『ぬくもり』
本物の桜の樹の下は、とてもいい匂いがした。
そして、初めて見るかもしれない、鮮明に映る花びらたち。
それは無数に辺りを舞っていて、一つ一つ目で追いかけるのは無理だった。
「ん? どうしたんだ、郁乃」
男の声が聴こえた。
この1年くらいで、嫌になるくらいにたくさん聴いた声が。
でも、もう慣れたから、あまり気にならなくなっていた。
…それが少し悔しかったけれど。
「別に」
いつものように、あたしは素っ気なく応える。
「郁乃。これが本物の花びらだぞ」
「わかってるわよっ、そのくらいっ」
そして、この男にはあたしの心は隠しようが無かった。
自分ではずっと、あたしの表情から本心を読み取れる人間なんていない、って思っていた。
けれど、それがこの男の前では通用しなかった。
そんなに、あたしの本心が表情から出てしまっているんだろうか?
そう思うと、あたしは自己嫌悪に陥りそうだった。
柔らかで暖かな春の風は、あたしをこんなにも心地よく包んでくれるのに。
「ああ、そうだ。愛佳の秘密の部屋にでも行くか?」
「あ、うんっ。それいいね」
「あ、ちょっと…」
あたしの意向なんかまるで無視したまんま、あたしはまた校舎へと運ばれていった。
校舎に入った。
そして…階段の前。
2人は立ちすくんでいた。
「…どうしよう? たかあきくん」
「困ったな…」
あたしには大体見当がついた。
恐らく、連れて行きたい部屋ってのは、2階とか上の階にあるんだろう。
けれど、あいにくあたしは車椅子だ。
この学校にはエレベータのようなものは付いていないらしい。
バリアフリーなんて考えは無さそうだ。
願書にも「車椅子つき」ってはっきり書いたのに、全く無責任な学校だと思った。
「車椅子ごと…は、いくら何でも持てないよな」
「う、うん…。そうだね…」
情けない…と思ったけど、実際問題、この車椅子は結構重い。
姉の力には期待できなかったので、あの男1人にこの重量が圧し掛かる…と。
秘密の部屋とやらは見られないみたいだけど、仕方ないかな、と思った。
でも、
「郁乃、ちょっといいか?」
「何? …って、え?! ちょっ、ちょっとっ」
男は、あたしの背中と膝のウラに腕を入れてきて、同時に宙に浮かされた。
そして気付くと、あたしは随分と恥ずかしい格好になっていた。
「よ…っと。痛くないか?」
「え? う、うん…」
「あ、いいなあ、郁乃。たかあきくんに抱っこしてもらってぇ」
いわゆる「お姫さま抱っこ」をされていた。
あたしは、何も言う余地も与えられないまま、姉の「秘密の部屋」へと連れて行かれた。
周りの視線が気になったけれど、放課後だったからか、人に出くわすことは無かった。
正直に言うと、抱っこされることは、想像していたよりもずっと悪くなかった。
危なっかしそうに感じたけれど、思っていた以上にあたしを抱く腕は力強くて、
途中からは安心して身を任せることが出来た。
そして何より…密着した身体を通して、温もりが伝わってきた。
看護婦さん以外…、男ではもちろん初めてのことだったから、新鮮に感じられた。
「これだよ。な、愛佳」
「うん」
あたしは置いてあったイスに座らされた。
連れて来られたのは、図書室…の奥。
そこには、他の本棚よりも小さな棚がぽつん、とあった。
「これ?」
「うん、そうだよ」
それは、何の変哲も無い小さな本棚だった。
「愛佳棚だな」
「もう、ヘンな名前つけないでよ〜」
ノロケは放っておいて…。
その棚は、他の本棚からやけに浮いた感じがした。
収められている本の背表紙を見ると、やけに古びた感じもした。
「古い本を集めてるの?」
「あ…郁乃、よくわかったね」
「まあ、それだけじゃないんだけどな」
そうして、この本棚のことを聞いた。
一方的に話されただけだったけれど…。
姉とこの男が知り合ったのは、この図書室だったこと。
図書室の奥にあった書庫の本の一部が、ここに収められていること。
そして、書庫を守るべく、2人で頑張ったこと…。
単なるノロケ話もあったけれど、何だかこの2人らしいエピソードだった。
「これをね。郁乃が学校に来れるようになったら見せたかったの」
「そう…」
姉は無茶をするタイプだ。
簡単にいきさつを聞いたけれど、結構無茶をしたんじゃないかってことは、
簡単に想像することが出来た。
「これこれっ」
姉が1冊の本を取り出して、裏表紙を見せた。
指差すそこには、小さなバーコードが貼られていた。
「これを付けるのにも、たかあきくんと一緒に頑張ったんだよね」
「そうそう」
このバーコードをつけることで、書庫に眠っていた本たちも、こうして日の目を見ることが出来たらしい。
そのこと自体には何も思わなかったんだけれど、自分の知らない姉たちを知ることが出来て、
少しだけ嬉しかったり、ちょっと恥ずかしく思ったりした。
ピーンポーンパーンポーン。
「小牧愛佳さん。小牧愛佳さん。校内にいましたら、職員室まで来てください」
ピーンポーンパーンポーン。
「お呼びが掛かったみたいだな」
「…そうみたい」
「行ってくれば?」
一瞬、躊躇った姉に、あたしは行くように促した。
「ゴメンね、郁乃。じゃあたかあきくん、お願いするね?」
「ああ、任せとけ」
何を任せられたのかわかんなかったけれど、あたしの身は、おそらくこの男の手に委ねられたんだろう。
姉も姉だ。
いくら信頼してると言っても、こんなに簡単に任せて大丈夫だと思っているんだろうか?
…あの姉だから仕方ないのかもしれないけど。
姉が去ってから、しばらく書庫の本を眺めていた。けれど、そのうち飽きてきた。
ぱたん、と本を閉じて棚に直すと、男が声をかけてきた。
「じゃあ、もう1つ見せたいところがあるんだけど、行くか?」
「えっ? べ、別にいい」
「まあそう遠慮するなって」
そう言うと、男はあたしの前で腕を広げた。
またお姫様抱っこをする気なのだろうか?
あれは恥ずかしすぎる。
「それは嫌」
「うーん。じゃあどうしたらいいかなあ?」
男は少し悩んでいるようだ。
もっとも、あまり深刻には見えなかったけど。
しばらくすると、男は何か思いついたようだった。
「じゃあ、どうぞ」
男は、今度は背中を向けてしゃがんだ。
「こう?」
あたしは、無意識のうちにその背中に抱きついていた。
…何をしてるんだろう?
そんな疑問を持つ意識は、どうも働かなかった。
おんぶなら、抱っこよりは恥ずかしくないか…。
そんな、漠然とした気持ちがあったのは事実だった。
後で考えたら、とんでもないことをしてたと自己嫌悪に陥ったけど。
「よっ、と。軽いな、郁乃は」
「あ…。そう?」
自分が軽いかどうかより、あたしはその背中の感触に驚いていた。
あたしが抱きついても、まだ全然余る広さ。
そして、その温かさ。
今まで感じたことの無い感触だった。
「大丈夫か? 痛いところとか無いか?」
「うん。大丈夫…」
あたしは辛うじてそう答えた。
本音は、答えられないくらいに気持ち良かったから。
ぎゅぅっ。
もっと感じたい。
抱っこだと受け身だったけれど、今は自分から抱きついている。
おせっかいで鬱陶しいだけだと思っていたこの男だったけれど、
今はこの背中に支えられているんだ。
そう思うと、あたしはより密着度を高めていった。
「よし、着いたぞ」
そう言って連れて来られたのは…屋上だった。
「あ…」
そこから見える景色に、あたしは思わず声を出してしまった。
病院では見る事は決して出来なかったような、スケールの大きな世界。
家も、ずっといた病院でさえも、ミニチュアの模型のように見えた。
元々あたしの目は、それほど色んなものがはっきりとは見えなかったから、
何を見ても新鮮に映るのは確かだった。
けれどその光景は、そんな過去を忘れてしまうくらいに鮮やかに見えた。
あたしがいた病院。
姉とあたしの家のあたり。
この男も住んでいるんだろう、この町。
すべてが鮮明に見渡すことが出来た。
「すっご〜いっ。ねっ?! ねっ?!」
「いい景色だよな。ま、喜んでくれて良かったよ」
思わずはしゃいでしまったあたし。
それを優しく包み込んでくれるような男。
何だか、今まで感じたことの無いような、満たされた、幸せな気分に浸れた。
学校に来れるようになって良かったし、この背中の感触を知れただけでも良かったと思った。
あたしは空を見た。
燃えるような茜色に染まっていた。
でも良く見ると、夕焼けの空は夜の空と繋がっていて、人間の手では作り出せないような、
見事なグラデーションを施されているかのような境目だった。
「綺麗だな…」
「うん…」
この瞬間がいつまでも続けばいい。
ガラにも無いことを思っていた。
日も暮れて、あたしは、おぶってもらったまま階下へと戻った。
用事を済ましたらしい姉が待っていた。
「あ、郁乃。たかあきくんにおんぶしてもらってるんだ。いいなあ」
姉にはそう言われたが、あたしは寝たふりをした。
単に、おんぶなんてされていることが恥ずかしかったんだけれど、
実のところは、背中の感触を離したくは無かったんだと思う。
この、大きくて暖かい背中、そして…意外に優しい性格。
思わず、あたしはまたぎゅっと抱きしめていた。
「郁乃、俺から離れたくは無いんだとよ」
「…だ、誰がアンタから離れたく無いなんて言ったのよっ」
寝たふりを続けるはずだったのに、あたしは思わず声を出してしまった。
「あ、郁乃。起きたんだ」
「あ、郁乃。やっぱり起きてたのか」
「あ…って、どうしてあたしが起きてるってわかったのよ!」
あの男の「やっぱり」が気になった。
さっき「ぎゅっ」ってしたときは、男にはわからないくらいの力でしかしなかったから。
「だって、さっき『ぎゅっ』って…」
「え? ぎゅって?」
「あっ、あっ、それ以上はダメ〜っ!!」
何か、2人のおもちゃみたいになっていることに、少しだけムカついた。
けれどそれ以上に、姉と男との3人で、こうやってはしゃいでいることが楽しく感じていた。
いつもは、姉や家族に対して、皮肉や難問を言って困らせることしかしていなかったから。
あたしの学校生活は、色んな感情が入り混じったままスタートした。
あの男の存在は、あたしの中で何時の間にか大きくなっていた。
<終わり>
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郁乃ルートへのフラグが立ちました!
…立ちませんかね?
りきおです。あまり間隔を空けず?書くことができました(今は2ヶ月ってのも、あまり間隔の無いほうです…)。
前回の郁乃SSやこのみSSに比べると、自分自身でもソコソコ読めるものになっていると思っているのですが…。
しかし、郁乃のツンデレぶりは可愛いですねw ガードの堅い部分と、もの凄く無防備な部分とのギャップがたまりませんなw
さてこの続きですが…。さすがにここまで行くと、愛佳ともぶつかってしまいそうになるんですが、そんな話も望まれているんでしょうか? それとも、付かず離れずみたいな関係のままを望まれているんでしょうか?
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参考にしたいと思います。
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