2002.12.6 妾の半生涯(ワラワのハンセイガイ) 熱き情熱の人 やはり頭下がります 著者は民権運動のジャンヌ・ダルクとして日本中に名をとどろかせた福田英子(旧姓 景山1865〜1927)。備前岡山の一藩士の娘として生まれ、明治9年岡山県立研智小学校(岡山市立深抵小学校の前身)へ入学。卒業後同校の助教員となる。明治15年、女流民権家の岸田寿恵らと婦人解放をめざし、『岡山女子懇親会』を設立。16年、私塾『蒸紅学舎』を設立し、勤労婦人や貧しい家の子弟に進歩的教育を実施した。その後、民権運動に加わり上京。大井憲太郎の大阪事件に連座、4年後出獄。大井との内縁関係で一子をもうけるが離別。その後福田友作と結婚するも死別。その後も女性の教育に力を尽くそうとする。石川三四郎らの援助を得て、雑誌「世界婦人」を創刊するが、晩年は恵まれず、不遇に終わった。 この本は著者が、夫福田友作を失った後の37年に書かれています。明治18年の自由党左派が企てた大阪事件を中心に、波瀾に満ちた半生をものすごく率直に語った自伝。大きな反響を呼んだのもごもっとも。初潮から何から当時としてはスキャンダラスなまでに赤裸々〈ちょっと恥ずかしい言葉だな)。爆発物の原料(何に使ったんでしょう?)を手荷物に紛れさせて運び、湿ったので広げて乾かそうとしたら空気に触れたので燃え出した、とかとんでもないことも書いてあります。(こんな人に危険物を運ばせてはイカ〜ん) それにしても挫折多い生涯。生地では周囲にに鳴り響くほどの秀才であったが、志を立てて何かを始めれば弾圧で止めさせられる。運動の同士であった婚約者は英子が苦労して集めた運動資金を遊郭でパーッと使ってしまう。別の男と子どもを得ても、それも志をさっさと捨てるのに愛想を尽かして別れる。生涯のパートナーと心から愛した夫は早死にする。生活の困窮。子どもにも背かれる。その晩年は呉服の行商で生計を立て、死に際にほとんど会えない子どものことをうわごとに呼びつつ、さびしく死んでいく。 とはいえ、この本を読んでいると著者の燃えるがごとき情熱と気迫に圧倒されます。(「妾」は表紙ではわらわ、本文中のふりがなはショウとふってあります) 「婦女が古来の陋習になれ、卑々屈々男子の奴隷たるを甘んじ、天賦自由の権利あるを知らず己がために如何なる弊政悪法あるも恬として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福と名誉となす而巳、アニ〈字が見つかりませんでした)時休の何物たるを知らんや、いわんや邦家の休戚をや。」 烈々たるものです。入獄中も、機会あれば、そばの人間に教えようとします。いいところの奥様に納まるチャンスもたくさんあったのに歯牙にもかけず、貧困生活にも屈せず、何とか教育を女子・貧困者にも、の使命感に燃え前進あるのみ。シニカルになんて見てはいられません。こういう先輩ありてこその今の世の中です。 「妾が過ぎ来し方は蹉跌の上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦えり、蹉跌のためにかつて一度も怯みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人造の罪悪と戦うにあり。」 ここまで言い切れる人には、こんな理想に対する情熱を燃やし続ける人にはただただ敬服。 (他人事みたいですが、我が身を省みると、「理想・・・えーっと」です。) でも今これ読んで感激して後に続こうという女の子はいないとは言わないけど、珍しいでしょうねえ。もっと軽やかに、というのがトレンドでしょうか。 いろいろな意味で唸りながら読んでいた本ですが、その冒頭で出てくる「マガイ」には心衝かれる現代女性も多いのではないでしょうか。英子は助教員時代、ただ学問に打ち込み、女子一通りのたしなみの稽古やらにも忙しく、髪も結っていません。それを子どもが「マガイ」といってはやすのです。男のまがい物との意味。おそらくは嫉妬もこめて。残念ながら今でもこの感覚は死んでいないのですよ。ホントですよ。 |