいわれていたとしたら、台湾海峡の黒水溝が、中外の界といわれていたはずである。その
溝は更に大琉球に向かって延びていると考えられただろう。その知識を大琉球に対しても、拡張したのではないか。 海が荒れるところをみて、中外の界としたのであろう。
册封船に乗る武官は、兵役を指揮して、大小琉球の区別もつかず、黒水溝のむこうにあるのは敵とみるかのように
儀式をおこなったのではないか。明代においても大琉球も小琉球も「外」にあったのである。溝の向うにある敵地に対 して威嚇の儀式を執り行っても不思議ではない。溝がこのとき大琉球の手前の海にも発見されたということに 武官 は、どうしてここが界なのかと聞かれて理由を汪楫に、説明できなかったのであろうか。漠然とした知識しかなかった からである。彼等は台湾海峡にある溝について聞いていた。それは海の荒れるところであり、その向こうには、小琉 球が存在していた。その知識にもとづいて答えたからである。彼等は汪楫が、台湾海峡を渡ったとしても、同じように 溝の義をとわれたら、同じように答えに窮したであろう。理由は答えられないが、でたらめではないと、同じように答え たであろう。
溝を中外の界というのは大小琉球を外にあるものと認定したことになる。彼等は台湾を界の外にあるとみていたこと
がわかる。台湾が内にないことの証拠となってもいるわけである。溝の義を問う、曰く中外の界なりというのであれ ば、台湾海峡に現れる「溝」は何を意味するのであろうか。結論にあわせて都合のいいところを切り取ってはいけな い。また結論にあわせて、都合のいいように解釈してもならない。
斉鯤は、釣魚嶼の南を通り過ぎていると思われる。また明代初期の琉中航路は、尖閣諸島の南を通っていたと思
われる。この場合、溝を越えるのは、尖閣諸島の手間になってしまう。もしかすると武官はこのことを知っていたのか もしれない。斉鯤が書いたとすれば、釣魚嶼の手前で、溝を越えたことになるはずである。
黒水溝は澎湖の東西に二つあり、他に赤水溝もあった。このように多数の溝が発見されたのは、行き来が激しくな
ってからのことである。だから単一の溝があり、それが中外の界といわれたのは、古い時代のことではないかと思わ れる。
しかしこのような認識は特異なものであり、他に例がないものであった。
☆ ティンガナシー(琉球王)は中外の界を認めていたか?
どこの誰ともわからない男がいった中外の界をこれ以上、論ずるのもはばかられるが、仮にあったとすれば、このよ
うな中外の界をティンガナシー(琉球王)は認めていたのであろうか。
中山王尚貞が中国皇帝に対して出した謝恩疏の一例をみてみよう。これは康煕二十二年(1683年)のものであ
る。ティンガナシーが中国皇帝に対して謝礼した文書である。汪楫等を派遣し、册封の義を執り行わせてくれたことに 礼を述べている。
(周煌琉球国志略 巻十五芸文より)
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臣の国は海東に僻在しており、中国から道理を以て測ることの出来ない遠い所にあります。往時は、封舟の出帆に
は、惟だ、西南風を恃みにして行くだけで、航海の中途には全く停泊する処がありません。……五虎門から開洋し、 三昼夜で小国に達したのは、今までにあったためしがありません。臣が差わした太夫・通事・夥長は封舟の航海を迎 護し(-392) ――琉球国志略 周煌 平田嗣全訳
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どうみても、赤尾嶼と久米島の間にある中外の界を認めていないことは明らかである。琉球は「中国から道理を以
て測ることの出来ない遠い所にあり」というのがティンガナシー(琉球王)の言である。明清代を通じて、再三再四、同 じようなことが言及されている。 どこの誰ともわからない人間が、どういう根拠でいったのかわからない中外の界に 決定的な意味があるとすることはできない。そのような発言を中国皇帝やティンガナシー(琉球王)の言葉よりも上に 置く意味がわからない。
☆ 琉球の水先案内人が乗り込む水域
先述した通り、汪楫は琉球人の助けは必ずしもいらないと考えた。しかしそれに対する礼部の回答をみれば琉球の
水先案内人と迎接使の乗込みを必須としていることがわかる。汪楫は貢使をまたなくてもよいという許可を皇帝に求 めたのだが、得られなかった。皇帝が、この水域は琉球の水域だと認めたのである。どこの世界に他国の水先案内 人なしにはいけない自国領土というものがあるだろうか。
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封貢 汪楫等は七箇条のことを疏陳した。(中略)一は、渡海の時期は必ずしも貢使を待たなくてもよい。(後略)(-
134)
――琉球国志略 周煌 平田嗣全訳
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ティンガナシー(琉球王)は、迎接使と水先案内人を福州まで派遣したのである。彼らは册封船に乗込み、册封使
を迎護して戻ってくる。貢使がついでに乗込むのではない。誤解である。いや渡海が琉球に依存していることを汪楫 は中国の威厳にかかわるとして恥ずかしく思ったのかも知れない。
清代においても以後の册封使も必ず琉球人の水先案内人と迎接使を伴った。
再三いうが水先案内人が乗込むのは相手国水域に入ってからである。琉球の迎接使と夥長が册封船に乗り込む
のは、すぐに琉球の水域に入ることの歴然たる証拠である。 明清に赴いた琉球使節にも明清の役人が同伴した。 福州から北京、北京から福州に向かう旅においてである。自国領域を勝手に行き来させることは出来ないからであ る。案内や警護のためにつくわけである。
汪楫が水先案内人なしで進入できると思ったのは、海道の研究を書物でしていたからであろう。陳侃以来の册封
録を詳細に読んだためであろうが、琉球の海は暗礁も多く、流れも複雑でとても危険である。天候も変わりやすい。 実地を知らない知識人らしい。
先述したように、汪楫は、澎湖島の近くに琉球があるという奏文を皇帝に示している。そのような知識で何処に行こ
うとしたのか?
使録をみると、?の役人や琉球の迎接使のいうことを無視して、汪楫は無理に季節はずれの渡海をしている。中国
皇帝の意志をふりかざして、風もそれに従うはずだというのである。非合理的な考え方である。汪楫は非合理主義者 である。
☆使琉球雑録巻二「彊域」
出発前と帰国後における汪楫の琉球の位置と彊域に対する認識がどのように変化したのかを確認してみてみよ
う。中外の界についての知識を得たのであれば、それは大きく変化しているはずである。
☆琉球はどこに?
☆出発前、汪楫は琉球の位置や領域をどう認識していたのか?
册封使として福州に出発する前に、七箇条の題本というものを汪楫は奏上している。七つの要求をした。公式の報
告書である册封疏鈔を読むとその内容がわかる。
その一条で次のように述べている。
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一、……臣がつつしんで、『宋史』『元史』及び地図を広げ諸書を考察いたしますに、琉球は澎湖島とむかいあってい
て、遠くにはありませんが、現在、海賊がひそかに(澎湖島)を占拠しており、福建総督の姚啓望らは、ちょうど兵を 指揮して、進行中でございます。……
――訳注「汪楫册封琉球使録三篇」 原田禹雄 1997年 榕樹書林
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汪楫は出発前には、琉球の領域について全く、漠然とした知識しかもっていなかったのである。汪楫がこのとき、ひ
ろげた地図は間違いなく、鄭若曽系の琉球図である。他にはみることのできる図はない。大小琉球が混同されてい ることがわかる。この時点では汪楫は鄭氏が大琉球島に接近している澎湖島を制圧していると思いこんでいたので あろう。
☆帰国後、どう認識は変わったのか? 使琉球雑録にみられる琉球国の位置
帰国後、記した使琉球雑録巻二彊域のなかでは琉球国の位置をこう記している。
琉球国在福建省之東以大勢論之当在東南然自福州府登舟必乗夏至西南風而行厳在東北ム+ヤ去中国不可以
里計浮大海中
庶民資料集成においては、次のように読み下されていた。
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琉球国は、福建省の東に在り。大勢を以て之を諭ずれば、当に東南に在るべし。然れども、福州府より登舟するに
は、必ず夏至、西南風に乗じて行く。則厳として東北に在り
***************************************
依然として、汪楫の地理的認識は曖昧模糊としている。出発前よりはましになってはいる。しかし一読では要を得
ない。わけのわからない書き方である。まずは琉球国は福建省の東にあると漠然と定義する。これは伝統的な認識 を示す。大小琉球が区別されていない。「以大勢論之当在東南」というのをどう解釈すればいいであろうか。国の大 勢からみれば東南にあるということであろうか。だとすればまあよい。しかしそれでは腑に落ちないところがある。大 勢の論では福建省の東南にあると読むことも出来る。三才図会においても、台湾が福建省の東南に在りとされてい たことを思い出してみよう。
史書にでてくる琉球をすべて沖縄のことであると彼等は考えているのである。
そして汪楫は、福州府よりみれば厳然として琉球国は東北にあるという。夏の西南風に乗っていくのだから、福州
府の東北にあると経験により断言しているのである。厳と書いてあるのは、断定できるからである。しかしそれでは 琉球国は福建省の東にありと冒頭で定義したことや、福建省の東南にありと皆がいうとされたことはどうなるのか。 混乱している。きちんと整理されていない。
当時の中国人にとっては、琉球の地理的位置さえ、おぼつかない有様である。このことが改めてわかる。
その上「去中国不可以里計浮大海中」とされているのである。
再度いうが、巻二「彊域」においては、琉球の彊域についての汪楫の見解が示されている。琉球は中国から里をも
って計ることができないほど遠くにあるとされているのである。これが琉球の彊域に対する汪楫の理解だった。久米 島と赤尾嶼の間に界があったと理解した形跡さえみられない。汪楫が中外の界について、出発前には知らなかった ことは間違いない。また、帰国後に界がそこにあるというように、認識を変えたとも認められない。
琉球は「中国を去ること、里を以て計るべからず。大海中に浮びて」とされている。絶海の孤島のようである。これは
海中に、中外の界があると汪楫が認めたという通説と反している。
使琉球雑録の「附 臣楫□琉球国新建至聖廟記」にも「琉球国は遠く海東万里の外に在りて」とある。使琉球雑録
には、他にも「遠い」という認識が示されているところが随所にある。
陳侃が「祀典を乞いたてまつる奏本」で見せたのと同じ認識を汪楫ももっているのである。全く一緒である。陳侃は
こういっていた。
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臣らは勅命を奉じて琉球国へゆき、王を封じましたが、琉球は遠く海外にあって、路が通じているのではございませ
ん。従来よりすべて海路ですが、海中はみわたすかぎり水ばかりで、はるかに陸地とてなく、海底は深くて底が知れ ません。
――使琉球録 陳侃 原田禹雄訳
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やはり当時の中国人が、中外の界がどこにあるかということをはっきりと知っていたという説は極めて疑わしい。
「彊域」の条が汪楫の地理的認識を明確に示しているのである。
皇帝の意思も汪楫と同じである。諭祭の文章には琉球国は遠くにあるとされている。
清の領土が琉球領である久米島に順風ならば半日〜一日で至るはずの近くにまで延びているという認識はこの
「使琉球雑録巻二「彊域」」には見られない。国境は、やはり遠いのである。琉球国の近くに中国領の島などやはり ないのである。
☆ 琉球の人々の彊域認識
琉球の人々の方の彊域認識はどうであろうか。先ほどティンガナシーが界を認めていないことはすでに記述したが
……。
汪楫が尋ね聞き取った琉球の人の言葉にはこのようなものがある。
「長史云う、幅員周廻は五六千里ばかりと」。「大約、東西は長くして南北は狭し」。そして輿図はないと記す。これが
琉球島の大きさやその形状をいったのだとすると、長史は正しい情報を与えていない。これは領域認識が粗雑なせ いなのか。あるいは、正しい情報を与えないようにしているのか。
徐葆光は、手厳しく批判している。
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琉球には、もともと地図がなかった。前使の使録に「周囲は五、六千里ほどあろうか。東西に長く南北に狭い」といっ
ているのはすべて憶測だからである。私は訪問すること五、六ヶ月、その上大夫の蔡温とあまねく中山と山南の勝景 の地を遊覧し……南北の距離は四百四十里、東西の狭い所は数十里にすぎないのである。再三、討論してやっとこ の図を制定した。(-226)
――訳中山傳信録 徐葆光 原田禹雄訳
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周煌も汪楫のこの記載を厳しく批判している。
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汪楫録で「幅員周廻が五六千里ほどあり、東西が長く、南北が狭い」と云っているのを調べてみたが、これは実際
と合わないだけでなく、また、直ちに属島に之をなぞらえても、亦正しくないのである。(-150)
――訳琉球国志略 周煌 原田禹雄訳
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しかし琉球の人々が鄭若曽の琉球図をもとに版図を答えたとすれば「長史云う、幅員周廻は五六千里ばかり」とい
うことは間違ってはいない。「大約、東西は長くして南北は狭し」というのも琉球諸島全体(小琉球を含んでもいい)を さしていうのであれば、嘘ではない。大島筆記をみても、和漢三才図会に書かれている事は合うこと多しと琉球の知 識人は答えていた。図会にのっている鄭若曽系琉球図を合うこと多しといってるのと思われるのである。汪楫が聞い た琉球の人々も同じように認識していたのではないか。そう考えるときちんとつじつまがあう。またそう考えないと、な ぜこのような事実に反することを、册封使にいったのかがわからないのである。
☆ 汪楫以後の册封使は中外の界の界を無視した。
徐葆光は中山傳信録のなかの後海行日記で二月二十日に溝を過ぎ海神を祭ったことを記録している。これは復路
である。往路では、溝をみてもないし、当然、祭りもしていない。そのことについて何の不審も記してない。汪楫がか きとめた中外の界について一言も触れていない。
徐葆光は「中外の界」を無視した。それについての徐葆光の見解は「信寡し」ということでいいと思う。徐葆光は中
山傳信録のなかで次のように汪楫を評していというる。
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「蓋し使期促迫し、捜討倉猝にして語言文字彼此訛謬、此を以て聞く所詞を異にす、これを伝えて信寡し」
−−近世沖縄の社会と宗教 島尻勝太郎 三一書房 1980年
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それにしても汪楫は聞いたままに書き記すことが多く、きちんと考察していないと周煌も徐葆光もいうのである。伝
聞について判断を示さずにそのまま書いているのである。このことをよく覚えておいていただきたい。
3.2.5.8遊歴日本図経
遊歴日本図経のなかの尖閣諸島
「遊歴日本図経」は傳雲竜が日本で、1889年(明治二十二年)に書き上げた報告書である。傳雲竜は当時、新進
の気鋭の官吏であった
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清王朝の官吏、傳雲竜は、政府の派遣で、1887年から1889年にかけて日本を始め、アメリカ、カナダ、ペルー、キ
ューバ、ブラジル各国を歴訪した。傳雲竜は、調査、視察の結果を報告書『遊歴日本各国図経』にまとめ、図と表の 形で各国の歴史、官制、政事、外港、経済、文物制度などの基本状況を政府(総理各国事務衙門)に報告(-109
近代日中語彙交流史――新漢語の生成と受容―― 笠間叢書271 沈国威 笠間書
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探索と情報収集を命じられた傳雲竜は、一年以上も日本に滞在している。日本を特に重視したのである。遊歴日本
図経は、日本で、印刷された。傳雲竜は帰国後すぐに総理衙門にこれを提出し称賛を得た。1893年には、すでにそ の一部が公刊されている。小方壷斎刊輿地叢鈔のなかに抄録されたのである
「淅江と日本」(編著者 藤善真澄 関西大学東西学術研究所 平成九年)によれば、淅江図書館蔵の「遊歴日本
図経」には「御覧」という朱印がおしてあるという。これは皇帝が見たということであろう。この刊本には当時の中国に おいて著名な人物の序が四つもつけられている
「遊歴日本図経」には、多数の図表が収められているのが特徴である。表の一つに、尖閣諸島がでてくる。「図経
六 島表」に、「……鳩間 沖之神 与那国 尖閣郡 低牙吾蘇」とされている。「州南諸島」の一部とされている。こ の郡は群の誤記である。尖閣郡と低牙吾蘇の二島がでてくる。日本側の史料をみれば、尖閣群島の範囲に低牙吾 蘇島が当初入っていなかったことは明らかである。それを反映している。
日本の尖閣領有を認めている有力な史料である。この刊年は日清戦争の前、つまり、日本の編入(正確にいえば
今日、「先占」とされている手続き)のなされる以前であることに注目しなければならない。 この表においては島と嶼 がきちんと区別されている。これが中国人の伝統的な考えである。傳雲竜が日本政府の資料を丸写ししたものでは ないことは明らかである。繰り返すが、島と嶼は厳然として区別されている。
尖閣郡や低牙吾蘇は島の方に区分されている。
この日本遊歴図経は、公刊された著名な著作である。その上、政府が派遣した官吏が政府に対して提出した報告
書であったということがとりわけ重要である
尖閣諸島の日本帰属を認める中国史料は調べれば続々と出て来るであろう
3.6.2ゴービル 1785年公刊
「チャイニーズが琉球諸島と呼ぶ島についての覚え書」
ゴービルの「チャイニーズが琉球諸島と呼ぶ島についての覚え書」を検討してみよう。これが公刊された時のタイト
ルである。北京にいたイエズス会の宣教師ゴービルが1751年にイエズス会本部に送った書簡そのものである。ゴ ービルは徐葆光の中山傳信録を元にして、更に伝聞を加えて琉球に関する報告をした。そして自身が作成した琉球 図をこの書簡に添付した。最初から公刊されることを念頭において書かれたものである。
この書簡と附図は、1758年にイエズス会により公刊された「教化的で不思議な書簡集」の中に収められた。欧州
で読むことができる本格的な琉球関係資料としては当時、これが殆ど唯一のものであった。琉球関係の情報は希薄 であった。
☆ ゴービルとは
ゴービルとはどういう人物であろうか。ゴービルは康熙帝と乾隆帝に仕えた宣教師である。ヨーロッパの科学技術を
伝えてくれる学者として重用された。
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英・仏・露の科学アカデミーとの通信を行い、中国の天文学、数学など科学的な研究を発表している。その間、多く
の中国の史書や満州に関する文献を訳出して著書にまとめて上梓している。
――ブロッサム号来琉記 △
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学者としての活躍の他に、外交官としての働きも見逃すことが出来ない。北京に来る西洋人と清帝国の間の交渉
の仲介の労をとることが多かった。他にも中国とロシアとの外交交渉の際に重要な役割を果している。影響力のある 著名な人物であった。
ゴービル図の広汎な影響力
イエズス会士中国書簡集5紀行編(矢沢利彦編訳、東洋文庫 1974年)のなかにおいて、この書簡は、第七書簡と
して訳出されている。これは「教化的で不思議な書簡集」を編纂し和訳したものである。訳者はこれが「中山傳信録」 の記載の紹介に過ぎないのではないかと考えている。そのため翻訳する意味があるかどうか迷っているが、一応、 どのように紹介されたのかを知ってもらうことにも意味があるかもしれないとして、翻訳したと述べている。おかげで、 このゴービル書簡についてはきちんと研究することができたので、訳者には感謝したい。(中山傳信録とは違うところ があるとがわかった。)
訳者は、はしがきのなかで次のように述べている。
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Lettres edifantes et curieuses の版本の多さ、流布の広さから考え、琉球に関心をもったヨーロッパ人が、ま
ず最初にこの書簡を読み、それからこの諸島に対する概念を得たであろうことは予測しなければいけない。(-xviii)* **************************************
ゴービル図は重要である。西洋においては、「琉球」に関する地理的空白が、この図で埋められたのである。
☆ ゴービルの「琉球諸島図」の詳細な考察
ゴービル書簡に、ついていた図は。「Carte des Isles de Lieou-Kieou」と題されている。つまり、琉球諸島図
である。
☆ ゴービル図とフランスの地理学会
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ゴービルはその地図をフランス王室図書館のサリエ館長宛に送り、サリエはそれを王室地理学者J・N・ドリールに
頼んで手を加えてもらい、後にゴービルの報告書の付録として発表させた。(-74)
―― ヨーロッパ製地図に描かれた琉球 ヨーゼフ・クライナー
/西洋人の描いた日本地図―ジパングからシーボルトまで―
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ゴービルはフランス人であった。イエズス会だけではなく、自国の王室にも図を送っていたのである。
公刊されたゴービル図は、オランダ史料に基づく修正がなされているようである。
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当時ヨーロッパで指導的立場にあったフランスの地理学と地図学に大きな刺激を与えた。(-74)
――ヨーロッパ製地図に描かれた琉球 ヨーゼフ・クライナー
/西洋人の描いた日本地図―ジパングからシーボルトまで―
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この図は欧州において広く流布した。当時の西洋人の見ることができた唯一のまともな琉球地図であった。信頼性
の高い権威のある図とされた。この図以前には琉球の姿は西洋の地図にきちんとあらわれていなかった。殆んど空 白であった。
☆ すべて琉球諸島?
この図にしるされているところはすべて琉球諸島なのだろうか。いや端にはそうでない部分が記されている。図の
右上には薩摩が記されていて「日本の一部」という記載がある。図の左下には台湾島の一部分(半分程度)が示さ れている。図の台湾島には「フォルモサ島の一部」という記載がされている。「東番」と呼ばれていた地域である。ゴ ービルは書簡のなかで台湾島の東半分は、原住民が支配する地域であるとしていた。清国の力が及んでいないこと を認めていた。これはマイヤーの見解に従っただけではなく、中国側の記録も参照した上でまとめた意見である。ゴ ービルは台湾を、琉球諸島のなかに入れていないと思われる。
位置関係を示すために琉球ではない地域が両端に入り込んでいる。
薩摩のすぐ南に七島があるとゴービルは誤解して図に記している。種子島や屋久島が消えている。中国人が清末
の19世紀に作成した地図にも七島が薩摩のすぐ下にあるものがよくみられる。だから琉球と薩摩の距離は実際より もかなり近くなっている。
これは当時の中国人の認識を反映しているものである。
特記されてない限りは、琉球諸島図に記されているのは琉球の島々にみえるはずである。この図を見た人は、琉
球諸島図に描かれている島で、注釈などがつけられていない島は琉球に属するととるであろう。それが普通であ る。
☆ ゴービル図はその後の西洋の諸琉球図に大きな影響を与えている
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ゴービルの地図によって広められた新しい知識は早くも1753年に出版されたフランス王室地理学者フィリップ・ブュ
アーシの著書に所載された「琉球王国と島々の地図」に使われた。この出版によってゴービルやブュアーシの琉球 列島の地図は、十八世紀後半までヨーロッパで最新のものとされていた。(-75)
ヨーロッパ製地図に描かれた琉球 ヨーゼフ・クライナー
/西洋人の描いた日本地図―ジパングからシーボルトまで― 社団法人OAG・ドイツ東洋文化研究協会
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フランス王室の地理学者がゴービル図を最初に広めたのである。
この図は、ゴービルの図よりも早く公刊されたことになる。なんと公刊前にすでに影響があらわれているのである。
ブュアーシの著書に所載された「琉球王国と島々の地図」をみると尖閣と半架は琉球領として彩色されているよう
に見える。ゴービル図をふつうにみればこういう結論になることがわかる。琉球諸島図にのっている島がすべて琉球 諸島であるとみるのは、もっともである。
西洋人は、尖閣諸島や半架諸島を琉球諸島として理解していたのである。
☆ ゴービルの中山傳信録紹介
山口栄鉄はこう述べている。
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バジル・ホールの訪琉記の序論には、「中山伝信録」を要約、仏訳しヨーロッパへ紹介したピエール・ゴービル師の
著述の存在が明記されより広い読者層の注目する契機ともなっている事実を忘れることができない。更にマクレオド の琉球紀行中には、そのゴービルの著述に基づく「中山伝信録」が英訳紹介され、……(-76)
――異国と琉球 山口栄鉄
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中山傳信録の内容は、ゴービルにより直に欧州に紹介されているのである。
林子平図よりもゴービル図の方が二十七年、早く出版されている。西洋においては流布していた。多数の地図にそ
の影響が認められる。なお子平図が西洋に紹介されるのは、ゴービル図公刊よりも、七十四年後である。中山傳信 録の内容は、仏訳された林子平の三国通覧図説を通して伝わったわけではない。
ゴービル以後に、紹介された子平図は西洋に何の影響もほとんど与えなかった。
☆ ゴービル図は中山傳使録の図とは違う
ゴービル図は、中山傳信録の三十六島図とはかなり違う。中山傳信録図のように琉球島の真南に宮古諸島が記
されているということはない。西南に正しく記されている。また宮古と八重山は隣接するように正しく描かれている。先 島の姿はかなり現実に近くなっている。そして先島は台湾島の南端にむかって伸びているように描かれている。この 認識は中国人から聞いたものではない。西洋人の知見が加わって修正されているのである。
☆ 報告本文と付図との照合 ――琉球への航路上の島々
琉球への航路に関する記述はゴービル書簡の「第一章 琉球諸島の名称と位置に関する地理学的な詳細報告」
でなされている。
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「福州府の河口には多数の小島があります。シナの大船が琉球島を指して出発するのはこれらの島のいずれかで
す。シナ人はできるだけ安全を確保するために台湾島の北部の陸影を認めに、行きそこから東に針路を取りちょっと 南に向かい、私が地図の上に記しておいた諸小島の影をみつけにいきます。そしてこれらの島を北に残してさりま す。ついで姑米山島の北にむかってーー」
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ゴービルは福州の地理を余り知らない。詳しくないことがわかる。北京にいて入手した情報のみによってこう記して
いるのである。ありがちなことであるが、北京の中国人が福州のことを余り知らないことを物語っている。知らないこと は教えられないのである。
この「諸小島」は台湾と久米島の間にある島々である。鶏籠嶼、半架諸島、尖閣諸島を含んでいる。
ゴービル図をみてみよう。台湾島北端の真上すぐのところにキーロン(鶏籠嶼であろう)があり、つづいて彭佳嶼、花
瓶嶼、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼に当ると思われる島を経て琉球島那覇へと至る海道が示されている。線がこれらの 島々の北に引かれている。「Route de Kilougchan au Port de Napakiang」と書き込まれている。このルー トは、たびたび図によく書き込まれることになる。ペリー図にも書かれている。ゴービル以来そうである。
☆ 半架諸島と尖閣諸島は琉球諸島かについて再考
この図に記されている臺灣島の一部及びその周りにある島の帰属を厳密に考えなおしてみると、曖昧である。
ゴービルはどう考えていたのだろうか。皇輿全覧図にもこれらの「諸小島」の記載がないことをゴービルは知ってい
る。同僚の宣教師たちが皇輿全覧図作成のために臺灣に測量に出掛けた。そのとき作成された台湾島実測図には 記入されなかった島々であることを知っている。ゴービルが中国領ではないとみるのは当然である。台湾の付属島嶼 などとは思いもしなかったであろう。帰属を判断していないか。それとも琉球領として考えたか。そのどちらかである。 琉球王国に帰属していないにしても、地理的にみれば琉球諸島の島であると間違いなく判断したことは疑う余地が ない。
実際の半架諸島や尖閣諸島の緯度は台湾の北端よりもやや上である。しかしゴービル図においてはほぼ同じ緯
度に描かれている。
釣魚嶼と黄尾嶼らしき島がある程度離されている。中国人の知識では、四更離れているとされていたからである。
『籌海圖編』がそうしていると誤解されたとき以来、継承されている誤りである。
現実の半架諸島より台湾に近いところに記されている三島の名は、ローマ字で表記されているが、彭佳嶼、花瓶
嶼、釣魚嶼を中国語で読んだと音を聞いて書き付けたと思われるものである。ゴービルは図に出てくる島の名を中国 人に聞いて記していることがわかる。 ゴービル図をみると、半架諸島や尖閣諸島に属する島の相対的位置関係が 不正確であるが、これは仕方がない。そもそも徐葆光は海道にあるこれらの島を見ていないし、当然測量もできなか った。中山傳信録のなかでは「針路図」にのみこれらの島はあらわれてくる。この図は不正確極まりないとしかいえ ないものである。元の情報があまりしっかりとしたものではないから、ゴービルはやりようがなかったのである。他に 参考とすることのできる西洋人の知見も現地では得られなかったからである。オランダはこの海域に関する情報を隠 そうとしていた。
ゴービル図においては尖閣諸島と、半架諸島がいりまじりごっちゃになってしまっている。これが西洋において混乱
を巻き起こすもとになってしまうのである。
☆ 琉球国図(=鄭若曽の図)の影響 ――古い中国の認識の混入
シーボルトはこういっている。
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「ゴービル神父の「中国の記述に基づいて作成された琉球島地図」 Carte des Iles de Lieou−Kieoudresse
e sur Memoires chinoises」……
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「中国の記述に基づいて作成された琉球島地図」とシーボルトはゴービルの図を指して呼んでいる。
シーボルトは「もともとゴービルの報告は康煕帝により1719−1720年に琉球に派遣された中国人学者徐葆光の
報告に基づいているので、今後は「徐葆光」の報告からしか引用しない」としている。よくよく見ていけば、ゴービルの いっていることは徐葆光の書いたとおりではないことがわかるのは先述した通りである。しかしシーボルトにはそこま でわからなかったのは仕方がない。
琉球に関心を持つ一般の西洋人にとっては、ゴービルの見解は中国人の見解として受けとられたのである。
しかしゴービルは中山伝信録をうのみにして無批判に紹介しているのではない。中国人の意見をよく聞いて記載し
ている。
太平山はもっと大きな島であるという中国人が多いと記している。太平山と大琉球の間は徐葆光がいうほど離れて
いないのでないかと疑念をもっている人がいるとも記した。また彼等は姑米山と琉球島の間も徐葆光がいっているほ ど離れていないともいったという。 しかしゴービルが聞いたとする中国人の話には実に不可解である。というのは徐 葆光の方が正しいからである。このことは重大である。
なぜ、彼等は誤った認識を告げたのだろうか。
姑米山が徐葆光のいうほど大琉球島から離れていないという。また太平山についてもっと大きい島だという。また
太平山と大琉球の間は徐葆光が言うほど離れていないという。これらは実は鄭若曽の琉球図をみる限り、そういうの がうなずけるのである。
ゴービルは皇帝にごく近いところにいた。ゴービルは出版された中山伝信録ではなくて、皇帝が見た原本を読んで
いる。刊行されたのは六巻本となっていたが、皇帝の元にさしだされた本は二分冊になっていた。ゴービルは二分冊 の本を見たといっている。皇帝の許可を得て読むことが出来たのだろう。
ゴービルが聞き、中国人の意見として記しているのは、皇帝に近い人たちの見解である可能性が高い。高官が多
いはずである。中国高官が琉球についてしめす地理的理解が鄭若曽系琉球図を基礎にしているらしいことは注目に 値する。鄭若曽の琉球国図に記されている島々が、琉球の一部と理解されることはいうまでもない。とするとやはり、 ゴービルは尖閣を、琉球国の一部として理解したと思われる。
ゴービル図においては、彭佳山――花瓶山――釣魚嶼と並んでいる。このように漢字名で記されているわけでは
ないが、発音をみていくとそう推定できる。中山傳信録の針路図では、花瓶嶼――彭佳山――釣魚嶼となっている。 (この花瓶嶼を先に見るのは極めて訝しい。)ゴービル図では花瓶嶼と彭佳嶼がいれかわっている。子平は中山傳 信録の針路図通りの順に並べているが、しかしゴービルは修正している。なぜゴービルは修正したのだろうか?何ら かの中国史料に基づくのか、あるいは中国人からの助言を受けたためであろう。やはり鄭若曽の図の影響であろうと 思われる。
鄭若曽の琉球図においては、島の位置関係は以下のようになっていた。
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彭佳山 釣魚嶼
瓶架山 鶏籠嶼
台 湾
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鶏籠嶼を除く他の三嶼を台湾島の東に移動させて、ゴービルは図に描き直しているようにみえる。この三島の位置
関係はこのまま変わっていないのである。瓶架山は花瓶嶼であると理解された。釣魚嶼は釣嶼とも略されることがあ った。この三島がなぜこういう位置関係で並んでいるのか。ゴービルがこの鄭若曽系琉球図を直接、見た可能性は 高い。
☆ 中外の界はあるのか?
「中外の界」というものが、いわれているように中国人の間において、一般常識としてあるのであればゴービルが聞
かなかったはずがない。ゴービルは皇帝の覚えめでたく、高官たちとも交友があった。ゴービルは琉球情報を精力的 に収集していたのである。中国人が、重要な「中外の界」をゴービルに知らせないはずはない。聞けぱ必ずゴービル は地図にも、この書簡にも、地図にも界をかきいれたであろう。そこに界があるということが納得できなかったとして も、中国人の意見によればという但書をつけて書入れたであろう。しかし何の記載もない。そのような界はなかったの である。そのような通念はなかったのである。中国史料をみてもこのような界をいう史料が極めて少数で、例外的なも のであったことを思い出してしまう。中山傳信録を読んでも、また中国の知識人たちの意見をきいてまわっても、中外 の界があるという事実をゴービルは見いだせなかったのである。ゴービルだけではなく、それ以前にも以後にも、そ のような「界」を西洋に報告した人はいないのである。
☆ 日琉の界
ゴービルは、琉球と日本との境界である七島についてこう書き記している。
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「北方、および北西方には、七個の他の島が認められ、これらの諸島はシナ語では薩摩州である薩摩と呼ばれる日
本の一国の南にあり、日本に所属しているということに注意しなければなりません」。(-218)
――イエズス会士中国書簡集5紀行編(矢沢利彦編訳)1974年
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はじめて七島の帰属について報告し、日琉の界がどこにあるかをはっきりと西洋人に知らせた。
中山傳信録も明確にこのことを記している。陳侃以来、諸書に書かれていることである。林子平も言及している。し
かし再三いっていることだが、中琉の界ははっきりと記すものが殆ない。ゴービルもこちらの界を示さないのである。
☆ 界はどこに?
ゴービルの書簡と図を総合してみると、界は不明であるというしかない。しかし西洋においては、半架諸島や尖閣
諸島は琉球諸島の一部として見られるようになったことは間違いない。
☆ ふたたび、シーボルトの見解
シーボルトはゴービル図についてまたこのようにも述べている。
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「清帝国の各省の内部の測量は、宣教師達が康煕帝の依頼で実施したのでなかなか正確であるが、沿岸地方は全
体として不十分で不正確であり、その大部分は中国人の言うことをそのまま地図に記入したものにすぎなかった。こ のことはダンヴィルの地図と古いオランダ海図とを比較すればすぐにわかることであるし、さらに……宣教師作成の 原図と最新のイギリス海図とを比較することによっていっそう明らかとなる」
−−シーボルト第一巻 「ヨーロッパ人による日本とその海域発見の歴史的概観」
***************************************
シーボルトの台湾図はゴービル図のままといっていいほどである。ということは公刊されたゴービル図の台湾に関
する部分は、オランダ海図の台湾図をそのまま利用しているのであろう。
シーボルトは、中国人の地理的認識は非常に不正確なものであるという宣教師の主張を支持している。沿岸や
島々の図は内陸部に比べて極めて不正確なのである。沿岸の島には人が余り居住していないことも確かである。漢 民族は海洋民族ではないのである。
中国人のいうままに記録した皇輿全覧図には、半架諸島も尖閣諸島の陰さえもないのである。シーボルトがゴービ
ル図についていっていることは正しい。
3.6.5ペリーの見解1853
日本を開国させたM.C.ペリーは尖閣諸島の帰属をどう考えていたろうか。ペリーが、尖閣諸島の帰属について直
接的に言及したことはない。それも道理で当時としては全く些細などうでもいい問題である。しかしペリーの報告書を 検討してみると、その帰属が暗示されていることがわかる。日本が尖閣を先占したとされる年よりもはるか前に、そ れも幕末に、尖閣諸島が琉球の一部であることが、ここでも示唆されているのである。
☆ ペリーとは?
いうまでもないことだが、一応、おさえておこう。
***************************************
ペリー【Matthew Calbraith Perry】
アメリカの海軍軍人。一八五三年七月(嘉永六年六月)わが国を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、
大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。帰国後「日本遠 征記」三巻を刊行。ペルリ。漢字名、彼理。(1794〜1858)
――『広辞苑』
***************************************
☆ ペリーとシーボルト
語学の才能にめぐまれていたペリーは遠征前に日本関係の研究書を、次々と読破した。更に多数の日本関係の
書籍を入手し旗艦に持込んでいる。特に重視しているのは大著「日本」である。
時折、ペリーは興味をひかれた記述を日記に抜き書きしている。公刊される「遠征記」のための材料として日記を提
出することになっていたためである。
ケンペル、ティチング、クラプロート等の著作からの抜き書きがめだつ。
「日本へ」と題された章では、シーボルトについての言及が再三みられる。
***************************************
「しかし、最も信頼できる権威者【とくにフォン・シーボルト】によると、北部諸島の島々には現代の航海者は一度も訪
れたことがないようだ」
「フォン・シーボルトは、この島にはいくつか良港があると書いている」
「フォン・シーボルトによればプロートンは大島の北東端を見ただけだし、フランスのコルベット艦サビーヌ号の艦長ゲ
ラン大佐も、1848年に西岸を確認しただけだという」「奄美大島のおもな岬の方位を測ってみたところ、フォン・シー ボルトの地図に描かれた岬の位置は観測結果とかなりよく一致することがわかった」
「夜明けにはマストの先から半島が望めたばかりでなく、フォン・シーボルトがヘブローケン・エイランダー(割られた
島々)と呼んだ東の島々もいくつか見え……」
――ペリー提督日本遠征記 合衆国海軍省編 出版社法政大学出版局 △
***************************************
台湾の北西にあるとされていたハープ島をペリー艦隊は熱心に探索してまわっている。発見して領有を宣言しよう
としたと思われる。ついにみつからなかったが……。
このハープ島は与那国のことであろうと、シーボルトは述べている。
1853年7月7日付の日記には、以下のように記載されている。
***************************************
私は、これらの島々のかなり正確な地図をもっている。フオン・シーボルトが編集した地図で、日本に関する彼の大著
に添付されているものだ。
――ペリー提督日本遠征記 合衆国海軍省編 出版社法政大学出版局
***************************************
上の記述は特に重要である。ペリーがこの航海に使ったのは、シーボルトの図である。このことは注目に値する。
☆「CHART OF THE COAST OF CHINA AND OF THE JAPAN ISLANDS」
ペリーが、報告書に添付した図をみてみよう。
ペリーの「日本遠征」報告書はアメリカ議会の決議をうけて公刊された。「UNITED STATE JAPAN Expeditio
n BY COM.M.PERRY」と題されている。アメリカ合衆国議会公文書集US(S)769-79、770-79、771-79の三巻 である。
US(S)、771-79=「LIST OF CHARTS」には海図が収められている。 海図の一つに、「CHART OF THE
COAST OF CHINA AND OF THE JAPAN ISLANDS」とされたものがある。これはシーボルト図に改正 をくわえたものである。追加された島嶼としては、まず尖閣諸島、つまりホアピンス、ティアウス、ランリーロックがある ことに気付く。ペリーはホアピンス、ティアウスをきちんと測量させている。ラペルーズが「命名」した名のままで記載 された。当時は、他国人が「命名」していても、あえてこれを無視して、新名をつけることがよくあったのである。新発 見の意味をふくませるのである。当時は経緯度がきちんと測定されなかったので、測量結果がはかるごとにまちまち になることが通例であった。とすると別の島である可能性も捨てきれないことになる。新名をつけておいた方がいいこ とになる。しかしペリーは、そうしなかった。これはゴービルやラペルーズの見解をきちんと受入れたものである。
またこの図にはアジンコルト、クラグ、ピンナクルも記されている。こちらの島の位置関係は少しおかしい。測量がき
ちんとなされていないことを物語る。報告書には、台湾の北にでて激流を確認したことが記されている。そして半架諸 島には岩礁等が附近に多いから危険であると中国人から聞かされていたこともあり、近寄らないことにしたとされて いる。だから測量しなかったのである。中国人がペリー艦隊の一支隊に、
福建から那覇にいたる伝統的な海道を教えたのは事実である。図にはゴービル図でおなじみの「Route de Kilou
gchan au Port de Napakiang」を英訳した文字が記されている。
しかし岩礁が多いから近寄らない方がいいと附近の様子などを知らせ、助言したのは、半架諸島についてだけだっ
た。中国人がかろうじて望見したりすることがあるにしてもそれは半架諸島どまりだったことを物語っている。当時は まだ帆船の時代(ペリー艦隊も、蒸気を使うのは限られたときだけであった。)であった。風が突如かわったりすると、 こういった岩礁は極めて危険な存在となるのである。
☆「THE ISLAND OF FORMOSA」
海図集巻(US(S)、771-79)ではなくて、報告書第一巻のなかにある附図「THE ISLAND OF FORMOSA」
(=台湾諸島図)をみてみよう。ここにもアジンコート島、クラグ島、ピンナクル島が台湾の北西に描かれている。尖閣 諸島は記されていない。この図には、台湾とその付属島嶼のみが記されている。
「CHART OF THE COAST OF CHINA AND OF THE JAPAN ISLANDS」の方には、半架諸島と
尖閣諸島が載っていた。
二つの図を照らし合わせてみれば琉球と台湾の境界についてペリーがどう考えていたかがわかる。彼の見解は明
かである。尖閣諸島を琉球諸島の一であるとするのはゴービルやラペルーズがそうして以来の地理的常識であっ た。大著「日本」においても尖閣諸島は琉球の一部であるとされている。ペリーはシーボルトの図を信頼していた。シ ーボルトが図につけた註記をみていた。シーボルトの見解をペリーは受入れている。先述した通り、ラペルーズが「命 名」した通りの名前で、地図に記入している。
ペリーが質問を受けたら尖閣諸島は琉球諸島の一部であると答えたことは間違いない。再度いうが、当時としては
利用価値のない無人の岩礁の帰属などはほとんどどうでもよいことであったろうが。台湾の付属島嶼とは考えていな かったことは明らかである。
ペリーは尖閣諸島を琉球諸島の一部とし、また半架諸島を台湾の付属島嶼としていると思われるのである。台湾
諸島に入らない花綵列島の島々が、琉球諸島に帰属するのは自明の理である。
そしてこの見解は、ペリーの個人的見解とはいえない。アメリカ議会が、その名において公刊した史料に、あらわれ
ているからである。尖閣諸島が台湾諸島に入らないとされていることは、明確である。それはペリー以来の見解であ る。
だがここには琉球諸島図がなぜかのっていない。ペリーが尖閣諸島を琉球の一部と考えていたという決定的な証
拠となる図が欠落している。後一歩であるのに……。
なぜ台湾諸島図は作成され、挿入されているのに、琉球諸島図は作成されなかったのであろうか。
☆琉球の範囲
「ベリー提督日本遠征日記」の『第一章 出航から琉球・小笠原諸島へ』には琉球について次のような記載がある。
***************************************
「琉球政府が日本に従属しているのはほとんど疑いがない。琉球と日本の間に点在する島々も、また琉球と台湾の
間にある島々も、やはり日本の属領にちがいない」
***************************************
「琉球」はこの場合は、琉球島すなわち沖縄本島のことである。琉球という場合に範囲が明確ではないことが多
い。ペリーがいう場合にも同じである。
それは大琉球島のみをさすこともあれば、沖縄諸島(=沖縄本島とその周辺の島嶼)をさすこともあり、琉球諸島+
奄美諸島を指す場合もあれぱ、吐?喇諸島までもそれに含む場合があり、またときには南西諸島全域をさすようにと れる場合さえもある。曖昧である。それに紅頭嶼や火焼島までも含んでいるのではないかと思われる場合さえある。 曖昧模糊たるありさまである。この場合、琉球と台湾の間にある島々は先島のことを指しているのであろう。ペリー は、そういっているはずである。
☆ ペリーの琉球定義
ペリーの遠征日記にはこうも記されている。「琉球列島は……台湾の北端近くから、九州すなわち日本本土の南西
端にまで延びております。」これはシーボルトのいうところに従っている。公刊された記録にもこの琉球の地理的定義 はそのまま使われている。
だがペリーは琉球諸島の範囲を緯度と経度で定義してはいない。その領域を確認していないのである。なぜであろ
うか。
日本の緯度と経度については、東経百二十九度から百四十六度の間、北緯三十一度から四十六度の間の海上に
点在していると書いている。こちらの方は一応、定義されているのにである。(しかし当時としては経度は正確には測 定できなかったので、かなりおおざっぱな数字が記されているだけである)琉球の方はどこまで広がっているのかが わからない。曖昧な地域であったことを物語っている。この海域には未知の島があるかもしれないということであろ う。また紅頭嶼の帰属等についても判断するには材料不足だったということがある。だから経緯度の定義は出来なか ったのである。
いやもっと妥当な理由が考えられる。ペリーは琉球を占領したつもりであった。従って琉球の範囲を曖昧にしている
のは、政治的意味があると思える。経緯度で限定してしまうと、範囲外にしたところが、獲物にならなくなるからであ る。奄美諸島や吐?喇列島までも必要があれば獲物にしてもよい……。
それに台湾出兵前になされた副島種臣外務卿とアメリカ公使の話し合いをみても意外なことに気付く。アメリカは当
時まだ、先島諸島を「無主の地」扱いにしていたらしいのである。ことと次第によっては先島のみを、アメリカが琉球か ら切り離すことも考えられた。このため経緯度の定義はあえてされなかったのではないか。あえて曖昧にしているの である。やはり政治的理由によりそうされているのである。
先ほど提示した日本の範囲をもう一度みてみよう。地図で確かめてみると、北緯三十一度の線は本土の南端佐多
岬の緯度である。これ以北が日本ということはどういうことであろうか?これ以南の帰属が不明確である。南西諸島 全域を琉球とするつもりではないかという疑いが生じる。たぶんそのつもりであろう。
結局、琉球諸島図は報告書におさめられなかった。尖閣諸島の帰属をどう考えているかということを示す図が収録
されなかった。ペリーがラペルーズやシーボルトの見解を継承しているということを示す決定的な図が作成されなかっ たのである。(ペリー遠征隊関連の史料はもっと調査が必要である)
しかしきちんと解析してみれば、ペリーが「暗示」していた界は明らかである。
日中間で領土問題が顕在化するまでは、アメリカは尖閣諸島を琉球諸島の一部として扱ってきた。これはペリー以
来、一貫として変っていなかったのである。
アメリカは尖閣諸島の日本帰属を、領土問題が顕在化した後になると、明確には認めなくなった。奥歯にものの挟
まったような言い方をするようになった。沖縄返還時にも帰属判断を避けるような態度をとった。モンデール大使は、 安全保障条約の対象地域外であるかのような態度を示したことがあった。その後、アメリカ政府はこの態度を批判修 正し、日本の領有権をはっきりと認めるようになったが、これは新見解をとったのではない。実は伝統的な見解に復 帰したということである。再度いうが、ペリー以来の見解に戻ったのである。
アメリカ政府は、先占の事実があるかどうかということについて疑惑を抱いたのである。アメリカ政府は、この問題を
誤認していた。それは日本政府が先占したとしているからである。
☆ 琉米約條の救護条項――尖閣諸島は条約の適用地か
琉米約條(1854年7月11日締約)は「琉球国」がアメリカに軍事的威嚇を加えられて無理矢理に結ばされた条約
であった。ペリーは「占領」したつもりだったのである。勿論、「琉球国」は、薩摩藩の指示のもとに、これを結んだので ある。そして薩摩藩は、幕府の指示を受けていた。
琉米約條は琉米条約と一般的にはいわれる。
その一項に次のような規定がある。漢文のものをみてみよう。
***************************************
一、合衆国船。尚或到被風颶漂。壊船於琉球或琉球属洲。倶要地方官遣人救命救貨。至岸保護相安。俟該国船
到以人貨附還之。而難人之費用幾何。亦能向該国船取。還於琉球。
***************************************
次のように訳されている。
***************************************
若し合衆国の船が、大琉球や、或いは其治下にある属島等に、難波する様な事があつた時には、その地の地方
官は、直ちに救護人を派して生命財産を救助し、且つ海岸に於て亜米利加船が来て救助された人々、及び貨物を運 び去るまで保存をする事。而して此等の不幸な人々を救助するに要した費用は後刻救助された国が支払ふ可き事。 (-221)
――ペルリ提督琉球訪問記 △
***************************************
条約の難破船救護条項の適用範囲に、つまり「琉球或琉球属洲」の中に尖閣諸島は入っているであろうか?入っ
ている。シーボルトの見解にペリーが従っていることは、すでに見た通りである。そういう認識のもとにペリーは条約を 結んでいる。
それに実質的に当時、ここで難破した人を救出できるのは、毎年この海域を通る琉球船だけである。彼等は尖閣諸
島の南と北を行き来していた。救助の可能性があるのは琉球の人々のみである。台湾府には何の関係もない島嶼 である。船を望見し、火を焚き、のろしをあげて救助を乞う人を、琉球の人々は救出できた。救出せず通りすぎ、かつ 西洋人が生還して、琉球船の行動を批判したら、責任者の処罰が求められ、更に賠償金をとられたであろう。必ず条 約違反とされて追求されたことは間違いない。琉球が他の列強と結んだ条約にも、ほぼ同じ救護条項がある。
ある定期航路を通る船が歴史的にみてほとんど琉球船であるならば、航路付近の島嶼は琉球の一部であると考え
るのが妥当である。
ペリーが尖閣諸島を琉米条約の対象地域としていることは間違いない。そして日本政府は琉球を併合した後、琉
米条約を継承するとアメリカに約束している。他の国とかわした約定も守ると伝えている。これは口先だけのことでは なかった。
☆ 救護規定――琉米条約の履行のために
明治十八年の魚釣島久場島探査の際に、沖縄県の役人石澤兵吾等が、石垣島から連れていった鶏のつがいをは
なったと記録されている。また明治二十四年には米人遭難者救助のために出向いた警部武林哲馬・県属戸田敬義 が、大東島に、鶏や豚や兎や山羊をつがいで放ち、様々な植物・野菜を植えている。そして「大日本帝国沖縄県下 大東嶋再記」と書き杭をうったと報告した。「其他十八年移植せしもの如何を探究するに、蕃藷七、八株と鳥類は鳥 二羽を認むのみ。」としている。明治十八年に魚釣島だけではなく、大東島にも鳥を放っていたのである。鶏であろ う。そして蕃藷等を植えてもいた。この蕃藷等を植えたことは、明治と十八年の報告書には書かれていないようであ る。魚釣島にも、この年に大東島と同じように、幾つか植物が植えられた可能性が高い。少なくとも、蕃藷は間違い なく植えたであろう。
大航海時代の西洋の航海記には、無人島に、家畜をはなち、食用植物を植えたとよく書かれている。難破船乗組
員救護のためであろう。いざというときの非常用食糧とするためである。
日本政府が家畜を放し、植物を植えたのは琉米条約の履行という意味があると思われる。そうだとすれば、条約の
救護規定を明治新政府が守ろうとしたことがわかる。山県有朋内務卿の指示によってなされたことは間違いない。
日本政府は無人島ならどこでもこういうことをしていたわけではない。琉球の無人島に対しておこなっているだけで
ある。それにはこういうわけがあったのである。領域の端にある無人島の帰属は不明確で万全ではない。その上、琉 球の帰属自体があやういとみられていたので、実に慎重にことが勧められていることがわかる。
☆ 実効支配
家畜を放ち植物を植えているのは、単に救護のためだけではなく、開拓の第一歩という意味が含まれているとも思
う。琉米条約の履行ということでも理解できるが、しかしより重要な意味があると見るのが正しい。広汎な実効支配 の実を示すためである。そこで再度、尖閣諸島や大東島でおこなわれたことを確認してみよう。
沖縄県属石澤兵吾は明治十八年に沖縄県令に対して提出した魚釣島久場島の探査報告書のなかで、鶏を放った
ことを、「他日の証を残さんと欲するのみ」としている。謎めいた言葉である。どういう意味であろうか。国標を打ちたか ったが打てなかった。鶏を放つだけになってしまったが、それでも後日、必ず役にたつだろうということであろう。
標杭は短期間で朽果てるから、鶏の方が繁殖に成功すればむしろ残るかもしれない。それだけではなくどうも鶏を
放つことに特別な意味があったらしいのである。彼等はそう思っていた。
1675年、島谷市左衛門は小笠原巡視の際、父島の宮之濱に、鶏二羽を放ち、祠をつくり、「此の島大日本の内也」
と刻んだ。この記した文字の意味は先占するということなのだろうか。それとも、もともと日本の属島であるということ であろうか。後者の意味であると思われる。小笠原定頼が発見して以来、日本領土であると。
気になるのはこのときも鶏二羽を放っていることである。小笠原と尖閣諸島・大東諸島において同じ事がなされてい
る。これは偶然であるはずがない。内務省は小笠原の帰属を調べたときに、島谷市左衛門がしたことに、気づいたの であろう。大東島も尖閣諸島も属島であるが、所轄が未決定であるだけだと政府は考えていた。そこでいづれにおい ても小笠原の先例にならうことにしたのではないか。これは山県内務卿の指示であろう。
明治二十四年に大東島にはゴムや杉、ユウカリ等までも植えられている。報告によれば「将来難破船乗組員等救
助の為め」に植えたとされているが、ゴム等は明らかに開発のために移植したものである。これは、小笠原諸島でペ リーがしたことにならっているのではないか。ペリーは父島に有用植物を幾種も植えて、様々な家畜を放したのであ る。
このとき、同時にペリーは秘かに小笠原諸島の領有を宣言していた。ペリーは小笠原をコフィン船長が発見したとし
てコフィン諸島と呼んでいた。コフィンはあだなである。棺桶の意味がある。この名を見てもコフィンがアメリカ人である ことは間違いないと日記に記している。そして秘かに「領有宣言書」を島に独断で埋めさせている。しかしアメリカ政 府は、ペリーのしたことを認めなかった。
ペリーがしたのと同じようなことが大東島でなされているのは、偶然であるはずがない。日朝修好条規の締結の際
にも、日本はペリーのまねをして大砲をはずして韓国に送っている。「先例」に従っているのである。ペリーが小笠原 でしたことを明治新政府は知っていた。それをこのときもまねたのではないか。当時の時代を考えれば、ありうること である。形式的に国標などうっても、意味が無いと明治新政府はよく知っていたのである。
米人が遭難した結果、アメリカとこの島にかかわりが生じた。アメリカに「先占」されることになるのではないかと日
本政府は怖れたのであろう。
明治十八年に尖閣諸島と大東諸島で行われた「儀式」は、先例を徹底的に調べて、踏襲したのだととれる。しかし
島谷市左衛門のしたことは伝統的領域の確認という意味でなされたことであり、ペリーの行為は実効支配の始まり という意味があった。どういう意味で行うのかがはっきりとせず、曖昧な行為になってしまったと解釈すべきであろう。
3.7.2和漢三才図会
和漢三才図会
近世の日本の知識人がよくみていた琉球図はどのようなものであったろうか。それは『和漢三才図絵』の琉球図で
ある。これは中国系の図である。鄭若曽の図そのままといっていい。
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わかんさんさいずえ【和漢三才図会】
図説百科事典。寺島良安著。一○五巻八一冊。明の王圻(オウキ)の「三才図会」に倣って、和漢古今にわたる事物を
天文・人倫・土地・山水など天・人・地の三部一○五部門に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳二 年(一七一二)自序、翌年の林鳳岡ほか序。倭漢三才図会略。
――『広辞苑』
***************************************
王圻の「三才図会」は1609年に出されている。寺島はこれを丸写しにしているわけではない。寺島は、図会所載
の他国の図には、手を加えているが、琉球図には手を加えていないのである。信頼すべき図であるとみなしていたと 思われる。
***************************************
元禄国絵図は民間の地図には影響を与えず、(1715年刊)和漢三才図会においても、その琉球図は明の「三才
図会」からの転載であり、それはまさしく……古めかしい鄭若曽の琉球図そのものである。(-153)
――ちずのしわ 海野かずたか
幕府の国絵図は、公刊されなかった。見ることができたのは限られた人々だけであった。
一般の人には、和漢三才図会図の他にみる琉球図がなかったのである。和漢三才図絵の図は流布した。この琉
球図のなかに記される釣魚嶼や花瓶嶼などの島も琉球の一部であるとみなされていたのである。これは常識であっ たはずである。そしてその認識は明代中国の認識が日本に流れ込んできたものである。
☆ 琉球国の記述
和漢三才図会の「琉球国」の項目には次のように記されている。
***************************************
琉球国
思うに、琉球国は中国福建の東南に当り、日本の薩摩州の西南海の中にある島である。都を那覇といい、乾島を八
頭山(八重山か)と称する。その中間の海陸は三百七十里〔この里程は五十町をもって一里とする〕。八頭山から福 建まで海上五十里、那覇の都から薩摩国まで海上三百八十里、その間に七つの小島がある。(-244)
――
***************************************
乾島は官塘を思わせる。乾島から福建まで海上五十里というのは、まああたらずといえども遠からずというところで
ある。
白石の琉球国事略にもこのことは書かれている。福建と琉球国の属島の間はそれほど離れていないという認識が
ここにもみられる。この認識も中国発である。鼓山や福建沿岸の島から琉球が見えるという伝承があったことは再 三、册封録にも記されている。鼓山志にも記されている。
この福建は台湾のことではない。寺島良安は、台湾島は廈門の南にあると記述しているからである。
和漢三才図会の巻第63 泉州府の項目には、以下のように記述されている。
***************************************
百里南に大きい島があり、長さは百二十里、太?、塔加沙古という。(-128)
***************************************
しかしこのような認識はどうして生じたのであろうか。中国の福建地方志の領域図に由来するものである。確かにこ
のように位置に台湾を描いた地方志が存在する。中国発であることは間違いない。
ただ官塘が琉球の島であるという認識は、中国由来のものではない。これは琉球の人々の感覚から来ているので
はないかと思われる。李鼎元の册封録をみても、五虎門をでればそこから、册封船にのりこんでいる琉球の夥長が 針路をみている有様だからである。
☆琉球人と和漢三才図会
「和漢三才図会」を琉球の人はどう考えていたのだろうか?
琉球の船が1762年7月に土佐に漂着したことがあった。鎖国体制のもとでの常例に従って乗船していた人に対し
て土佐藩の役人による聞取りが行われた。琉球の知識人は様々な分野のことについて質問を受け答えた。土佐の 儒学者戸部良煕が筆録した。これが大島筆記である。
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和漢三才図会記せるは合事多し、徐葆光が中山伝信録最詳にして合えり其中にも質して見れば少々違有之。(-
361)
――大島筆記 /庶民生活資料集成第一巻
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和漢三才図会に記載されていることは荒唐無稽な説であるといわず、もっともなことが多いとしている。和漢三才図
会の鄭若曽系琉球図も、こう見ていたのである。ただ「中山伝信録最詳にして合えり」ともある。
これらにのっている二つの琉球図の関係はどうであろうか?
認識が混乱していることがわかる。
「白石先生琉人問対」と照らし合わせて見ると、琉球の人々の領域認識を示すものはむしろ、鄭若曽の琉球図であ
るようにも思える。琉球の人にとっては、傳信録の三十六島の図と鄭若曽系琉球図は、ともに受け入れられていた。 この二つの図は必ずしも矛盾しないと思われていたようである。
3.6.4 シーボルトの尖閣諸島
シーボルトも尖閣諸島を琉球の一部としている。体系的な日本研究の大著「NIPPON」のなかにそう記載されてい
る。
☆シーボルト【Philipp Franz von Siebold】
シーボルトは、今日でも、日本ではあらためていうまでもないほどの著名な学者である。幕末当時も、優れた学者と
して認められていた。帰欧後は当時の欧州においても、日本学の第一人者とされていた。内外に強い影響力をもっ た学者であった。
***************************************
ドイツの医学者・博物学者。一八二三年(文政六)オランダ商館の医員として長崎に着任、わが国の動植物・地理・
歴史・言語を研究。また鳴滝(ナルタキ)塾を開いて高野長英らに医術を教授し、実地に診療。二八年帰国の際、荷物の 中に国禁の地図が発見され罪を問われた。五九年(安政六)再び来航、幕府の外事顧問となる。六二年(文久二)出 国。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。(1796〜1866)
――『広辞苑』
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☆ 大著「NIPPON」
「NIPPON」は1832年から1851年にかけて、二十分冊の形で少しずつオランダで出版された。ドイツ語で書か
れている。当時、欧州で刊行されたものとしては、もっとも精緻な日本研究書であった。日本研究の精華として、読ま れた。今日の目から見ると妥当ではない分析もかなりあるが、しかしその歴史的価値は失われない。
「NIPPON」(雄松堂刊行)につけられた「フォン・シーボルト伝」をみると、こう解説されている。
***************************************
自費出版であったので、彼はすこぶる大きな犠牲を払わねばならなかった。その一部は各国政府や学術諸団体から
の予約注文でまかなわれたが、一般読者にとってはこの雄大な専門学術書の価格は法外なものだったからである。 科学界では彼の地理上の発見がとくに注目を浴び、シーボルトが日本の原図から作成した地図は最近に至るまで の模範となり、それだけでなくイギリス海軍の軍令部地図の基本とさえなった。
***************************************
発行部数は多くはなかった。しかし各国政府や学術諸団体が大著「日本」の予約購入者となっていたのである。こ
のことは重要である。シーボルトの「NIPPON」の与えた影響は広汎かつ大であったのである。
☆ 「NIPPON」編纂経緯
***************************************
シーボルトの日本の友人たちは、彼のために、かなりの数の日本に関する重要な記録、本、国土の記述などをオラ
ンダ語に翻訳していた。これらを区分し、整理し、個々の章の内容に応じて、ドイツ語で書かれる本のために利用す る。
――評伝シーボルト ――日出づる国に魅せられて ヴォルフガング・ゲンショレク 眞岩啓子訳
***************************************
シーボルトの義弟ガーゲルンはライデンに呼び寄せられて「NIPPON」の編纂を手伝った。後にこのように語ってい
る。事実上、「NIPPON」は日本の学者とシーボルトの合作といっていいものであった。このことも重要である。
☆尖閣諸島は琉球の一部であるというシーボルトの見解の検討
「NIPPON」の原著第一部にある(雄末堂刊行の日本翻訳書では図纂一部に移されている)「琉球諸島の位置」に
は「琉球諸島の主要地点の名称、経緯度比較一覧表」がつけられている。この表の「観察上の覚書」という備考欄に 次のような記載がある。
***************************************
「この三つの岩石の島はわれわれの持っている日本人作成原図には見あたらないが、この一覧表を完備したものと
するために記載しておいた。しかしこれらの島ははるか離れている先島のことかもしれない。ラペルーズによって発見 されたこれらの岩石島がゴービルの地図上にあるホアピンス・Hoapinsuとティアオユース・Tiaoynsuと名づけられ ているものと同一であるかは非常に疑わしい。」
***************************************
ここには、尖閣諸島が琉球諸島の一部であると注記されている。
ゴービル図においては、ホアピンス・Hoapinsuとティアオユース・Tiaoynsuというこの二つの島は、与那国島の北
西にあり、台湾の近傍にある。だからシーボルトがラペルーズの判断を怪しいと思うのは当然である。ただシーボルト は、この二つの島が、琉球諸島に属するということを疑ってはいない。
シーボルトは琉球人の宗教や、琉中航路の行き来の実状を知らずに尖閣諸島の帰属を判断した。ために、結果は
正しくても、主張にもう一つ強さがないのは残念である。クバの持つ意味や、册封船に必ず琉球人の迎接使が夥長 を引き連れて乗り込むということを知っていれば、間違いなく、尖閣諸島の帰属を正しく判断しただろう。
尖閣諸島をはっきりと琉球図の中にシーボルトが描きいれなかったので、曖昧さが残る結果となった。表の註釈の
形で言及し補っているのでは弱いのである。
しかし尖閣諸島に対する言及は、この表の備考だけにあるのではない。
別のところにも記載がある。例えば、
*************************************
「日本」第一巻 第四章ヨーロッパ人による日本とその海域発見の歴史的外観
琉球の南の諸島の北にある二つの小島の発見もド・ラ・ペルーズに負うている。彼はこれもゴービルにしたがって、
ホアピンス・Hoapin-suとチャオユース・Tiaoyu-suと名づけ正確に測量した。(-91)
***************************************
ここをみると、ゴービルとラペルーズの見解を受け継いでいるのである。
***************************************
「日本」第六巻 第十三編 琉球諸島
原題 日本の近隣諸国と保護国−−琉球諸島についての記述。
日本の文献および日本の学者の報告に基づく琉球諸島
についての記述
第一章 琉球諸島の位置、名称、区分および大きさ
山南と慶良間諸島の間には南北五里、東西一里半に広がる珊瑚礁八重干瀬がある。この海域は潮の流れが速
く、また多くの岩礁がある(ゴービルの地図によれば HOAPINSU TIAOYUSU HOANGOUCYSU TCHEHO EYSUである)
***************************************
以上の三つの記載を読むと、シーボルトはかなり混乱していることがわかる。
八重干瀬と尖閣諸島はそれほど近くはないが、隔絶しているほど遠いというわけでもない。八重干瀬の位置も当
時、曖昧だった。シーボルトは明確な認識をもてずに書いているのである。この記載は尖閣諸島の近くに八重干瀬が あるかのような誤解を与えた。「琉球新誌」の附図をよくよく見ると、大槻文彦は八重干瀬の近くに尖閣諸島らしき島 を記していることがわかる。わかりにくいが、よく観察するとそうなのである。大槻は八重干瀬の位置はよく知ってい たが、尖閣諸島については知らなかったのでこうなってしまったのである。
***************************************
☆「日本」第六巻 第十三編 琉球諸島
原題 日本の近隣諸国と保護国−−琉球諸島についての記述。
日本の文献および日本の学者の報告に基づく琉球諸島
についての記述
第一章 琉球諸島の位置、名称、区分、および大きさ
琉球諸島は日本の最南端にある薩摩の国の南に位置し北緯二十四度より二十八度、グリニッチ東経百二十三よ
り百三十度十五分の地域にひろがっている。
***************************************
この経緯度のなかに尖閣諸島は入っている。この緯度と経度の内にある島嶼はすべて琉球諸島として定義されて
いるのである。最初に経緯度をもって琉球諸島の範囲を定義したのは、シーボルトである。この経緯度からみると、 喜界島が北と東の界となり、与那国を西界とし波照間を南界としていると思われる。当時は経緯度は正確に測定で きなかった。とくに経度がきちんと測定できなかった。だから今日の目からみると、かなりおかしいのは仕方がない。
この定義によれば、「琉球諸島」は奄美諸島を含んでいる。この認識も西洋においては、実は、未だに消えていな
いのである。これはゴービル以来の認識である。
当然のことであるが、経緯度によって琉球の範囲を定義することはその後、一般的なこととなった。のちに奄美諸
島は取り除かれることもあったが、シーボルトの定義した琉球の西限は全くかわらなかった。尖閣諸島が琉球諸島の 一部として西洋人に理解されたというのは、この経緯度の定義からみても間違いない。
この東経百二十三度というのはシーボルト・ラインと呼ぶべきであろう。琉球の西限を定義している。
「NIPPON」の第六巻にある「琉球諸島の考察」では、ペリー提督が学者に命じて収集した琉球語の語彙がとりあ
げられている。また「第十四章 沖縄本島植物目録」の章には、アメリカ遠征隊(1853−1854年)のことが記され ている。ペリー遠征隊の公刊記録をシーボルトは読んで「NIPPON」に加筆している。ペリーの公刊された報告書の 附図にはきちんと半架諸島と尖閣諸島が載せられている。しかしこの図はシーボルトの図に、ペリーが加筆しただけ のようにみえる。このことをシーボルトは気付いたのであろう。シーボルトがペリーの功績を評価しない理由の一つに なっていると思われる。
☆ 樺太は島である ――クルーゼンシュテルンの敗北
***************************************
フォン・クルーゼンシュテルンは、ユリウス・クラブロートが彼と反対の十分な根拠を挙げたにもかかわらず自説を固
執していたのに、われわれが彼の前に日本の原地図を出すと、一目見て「これは日本人の勝ちだ」と叫んだのだっ た。
――「日本」第五章 日本人による自国領土およびその近隣諸国・保護国の発見史の概観*******************
********************
シーボルトが示した間宮林蔵の樺太実測図をみて、ロシアの提督クルーゼンシュテルンは樺太が島であることをつ
いに認めざるをえなかった。クラブロートもかなり優れた学者ではあったが、シーボルトの方がはるかに大きい社会的 影響力をもっていたのである。特に日本関係のことではよりよい資料をもっていた。
☆ クウルゼンシュテルンの尖閣諸島
このクウルゼンシュテルンは、シーボルトから送付された幕府作製の琉球地図も検討している。そして手紙でこう回
答した。
***************************************
「琉球諸島の地図に関しては大準尺にて起稿し、頗る多くの詳細の事柄を包含致候へど、是は天文学的観測を欠き
候故に、頗る其の価値を失うもの」
――シーボルト日本貿易交通史
***************************************
天文観測がなされていないので、地理的位置が本当の意味では確定できないというわけである。ただ島の周囲は
測量されているので、大いに役立つとしている。西洋航海家が測量しつくった図と、この図の沖縄島の形状が一致し ていることから全体の信頼性は高いだろうといっている。(西洋人の測量は断片的なものだったのである。)まだ西洋 航海家が測量していない領域についても正しいだろうと推測している。
入手した幕府の琉球図には限界があることをシーボルトもクウルゼンシュテルンと同じように認めている。きちんし
た測量がなされていないことは残念ながら事実である。三角測量がなされてない。伊能忠敬の用いた測量技術は、 当時の西洋の水準からみると、かなり遅れていた。半世紀ほども、遅れをとっていた。
更にクウルゼンシュテルンは重要な指摘をする。
***************************************
「但しブロートンの地図に見ゆる数個の小島は此図には無之候」
――シーボルト日本貿易交通史
***************************************
これは尖閣諸島(半架諸島も含む)を指すものである。クウルゼンシュテルンはこの琉球諸島図のなかにこれらの
島がないことを疑問に感じたのである。クウルゼンシュテルンは、自分の航海記(邦訳→クルーゼンシュテルン日本 紀行 異国叢書 羽仁五郎訳注)の附図に、尖閣諸島を記載し、そこにラペルーズ探検隊が測量した年を記入して いる。つまりラペルーズの見解を追認したということになる。だから、これらの島嶼が地図から脱落していることを不審 に思ったのである。当時においては尖閣諸島が琉球の一部であるとする見解が支配的であったことがわかる。
クウルゼンシュテルン提督は見せられた日本人作成図に手を加えずにそのまま急いで刊行するようにすすめてい
る。正確を期して時を費やすのは避けるように助言したのである。拙速をおそれるなということである。
しかしシーボルトは日本人の友人の安全に配慮して刊行は遅らせた。しかし図に手は加えなかった。シーボルトは
「NIPPON」の琉球図に尖閣諸島を描き込まなかった。当初、私はシーボルトが図に描き入れなかったのは、これら の島の位置の測定結果がまちまちであるということで、今はまだ記さない方がいいとみなしたのであろうと考えてい た。きちんと測量し直さなければ、地図には記載できないと考えたのであろう。その上、クウルゼンシュテルンの助言 もあるのだから、註記で補うにとどめたのであろう。
シーボルトが長生きしていれば、当然、きちんと測量された尖閣諸島を日本地図に描き加えたであろう。
☆ シーボルトの臺灣図
「NIPPON」には、臺灣図が添付されている。日本の周辺も考察対象となっているのである。シーボルトが作図に
あたり参考にしたのはオランダ海図である。
この図をみると、ラペルーズの図にもあらわれた二島と似たようなところに、同じ二島があらわれている。臺灣の北
東にあるこの二島は半架諸島にしては近すぎるし、また基隆嶼や社寮嶼としては遠すぎる。シーボルトの認識は明 確ではなかった。しかし、これらの二島が尖閣諸島ではないことははっきりしている。
☆ アレクサンダー・フォン・シーボルト
シーボルトが再来日した時に連れてきた息子のアレクサンダー・フォン・シーボルトはイギリス公使の書記官とな
り、後に、日本外務省の顧問となっている。彼を雇用したいとしてベルリン公使の青木周蔵は明治十一年六月に本 省に書簡を送っている。
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「当国太子は本人の学友女皇は亡母の親友に有之……中略……当国外務省及び和蘭政府に於いて而も本人の親
眷並に友夥た敷有之」
――お雇い外国人 外交 △
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シーボルトの一門は名門であった。社会的影響力がある家柄であった。
アレクサンダーは当時、日本の大蔵省と無期限の契約をしていたが、改めて公使館付の顧問として雇用したいと
青木はいうのである。そして無期限契約がなされた。異例なことである。アレクサンダーは有能な人物であった。日 本のために働き続け、後に勲一等を受けている。
シーボルトの琉球諸島についての見解も、日本の外務省はよく知っていたであろう。
明治十七年には、アレクサンダーとその弟によって、「NIPPON」が復刻されている。このとき、日本政府から補助
金がでていることが国立公文書館に残された史料によってわかる。
アレクサンダー・フォン・シーボルトがこの問題について意見を聞かれれば、尖閣は琉球の一部であると父シーボル
トが記していると教えてくれたであろう。これはゴービルやラペルーズ以来の常識であると。後述するが、尖閣諸島編 入問題が発生した当時、シーボルトは日本に呼び寄せられていたのである。しかし聞くまでもなかったのではない か。
フンボルトの賞賛
一八五九年、有名なドイツ人地理学者フンボルトは、日本に旅立つシーボルトに対し手紙を書いた。フンボルトはシ
ーボルトの研究を絶讃し、はなむけの言葉を送った。これがシーボルトに対する当時の一般的な評価であった。
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「日本諸島についてあなたの膨大な研究によって裨益を受けなかった自然地理学の部門はひとつとしてありませ
ん」
――フィリップ・フランツ・フオン・シーボルト略伝
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☆ シーボルトの再来日
フンボルトの見送りをうけて、シーボルトが1859年に再び日本に赴いたのは、大著「NIPPON」の完成させるためだ
った。ようやく永久追放処分が解除された。日本の学者との協同作業のためにも日本にいる方がよかったのである。 シーボルトが再来日すると、かつての弟子や知り合いが多数、訪れて交歓した。
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シーボルトは毎日、……とくに選ばれた学者や医師や幕府の役人たちに、自然科学、医学、採鉱学、冶金学、学校
制度、国民経済、国家学などについて講義するかたわら、幕府の顧問として貿易や交通の分野で提言を行い……
−−日独文化人物交流史 △
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単なる一学者の見解ではない。一時期のこととはいえ、幕府の顧問となったほどの男である。欧州においても日本
学の第一人者として知られていた。シーボルトの見解は単なる一学者の見解であるとして片付けることはできない。
シーボルトは明治維新をみることなく、逝去している。存命であれば、シーボルトは明治新政府の顧問として公式に
招かれたと思われる。それくらいの大物学者であった。再三いうが、そのシーボルトの見解は重要である。
3.7.3三国通覧図説
三国通覧図説の琉球図は、尖閣諸島の中国領有権を示す決定的な地図としてしばしば提示される。果してそうい
えるのであろうか。これを検証してみよう。
いうまでもないことであるが、一応、最初に、三国通覧図説とは何かをおさえておこう。
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【三国通覧図説】
林子平著。一巻五枚。日本およびその周辺の朝鮮・琉球・蝦夷(エゾ)三国の地図と、里程・風俗・気候その他の解
説書。地図は一七八五年(天明五)、解説書は八六年刊。桂川甫周の序と自跋がある。
――『広辞苑』
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三国通覧の附図という言い方がされるのをよく見かけるが、当を得ていない。これは「附図」ではない。内閣文庫で
閲覧した三国通覧図説のなかに、末尾に、須原屋市兵衛の出している本の一覧広告が一頁付けられているものが ある。これは写本ではなく、市兵衛が出した原本だと思われる。これが当時公刊された図説そのものであろう。その 広告欄のなかに「三国通覧之図、附略説」とある。図が主体だったのである。図と附説というべきであろう。
殆んど図だけを私は考察することにする。
まずはこれが国境画定の場に法的に持ち出すことが出来ない図であることをはっきりさせよう。
★地理相違之絵図
三国通覧図説は発禁処分にふされた。
子平に対する言渡しの大略は以下のようであった。
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其方儀縦令利欲に不致共一己之名聞に拘り取留も無之風聞又は推察を以て異国より日本を襲う事可有之趣奇怪
異説等取交せ著述致し、且つ右之内には御要害等之儀も認入、其外地理相違之絵図相添書写又は板行に致し室 町二丁目権八店市兵衛へ差使し候始末不憚公儀仕方不届之至に付(中略)蟄居申付並板行物板木共に召上可申
(『六無斎遺草』一八一頁所載)(-248)
――林子平 その人と思想 平重道
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幕府から子平にくだされた判決には 「地理相違之絵図相添書写又板行に致し云々」とあったのである。幕府は子
平の三国通覧の図を地理相違之絵図と決めつけた。このことの意味は明らかである。
同時に三国通覧図説の発行者、須原屋市兵衛に対しても以下のように言渡されている。やはり「絵図は地理相違
等も有之」となっている。
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其方儀林子平より差越候三国通覧と申書は奇怪異説等相認候本にて右添候日本並外国之絵図は地理相違等も
有之一体不軽儀に候処行事の改を受候はば既に其方も其砌は行事乍相勤不心付右体如何成書物絵図等致板行 売出候段不埒に付板木並所持の三国通覧取上身上に応じ重過料申付き
寛政四子の日五月十六日
(『増補六無斎全書』巻四 一七一〜二頁)(-248)
――林子平 その人と思想 平重道
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その審査をした「行事」四人に対しても同じく罰金刑が言渡されたという。
繰り返すが、幕府から明確に「地理相違之絵図」と断定をされ、発禁にふされたのが、三国通覧の図である。これ
だけをみても、国境画定の史料に使うことはできないことは確かである。史料批判がなされないままに、この図が決 定的な証拠として持出されることがよくあるのは奇妙なことである。
☆ 地理相違の絵図とは何を意味するのか?
国境画定の場に持ち出せるどころか、国境を考える際に使える史料でないことは、この図の内容を学問的に詳細
に検討していくと、更に明らかになる。
地理相違とは、どこにあるのか?
現在の地図と照らし合わせると最北の蝦夷地と最南の琉球の形がとくにおかしい。小笠原図は実測図を元にした
ものである。確かに島の大きさが著しく誇張され過ぎているが、それをとがめたとは考えにくい。朝鮮図は事実と違っ ても別に幕府としてはかかわりしらぬことである。それにそれほどおかしい形に描かれているわけでもない。
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当時蝦夷千島カラフト方面の地図については幕府自身も全く正確な知識を持っていなかったのであり、子平の地図
は現在の知識から見れば、カラフトが半島になっていてサガレン島がカラフトと別に描かれていたり、蝦夷や千島列 島の形や位置が甚しく相異していたりしている幼稚な、それこそ「奇怪」な地図であるが、千島もカラフトもカムチャツ カの位置も明らかに知られていなかった当時の地理知識の現状からすれば、むしろ子平作図の意義は極めて高く評 価さるべきであり、……(-254)
――『林子平 人と思想』 平重道
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当時、最北の地理的認識は混乱しており、子平がカラフトとサハリンを別の島として描いたことは無理もなかったと
いうのは平重道がいう通りである。とすればずさんであるととがめようがなかった。問題は他の領域にあったはずであ る。
となるとやはり琉球に問題があったのではないかという疑いが濃い。幕府の所蔵していたきちんとした琉球の国絵
図と子平の琉球図は違いが大きい。地理相違が明らかである。このことを幕府はよく知っていた。
子平の琉球図においては広東省の横に台湾があり、九州南部と山東半島の緯度が同じとなっている。先島の緯
度もまったく違う。杜撰の極みである。幕府は琉球図に地理相違がめだつことをよく知っていたのである。幕府は、子 平の琉球図をみて杜撰さにあきれたであろう。
☆ 「奇怪異説」とは何か
申渡しの中にあった「奇怪異説」とは何を指していたのであろうか。種々あろうが、琉球国において日本よりも「唐山
の威権重きか」としたところが幕府からみると奇怪異説に入ることは間違いないであろう。幕府からみれば、実質的 には日本の一部である琉球を独立した国と誤認し、日本の武威を軽んじたととれるのではなかろうか。「唐山の威権 重きか」としたのは甚だしく事実に反している。幕府にとっては我慢の出来ることではなかった。
「薩摩私領琉球」という言葉が、幕府と薩摩の間でやりとりされる文書にはよく現れる。清国にも朝貢する「琉球」の
地が、日本の内にあってはまずいという観点から、このようにいわれるのである。実質的には、勿論、私領ではない。 薩摩は幕府に相談なく、勝手に琉球を治めることはできなかった。重要なことに関しては、必ず裁可を仰がねばなら なかった。私領ではないことは明らかである。薩摩私領であるから、実際は日本の外にあるとはいえない。内にある ことをぼやかしていうときに使われた言葉である。
☆ 例外的史料である三国通覧琉球図
子平図は近世のものであるから、さして古くない。この図以外に、尖閣諸島を中国領として彩色した古地図は、日
本にも琉球にも一切、存在しない。中国にも存在しない。(正確にいいなおすと清代の福建志の領域図のなかには 琉球全体をまるごと含んでいるものがある。だが漠然とした形、つまり○の中に琉球と描き込んだような図ばかりで ある。)逆に尖閣諸島を琉球領であるとした古地図は、中国にも日本にも西洋にも存在する。これら諸図は子平の図 よりも古いものである。
もともと唯一の例外的地図をもとに、尖閣諸島の中国帰属を日本が認めていたということ自体おかしなことだったの
である。その上、実はその証拠とされた図が、法的にみて無意味なものであったということは不思議の極みである。 日本人が尖閣諸島を中国領と認めていた証拠とされる唯一の地図が、国境確定の史料としては使えないと言うこと は何を意味するのであろうか。
☆ 三国通覧の琉球図は流布したのか?
☆ 刊行時の国内での評価――古河古松軒の子平批判
そもそも子平図は本当に評価されて流布したのであろうか。
出版された当時、子平の三国通覧図説はあまり評価されなかった。流布しなかった。
三国通覧の次に出された海国兵談の出版費用の捻出に子平は苦労している。須原屋市兵衛は、手を引いてしまっ
たのである。余り売れなかったことを物語っている。
子平の評価が高まるのは、皮肉にも、三国通覧と海国兵談が発禁処分に附された後である。子平が蟄居させられ
た後、ほどなくして黒船が来航したのである。海国兵談で子平が訴えていた海防の必要性が誰の目にも明らかにな った。子平の予言通りとなった。三国通覧図説の写本が多数つくられるのは、それからである。兵要地理書として読 まれたからである。
それまでは三国通覧図説については、最上徳内や古河古松軒の批評をみかけるだけである。共に酷評している。
彼らは実地を歩いてみて、事実と相違がめだち役に立たない図であるとして批判しているのである。
古河古松軒の「東遊雑記」を詳細に検討してみよう。これは古河が書いた二つの紀行文からなっている。奥州巡見
使の一行に古河は随従している。古河は幕吏ではないが、幕府にはかかわりの深い人物である。
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【古河古松軒】
江戸後期の地理学者・蘭医。備中の人。諸国を周遊して交通・風俗・物産・史跡を研究。幕命により「武蔵五郡の
図」「四神地名録」を作成。著「西遊雑記」「東遊雑記」「東亜地図」。(1726〜1807)
――『広辞苑』
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松前東の方海浜の図、左の如し。林子平が蝦夷全図を見るにそのちがひ大なり。斯いへばそしるやうに聞ゆれど
も、林子平なる人は何ゆえにありてか埒もなき図を記せし事や、至て不審の事なり。此辺の者に会して地理を尋ね 聞て図せしにや、甚だしき虚説を書現はせし人なり。(-517)
林子平はもとより憶説を述べし事なれど、其中に取るべき事もあり。海国兵談の如く……(-530)
日本僅の国ながらも、その地に至らずして人の物語を信じて書にあらはす故に、大に違ひし事のありと思はれ侍る
なり。此山のみにあらず。予諸州を巡り、その実を正し見るに、妙妙不思議の奇説を云ひならはせし所は何れも仏 家・神道家よりいひ出せし虚説にして、埒もなき事なり。世には奇怪の説を好る人あるものにて、いろ〜〜の物語を 加ふ故に、見聞せぬ人の実と心得て、板本などにも顕はせる事なり。此紀行にも、予が説の誤る事も多かるべし。見 る人察すべし。(-544)
赤水先生はおよそ海内の習俗知りし人なりしに、松前の事委しらからざりし。日本の地を離れし遠い所なる故なる
べし。白石先生の蝦夷志にも齟齬なる事あり。何も世に識る博識の先生ながらも、地理・風俗などの事は、自らその 地に至らざれば知らざる事もあるものか。(-503)
和漢三才図会、或は人国記、或は日本全図などは地理の事に置いてはさらにしらぬ人の図せしものとみえて、予
が通行せし奥羽二州にては別て大違ひ少からず、取所更になし。(-547)
赤水先生の日本の地図を出し見れば、奥州東方の海浜にさしての出崎入海はなきやうなれども、この山上より見
渡せば、出たりはいりたりの出崎入海かぎりなき事なり。広大の国なれば委しからぬも、無理ならぬ事とおもひし也 (-566)
和漢三才図会、此外、板本に記る奥州の名所旧蹟などの大違ひの事、数多なり。聞伝へを記せしものなるべし。
百聞一見に不及とやらん。目をその所へ至らざれば、その実はしれがたきものなり。(-445)
――東遊雑記 古河古松軒 /日本庶民生活史料集成より
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「林子平自国の地理すら知らず況や遠き夷国においてをや」と激しく古河は子平を攻撃している。そうはいうものの、
自国のことは知らなくても他国のことは知っているということはありうることである。しかし先述した通り古河は実地を みればすぐに違うとわかることが記されていることを批判しているのである。古河古松軒は、実証主義的精神に基づ いて批判しているのである。
三国通覧図説の各図は、子平が現地にいかず、作成したものである。古河古松軒は子平を全面否定しているので
はない。しかし地図のいい加減さにはほとほとうんざりしている。
古河の指摘が海国兵談や三国通覧図説の発禁を招く発端となったという説がある。確かに古河は「不思議の奇
説」、「奇怪な説」と「東遊雑記」で子平を批判していた。幕府の判決文のなかにも「奇怪異説」とある。しかし古河の 子平批判が、幕府の処罰のきっかけとなったかどうか。極めて疑わしい。古河にはそれほどの力はなかった。しかし 仮にそうだとすると、地図のでたらめさが子平処罰の主要な理由となったことになる。
地図が杜撰であることは、兵要地理書としては、致命的である。幕府はこの点でも害をなすものとして、処罰したわ
けである。しかし蟄居、それも兄のもとにお預けというのは、かなり軽い処罰であった。正確な地図であれば、よかっ たのだろうか。いやその方が重罰に処されたであろう。だが杜撰な図をつけてもまた処罰されることとなったのであ る。
☆ 強すぎる主観性
三国通覧図説の琉球図には、中央に琉球三省並三十六島図とかかれている。そしてそのわきに「仙台 林子平
図」と記されている。図の中央に製作者が自分の名前を書込む地図をはじめてみた。林子平は強烈な自己顕示欲を もっている。彼の著作を検討していくとわかるが、余りにも主観が勝ちすぎている。客観性に問題がありすぎる。
きちんと実証主義的な研究をこつこつと積み上げていくという人ではない。
☆ 流布する三国通覧図
当初は余り売れなかったのは事実であるが、結局三国通覧の図はかなり流布したといえる。
国立公文書館で、内閣文庫におさめられている多数の三国通覧図を閲覧してみた。江戸幕府はかなり多数の三
国通覧図を収集している。琉球図四つ、三国通覧輿地路程全図五つをここで見た。
これら諸図には様々な判が押されている。とくに編修地誌備用典籍の判がある図が注目に値するのだが、このこと
は後述する。
流布する三国通覧図説には差異がかなりあることがわかる。
以下に記す図の番号は国立公文書館が整理のために附したものである。
和35139の図では台湾と琉球は同じ色、淡い紫で彩色されている。宮古にのみ琉球之持の記載がある。
和35287の図でも台湾と琉球は同じ色、黄緑で彩色されている。編修地誌備用典籍の判がおされている。
和35288の図では国別色分けがなされていない。琉球と日本は普通の黄色、台湾は濃黄色になっている。編修地
誌備用典籍の判がおされている。
これら三つは三国通覧輿地路程全図の写しである。
和29440は公刊された三国通覧図説そのものであると思われる。五種の図がついている。表紙には内務省図書の
貼紙がある。
和16590は三国通覧の完全な複製であると思われる。本物と同じ構成となっている。五枚の図がつけられている。
浅草文庫の判がおされている。後年復刻されたものではないか。
以下の二つは独立した琉球図である。
和35282は琉球三省並三十六島之図である。台湾と琉球が同じ黄色に塗られている。澎湖島も同じ色に塗られて
いる。編修地誌備用典籍の判がおされている。
和35283の図は「琉球国全図」と題されている。国別色分けはなされていない。
三国通覧図の彩色は、写しによってかなりの差異がある。しかし島の配置や書き込みの方はほとんど差がない。
彩色を抜きにして図をみれば、どれも公刊された三国通覧図説通りといってよい。ただ彩色が違うために、境界につ いては、図毎に全く違った意味をもつようになっている。
民間にある図をみても、無彩色の図や装飾的に彩色がほどこされている図がある。まちまちである。本の中に琉球
図として三十六島の図がつけられているものもある。
この場合は例外なく、無彩色図である。
これらの図を詳細に検討していくと、尖閣諸島や台湾の帰属について明確な知識を与えるものではないことに気付
く。境界が曖昧であることには驚かざるを得ない。
☆「日本遠近外国之全図」(三国通覧図説の三国接壌図の原型)と三国通覧
ここで三国通覧図説の原型を考察してみよう。
天明二年に子平が作成したこの図は三国通覧図説の三国接壌図の原型とみられるものである。
「日本遠近外国之全図」と題されている。林子平の自筆である。彩色図であるが、国別色分けはなされていない。
だから必ずしも領土の帰属が明確ではないように見える。しかし中国は各省ごとに色分けされているので、島嶼がど この省に「帰属」しているのかわかりやすい。
刊行された三国通覧の三国接壌図とはかなり違いがある図であるが、この図が三国接壌図の原型であることは一
目瞭然である。三国通覧とはどこが違うのか。
「日本遠近外国之全図」について平重道は次のように述べている。
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148.7*11.63糎の此の地図は仙台市博物館所蔵の中村コレクションのもので本文にも記述してあるとおり、
天明二年子平が長崎遊歴の時、彼地において各種の地図や史料、船人の直話などを材料として自ら作成したもの である。三国通覧図説が完成したのは天明五年であるが、同書の中心となった三国接壌図の初縞本がこれで、本 図の完成により三国通覧図説の腹案は成立したと見ることが出来る。
――『林子平 その人と思想』 仙台藩の歴史4 平重道
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「日本遠近外国之全図」も地理相違の絵図である。これを見ると、その延長線にある「三国通覧図」が杜撰きわまり
ないことが改めて確認できる。奇怪としかいいようのない子平の作図が更にはっきりする。
この図を見ると、「琉球三省図」と沖縄本島の横に記されている。三国通覧図では、「琉球三省三十六島図」となっ
ていた。「日本遠近外国之全図」を作成した時には、三省の意味を白石と同じように子平も考えていたらしい。つまり 南山、中山、北山で三省となるのだが、南山は先島を含み、奄美諸島は北山に含まれると理解していたわけであ る。
☆ 泉州の島々――琉球国は泉州の東にあり
☆ 二つの航路
琉球と中国をつなぐ二つの航路が、「日本遠近外国之全図」にも三国通覧図と同じように、記されている。航路上に
島山がいくつも描かれている。島々は福建と琉球の間に位置している。この往路にみる島嶼は全部、沿岸の島であ り、東シナ海の中央部にまではりだしているものではない。位置が全然違う。往路上にある島々の大半は浙江省の 沿岸にある。だからそう描かねばならない。しかし子平はこれらの島嶼を沖遠く描いている。浙江省所属の島嶼が 「日本遠近外国之全図」では福建の沖に描かれている。三国通覧図でもそのままである。なお今いった往路というの は琉球の人からみた場合そうなるということである。册封使が来琉する場合には、これは復路となる。これ以下は琉 球の人々がどう見るかに従って往路復路をいうことにする。
「日本遠近外国之全図」に、描かれている台湾は?州の西に位置している。?州の北には泉州が記されている。福
建の北部に泉州があることになっている。泉州の北には福州があり、それから浙江省の温州となっている。
册封船が出発するのは、福建の北部である。泉州と福州の境界の地からになっている。このようにして子平はつじ
つまをあわせている。往路と復路上にある島は、泉州と同じ色にぬられているようにみえる。海中に描かれているほ とんどすべての島が泉州に附属するとされていることになる。これには驚かざるを得ない。尖閣諸島も泉州所属の島 なのである。そして浙江省付属の島嶼まで泉州の島嶼にしているのである。
しかし江戸時代にこの図には補修がされている。このとき航路上のすべての島にこの色が塗られたのかもしれな
い。だから子平が彩色したと断定することはできない。 しかし琉球国が泉州の東に位置するように描かれているの は事実である。まさしく琉球国は泉州の東にあることになる。やはり子平は半架・尖閣諸島は泉州府の属島と理解し ていたのではないかと思われる。
子平は、「琉は中山伝信録を以て拠とす」と「日本遠近外国之全図」にも書込んでいる。疑問を持たざるを得ない。
勿論、琉球国は泉州の東にあるなどと徐葆光はいっていないからである。徐葆光は測量の結果を示し、琉球は福州 の東にあるとしている。
なお古河は、徐葆光のいう通りにしている。
琉球国は泉州の東にありという子平の認識は三国通覧の図でも変化していない。図説の図では、台湾島は広東
省の横におかれている。このことは先述した通りである。「日本遠近外国之全図」の台湾よりも南に下げられている。 改悪されていることがわかる。なぜ改悪されたのか?福建の泉州の位置を南に引き下げたためである。これ自体は きちんと修正したことになるのだが、琉球国は泉州の東にありと子平は認識しているために、台湾や大琉球島の位 置も連動して南にさげざるを得なくなっているのである。大琉球那覇の緯度が泉州と同じになるようにされている。台 湾と大琉球島の相対的位置関係を変化させてはならないと子平は思ったのである。
琉球三省三十六島の図も今、よくみると福州ではなく、泉州が船の往来する港であるように描かれている。那覇と
泉州が線で結ばれているのである。どうして?
再度いうが中山傳信録を証とすと子平はなぜいうのだろうか。このようなことは中山傳信録には勿論、書かれてい
ない。
☆尖閣・半架諸島は台湾の付属島嶼とされてはいない
「日本遠近外国之全図」では、花瓶嶼と臺山の間に小さく「大清海」と記されている。鶏籠、東沙は台湾の近くに記
されており、台湾と同じ色で塗られている。これのみが臺灣の付属島嶼とされている。
台湾島や鶏籠や東沙は、半架諸島や尖閣諸島とはかなり離れている。
子平が、尖閣諸島や半架諸島を台湾の付属島嶼とみなかったのは、写し取った台湾三県之全図に含まれていな
かったからであろう。子平が見たのは間違いなく台湾府志の領域図である。当然、子平は、半架や尖閣を臺灣とは 同じ色には塗らなかったわけである。「日本遠近外国之全図」作成のときから、臺灣の付属島嶼とはしていないので ある。子平はこれらの島嶼を台湾の付属島嶼などと考えてはいないのだ。半架や尖閣を台湾の付属島嶼とした古い 地図は日本・琉球には一つもないのである。台湾とは別個の島々として扱われているのである。
再三いうが、歴史的にみても、半架や尖閣と台湾が一体のものとして扱われた時期が見あたらない。台湾府の領
域がここまで延びていたとする史料は全くない。
☆ 八重山の緯度 ――台湾の北端よりやや上
「日本遠近外国之全図」でも、復路上にある島々(半架諸島と尖閣諸島に属する島々)は、等間隔をおいて一列に
つづいているようにかかれている。しかしその南南東の方向に少し間をおいて八重山があり、その先に久米島がある ということになっている。ここのところは、三国通覧の図とかなり違う。
「日本遠近外国之全図」に描き込まれた八重山諸島のある緯度は、台湾の北端よりやや上になっている。これは
現実の位置より北にかなりずれている。この図における八重山諸島は現実には尖閣諸島のあるあたりにまとめられ ている。西洋人の記したレイス・マゴス(REYS MAGOS)諸島のあるあたりである。DOURADO図においては、半 架・尖閣諸島の東に八重山・太平山が記されている。西洋人の描いた図、たぶん和蘭航海図を、子平はたぶん見た のだろう。
周煌や徐葆光が、琉球三十六島の内、「西南九島」について触れているところをみてみよう。中山傳信録の巻四の
なかの「琉球三十六島」、 琉球国志略の「巻四(上)輿地」にあげられている。
「西南九島」として幾つかの島があげられているが、そのうち
「八重山、烏巴麻、巴度麻、由那姑?」をさして、「以上四島皆近臺灣」とされている。烏巴麻、巴度麻、由那姑?の
三島は八重山の西南にあるとされている。
つまり「台湾」は八重山の西南にあるわけである。
(なぜか巴梯呂麻つまり波照間は八重山極西北とされている。台湾に近いとはされてない。)
オランダ人の見解と中山傳信録のこの部分の記述が一致したので台湾と八重山の位置関係を子平はこのようにし
たのであろう。
しかし子平は三国通覧では、この見解を修正して台湾と八重山の位置関係を変えている。三国通覧の琉球図では
八重山は台湾の南部とほぼ同じ緯度にある。位置が大きく変化している。また先述したように台湾島を南に置き直し ている。
☆八重山十三島
日本遠近外国之全図のなかに描かれている八重山に属する島は十三ある。しかしなぜか「以上九島」と書込まれ
ている。混乱しているように見える。しかし何島かをまとめて一島にしているのであろう。通覧図説図では九島描きこ まれているが、「以上八島」とされている。この数字だけをみれば、「九島」が「八島」になったから一島減っていること になる。しかし実質的には描かれている島は四島減となっている。
(宮古はこの図では九島となっている。しかし、書込みでは「以上八島」とされている。三国通覧においては宮古島
は七島になおされている。「八島」から「七島」へと一島減ったのである。実質的にみると描かれている島は二島減で ある)
日本遠近外国之全図にも図上に字が書込まれている。
「南の方球に入海路は遠し且島嶼屈曲一ならざる也、故に予薩州の舟人伝兵衛、八左衛門等と再三討論して以て
定む」とされている。
薩摩の舟人と意見をかわして子平は琉球方面の島嶼の有様をまとめたのである。八重山に属する島が十三あると
いうのは薩摩の舟人のいっていたことであろう。伝兵衛等は字を知っている知識人のようである。
林子平は中山傳信録の三十六島図に書き込まれた島の名前を三国通覧では、できる限り、和名に戻している。
(全部は戻しきれていない。中途半端である。)薩摩の舟人たちに聞いて和名を知ったに違いない。「八重山 二十 八村あり」とされてもいる。これも舟人からの情報ではなかろうか。薩摩が八重山で密貿易をしていたという伝承があ る。八重山に、薩摩の舟人が渡航していたのは事実らしいのである。彼等は清国にも渡航していた可能性が高い。 実際、これらの西の「道の島」をみていたのではないか。
八重山の島がこの図では十三島あり、後に三国通覧図では九島に減らされたということは何を物語っているのか。
減った四島は何を意味するのであろうか。
子平は三国通覧図説の琉球図においては、九島(=八重山諸島)をかなり南に移した。台湾島の南端にむかって
迫っているようになおしたのである。そしてもとのところに四島を残し、彭佳山釣魚嶼黄尾嶼赤尾嶼と記しなおしたの である。そう考えればすっきりと説明が付く。
しかし、「日本遠近外国之全図」には今あげた島々、つまり彭佳山釣魚嶼黄尾嶼赤尾嶼は描かれていないわけで
はない。先述したように半架・尖閣諸島は八重山の北西から北西西の方向にあり、少し離して描きいれてある。
日本遠近外国之全図では、半架諸島や尖閣諸島は「二重に」存在していたようにみえる。だぶっていたのである。
先述したように、当時の日本人の琉球についての地理的認識は、広く読まれた「和漢三才図会」の琉球図をもとに
していた。他に一般的によく見ることができる琉球図はなかったからである。釣魚嶼や花瓶嶼などの島も琉球諸島の 一部であるとみなされていたはずだということになる。薩摩の舟人伝兵衛が、釣魚嶼を琉球に属する島嶼だと思うの は当り前である。
「日本遠近外国之図」を作図する段階においては、子平は、この認識を変えつつあったのかもしれない。だが伝統
的な認識(=薩摩の舟人伝兵衛等からの伝聞)が、図に入り込んでしまった。このため二重に半架諸島、尖閣諸島 がこの図に記されてしまったのである。そう考えるのが妥当だと思う。勿論、子平は、この当時においては図の中に 二重にこれらの島が存在していたことに気がついていなかった。
後に、三国通覧図説を著したときに、子平は、このミスに気づいた。二重に描かれていたのをなおした。尖閣諸島と
八重山をはっきりと完全に引離したのである。尖閣と八重山の相対的位置関係をも「修正」したのである。
☆琉球の島は五十六嶌
「日本遠近外国之全図」には琉球の島は五十六嶌であると記入されている。
(この五十六嶌には、沖縄本島は入っているのかどうか。曖昧である。入っているかもしれないが、入っていないかも
知れない。)
中山傳信録に出てくる琉球三十六島を「日本遠近外国之全図」作図の段階では、子平は主たる島の数という意味
であると捉えていたのであろう。そう考えないと、三十六島ではなく、五十六島とされていることがおかしい。つじつま があわない。
数えてみると「日本遠近外国之全図」には琉球に属する島としては、五十二の島が描かれているだけである。説明
には「五十六嶌」とあったのに、四島足りないのはなぜであろうか。不可思議なことである。杜撰なだけの図にもみえ る。どう考えればいいのであろうか。「五十六嶌」と書き入れた時には、彭佳山釣魚台黄尾嶼赤尾嶼を五十六島のな かに子平は、入れていたのではないか。その見解が色を塗るときに変更されたのではないか。しかし「五十六嶌」と いうのは書き換られなかった。そう考えるときちんとつじつまがあう。あるいは後世の補修の時に、彭佳山釣魚台黄 尾嶼赤尾嶼については子平の意図に反して、誤って泉州と同じ色が塗られたと考えることもできる。三国通覧図に影 響されてそうなってしまったと。
☆書斎派地理学者
子平は「琉は中山伝信録を以て拠とす」と、日本遠近外国之全図に書き込んでいる。困惑させられる。子平は再
三、人が書いてもいないことを人の説として紹介する。
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三国通覧図説の樺太の条において、近頃「輿地の学」が精しくなつた結果、此地が全くの離れ島ではないとし、
「東韃靼の地続、室葦の地にて東南海の出崎なり」と言つているとした後
白石先生は万国図の野作と云る地は、此からふとなるべしと云れたり、と述べているが、……子平の判断は白石
説とは食ひ違ってをり……
――新井白石の洋学と海外知識 宮崎道生
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林子平は通覧図説の序文でも「此の数国の図は小子敢えて杜撰とするにあらず」として「琉球は元より中山伝信録
あり、之を証とす」と同じように記している。中山伝信録には書かれてもいないことを子平は色々と付け加えていなが ら中山傳信録の名をあげつづける。奇怪というしかない。
子平の判断には問題のあることが多すぎる。
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16世紀のアーム・チェア地理学者、野外実地調査をしない書斎派の地理学者は想像と推論で、様々な矛盾にみち
た解釈を……(-97)
――図説探険地図の歴史
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子平はみずから測量を行って地図を作製したわけではなかった。先人の作成した資料を基に作図しているだけであ
る。
子平が長崎で安永七年に写した「薩摩領国之全図」「台湾三県之全図」「蘭人制作支那図」が仙台博物館所蔵の
「中村コレクション」に収められている。「日本遠近外国之全図」や「三国通覧図説」の資料とされたのである。史料探 しの旅の成果である。
子平は書斎派地理学者だったのである。当時としては仕方ないことである。子平は蝦夷も琉球を訪れることができ
なかったのである。しかし子平の膝元の東北の地図でさえ、古河古松軒からは実地を見ずに作っているから行って みると、全然違うと手厳しく批判されている。当時は緯度の方はかなり正確に測定することができた。しかし子平は それもしていないと古河はいう。「想像と推論」で、でたらめな地図を作製されても困るのである。このような図を領土 確定の資料とすることはできない。
日本遠近外国之全図には他にも様々な問題がある。しかしこれ以上は他の人の研究に後は任せて、これぐらいで
とめておくことにする。
☆琉球三十四島
子平の琉球三省三十六島之図にも実は、三十四島しか描かれていない。これは一体どういうことであろう。
五十六島とかきながら、五十二島しかなかったのと同じ事であろうか。
三国通覧の無人島大小八十余図をみてみると、「八十余」とされているのに、島は七十八しか描かれていない。二
つ足りない。どうして数が合わないのか?子平という人は緻密な人ではない。きちんと数を確認していないのではな いかと思われる。その程度のことかもしれないと思ってしまう。作図がずさんに行われていることがまた確認できたと もとれる。
しかしやはり小笠原と琉球を一緒にすることは出来ない。小笠原の場合は、大体八十ということでいいのである。
無名島が大半である。しかし琉球の場合は、とくに琉球三十六島をいうときには、その内訳がはっきりと子平にはわ かっているのである。そのなかのいくつかをあえて脱落させるのはおかしい。数があわないのはおかしい。この場合 には何らかの意図がはっきりとあるはずである。
☆「琉球三十六島」についての考察
「琉球三十六島」という概念を今一度、分析する必要がある。海東諸国紀には「三十六島」が現れていたことはすで
に先述した。
☆張学礼の「教化三十六島」
「三十六島」といういい方は、1663年、来琉した清初代の册封使、張学礼の使録に初出するとされてきた。清代
になってからいわれはじめたというのが通説になってきた。しかし先述した通り、朝鮮の史料である海道諸国紀にす でにあらわれているのであった。この三十六島とは琉球の人々が言い出したものを記録しただけであることは間違い ない。 張学礼の使録には、「賜三十六姓人、教化三十六島」とある。徐葆光の中山傳信録に「三十六島、前録未 見、惟張学礼記云」とある。
「教化三十六島」といえば沖縄本島も三十六島の中に入っているのであろうか。入っていると考えられる。沖縄本
島だけを除く理由がない。
張学礼が教化三十六島と記す際に、中国が琉球を教化したという認識があったことは間違いない。三十六島のな
かに大琉球島が入っているのはいうまでもない。隋書琉球伝に出て来るのはまさに未開の蛮族の生活である。そし てそれが琉球の姿であると册封使は認識していたのである。
☆程順則の三十六島
徐葆光から、この三十六島についての問い合わせがなされた時に、程順則は三十六という数にあわせて島を選ん
だのである。「教化三十六島」のなかに、沖縄本島(=狭義の琉球王国の版図)をいれることは程にはできなかっ た。未開の国とみずから認めたことになるからである。教化されたのは、属島のみに限定されねばならなかった。だ から琉球島を、三十六島の中にいれることは出来なかったのである。琉球島以外の島で三十六にしなければならな かった。琉球の島を全部あわせても三十六に足らなかったとなれば尖閣や半架の島々も三十六の内に入れたであ ろう。海道諸国紀が記された時よりも後に、琉球王国は先島も制して領土を拡大した。島は増えたが、三十六島とい う数は増やさなかった。程順則は陸のシマをはずしてしまった。数合せをしなければならなくなった程順則は無人島 の「花島」もはずしてしまったと思われる。三十六という数にどうしても押し込まねばならなかったのである。
☆武田二十四将と琉球三十六島
琉球三十六島とは武田二十四将と同じである。この二つの概念は相似している。
武田二十四将図を見たことがある。信玄を中心として二十四将が描かれている。これは武田家の主たる武将を描
いているに過ぎない。すべての武将を数え上げて描いたものではない。二十四という数に合わせて武将が選ばれて いるのである。武田二十四将に入っていないから、武田家の武将ではないとはいえない。
武田信玄は二十四将の内に入っていないが、沖縄本島が三十六島に入っていないのも同じことである。
武田家は多数の武将を配下においていた。主たる武将とそうではない武将の関係は、島と嶼の関係と同じである。
沖縄には多数の島があった。主たる島が三十六あるということである。琉球諸島は三十六島から構成されるという意 味ではない。
琉球三十六島というのは、琉球王国(沖縄本島)は三十六の「島」を従えてなりたっているという、これだけの意味
である。嶼は数に入っていない。三十六島三嶼であったとしても三十六島というであろう。無数の小さい島、つまり中 国風に表記すると多数の嶼が、琉球の領域に入らないわけではない。ともかく琉球には有人島が多く、なんとか三 十六におしこんでいる。幾島かをまとめて一つにしたり、または本来取り上げるべきものを「無視したり」している。そ うでないと三十六におさまらないのである。
三十六島を尖閣の帰属問題とからめることはできない。琉球三十六島に入っていないから、琉球の島嶼ではないと
いうことはいえない。このような主張をよくみかける。説得力があるように見えるが、全く誤りである。
☆吐?喇七島、伊豆七島、五島
吐?喇七島、伊豆七島なども七という数あわせをしている。七つしか島が存在しないということはない。またどちらの
端にも、離れたところに居住もできない無人島があるが、これらは「吐?喇」列島や「伊豆」諸島の範囲に今日では入 っている。しかし昔は帰属は曖昧だったはずである。端には必ずこのような帰属曖昧な岩礁が存在する。尖閣諸島と 沖縄の関係と同じであるようにみえる。しかしよく考えてみると、尖閣諸島は、琉球の人にとっては大事なクバの生い 茂る島であったから、これらと同じとすることは出来ない。
長崎県の五島にいたっては、主たる島が七つある。七島でなければおかしい。実は、このうち二つの島は元は五島
の範囲に入っていなかったのである。五島というのは昔の領域にある主たる島を数えているに過ぎない。そして今、 五島は二百以上の島嶼から成っている。
☆琉球三十四島.…… 消えた二島
琉球三省三十六島図には当然、琉球三十六島が描かれているはずである。しかし少し前に記述した通り、この図
にあるのは三十四島だけである。これは琉球三十四島の図である。二島脱落している。何度も数えなおしてみた。 沖縄本島までいれれば三十五だ。しかし三国通覧の略説を読めば、琉球三十六島とは、「琉球諸島は三十六島より 構成される」という意味だと子平は誤認していたわけではないのだ。「琉球三省」として、「此外に三十六嶋あり」とは っきりと書いている。大琉球島(=沖縄本島)が入っていないことを承知している。
また沖縄本島を入れてもそれでも一つ足りない。
略説で三十六島の内訳を確認することはできない。三十六島が具体的に島名をあげて記述されていないからであ
る。なぜ省いているのであろうか。あえて省略されているようにみえる。
それにしても、武田二十四将図のなかで二将が脱落し、二十二将図となっていたらおかしな具合であろう。どうして
このことは見落とされてきたのだろうか。私は資料をかなり調べたが、この「脱落」に言及するものはなかった。
消えているのは硫黄鳥島と小浜島である。傳信録の三十六島図と照らし合せてみると、硫?山と烏巴がそれに当る
ことになる。足りないことに子平はきづいていないのだろうか。考えにくいことである。
三十六島には別の島が入っているのだろうか。考えられないことはない。子平の三十六島は、徐葆光の三十六島
とは違うのかも知れない。違っていてもよいのである。ただ中山傳信録を証とすとまで書いているのだから、そういう 理屈は通しにくい。しかし子平は、緻密な人ではない。別の島をいれるために、二島を隠したのかもしれない。
☆二島は台湾と澎湖島か?
足りない二島は台湾と澎湖諸島なのだろうか。台湾と澎湖は子平の手によって琉球と似たような色でぬられてい
る。元々大琉球と小琉球であるから似た色になるのであろう。これが二島であるということはありうる。中国本土と違 う色で塗っているということは明確な中国領土であると林子平が認めていなかった証拠である。
子平は父が親交を結んでいた白石の言を重んじている。
白石は福建省について「外国通信事略」のなかで、「古の?越の国也」として、八府を上げているが台湾府はそのな
かに入っていない。白石は台湾をどう扱っていいのか迷っていた。子平も迷っていたのであろう。
井上清は、台湾が本土とは違う色に塗られている理由をこう説明する。小笠原島も子平は別の色に塗っていると。
しかし小笠原が日本領土であるとしていると。これと同じような意味で台湾も本土の属島とはみなさなかったのでは ないかと。しかし小笠原島は日本本土から遙かに遠く離れているところに置かれている。台湾を中国本土にこれほど 近いところに記しておきながら、子平が遠隔の小笠原と同じように扱っていると断定するのは妥当ではない。
子平が澎湖や台湾を琉球三十六島のなかに入れようとしたと断定することはできない。しかしそうであってもおかし
くはない。
三国通覧図では台湾は中国固有の領土ではないと示されていると考えるしかない。台湾三県之図は三県が存在
することだけを認め書込んだもので、清国の領有権を認めたものではない。
☆幕府は台湾をどう考えていたのか?
国立公文書館で閲覧した子平図のなかには「編修地誌備用典籍」の判がおされている図が三つあるが、その内二
つは台湾が琉球が同じ色で塗られていることに気付く。もう一つも注意深く見ないと同じ色で彩色されていると言い かねないほど似た色で塗られているのである。「編修地誌備用典籍」の判は幕府がおしたものである。「編修地誌備 用典籍」という判はいつ押されたのだろうか。またその意味するところは何であろうか。
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文化・文政中幕府は史局を昌平黌に開いて地誌編修を行い。その資料として全国的に地誌・地図類を集め、この印
を押した。林述斎がこの編修を建言し、……
――内閣文庫小史/改訂内閣文庫図書分類目録下 昭和五十年 国立公文書館
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「編修地誌備用典籍」の三国通覧図では、台湾や澎湖諸島は琉球と同じ色でぬられていることは何を意味するの
であろうか。このような彩色の仕方からみると幕府は台湾や澎湖諸島を琉球三十六島の内にいれていたと思われ る。つまりは大小琉球を一緒にしているのである。
文献資料をみても、台湾や澎湖島が琉球や日本に属するとする中国史料がかなり存在するのは事実である。しか
も公刊された史料であり、由緒正しいものが多い。
幕府は、オランダ人がタイオワンを支配していた頃に「台湾返還」を再三、求めた。オランダ東インド会社の記録に
は、長谷川平蔵がしきりにそう求めたとされている。オランダ人は困惑し、対応に苦慮している。タイオワンに対する 要求は謝絶するが、鶏籠のスペイン植民地攻略に手を貸そうと提案したことが記録されている。
幕府は文化・文政にいたっても、「祖法」のように台湾が日本の一部であるという認識を変えてはいないということに
なるのだろう。幕府の領有意思の表明は、中国よりも早い。日本人の方がオランダ人よりも先に台湾にいたのであ る。それに日本人としては、鄭若曽系の琉球図をみなれているわけだから台湾島が琉球の一部であるという認識が でてくるのも無理はない。
文化・文政の頃には、台湾と琉球を同じように彩色した三十六島図の写しが一般にも出まわっていたのではない
か。内閣文庫にある写しには少しずつ違いがあり、流布していた図を集めたと思われる。
「編修地誌備用典籍」の印がおされた図は、林述斎らが作図したのかもしれない。とすると意図的にはっきりと台湾
を琉球と同じ色で塗ったことになる。
☆原図の発見?
東北大学に収蔵されている三国通覧図説の復刻版を東京都立図書館で見た。
この図には大きな特徴がある。
台湾南方にある「小琉球」、つまり位置からみて紅頭嶼等をさすと思われる島が、琉球と同じ色で塗られている。琉
球の一部とされている。この図が原図であれば、紅頭嶼等を子平は三十六島の一つとしていることになる。正確にい うと紅頭嶼、小紅頭嶼、火焼島等も含めてここにある島々をまとめて、「小琉球」として図に子平は描き記したことに なるのであろう。
子平は長崎でオランダ人と会見している。「和蘭人アーレント氏に逢ひて海外の地理を問ふ」と書いている。紅頭嶼
の和名は、タバコ島である。このタバコ島と名は西洋に広く知られていた。日本と関係があると信じられていた。子平 は三十六島にタバコ島が含まれることは当然のことと思い、彩色したのかもしれない。
☆この特異な図
三国通覧図の写しの中には、台湾と沖縄を同じ色で彩色している図もかなり多くみかける。しかし大琉球と台湾の
色分けがされている図においては、(わたしの見た限りでは)小琉球山は台湾と同じ色で塗られている。東北大学所 収の図とは違う。これをどう考えたらいいのであろうか。
やはり、この図は、子平の三国通覧図説の原図ではないかと思われる。
☆公刊された図ではない
三国通覧図説の東北大学所蔵本は公刊された図説そのものではないようである。少なくとも図は、公刊図ではな
いはずである。図には「日本橋北室町三丁目 天明五年秋 東都 須原屋市兵衛梓」という文字がない。公刊された 図には、これが欄外に記されていた。ということは、これは写しであろうか。しかし非常によくできている。いくらみても 公刊された図としかみえないほどである。これは写しではなくて、原図・原本であったのではないか。考えてみると必 ず子平が自筆で記した原図・原本が最初にあったはずである。それは仙台に残り伝わったはずである。これまで見 た写しはすべて枠外にある「日本橋北室町三丁目 天明五年秋 東都 須原屋市兵衛梓」まで書写していた。この 東北大学所蔵本にはそれが欠けている。これほどきちんとした写しをつくりながら、なぜこの枠外にある大事な記述 を省いたのであろうか。公刊された三国通覧を写し取ったものではないからではないか。
仙台に蟄居した子平は、知人から三国通覧を求められているが、手元には一つしかないと答えて、写しをとらせて
いる。
東北大学所蔵本の図は原図そのものではなかったとしても、原図からじかに写されたものではないかと私は思う。
今は、断定することはできない。今後の研究を待つしかない。
☆一島は発見されたのか?
この東北大学所蔵の琉球図をみれば一島は説明がつく。小琉球山である。しかしそれでももう一島足りない。
「消えた二島」のうち、もう一島は硫黄鳥島であり、軍事的な意味があると子平は考えてあえて図から消しているの
だと考えられないこともない。子平の生きた時代には硫黄は重要な軍事物資であった。その産地だったのである。明 治二十年代に出された沖縄県治一覧を見ると、「沖縄県の極北」を示す欄に鳥島の経緯度が記されていない。統計 年鑑にも沖縄県の極北として辺戸岬があげられている。鳥島の経緯度を示すことはまずいとされたように思われる。 鳥島は奄美諸島に属する沖縄県の飛地であるからうっかりと忘れられていたということがありうるかもしれない。時代 の混乱のためにこうなったのかもしれない。判断に苦しむ。しかしあの時代は外敵の侵略を強く意識せねばならない 時代だった。やはり硫黄鳥島が消えているのは、軍事的な必要性を認めて隠そうとしたとそう考えるのが妥当であろ う。子平は国防を強く意識していた。
☆子平の本来の意図
やはり子平の意図を体現しているのは東北大学所蔵の琉球三十六島図ではないか。これだと硫黄鳥島は隠すこ
とにしたから三十五島しか図にのせてないと説明できる。しかし公刊された図のような彩色の仕方では、三十六島の はずなのに三十四島になる。鳥島は隠したのだとしてもいいが、小浜島の脱落はミスであるという以外、説明できな いであろう。とくに隠す理由がわからないのである。きちんと校訂されていない杜撰な図としかいえなくなる。
小浜島が消えているのは、この「小琉球山」を三十六島の内に入れるためではないか。原図と思われる図におい
て、台湾南部にある島嶼が、琉球領として彩色されている。再度のべるが、これは子平の独断ではなく、西洋人の 知見を反映しているものなのである。
公刊の際には、原図とは違う、誤った彩色が行われたのではないか。原図に基づいて、研究がなされねばならな
いのはいうまでもないことである。
彩色されていない図の意味――消える界
流布する諸図のなかで彩色されていない図について考察してみよう。消える界の問題を考えてみなければならな
い。
三国通覧図を模写した図が各地に残されているのだが、墨一色で写されているものをよくみかける。一々、色を塗
るのは手間がかかったのである。また典籍の附図についてるのは、例外なくこうした単色刷(墨一色)の図である。
色というものがあってもなくても、大した違いはないはずであった。しかしこの差は非常に大きいのである。単色図
においては、中−琉の界は不明である。彩色はされていても、国別色分けがなされていない図も、墨一色の図と同 じである。これらの図では琉中の界が消えてしまっている。公刊された彩色図では琉中の界は存在していたのに… …。国別色分けがされていない図では尖閣諸島の帰属は不明となるのである。
☆子平にはもともと彩色する意図はなかった?
国別に彩色された図であれば島々の帰属は自明のことである。界も一目瞭然ではないか。わざわざ改めて界を書
き込む必要はない。なぜ子平は日琉の界について書き込みをおこなったのだろうか。本来は彩色(正確にいうと国別 色分け)を予定していなかったためではないかとも当初、思った。
大海をもって境界帯としていたとすればその大海に帰属が曖昧な島々が浮かんでいてもおかしくはない。大海に浮
かぶ無人島に国別色分けは必要なかったはずである。
しかし国別色分けについては元々意図しなかったことではないかというのは、誤りであった。これは三国通覧図の
原型をみれば違うことがわかる。ただどう彩色するかを迷っていたことは確かである。
☆書き込まれている界
三国通覧の琉球図においては喜界の上には「是より琉球の地」と記されている。
更に沖永良部も念のために「琉球持之」と図にしるされている。帰属が曖昧だからはっきりさせるためである。永良
部はこの図のなかで大島の西方にあり、薩摩領と接壌の位置関係にある。薩摩に属しているのではないかと誤解さ れる恐れがなきにしもあらずである。ここまで細心の注意を払っている。こうして琉球と薩摩の界は誤解を招かないよ うに、はっきりと記されている。
太平山、八重山には「琉球之持」とされている。帰属がはっきりと示されている。しかし姑米山にはそう書かれてい
ない。尖閣諸島や半架諸島にも書かれていない。境界はここの方面ではどこにあるであろうか。彩色されていない図 においては大陸と琉球王国(属領も入る)の間にあるすべての島(台湾澎湖諸島も含む)が帰属不明となるのであ る。大琉球島と大陸の間には、帰属不明あるいは帰属未定の島々が続くことになる。
大琉球島と大陸の間の島々については、子平は確信をもって彩色したわけではないことが、琉中の界が図に字で
かきこまれていないことをみればわかる。字で「界」を書込んでいないところは、認識が曖昧だったのではないか。
確信があれば勿論、「是より琉球の地」という記述が姑米山にもされたろう。しかしそうはされなかった。仮に彩色さ
れたのが現在の姿だと見ることができる。なお与那国島にも「是より琉球の地」とは書かれない。台湾府と琉球は隣 接していないのだから界があるはずがない。界の島とされないのは子平が台湾島の帰属を棚上げにしているからで あろう。 対馬にも日本持之とは記されていないから、朝鮮と日本との境界も不明確ではないかというのは間違いで ある。日本人にとって、対馬が日本領であることは常識であろう。だからこれは記さなくてもよいと子平は思った。妥 当である。竹島(現在の竹島ではなく、これは鬱陵島を指す)には朝鮮之持と記されている。これらの図は日本人の ために書かれているのである。琉中の界が日本人にとって常識であるはずがない。こちらは絶対に書かねばならな いはずである。
日琉の界はほとんどすべての史料にちゃんと書き込まれているが、中琉の界については明確な記載がないという
のが殆んどすべての史料に共通するのは再三述べた通りである。 子平は中山伝信録を証とすと述べている。中山 伝信録だけを頼りにするならば、中国と琉球の界をはっきりと記すことはできない。中山傳信録のどこに界がはっきり と書かれているであろうか。尖閣諸島が中国領であると?素摺をみると、尖閣の帰属が曖昧になっているのは、子 平に確信がないからである。
☆彩色されていない図で官許された
実際に刊行された図は、彩色された図(後述するが、無彩色図も売られたと思われるが……)であった。それは間
違いないことである。
しかし官許された図は彩色図であろうか。実はここに問題があるのである。
☆地図の審査はどうなされたのか。
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「江戸前期から出版布令(享保六年=1712)が出て、願書(書名、著者名、版元)草稿(原図)を「年行事」に出
し、町年寄−奉行所−学問所へ行き官許になる。開板人(版元)は彫師に刻ませ、摺師が紙にすって仕上げる。部 数は三百から五百部が普通で、完売すれば再刻(再版)〜三刻から四刻となる(本の小辞典 明治図書出版・昭和 三十四年 江守賢治による)(-503)
――地図史通論 長久保光明
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「本屋仲間」の「行事」の改めは、原図や原稿ではなくて写本や素摺などをみておこなわれたという。原図や原稿は
一つしかない。なくなっては大変である。写本がつくられるわけである。しかし発禁の対象になるかどうかを検討する だけであるから図は彩色はされなかったはずである。余にも手が掛かりすぎる。
何段階も審査があることになっているが、ほとんど「行事」の審査の段階で許可になるかどうかが決ってしまう。そ
の判断に従い、「官許」されることになっていた。
三国通覧図説の図も彩色されていない図で審査を受けたはずである。琉中の界が不明な図で官許を受けているは
ずである。論理的にみれば、幕府が指摘した「地理相違」の箇所というのは、「琉中の界」であることになる。官許し た際に出された図と公刊された図の間にある唯一の違いがこれである。大琉球島と大陸の間にある島々の彩色が、 問題だったことになる。それが幕府の判断とは違っていたことが問題であったことになるのである。
☆国別色分けされていない地図の一例
彩色されてはいるが国別色分けはされていない琉球三省並三十六島図の一例をみてみよう。
かつて私はそのような図を、つまり部分的に、彩色された図をみたことがある。薩摩の大隅半島にある開聞岳、台
湾の鶏籠山と小琉球、更に琉球本島の七つの山が、緑に塗られている。「山南」、「中山」、「山北」という字が枠に入 って沖縄本島上におかれている。「首里」という字は黒い太い枠つきであり、朱色で塗られている。彩色はこれだけで ある。この彩色は、地図の所有者によっておこなわれたものである。別様の子平図である。この図では、尖閣諸島の 帰属は不明である。
この図は印刷された素摺(=単色図)が、所有者の手で彩色されたように見えるのである。余りにも丁寧に写され
たために、本物そっくりにみえる図があるのは事実だが、しかしこれは、違う。
疑問が生ずる。単色図はすべて写しなのだろうか。三国通覧図説の図はすべてが彩色されて発行されたのだろう
か。今、あげた図も、須原市兵衛のもとから彩色されてない図が買手に渡ったものでないか。無彩色図が、販売され ていたのではないか。
☆手彩色される前の刷は売られたのか?
三国通覧図説の図はどのような仕方で彩色されたのかがわからない。完全に手彩なのか、それとも木版で一応、
色を乗せ、後、筆で細部に着彩を施すという仕方をしたのか。どちらかわからない。
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木版図 木材を版材として彫刻を行い印刷した図。……江戸時代初期から中期は木版墨刷の上に手彩色を加えて
いたが、天明(1781〜1789)頃から色刷図となった。(-364)
――古地図の基礎知識/江戸時代「古地図総覧」別冊歴史読本
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つまりこの時期は過渡期なのである。しかしやはり木版で墨刷し手彩色したのではなかろうか。そして手彩色する
前の単色刷が売られることはあったと思う。
☆地図の売価
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「此度日本輿地郡分図新刻出来候 極彩色は壱枚に付き廿五両 中彩色は廿壱両五分に御座候」とあり、当時の
売価が判明した。更に別の人にあてた書簡には「……素擦を望む人あれば彩色たのめば拾七両とあり……」
−−地図史通論 長久保光明
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茨城県立図書館に収められていた長久保赤水の書簡にはこう記されていた。赤水は伊能忠敬と同時代の地図制
作者である、なかなか見事な地図を作製し有名であった。子平も赤水を代表的な日本地図制作者として名をあげて いる。
地図が彩色の仕方によって、違う値段で売られていたのがわかる。
シーボルトの大著「日本」も「図版 色つき 20フロリン、色なし 10フロリン」というように値段の差がつけられてい
る。
赤水のこの手紙の後段はわかりづらいが、素摺(黒一色の図)を望んだ人がやはり彩色してほしいといってきた場
合には、拾七両もらいますという意味であろう。彩色の有無や、またその仕方によって地図の価格は違っていたので ある。黒一色のものは比較的安価に頒布されていたのである。
三国通覧図説でも同じことであろう。図説の図のなかには、彩色されずに販売されたものがあると思われる。再三
いうが、この彩色されていない図においては、中琉の境界は不明確となる。
☆ 琉球三十六島図は、和漢三才図会の琉球図の詳細版として受けいれられた
江戸末期には、琉球三十六島図が附図としてつけられている典籍が幾つか出版されている。例外なく彩色されて
ない図である。その一例をみてみよう。
『増訂・琉球入貢紀畧』は1850年(嘉永三年)11月に刊行されている。鍋田三善の著作である。
引用書目として、中山伝信録、隋書、琉球国志畧、三国通覧、南島談、琉球談、中山世譜等、多数があげられて
いる。
附録として「三十六島の図」が巻末におさめられている。三国通覧の琉球図をもととするものである。手が少し加わ
っている。
この本の図でも「奇界」には、「是より琉球の地」とある。子平図と同じように、はっきりと日琉の界は記されている。
しかし琉中の界は記入されていない。太平山には「琉球之持」と書込まれているが、八重山には「琉球之持」という 記載が無い。台湾は八重山の南にある。また台湾と半架・尖閣諸島とはかけ離れたところにおかれている。
これらの島の位置関係は「日本遠近外国之全図」に似ている。私は当初、この意味がよくわからなかった。中山傳
信録に従って三十六島図を修正した結果こうなったのではないかと思われる。先述したが、中山傳信録においては 台湾島は八重山の西南にあることになっていた。
鍋田はこの附図を作成したときに、琉球の範囲をどうみたのであろうか。この図には実は三十四島しかないわけで
ある。後、二島をさがさねばならない。その二島のなかに台湾島を含めてもおかしくはないのである。
三十六島の内訳を示さずに三十六島の図を単色刷で本の附図としてつけると、琉球の範囲が不明確なままとな
る。
予備知識のない人に国別色分けのなされていないこの三十六島図をみせて、琉球三十六島の範囲を示せといっ
たら、困惑するはずである。和漢三才図会図をみせて予備知識をあたえてやれば、台湾島も釣魚嶼も琉球の島嶼で あるとみなし、間違いなく三十六島の内にいれてしまうであろう。
当時、琉球関係の典籍に附図としてつけられた単色刷の三十六島図は、和漢三才図会の琉球図の訂正版として
みられたのではないか。和漢三才図会は知識人の間でよく読まれていた。その上で、新しい琉球図、つまり三十六 島図をみることになるのである。だから、人々は釣魚嶼なども疑いもなく琉球の一部として理解していた。勿論、鍋田 もそのつもりであったろう。この三十六島図は、それまで流布していた鄭若曽の図にとってかわったのである。
☆林子平図は西洋に影響を与えたか?――西洋人は尖閣諸島を中国領とみたか?
☆ クラプロートの「sankoku to ran set」
1832年、パリにおいて、クラブロートが三国通覧を翻訳し、刊行した。「sankoku to ran set」である。しかし大清一
統志からの引用が本の半分をしめるほど多量になされている。なぜか朝鮮国に関する部分ばかりである。琉球につ いても補正すべきであるとクラプロートは書いているが、なぜかしていない。適当な文献資料がなかったのであろう。
☆ クラプロート図
クラプロートが添付した図は、基本的には子平図そのままである。地名はフランス語で記されている。子平の図に
準拠して彩色されている。しかし明るく洗練された美しさを感じる。子平の使った色はもっと濁っている。しかし島の配 列などは原図通りである。
クラプロートの琉球図においては台湾(小琉球山も含む)は黄色に、琉球三十六島は褐色に塗られている。大陸は
赤にされている。クラプロートの彩色の仕方をみると、台湾島は琉球とは一体であるようにさえみてとれる。この図を みただけでは台湾の帰属はわからない。全く不明確である。
☆ 杜撰な琉球図
まともな地理学者であれば、一見しただけで、この琉球図は相手にしなかったであろう。様々な土地の緯度につい
て子平は正確な知識をもっていない。間違った位置に記している。他にもおかしなことが続出する。当時の地理学的 常識からみても、杜撰極まりないものである。すでに知られていた台湾島や琉球についての地理的情報(例えば経 度など)と照合すれば、全く評価できないしろものである。先述した通り、子平の琉球図は台湾島を広東省の側にお くなどでたらめもいいところなのである。この図がほとんど影響を西洋の地理学者に与えなかったのは当然である。
☆ 西洋人の関心をひく小笠原諸島図
子平のすべての図が西洋の学者から無視されたわけではない。
西洋の学者は小笠原諸島図には強い関心を示した。というのはこの図だけは子平が、幕府の役人である島谷市
左衛門の手になる実測図を借出してそれを元にして作成したからである。1817年にレミューザにより、この小笠原図 だけが紹介された。レミューザはフランスの中国学の創始者といわれている学者である。彼の手で概略図が石版印 刷された。当時、有名な地図制作者であるアロウスミスはレミューザ図にすぐ反応した。1818年刊行の「アジア地図 集」に、小笠原諸島をのせた。西洋においては知名度の高い代表的な世界地図にのせられたことで、島は国際的に 知られるようになった。子平が実際よりも大きく誇張して島を描いたので、そのまま実際よりも三倍ほども大きい島が 地図の中にずっと存在することになった。これ以後、西洋人のつくった多数の地図がアロウスミスにならっている。子 平の小笠原諸島図は、西洋に大きな影響を与えているのである。
しかし小笠原諸島図は、クラプロートが翻訳する以前にすでに西洋に紹介されていた。「sankoku to ran set」(仏訳
三国通覧図説)によって西洋に知られたのではない。小笠原諸島図が評価されているのをみて、他の図も紹介する 価値があるとクラプロートは誤解したのであろう。専門家ではない悲しさがある。日本の周辺海域の情報は非常に不 足しており、十九世紀始めにおいてはなお空白に近いとされていた。だから子平図でも参考にはなるとクラプロートは 思ったのであろう。
文献学者であったクラプロートは、子平図を、そのまま刊行してしまった。補正さえできなかった。言語学が彼の専
門であったから、仕方がない。
☆ シーボルトの子平図についての見解
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林子平の図は目測と消息に基づいて作成した島や大陸海岸の輪郭を示すにすぎない。その点では、日本人が同時
代に自国について作ったほかの地図に比べてはるかに学問的に低い段階のものである。
――日本人による自国領土およびその近隣諸国・保護国の発見史の概観 シーボルト
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又度々述べたる千七百八十五年に著作の三国通覧図記に千七百十九年にシナの学者徐葆光がその琉球記述に
附けたる琉球の地図よりも別段よくもなき地図をのせられ。
−−日本貿易交通史 シーボルト △
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シーボルトは一刀両断にしている。幕府が作らせた琉球地図と比較すると、林子平の図はずさんきわまりなく、児
戯に等しくみえたのである。子平の琉球図をシーボルトは大著「日本」の地図集のなかに当然、いれなかったのであ る。
☆ ペリーとリトケは子平の琉球図をどう見たか?
ロシアのリトケ提督はシーボルトへの手紙のなかで、クラプロートの紹介した小笠原諸島図についてのみ言及して
いる。リトケ提督は1828年5月、小笠原諸島を訪れて観測して得た記録と「sankoku to ran set」の小笠原諸島図を 比較している。
ペリー提督は「sankoku to ran set」の小笠原島に関するところを日記に抜き書きしている。ペリーも、子平図のな
かではこの小笠原図しか評価していない。
リトケもペリーも琉球三省三十六島の図には全く何の関心も払わない。記録には何の記述もない。当然である。
☆ コービル図と子平図
すでにみてきたようにゴビール図の影響力は圧倒的なものであった。クラプロートの翻訳後、その状況に変化が少
しでも現れたであろうか?
子平とゴービルの二人は「中山伝信録」を重要参考資料にした。
二つの図を比較してみよう。大いに得られるものがある。ゴービルと子平は共に中山傳信録の針路図や三十六島
図を参考にして、図を作図した。林子平は「三国通覧図説」を著し、ゴービルは「シナ人が琉球諸島と呼ぶ島につい ての覚え書」をまとめたのである。琉球についての情報を整理した。共に図を附し世に知らしめたのである。しかしゴ ービルの方が、より早く伝わり、かつ圧倒的な影響力をもっている。
半架諸島や尖閣諸島は琉球の一部として知られていたのである。
ゴービルはこう記す。琉球王国の「この王宮の緯度は26度2分です」。子平の図をみても確かにその緯度に那覇
が置かれている。ともに中山傳信録に従っているからである。しかし、他の点ではかなりの違いがある。二人とも、中 山傳信録だけを資料としてつかったのではないからである。クラプロート図においては、確かに半架諸島や尖閣諸島 は中国領とされているとみえる。ゴービルは、琉球諸島の一部としている(と推定できる)。正反対の結論が導き出さ れる。
ゴービル図をふつうに見れば、クラプロート図とは全く逆の結論がでてくるのである。そしてクラプロート図は殆んど
いうにたるほどの影響を西洋諸国に与えなかった。遙かにこのゴービル図の方が西洋諸国に広汎な影響を与えた。
☆ 井上清批判
井上清はこう記す。
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『三国通覧図説』は、早くも1832年には、ドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプロートによって、フランス語に訳さ
れ出版されている。付図も原版と同じ色刷りである。これにより、本書が国際的にもいかに重視されていたかというこ と、また釣魚諸島が中国領であるということは西洋人にも知られていたということがわかる。(-48)
――尖閣列島―釣魚諸島の史的解明 井上清
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井上のいっているような事実はない。西洋の航海者や学者(特に地理学者)からは子平の琉球図はほとんど無視
されているのは御覧の通りである。「重視」されてなどいない。「釣魚諸島が中国領であるということは西洋人にも知 られていた」という事実はない。しかし井上清がこう書いて以来、反論がなされないために、これは定説となって流布 するようになってしまった。あたかも事実であるかのように。
☆ まとめ
子平の琉球図は西洋にはほとんど影響を与えなかった。もともとゴービル図が圧倒的に流布していた。そして実測
にもとづく幕府の琉球図を西洋人はすぐ後に見ることができるようになる。これさえも近代的な観点からすると、きちん と「測量」されたものとはいいがたい。しかし海岸線についてはかなり綿密に実地測量が行われている。このような図 がほどなく紹介されると、子平の琉球図は全く値打ちがなくなるのである。実際、並べてみてみると、その差は歴然 としている。
クラプロートの「sankoku to ran set」は唯一の例外である。これ以前に、尖閣諸島を中国領として彩色した西洋人
の地図はみあたらない。また「sankoku to ran set」の出された1832年以降に刊行された西洋地図において、半架 諸島や尖閣諸島の帰属の扱がかわったこともない。それ以後、中国領として彩色されるようになったという事実はな い。そのような地図は全く知られていない。
3.7.4福州那覇航路図
☆ 渡?航路図(那覇ー福州航路図)の解析
琉球の古い絵図を解析してみよう。琉球の人々が領域についてどういう認識をいだいていたかを、これにより知るこ
とができる。
渡?航路図は沖縄県立博物館に所蔵されている美しい図である。横に長い絵図である。那覇と福州間の海道筋を
描いている。その間にある島の様子が描き出されている。製作した人は現実の島の特徴をつかんで再現しようとして いる。久米島はこのように中央が低くなっているので離れたところからみた場合には二つの島にみえる。また暗礁が 尾のように長く延びているところもちゃんと描かれている。
魚釣島――久場島――久米赤島についても同じようなことがいえる。
絵図の中の久米赤島は西方あるいは南東方からみたときの形がしるされていると思われる。久場島は西方あるい
は北東方から見た姿と思われる。どの方向から見るかで島の形はかわる。そこまで考えることができるほど、きちん と再現されている。
この絵図は実際の島をみた人によって描かれた可能性が高い。そうでなかったとしても渡唐関係者から徹底的な
聞き取りがなされていることは間違いない。
絵図には、航海上、知らねばならないことが細かく記載されている。(島々の距離と方位が記されている。)装飾的
な絵図ではない。渡唐にあたって新しい役人に一通り、道筋を理解させために製作されたのではないか。実地で教 えるにしても、あらかじめ知識を与えていた方がいいからである。必ず、そのような教材があったはずである。その絵 図がこれだとすると、納得できる。指南広義だけでは十分ではない。
私は東洋文庫で、この絵図の写しを閲覧した。きちんとつくられたものであるが、なぜか福州の外港につくところ
で、終わっている。博物館に所蔵されたものは、河を遡ってたどりつく福州城外の南台の琉球館まで描かれていた。 東洋文庫の写図は渡唐船に積み込まれていたものではないかと思われる。港までつけば後はいいということで、カ ットされているのではないか。
☆ 福州と琉球那覇の間にある島々
台湾島の影さえ渡?航路図にはあらわれてこない。指南広義の海島図をみても同じ事がいえる。絵の中に描かれ
ている島はすべて中国沿岸と沖縄那覇の間に散在する島嶼として扱われている。半架諸島や尖閣諸島は、福州と 那覇を行き来する航路上にある島であり、台湾府とは何の関係もないのである。
琉球王国は台湾府とは何の関係もないのである。
琉球の人々はそう認識していた。客観的にみてもそれは事実である。
ここに描かれていない大鶏籠嶼までが臺灣の付属島嶼なのである。それ以外の島は琉球の人にとって台湾の付
属島嶼ではない。これが琉球の人々の考え方であった。
実は、半架諸島や尖閣諸島を、台湾の付属島嶼として扱った古い史料は日本・琉球には全くないといっていい。三
国通覧の図をみてもわかる通り、子平もこれらの島を台湾島と同じ色には塗っていない。つまり台湾府に付属する島 とはしてないのである。
指南広義においてもそうである。これらの島々は一度として、台湾島の付属島嶼として扱われていなかった。つまり
小琉球と一体であるとは思われていなかったのである。
絵図に描かれている島々について個々にみていこう。
☆ 起点の島・半架山
五虎門から半架山に向う航路が示されている。その脇に五虎門と半架山の間の距離のみが記入されている。その
中間に散らばる島々の間の距離はしめされていない。一気に大洋中にある半架島までたどり着くということである。 だから記載する必要がないということであろう。
そして半架山から大琉球までは、島と島との間にその距離と方位が書き込まれている。半架島が起点になってい
る。そこから後は島づたいに進んでいくということである。半架山から大琉球那覇までは一続きの島と認識していたこ とになる。
☆ 一島二名 久場島・黄尾島、久米赤島・赤尾島
二つの名前がついている島がある。一つは「久場島−黄尾島」である。久場島という名称が島の上方に縦書でか
かれており、黄尾島という名称が島の下に横書で書き込まれている。「久米赤島ー赤尾島」も同じ形式である。
他の島には一つしか名前は記されてない。この二島にのみなぜ二つ名前が書込まれているのか。琉球名と中国
名が重なっている島々ととることもできる。両国の境界意識が重なっているところがここにあると。
しかし黄尾嶼ではなくて黄尾島、赤尾嶼ではなく赤尾島とされている。これらはもはや和名になったといってもい
い。先述した通り、中国側はこれらを嶼あるいは山と呼ぶのだが、島とよぶことはなかった。これを島と呼ぶのは非常 に不自然なことと彼らには感覚されていた。現に册封録を初めとする中国の古い史料のなかで黄尾島、赤尾島、釣 魚島などと「島」をつけて表記した例は一例もない。琉球の人が「島」と呼んでいたのを聞いたとしても中国人は必ず 「嶼」や「山」になおしたと思われる。
なおこの絵図のなかで嶼という呼び方が記されている島は皆無である。
既に述べてきたように元々、琉球に属する島には琉球名の方が先にあった。久米赤島や久場島である。中国名が
そこから派生した。その中国名が、下に付いている嶼や山を取られて、かわりに島をつけられて、また和名化した。こ のようにして成立した黄尾島、赤尾島も響きがよかったために、受け入れられて残ることになったのであろう。しかし 元々の琉球名である久場島や久米赤島という名の方は琉球の文化に根づいているために消えることはなかったの である。一島に二名が記されることになったわけである。
☆ 黄尾島の初出
高橋庄五郎は「尖閣列島ノート」に、明治四十年頃に尖閣諸島で撮られた写真を載せている。古賀辰四郎が島で
働いていた人達を集合させてとったものである。人々が集った後ろに「黄尾島古賀開墾」とした紙が門柱にはりつけ てある。
1900年に尖閣諸島に渡島した宮島幹之介の報告記事のなかでもこの島は黄尾島となっている。
黄尾島は古賀がいいだしたように高橋庄五郎は記しているが、渡?航路図にすでにのっていた。琉球の人は明治
維新より前にすでに、黄尾島といっていたのである。かなり古い時代から黄尾嶼ではなくて黄尾島ともいっていたの ではないか。必ず嶼ではなくて島といっていたと思われる。私は渡?航路図をみるまでは、黄尾島という呼称が現れ たのは明治の末だと思っていた。しかし実は、明治期にいわれはじめたのではなかったのである。何度も繰り返して いっているのだが、「またしてもそうである」といわざるを得ない。
☆ 魚釣臺
魚釣臺という島が記されている。釣魚臺ではない。この魚釣臺には重要な意味がある。明治期になってつくられた
文書で、沖縄県は古来から魚釣島と呼んできたとしているが、史料的証拠がなかなかみつからなかった。しかし渡? 航路図によって琉球の人々は魚釣臺と呼んでいた例が確認できる。魚釣島ではないが、……。
私たちからみると釣魚ではなくて魚釣でないとおかしいのである。琉球の人にとっては嶼も島である。釣魚嶼では
おかしいから必ず魚釣島と呼んだはずである。
釣魚台という言い方は清代になってからはじまったものである。それまではずっと釣魚嶼といわれてきた。なぜ釣
魚台といわれるようになったのかというと、釣魚台という地名は、中国人にとっては音の響がよいのか、あるいは字 面がよいらしく、大陸のあちこちに存在する。釣魚と聞けば、いつしか自然に台がつくように変わったのである。そして 釣魚台といわれはじめたので、それにひきずられる形で魚釣島(と琉球の人々の間でいわれた名)が、魚釣台となっ たのだと思われる。そのように引きずられることがなければ、つまり、この当時も中国人が、釣魚嶼といい続けていた とすれば、はっきりと魚釣島として表記されたであろう。
両国の古い史料のなかで、魚釣嶼と書かれた例はなく、また釣魚島と書かれた例はない。皆無である。
☆ 二林山
この図には二林山があらわれてくる。最初、この島が何島なのか不明であった。たぶんこの島は亀山島であろうと
当初は考えていた。
「島は二個の火山質丘阜より成り、円錐形をなし、西丘は大にして海抜一千二百尺、東丘は小にして海抜八百尺に
及び、東丘の東端は懸崖をなし、西丘の西側には砂堆あり。同島は大小の二丘連続して海中に屹立し、遠く之を望 めば海亀の浮遊するに似たる名づけ又亀嶼とも称す。」と吉田東伍は大日本地名辞書で述べている。
たぶん元は、亀山と中国人からはいわれていたはずである。亀山に日本人が、島をつけて亀山島となったわけで
あろう。
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「日本では……1680年に長崎奉行所が発行した東亜地図にも記入されており、日本人はこの島を、煙管きせる島
と呼んでいた」
−−植民地下の台湾と沖縄 △
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亀山島は、煙管きせる島と日本人から呼ばれていたのである。これはたばこ島と紅頭嶼を呼んでいたことに関係し
ている。対になっている。明らかに日本人の船乗りが、命名したものである。亀山島などという呼び名それよりも後に なって生じたものである。
日本人は台湾島の東側を大航海時代にはよく航海していたことは間違いない。
しかし二林山が亀山島である断定することはまだ出来ない。可能性としては他に与那国島、小鶏籠嶼(=基隆嶼)
が考えられる。この島は尖閣や半架諸島周辺に実在した島である。
二林山が航路図に必ず現れてくるのは、この島に琉球の人々がよく接近することがあったことを示している。
☆ 鳥島
魚釣臺の東に、島がある。これは鳥島であろう。この島が魚釣臺と久場島の間に記されていることが気になる。か
なり大きく描かれている。なぜ鳥島をこれほど大きく描いたのだろうか。通常、北側からみた場合には鳥島はこれほ ど大きくはみえないはずである。実地にみたのであれば、南側から近寄っているのであろう。
飛瀬、沖の北岩、沖の南岩らしきものも描かれている。ただ残念なのはどれも名前が書かれていないことである。
それでも大いに意味はある。これらは中国の歴史的史料には全く記されていないのである。
☆ 五虎門
五虎門という地名は何を意味しているのであろうか。中国の地名に虎がつくことは余りないそうである。通常は猫と
いう表記に変えられている。虎は縁起がよくないのである。しかし威嚇する意味を込める場合には虎とされていた。 広東の珠江にも虎門があり、外国船がそこより入ることは禁じられていた。やはり五虎門という言い方からしても、出 ればすぐ外なのである。そういう認識が現れている。
☆ 官塘
五虎門周辺には塘とされている島が目に付く。塘とはつつみである。水を止めるために築いた土手、または、土手を
築いて水をためた池のことだそうである。
官塘とは官の堤という意味となる。この地名からみても、?の門庭は官塘より内側であろう。地方志の福建領域図
には官塘までが載るわけである。
☆ 東沙
東沙、東湧、東引、東犬と「東」がつく島嶼が半架島より大陸に近いところに存在する。これらの島々に、「東」とつ
けたのは明らかに中国人である。琉球からみればこれらの「東がつく島」は西にある。これらに西沙、西湧、西引とい う島名がつけられていれば、(そして、これらより東に、東が頭につく島がない場合)、間違いなく命名したのは琉球 の人々であるということになるが、勿論、そうではない。
明代には台湾は小琉球あるいは、東番とよばれた。清代になっても台湾島の東半分は東番となお呼ばれていた。
これらの「東」は東の果てという意味である。極東の意味である。中国人の伝統的な領域認識が現れている。これよ り東に中国領があれば、ここに東とはつけなかったであろう。単に一島に東とついているのではなくて、東とつく島が 密集しているのである。これは偶然ではない。中国人は対句表現が好きであるが、これらの近くに西沙、西湧、西引 などという島名はないから、相対的に東にあるという意味で「東」とつけられているのではない。東の果て=極東の意 味である。
東犬列島の一部が白犬とされたが、これは清代になってからいわれだしたものである。やがて白犬列島と全体が
呼ばれるようになる。風水により、台湾にここを通って?から地脈が通じているとされた。だから東犬という呼び名が消 えたのである。それまでは東犬は東の果てとされていたのである。
☆ 蘇る古名
明治以降に、古い呼称が蘇り、赤尾嶼、黄尾嶼という呼称が時たま日本人のつくった地図や各種資料のなかで使
われていることがある。しかしこれは古名を蘇らせたにすぎない。琉球の人々はそんな呼び方はとうにしていなかっ た。
渡?航路図をみていると、そのことがよくわかる。琉球の人々は、黄尾嶼や赤尾嶼ではなく、赤尾島、黄尾島と呼ん
でもいたのである。繰り返すが、島の正式の名は、もともとあった琉球名の方であった。久場島、久米赤島であるが ……。
☆ 製作年代は?
この図により、琉球の人々の航路上の島々に関する認識がわかった。しかし、図の製作年代はいつなのであろう
か。
沖縄県立博物館の見解によれば、この図は、册封録にのっている針路図や、蕭崇業の使録にある過海図を参考
にして描かれたのではないかとされている。ここから類推することができる。
册封録本文をみても、李鼎元の使録を除いては、島の形状については余り触れられてはいない。册封使には関心
がなかったのであろう。册封録本文は島を描くための参考にはほとんどならない。
册封録の針路図をみても、航路上の島は実に簡略に描かれている。また経由もしない澎湖が東沙と鶏籠の間に記
されていたりしているものも多く、極めて不正確である。また添付された杜撰な海図をみるだけで、中国人が単独で は、来琉できなかったことをまざまざと示している。
ただ蕭崇業の過海図だけは別である。この過海図には、島の姿が一応、ある程度、具体的にスケッチされている。
しかし極端にデフォルメされている。しかし渡?航路図の島々は現実にみられる姿に近く描かれているのである。蕭崇 業の過海図を元に書いたのかどうか疑わしい。たぶん違うと思われる。しかしこの過海図を参考にしたとすると製作 されたのは蕭崇業が来琉した1579年より後ということになる。
半架山とされている島が図にあるから私は当初、この絵図は斉鯤来琉の年である1808年前後に描かれたもので
あろうと推定した。しかし半架という言い方が、中国人に記録されたのが初めてであるというだけであるから、これをも って製作年代を特定できるわけではない。
先述したように、図の中には魚釣臺とも記されている。「釣魚臺」とされるのは十八世紀以降であろう。魚釣臺も同
じ頃にいわれはじめたのであろう。とするとやはり十八世紀から十九世紀のころの絵図であろうか。しかし「魚釣台」 という名の方が先にあった可能性も皆無とはいえないので、何ともいえないことになる。
☆ 明解な界は?
この図には明確な界は記されていない。
ただ気になることはいくつかある。先述したように半架島が起点とされているらしいことである。半架島を中国沿岸
の島とは区別している。確かに、ここから花綵列島になる。半架島から大琉球那覇までを一続きの島と認識していた ことがわかる。この図に記されている島々は、臺灣の付属島嶼としても扱われていない。半架島が琉球の人からみ た、果ての島ではないかとも思われる。東がつく島名が半架島よりも西に集中していることも、この裏付けとなる。
そしてもう一つ気になるのは、久場島から大琉球までは、すべて「島」となっていることである。中国の典籍に、「至
黄尾嶼」となっていたのを思い出してしまう。
嶼とつく島は図の中に一つもないことにも気付く。
熟慮してみたが、界がどこにあるかをはっきりと断定することは出来ない。
界らしきものが、半架山のところと久場島のところに現れているとするしかない。
☆ 追記
ここで「使琉球紀・中山紀畧 原田禹雄訳 榕樹書林」の巻頭に、琉球過海図(仮題)とされている古い海図の写真
が載せられているのを、先ほど発見した。このことを急いで以下に附記しておく。この「琉球過海図(仮題)」とあるの は、原田禹雄氏が、発見し、仮に題をつけたものであるからである。地図には題らしきものは何も記されていなかった という。実用海図だと思われる。
琉球過海図(仮題)において半架諸島と尖閣諸島の配列は、こうなっている。これは渡びん航路図と一致してい
る。
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半嘉山――花瓶山――弐林山――梅花山――魚釣――久場――久米赤島
***************************************
ここでも「魚釣」となっているのが注目に値する。これで「魚釣」となっている例が二つ確認できた。
やはり中国名の釣魚嶼は、琉球名としては魚釣島となっていたはずである。琉球の人々はそう呼んでいたはずで
ある。
琉球の人々は棉花嶼を梅花山と読んでいたと思われる。
この図でも半嘉山は、洋中にかかれており、大陸沿岸の島々とは遠く離されている。渡?航路図と同じである。この
図では、与那国島も図に記されている。しかし台湾島は記されていない。琉球過海図(仮題)においても台湾島は消 えている。あるべきところに台湾がなく全くの空白となっている。鶏籠嶼も記されていない。この図においても、この島 だけが台湾の付属島嶼とされているようである。
大陸沿岸の島々は実に詳細に書かれている。風任せでどこに着くかわからなかったからであろう。これは間違いな
く実用海図である。
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