Reports 件(くだん)は江戸のチェーンメールだった
件と云う獣
人面の牛、件
件。「けん」ではない。「くだん」と読む。くだんは、20世紀後半、おもに江戸時代〜近代にかけてしばしば現れた謎の獣だ。
くだんの描かれた図画の資料は少なからず存在するが、いずれもその姿は基本的に牛の体に人の顔を持つ。これらは、必ずしも同じ個体を描いたものではなく、幾度にも渡ってさまざまな場所に出現したようだ。また、「くたへ」として記録されているものは若干ほかのくだんとは異なる姿をして描かれているが、こういったものも、図を描いた者がイマジネーション豊富な抽象派の絵師だったという程度の誤差に捉えてもいいのではないかと、我々は考えている。
たいていは人々に何かメッセージを伝えていることから、人の言葉を話すことができるらしい。
図.件の成獣
件の予言
さて、このくだんという獣は、ただの人面牛ではない。くだんは、その人面の牛という姿以外に、その行動にある大きな特徴を持っている。
それは、災厄の予言だ。
くだんが人々にメッセージを伝えるということは先に述べたが、そのメッセージの内容はまず例外なく、近い将来に訪れる災厄の予言なのだ。例えば、「これから3年は豊作が続くが、その後には疫病が流行る」というような内容の予言を行う。
もちろん予言の内容は様々で、豊作は5年続くこともあるし、6年続くこともある。しかし、ほとんどの場合は、その後には疫病が流行るという予言になる。
そして、くだんの予言には、もうひとつ、特徴的な要素がある。それは、数年後に訪れる疫病を逃れる方法も同時に示されるということだ。そして、その方法とは、…実に簡単なことで、くだんの姿を見ればよいだけだ。
しかし、くだんは現れてからいつまでもそこにいるわけではないらしい。予言をして間もなく死んでしまうことも多いようだ。では、たまたまくだんに遭遇した人物以外の者はどうやって災難から逃れればいいかと言うと、くだんそのものの代わりにくだんの絵を見ればいいのだそうだ。
もっとも、細かい点については言い伝えや資料によりバリエーションがあり、絵にして家内に貼っておくといいらしい、という伝聞とともにくだんの図画が伝わっているものから、くだんそのものが、「自分の姿を絵にしておくように」と伝えたというものもある。
ただ、経緯はどうあれ最終的には、くだんの描かれた絵が、その絵を家内に貼付けておくことで数年後の災難から逃れられるという話ととも流布することになるのが典型的な「くだん出現後の顛末」となる。
回避方法を伴うBAD NEWS
さて、主に江戸時代に度々出現したくだん…と言うよりはむしろ、「くだんの噂」には、何か覚えのある特徴がないだろうか?
くだんの噂の性質を、個々の事例ではなく、あくまでも包括的にまとめてみると、次のような特徴を備えていると言える。
つまり、「くだんの噂」という情報は、
- 1.伝え聞いた者に不幸を告げる情報である
- 2.その不幸は、現時点に起こっておらず、近い将来に起こる出来事である(不幸の予言、宣告と言える)
- 3.その情報自体に、その不幸を避ける方法が含まれている
- 4.その不幸を避ける方法自体が、その情報を発信する行為に繋がる
1番については、くだんは豊作や家内安全といった良い知らせのみを告げることもある。しかし、その場合、「くだんの絵を貼っておけば」という条件がつくので、逆説的に言えば、絵を貼らなければ豊作にならない、とも受け取ることが出来るわけで、例外的ではあれ、本質的に上記のパターン化に矛盾はしないだろう。
2番は一見些細なことだが、実は非常に重要なポイントだ。つまり、2番が成立していることによって、3番を実行する時間的猶予が生じる。また、あくまでも将来の不幸、災難であるため、あたりまえだが情報を知った時点ではそれが真実かどうかを見極めることができない。
4番について少し説明を加えると、不幸の回避方法が「くだんの絵を家内に貼っておく」という行為である場合、それはつまり伝え聞いた情報に過ぎないくだんの存在を具現化・固定化し、積極的ではなくとも対外的に発信する行為になるということだ。
さて、こう整理してみると、このようなくだんの噂によく似た性質の情報が、現代でもしばしば流布していることに気づくだろう。それは、いわゆるチェーンメール(或いは「不幸の手紙」と呼ばれていたようなもの)だ。
チェーンメールは、現代ではそれこそ数えきれないほどのパターンが存在するだろうが、伝えられる情報の基本的な構造は上にまとめたくだんの噂と酷似している。つまり、例えば「2週間後に死ぬ」と言ったような不幸の宣告であることは1番、2番の条件に該当し、「このメールを5人に転送すれば助かる」というような一言が、3番を満たすとともに、より効率的に4番を押し進める。
現代の社会で、疫病や飢饉を予言されても現実感は薄い。それらに対処するための社会的な仕組みが高度に発展しているからだ。そこで、不幸はより直接的に個人を狙ってやってくるものに置き換わっているようだ。特に先進国の現代人の多くは、自分の生活している社会については、それが突然に転覆したり激変したりはしないという漠然とした安心感(時には無力感とも呼べる)を持っているが、個人に降り掛かる災難については昔と変わらない、あるいは、安穏と生活できているからこそ、相対的には生きること自体が困難だった昔以上に、不安を感じているのではいだろうか。
そしてこの不安により効率的につけこむために、不幸の手紙様のチェーンメールにはしばしば、呪いを解く前に呪いのことを他人に話せば呪いは解けない、として不安の解決を困難にさせる。
チェーンメールの場合、不幸をもたらしたり、あるいは指示通りの手順(メールの転送など)をした際に災厄を除けてくれる、端的に言えば呪いの主体となる超自然的な存在については、中にはXXX様、などととって付けたような抽象的な存在が示されることもあるが、総じて、隠蔽されたままであることが多い。
つまるところ、現代のチェーンメールでの「呪いの主体」が、過去にはより具現的な存在であったと考えることができ、それこそが「くだん」であったのではないか。
電子メールはもちろん、手紙を送ることも現代より遥かに困難だった時代に、人間の不安を媒介に自己増殖する情報として現れたくだんは、通信手段の発展とともにより効率的に姿を変え、ついにはその姿をこの世に現すことはなくなったが、より多様化、高速化して脈々と存在し続けていたのだ。
件の正体
さて、くだんの、情報としての意味付けは上記のように説明できる。なぜ世の中にくだん(チェーンメール)というものが存在するのか、その答えは、果たして人の心の弱さにあるのか、愉快犯の傑作アイデアなのか、それとも何か神秘的な意思がそのような現象を存在足らしめるのかわからない(個人的には2番目だと思ってるけど)。
しかし、なぜ、超自然的な死の宣告者にして救世主である「くだん」は人面牛という姿である必要があったのか?
かつて別府八幡地獄怪物館という場所にはくだんのミイラがあったらしい。また、上海で生まれたくだんのミイラの写真というのも日本で伝えられている。手許の資料では、これらはいずれも、その姿から生後間もなく死亡した仔牛と思われ、確かに顔はヒト的な顔をしている。
ところで、牛には、蚊を媒介とした伝染病で、母牛が感染すると高い確率で無毛、減毛や顔面の変形などをともなう奇形の子牛が産まれる病気(アカバネ病、アイノウイルス感染症など)がある。これらのミイラはそういった原因で産まれた奇形の子牛ではないだろうかと考えられる。
つまり、人面の牛というものは、確かに実在のモデルとなるものが存在している。では、この奇形による人面牛がくだんの正体なのだろうか?ならば「予言を行う」というくだんのアイデンティティはどこから生じるのだろうか。
これについては、実は簡単な答えがひとつ用意できる。勘のいい方ならば既に気づいているかも知れない。伝染病による顔面奇形で産まれた人面の牛。もっと短く表現すると、人牛だ。つまり、「人(にんべん)」+「牛」で「件」。これで、人面牛をくだんと呼ぶ根拠はできた。
さて、この件(くだん)という言葉は、そもそも件(くだり)の転じたもので、「以前に述べた通りの事」という意味をもつ言葉だ。
「件の話は真であった」 、本来は「以前に言っていたあの話は本当だった」だが、「『件』が言っていた話は本当だった」となるわけだ。駄洒落である。
ちなみに、伝染病による奇形の子牛は当然、死産あるいは生後間もなく死亡するので、くだんにまつわる伝聞に時折見受けられる、産まれてすぐ(3日とか1週間)に予言をして死ぬ、といった話にも相通じると言える。
結論、おそらく江戸時代に、最初に「奇形の人面牛→件→予言」を思いついたヤツは捻りが効いてる。江戸時代は駄洒落が流行ってた聞いたことある気がするし。