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ningyo’s BOOK COLUMN

 2003.7.29

石塚友二句集

 私の俳句を読む時は、その一句、一句があるシーンや物語を眼前に立ち上げてくれるようなものを求めて読むような気がします。
 石塚友二氏の句は、私には掌編小説のように雄弁です。また、俳句というものの中で、私が一番安手でない男くささを感じるのも、石塚友二氏の句です。

方寸虚實 (紀元2600年/再版昭和22年)より

一疋の雄の夜明けぬ冬薔薇 

裔(すえ)いまだ體中の微塵枯木星

肩かけの臙脂の滑り觸れしめよ

言いはず觸れず女の被布の前

別れ路や虚實かたみに冬帽子

 「方寸虚實」は、戦後の出版らしく、薄っぺらなヒドイ紙質の本で、家に俳句を趣味とする人間がいて、とっておくことがなければ、おそらく知らなかったであろう句集。今手にとってもばらばらになりそうで怖い。ここに挙げた句はその最後にならんだもの。
 おそらくは独身の、恋愛中の句・・・のようではあるが、浮ついた甘さはまったくない。初めて読んだ時は、衝撃に顔を張られるような思いがした。俳句でこんなことができるのか・・・ 恋人の前では、「言いはず觸れず」 何も言わず、まったく触れもしない。しかし、彼女の肩掛けに「觸れしめよ」の句のエロティック。「枯木星」の句の「体中の微塵」…我が身の一部が子孫に受け継がれていく… こうまではっきりと俳句というものの中に出てきた例は後にも先にも知りません。それを意識して夜空を見上げるような、「一疋の雄の夜」を過ごしている。
 若い男性の体内に渦巻いているようなものと、それをじっと抱え込んで凝視するような凄みがある。それでいて決して下品に堕ちない。そして最後の句。帽子で挨拶でもして別れたのだろうか。「虚實かたみ」… ここで「虚實」と言ってしまうのです。本当もウソもない交ぜに、その時のよすがとして冬帽子。あくまでも自分の感情におぼれていない。男の人の中身なんて更にわからなくなりました。

 時代は戦前(紀元2600年=昭和14年)、命や恋愛に対する意識が今とはまったく違う状況の上で読まれた句です。今、茄子を投げても(川上弘美)、脱げと言われて脱いじゃっても(土屋耕一)それはそれでいいんですが(こういうのも好きですし)、男の人のこんな重量感のある感情が動く恋って、受け止める女にとってはどれほどのものなのだろう?こんなことを考える男の人は、いまも存在しているのだろうか?
 私には、これくらい「男」を意識する俳句はありません。

 

金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける

為替手に一瞬笑ふマスク中

百方に借あるごとし秋の暮

暁暑しラヂオは顔を逼(は)い廻る

 なんだか市井に戦う男の物語が開けてくるように思わせられる句ばかりです。
 「金餓鬼」の句は 蚊帳に向かって「カネ、カネ、カネ…」を思いつめる自分をせせら笑うようです。
 「マスク」の句は、これは風邪のマスクでなく、何かの仕事のためのマスクのように思う。為替だから小ない額面でしょうね。仕事の最中に、為替を受け取って一瞬ホッとしてか、よろこんでかの笑いを浮かべる、でもそれを受け取ってよろこぶ自分の世渡りの哀しさ。
 どこにあるというのではなく、「百方に借あるごとし」という生活の苦しさ。
 「暁暑し」は直接貧しいことを歌ってはいないものの、雑音の混じったラジオの声のうっとおしさが、「顔を逼(は)い廻る」と言う表現で、暑い夜の後で迎える暑い朝の、それからのやりきれない一日まで活写するよう。
 苦しい状況を詠む中に、すごくしぶとい(ほかに表現が思い当たらない)ユーモアがある。
 「貧しさ」がのしかかるような、でも生活に苦しむ自分の哀れでさえも突き放した目で嗤っているような、「腹を据えた男」・・・浮かんでくるのはそんな姿。
 家庭を持っても、いよいよ骨太な男っぽさには磨きがかかるよう。

 もちろん美しいものを読んだ句もたくさんありますが、ひきつけられるのはつよさ、たくましいユーモア。

雪後(せつご)にて魚の屑まで売られけり
 食糧難時代。雪の後は捨てるようなものまで売られる。「こんなものまでっ!」ではなく「こんなものも…」 歴史上の証言でもあります。友二先生も、家族の食糧確保の為に奔走していた句はたくさんあります。

皹(ひび)の妻おのれ諸共あはれなり
 家事仕事などに荒れた奥さんのあかぎれを、どうすることも出来ない。かわいそうに思うことも、それは結局、自分のふがいなさへと返ってくる…

あかあかと柿万燈や神の留守
 葉の落ちた柿の木に、実がどっさりと万灯の灯りのように鈴なり、というなつかしい感じがする神無月の光景。神様の留守に柿の木がどっさり灯りを上げているという言い回しが楽しい!寒い風を感じ始める頃。

野良猫の居つきて馬の如く肥ゆ
 望んだわけでもないのに、野良猫が居ついて、いつの間にかとんでもなく太っている。大きな猫の家の主の如きでかい態度が髣髴。「天高く」の秋の日差しも。くすりと笑える一句。

影絵めく人よ巷よ落葉降る
 べつにどうと言うこともないある日突然、街に薄闇がかかるような頃、世の中が、自分の存在さえも心許無く感じられることがある。あの一瞬の妙な感覚を、私の代わりに言葉にしてくれたように思った。

原爆も種なし葡萄も人の智慧
 知識が増えること、新しい知を獲得することは楽しく、素晴らしいことだ。それを使って便利なもの、まったく新しいものを作り出すのもそうであるべきだが、20世紀は知識や技術が諸刃の剣であることを人類に突きつけたように思う。そして人類は学んだのだろうか?

 ね? この詩人の持つ美意識と強靭なさめたユーモア、それに物語性を感じませんか?
 俳句雑誌のバックナンバーなど、石塚氏の写真もたくさん見ることができるのですが、それが・・・ジャガイモを連想させるような(すいません)風貌の、小柄で柔和に笑ってるおじいさんという感じの写真ばかりで・・・

 ・・・男の人の中身ってわかりません。

 句は 「方寸虚實」「曠日」「磊磈集」などより引きました
 現在新刊では買いにくいみたいで、入手困難本は詩華集で書くべきかとは思ったのですが、やっぱり句の数が多すぎます。これを読んで下さった誰かがひょっこり友二さんの句集に出会った時に、ちょっと立ち止まってくださったらいいなあ・・・

後記: 私が句をこう読みました、という部分を入れて書き直しました。わかってる方が見れば噴飯ものかもしれません。しかし俳句読み愛好者として、石塚友二氏の句には今後もずっと惹きつけられるだろうと思います。(2003.8.3)

 

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