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Reports レポート:奥多摩死肉まつり

奥多摩死肉まつり

日本で四つ足の獣肉が食材となったのは明治の文明開化からだと思っている人は意外と多いのではないかと思う。
しかし実は、日本(日本列島)においての「肉食」の歴史はそれよりはるか以前まで遡ることができる。

古くは1万年近く前の縄文時代においても、魚介採集はもちろん、獣も勝って食べていたと云われる。
1500年ほどの昔、朝廷によって仏教が広められて以降、4つ足の獣を食すことは禁じられたが、
鳥は食べられていたし、また、公家はともかく、庶民は猪や鹿、兎等を狩って食べることがあったろう。

鎌倉時代の武家社会において、肉食(獣食)を卑しいものとする風潮はますます強くなったが、
都から離れた山間の集落では、鹿や猪は貴重な蛋白源であった。
ことに寒村では、肉のみならず、その毛皮、油、骨、すべてが貴重な自然の恵みであった。

身分のあるものが公然と肉を食すようになったのは確かに文明開化以後だが、
15世紀頃にはポルトガルやオランダとの交流の中で西洋の食肉文化は流入していた。

記録に拠れば17世紀後半には既に現在と同様の様式で行われていたという奥多摩死肉まつり。
険しい山岳地域に、どのようにして牛肉食の文化が伝わってきたのかは不明だ。
奥多摩方面には、古くから朝鮮半島からの渡来人もあったので、
そちらからの影響もあるのかも知れない。

今回は、
300年以上の歴史を持ちながら、人知れず受け継がれてきた伝統行事、
奥多摩死肉まつりの全貌に迫る。


はじめに

 このまつりの発祥は定かではないが、一説には相模の大山へ伝わった密教の原型となる土着アミニズムの儀式の一部だったとも、厄除けの為に行われたカニバリズム的な儀式の名残りとも云われる。しかし、多くの研究者は単純に他地域では労働力として伝わった牛馬が、この地域では食用としても伝わっただけであり、その源はなんらかの理由で鎌倉、あるいは江戸から逃れてきた外国人によるのだろうと考えている。
 もっとも、このまつりの伝統を受け継いできた古老達は、次のように語っている。説明はこれで充分だろう。

「俺の祖父もこうやって肉を焼いていた。
    父もそうだった。だから、俺もこうやって肉を焼き、喰うんだ。
  ―この村の男達はそうやって生きてきたし、それはこれからも変わらない。」


奥多摩の山々を覆う鬱蒼とした木々から、夏の輝くような生命力に満ちた緑がだんだん失われていく。
くすみを帯びていく山は、もうすぐ豊穣の季節を迎える。

気の早い紅葉がわずかに色付きはじめると、今年も奥多摩死肉まつりの季節がやってくる。

祭りは、初秋の太陽が奥多摩の山の背にかかるころに始まる。
まず、男達は石で竈(かまど)をつくる。
奥多摩の石は、3億年ほど前、恐竜が地上に出現するよりもっと前の古生代の堆積岩だ。
この石は緻密で堅く、よく熱を反射するので竈に向いている。
直径1m弱の半円型に石を並べた簡素な竈はすぐに完成する。
ひとつの竈には2、3人の男が囲むようにして陣取る。

秋の陽はつるべ落とし、とよく言われるように
あっという間にあたりは闇に包まれるが、
その頃には、竈には赤々と薪が燃えている。

充分に薪を燃やして竈の底に炭を溜めたら、
いよいよ死肉を載せることになる。

※この祭りでは、牛肉のあばら肉を「死肉」あるいは「屍肉」と呼ぶ。それはおそらく、かつて平時の食用肉といえば鳥肉(雉、鴨その他)しかなかった頃に、それと区別して特別な意味を込めた呼称であったらしい。

肉は、伝統的に牛肉のあばら部分が使用される。
それで、土地の者の中にはこの祭りを「肋骨祭り」と呼ぶ者もある。

肋骨は背骨を挟んだ左右に別れている。写真はそのうちの片側だ。
時間差をもって、反対の肋骨も火にくべられることとなる。

味付けは、塩と胡椒のみ。胡椒もこの地域にはかなり昔から伝わっていたようだが、かつては山椒がつかわれていたらしい。

肉を火にくべる際には、鉄板や焼き網、串などといった道具は一切つかわない。
肋骨そのものが鉄板のような役割を果す。
もっとも、その結果肋骨は炭のように焦げてしまう。
しかし、食べるのは反対側なので問題ない。
それこそが、このまつりで肋骨を使う理由のひとつでもある。


 

巨大な肉塊から滴る血が、燃え盛る薪に落ちると、もうもうと湯気が立つ。

この湯気は、肉の脂を含み高温であるため、肉への熱の伝達を効率良くする役目もある。だからこそ、男達はより瑞々しく、新鮮な血の滴る肉をこぞって手に入れようとする。

「煙りは多い方がいい。これで全然味が変わるんだ。それに、たくさん煙りの出る肉を手に入れるってことは、一人前の男ってことなんだ」
今年、初めて肉炙衆に加わることのできた青年は、そういって笑った。


 

頃合になった肉は、熟練した肉師の手によって切り分けられる。

表面のコゲラ(焦げた部分)を小刀で削ぎ、僅かに桜色を残した肉を「天地不問科法」と云われる作法に則って切り取る。
焦げた表層によって肉汁を封じ込め、奥多摩にはよく見られる種の針葉樹の薪で燻した肉は、まさに骨太な味わいだ。


 

祭りも中盤に差し掛かり男達も幾分酔いがまわってくると、
竈には死肉以外のさまざまな食材もくべられる。
とは言え、もともと不足しがちな動物性蛋白質の摂取の必要性から興った祭りだ。いまでも、基本的には食材は動物性蛋白質だ。

ここの肉炙連の竈には、イナダと本鮪の大トロがくべられた。

「年に一度の祭りだから、誰も食材にかける金を惜しいとは思わない。俺達の祖先はこの祭りで冬を超える力を蓄えていたんだからな」と、冗談めかして語って、初老の肉師は鮪を頬張った。


 

祭りの最後には、ほとんど骨だけとなった死肉は炎をあげて燃える。

葬送を思わせるその光景は、一種のカタストロフィをも感じさせる。

燃え尽き、崩れ落ちてゆく死肉。
それは、厳しい冬へと向かう季節の中で、男達に静かな覚悟をもたらす。

現代では、冬を越えることは容易い。
しかし、この男達は厳しい時代をこの地で生き抜いて来た祖先への
敬意を忘れぬように、そしてこの地で生活する者として誇りを失わぬように、
今年もまた、死肉を包む炎を見つめる。

いつの間にか夜も更け、深い谷から川風が吹き上げる。
炎に映る男達の影が深い山に揺れる。


 


おわりに/注意

奥多摩死肉まつりは、開催地が奥多摩である以外、奥多摩とは一切関係ありません。奥多摩町などへの問い合わせは御遠慮願います。